未録

※10年前PIXIES妄想です。
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 スマートフォンの画面をじっと見つめて、五十鈴は密やかに舌を打った。着信もメールも何もない。時刻は貴広が最後に連絡を寄越してから既に一時間が経過している。
 「……」
 無言で椅子を蹴って立ち上がる。オフィスに詰めているPIXIESの仲間たちが、突然立ち上がった五十鈴に何事かと言う眼をちらちらと向けて来るが、気にせずににこりと微笑んで注視を見返す。
 「ちょっと用事を思い出したので、先に上がらせて貰いますね」
 「あ、あぁ…」
 一番近くに居た一人が上擦った声で頷くのに「じゃ、悪いけど後は任せました」と重ねて笑みと共に返すと、五十鈴はオフィスをふらりと出て歩き出す。
 日頃は双子の兄である伊勢同様に、或いはそれ以上に穏やかな人となりで通っている五十鈴だが、その性質は己が裡にもつ異能の如く風に似ている。凪いでいる時はただただ気付かれぬ程に静かだが、ひとたび荒れると忽ちに嵐を招く。
 その暴風は、内にさえ立ち入らなければ誰にも何の害も及ぼす事はない。だがその分、内で逆巻く風は酷く荒れている。
 伊勢は早朝から所用で本社の外へ出ている。島風、矢矧、雪風もそれぞれ外地での任務に就いている。六天の中でオフィスに残って居るのは五十鈴のみであった。
 廊下を歩きながらスマートフォンを忙しなく操作した五十鈴は念の為に、予め六天で取り決めてあるメール以外の情報共有の手段の類をチェックした。然し何れにも変化はない。一応こちらからも音声通話の発信を試みるが、応答は無い。
 これはいよいよ本格的にまずいかも知れない。唇を噛んだ五十鈴は、社員の行動記録にアクセスし、貴広が本社を出た時刻を確認し、連れ立って研究開発部の男が一人出て行った事をも確認した。
 それが二時間以上前の事。ここまでは既に知り得ている事だ。
 貴広と共に出掛けた男の名は篠山と言う学者だ。商品管理部管轄の研究開発部に外部から顧問として招聘されたばかりの研究者の一人である彼が、戦闘用アンドロイドの研究の為にと、伊部隊PIXIESに協力を要請して来たのはつい数日前の話である。
 研究開発部は元々LABに対抗すべく商品管理部の設立した部署なのだが、擁する人材も予算も設備もLABに到底敵う筈もないと言う、ほぼ形ばかりの部署でもある。その為にカンパニーの外から研究向けの人材が招かれる事はよくある事だった。
 ただ、部署のそんな性質故にか、余り熱心に研究に励む者は少ない。外部から研究者を招く事自体が、商品管理部にとっての外交──カンパニー傘下や取引先の研究所に対して友好を示す度に行っている行事のひとつの様なものなのだ。
 そんな経緯でカンパニーに招かれた篠山某が、研究の協力者にと指名してきたのが、他ならない特集情報課伊部隊PIXIES隊長である神崎貴広だったのである。その依頼内容はと言えば、実戦部隊として名を馳せているPIXIESの戦闘データの参考値が欲しいと言う内容であり、新型の戦闘用アンドロイドのAIの改良に役立てる為と言う、上層部からも正式な研究の許可が下りているプロジェクトであった。
 指名された貴広は軽くそれに応じ──恐らくは任務もなくデスクワークばかりで退屈していたのだろう──、難色を示す様子があったら即座に蹴ろうと思っていた五十鈴も、貴広にそんな素振りが見えなかった為にそれを了承した。
 伊勢が居たらああだこうだと言う所なのだろうが、生憎とその時も任務で不在であった。そして五十鈴には、貴広の意志を取り敢えず理由もなく止める気は無いのだ。
 その場に居なかった以上は反対する理由はあれど道理は立たないからと、伊勢は定期的な連絡を五十鈴へと入れる事を貴広に了承させた。妥協案と言えばその通りだが、貴広が「過保護」と呆れを見せたのは言うまでもない。
 ともあれ事前にそんな話もまとまっていたので、五十鈴は時間通りにオフィスから貴広を送り出した。それが二時間前の事である。それから貴広の連絡は一度あったきり、途絶えて仕舞っている。それから既に一時間が経過している。
 念の為に後を尾けて、貴広と篠山が共に本社ビルを出る所までは目視で確認している。データ上でも先頃確認した通りだ。
 さて問題はそこからだ。エントランスに居る受付嬢──今時では珍しい、アンドロイドではなく生身の人間である──に、にこにこと人好きのする笑顔で接近した五十鈴は、エントランスを出た貴広が無人タクシーに乗車したらしいと言う所までをさりげなく聞き出す事に成功した。
 伊達に人当たりの良さで日頃通っていない。どうやら五十鈴は他人には、一見堅物の様に見える伊勢よりも幾分緩い性質に見えるらしく、こう言った対人での情報収集は伊勢よりも得意としている。
 受付嬢に愛想笑いと共に手を振ってエントランスを出た五十鈴は、呼び出し待ちで待機状態にある無人タクシーの一台を捕まえると、車内に乗り込むなり小型の端末を接続した。車載の記録装置の類を電気的に遮断し、軽くハッキングすると無人タクシーの総合データベースにアクセスする。
 そう調べるまでもなく、二時間前にここでカンパニーの人間を乗せたタクシーのナンバーは見つかった。後は手元のスマートフォンからカンパニーのデータベースを検索し、同一ナンバーのタクシーの動きを追跡するだけだ。
 「ふぅん…。なかなかに良いホテルを選んだ、と」
 二人の乗ったタクシーが、カンパニー市内にある中流以上のホテルにて客を降ろした事までを突き止めた所で、五十鈴は舌を打って端末に接続していた極細ケーブルを引き抜いた。再び乗車案内のアナウンスを機械的に流し始める無人タクシーから降りてそっと息を吐く。
 確かに、データ計測とは言っても簡単な計測機器を用いて行うものだから、研究所まで出向く必要はないとは言われた。然し、だからと言ってビジネスや観光の類に利用する様な、中流以上の客を想定した宿泊施設に赴くとは少々思い難い。昼前と言う時間から、ホテルのリストランテで食事をしながら話をしようとでも言われたのだろうか。
 何にせよ、事は想像以上に厄介かも知れない。眉間に皺を刻んだ侭、五十鈴は伊勢の電話を鳴らした。2コールもしない内に出た双子の兄の方が、現場から距離がある分苛立ちを抱えているのかも知れない。
 取り敢えず現状確定しているのは、貴広から連絡が途絶えていて、こちらからの連絡に応答も無く、共に本社を出た研究者の男と市内の高級ホテルに居るらしいと言う事だけだ。
 食事と会話とが弾み過ぎて連絡を忘れている、と言う可能性も無きにしも非ずだが、連絡を確実にと幾度も伊勢に言い含められていて、それを貴広が忘れるとは思えない。
 可能性の論だけで言えば極めて黒に近い状況でしかないのだが、それでも五十鈴は慎重に伊勢に報告をした。伊勢だって自分と同じぐらいかそれ以上かに、この状況を危ぶんでいるのは間違い無い。だからこそ、だ。
 「じゃ、着いたらまた連絡をするから」
 《…解った。こちらも予定より早く仕事は片付いて、本社(そちら)に向かっている最中だ。出来るだけ急ぐ》
 「了解」
 早く片付いたのか、早く片付けたのか、それとも貴広の手前そう嘘をつく事にしたのかは解らないが、伊勢の声音は静かではあったが穏やかではなさそうだった。相当荒っぽい運転でもしていたのか、結構なエンジン音が聞こえた気がしないでもない。
 だが、それに茶々を入れている余裕は五十鈴にも無い。通話を切ったスマートフォンを仕舞うと、顎を擡げて空をひたりと見据える。
 本社ビルのエントランスから外の敷地は、ちょっとした駅前の町か何かの様になっている。軽食などを購入出来るコンビニや福利厚生目的の施設、各部署ビルへの行き来や社外への外出時に用いられる無人タクシー乗り場に、公園の様に整備された憩いの場など、様々な施設の集中したそこはいつも社員たちの姿で賑わっている。
 今五十鈴の佇んでいる、無人タクシーの待機所はその片隅に位置しており、周囲を歩く者の姿はない。
 問題はなさそうだと判断した五十鈴の足が、空を見据えた侭にふわりと地面から離れる。その一瞬だけ五十鈴の干渉した範囲に限定的な強風が吹いて、遠くで各々過ごしていた社員たちが驚きの声を上げるが、その時には五十鈴の身は既に空の上にある。
 まるで高層ビルから自由落下でもしている時の様にくるんと縦に回転して、五十鈴は先頃脳内に叩き込んだ件のホテルの地図上の位置へと向き、跳んだ。文字通りに、大気の干渉を全て閉ざして、風を蹴って、跳んだのだ。
 瞬く間に遠ざかる本社ビルと眼下の町並みとを睥睨する五十鈴の刻む表情は、その胸中を顕す様に酷く洌く、千々に切られる風の様に鋭かった。
 
 *
 
 ホテルのフロントを務めていたのは、人間ではなくカンパニー製のアンドロイドだった。手間が省けたと、五十鈴はアンドロイドに、宿泊受付でもする時の様な調子で特殊な音声コードを入力し、管理モードへと移行させる。当然だが、信用問題にも関わる為に極秘扱いではあるし、アンドロイドの所有者側にも音声コードにパスワードを紐付けし設定するセキュリティ機能も備わっているので、表向きには「安全上の問題はない」事になっている。
 だがここはカンパニー本社のお膝元である。パスワードや声紋認証ですらすり抜けるコードの入力が許可されていないアンドロイドなど居る筈もない。
 傍目にはただのチェックインの様子にしか見えないだろうやり取りの様にして、五十鈴は貴広の連れ込まれただろう部屋のナンバーを聞き出し、カードキーを受け取った。人間の従業員も、アンドロイドの従業員も、全く気付く様子はない。
 もう目的地ははっきりしたので、五十鈴は普通の宿泊客の様な態度でエレベーターに乗った。小さな筺が、機械音と共に上昇する感覚を味わいながら、ポケットから取り出したスマートフォンを発信する。
 果たして今度はワンコールも鳴り終わらぬ内に伊勢は応じた。
 「現場は突き止めたから向かってる最中」
 部屋の番号も言い添えるが、報告は一言で簡潔だ。上目に、回数表示が上層階を示す数字をカウントアップしていくスイッチパネルを見ながら口早に五十鈴は言う。
 目的地、或いは現場である部屋は三日前から篠山の名で取られていた。続けて、二時間前には追加客として神崎貴広の名も記録されていた。
 一体どう理由を付けたのかは解らないが、疑り深い貴広が余りにあっさりと自分たちの前から『持ち去られ』るとは。不甲斐なさや単純な苛立ちの侭に息をそっと吐く。
 《五十鈴》
 「何」
 《くれぐれも『軽率な』事はするな。こちらも急ぐ。遅くてもあと二十分以内には到着するから、良いか、絶対に『軽率な』──早まった真似だけはするな。その瞬間は良くとも、後から隊長の足元を掬う様な事態に繋がりかねない》
 「……」
 電話の向こうの伊勢の声は静かで、冷静で、平淡だった。その癖、運転しているだろう車の音は激しい。
 だから互いにきっと解っている。憤りは正しい。だが、報復或いは気晴らしに選ぶ手段としては正しくはない。
 《良いな?》
 落ち着いて諭す伊勢の言葉の真意はよく解る。自分とて逆の立場であったのであれば、きっと同じ事を口にしていた。それが建前であろうが何だろうが、当たり前の様にそう諌めていただろう。
 「…極力努力はするよ。兄さんや隊長の言う様な『軽率』な事はしないよ」
 簡潔に言うなり、伊勢の返答──恐らくは溜息だろうが──は待たずに五十鈴は通話を切った。それとほぼ同時にエレベーターが目的の階に到着し、軽快なベル音と共に扉が開く。
 エレベーターホールからほぼL字に分かれた廊下の、客室の並ぶ方面へと真っ直ぐ歩き始めた五十鈴は、途中で未だ手の中にあったスマートフォンの電源を落とした。ベッドメイクの最中なのだろう、開かれた侭の客室の扉の前に置かれた、リネン類の詰まったワゴンへと、通り過ぎ様にスマートフォンをぽいと放り込み、何事も無い様に進む。
 程なくして目当ての部屋番号を見つける。角部屋で、唯一の隣室が空室である事は先頃フロントで確認した通りの様だった。篠山が別の名義で隣室も押さえている可能性は高いだろう。
 部屋の前に立った五十鈴は接触型のカードキーをセンサーに当ててロックを解除した。かちん、と殆ど解らない程度の小さな音を立てて解錠される扉をそっと押し開け、後ろ手に閉じる。音は全く立てていない。
 室内は一流に名を連ねるホテルなだけあってか広く快適そうだった。カーテンは全て閉ざされていて、薄暗い室内を淡い暖色をした電灯が照らしている。
 間取りはよくあるホテルのそれとほぼ同じだ。入り口から短い、水場などに繋がる廊下があり、寝台が一つと壁際にデスクが一つあり、他にもソファやテーブルが置かれている。そんな絨毯貼りの室内をそう見回すでもなく、捜し物はすぐに視界に飛び込んで来た。
 絨毯の上に黒いビニールシートが敷かれていて、その上に貴広が仰向けに横たわっていた。いつものスーツ姿の、ジャケットだけを脱いだ姿。眉間に力をこめながら目を閉じている。
 そしてその周囲には、ずらりと様々な道具が並べられていた。
 「………──」
 道具の用途をあれこれと考えるより先に、五十鈴の足は無言の侭に室内へと入っていた。一歩。二歩と進んだそこで、耳ではない感覚のどこかが、空気の揺れる音を捉える。
 横合いから向かって来たのは鋭い刃先だった。気合の呼気など吐かず、刃を手にした男は真っ直ぐに五十鈴の頸を狙って刃を突き出している。
 五十鈴もそちらを一瞥すらしない。刃を突き出す男は果たして一瞬風の流れを感じたか、感じないか。その空隙の先で、凝縮された空気の圧は刃を中程の所で断ち割っていた。
 「……?!」
 乾いた音と共に、頸を貫いていた筈の手応えは返らず空を切る。狼狽した男の気配を感じた五十鈴は、三歩目の歩みを止めてそちらを振り向く。
 他にも武器を隠し持っているのだろう、折れたナイフから手を放し次の手を探ろうとした男の足元を、瞬間的に強い風で煽った五十鈴は、バランスを崩したその膝裏を蹴り、続け様に足をほぼ垂直に蹴り上げた。ミリタリーブーツ並に頑丈な、特殊なビジネスシューズの爪先は狙いを違える事なく男の顎を打つ。
 「…!」
 かは、と仰け反った喉が苦悶の呼気を吐いて、男はその侭仰向けに倒れながら呻く。
 「き…、さま、一体、、」
 衝撃で歯茎から溢れた血と、鼻血とが混じって毛足の長い絨毯にぼたりとしみを作る。成程これは血など飛ばしたら落とすのに苦労しそうだと、貴広の下に敷かれたビニールシートを見つつ他所事の様に考えながら、五十鈴はにこりと男に笑いかける。
 「ヤだなぁ、仮にもPIXIES(うち)に協力要請なんてするなら、その人員の把握ぐらいはしておいて下さいよ。ただでさえ、篠山さん?でしたっけ。貴方、他社に籍を置いているんですから。少しは現環境に溶け込む努力ぐらいはしないと」
 どうせ、この篠山と言う男のその全てが嘘偽りで出来た事なのは解りきっているが、五十鈴は極めて友好的に微笑んでみせた。
 五十鈴の部屋への侵入を、音も立てなかったのに何らかの方法か感覚でか察知し、素早く潜んだ判断や不意打ちを見ても、どこかの国や組織の、それなりの腕のエージェントなのは間違い無い。
 研究開発部が幾ら窓際部署であるとは言え、一応は商品管理部直轄の、カンパニー本社にある部署だ。偽装した身分で侵入を果たした事をも加味すれば、存外に大きな釣り針になるかも知れない。
 くそ、と呻いた篠山が、腰の後ろから小型のナイフを抜いた。ベルトの裏にでも隠していたのだろう。この分では他にもまだ武器の類を所持している可能性は高い。
 面倒だな、と正直な感想は口に乗せず、五十鈴は立ち上がろうとする篠山目掛けて、有効範囲を限りなく縮めた号風を発動させた。
 「!?」
 ぶわ、と瞬間的に吹いた風が、膝をついた男の周囲でだけ荒れる。室内は殆どその風の影響を受けない。僅かの微風がカーテンを揺らすか、揺らさないか。その程度だ。
 伊勢の鉄風や重風とまではいかないが、吹かせた風を限定的な範囲を残して打ち消し相殺する事で、五十鈴でもある程度ならこう言った芸当は出来る。制御に疲れるのが難点だが、幸いなのは、風の吹く中心は気圧が下がり、比較的に速やかに対象が行動不能になる事である。
 傍目にはほんの僅かの風が何をしたとも知れぬだろうが、急激な減圧に因って、篠山と名乗っている男はぐるんと白目を剥いてその場に倒れた。彼が完全に意識を失った事を確認すると、五十鈴は素早く身を翻し、貴広の横に膝をついた。
 「隊長。ご無事ですか?」
 問えば、目蓋が震えた。少し不自然なリズムの呼吸に、指を手首に当てて血圧を測ってみる。多少低いが正常値の範囲内の様だ。命に関わる大事では無い事に、思わずほっと溜息がこぼれる。
 黒いビニールシートの上に横たえられている貴広の周囲を改めて見回せば、そこにはカトラリーの様に様々な道具や工具が綺麗に並べられている。ナイフやフォークの様に、医療用のメスや鋏やピンセットや鉗子と言ったものから、小型の高周波鋸まで。
 おまけに、傍らにある開かれたトランクの中からは、検体などを入れる冷凍用の容器まで幾つか姿を覗かせていた。
 「………」
 五十鈴は剣呑に目を細める。どうやらこれは、貴広の暗殺を狙った……と言うだけでは無さそうだ。ナーサリークライムと呼ばれる彼を、検体として解剖して持ち帰ろうとでもしたのか。
 幾ら生かした侭の捕獲では極めて危険な存在とは言え、随分と手間のかかる事をしようとしたものだ。
 (…まぁ、外部の暗殺者ならそれはそれでまだマシかな…。社内のお偉いさんの『おたわむれ』だったりしたら、幾ら情報部が階級とか無関係に行動が出来ると言っても、後から何かと面倒だし…)
 ごちながら、つまみ上げた解剖用メスの一本をその場にぽいと放って、五十鈴は貴広の背を慎重に抱き起こした。取り敢えずそれを考えるのは今の自分の仕事ではない。
 命乞いをしようが、金を積まれようが、これは万死に値する所業だ。その事実のみが変わりない。
 ふう、と小さく息を吐いて気持ちを切り替えた所で、貴広の目蓋が、深い眠りから醒めようとしている時の様に震えながら薄く開かれたのに出会う。目蓋は幾度も閉じそうになりながらも、なんとか開いている事を保とうと必死な様だ。
 「隊長」
 もう一度呼びかけると、がく、と崩れる様な動きで顎が下がって、頷きが返った。貴広は閉じかかる目蓋と何度も格闘しながら、何とか視線だけで五十鈴の姿を見上げる。
 「五十鈴、か…」
 余りはっきりとはしていない調子だが、呼ばれたのは解ったので、五十鈴は「はい、僕ですよ」と頷いた。その侭身を寄せて貴広の眼を覗き込んでみれば、焦点が巧く合っていない。
 五十鈴は素早く室内を見回し、テーブルの上のワイングラスに目を留めた。勤務中だろうに何と唆したものかは解らないが、ルームサービスの類だろう、業務用のよくある銘柄のワインボトルが開栓されて一緒に並んでいる。
 テーブルの上のグラスは二つ。その片方が横倒しになって、その紅っぽい中身を絨毯にたっぷりと染み込ませていた。
 「何か盛られましたね?何だか解りますか?」
 わざわざグラスを手にとって匂いを嗅いだり、試薬で検査をするまでもない。少なくとも貴広が今こうして生存している以上は、毒の類ではない事は明らかだ。状況だけで判断した五十鈴が問うのに、貴広は少し考えながら、震える目蓋を薄く開いて答える。
 「恐らく…、睡眠薬とか、当たり障りの、無いものだろう…。味で、異変に、、気づいたから…、途中で吐きに行った、のだが、」
 「成程。解りました。命に関わる様なものでなくて良かったですよ本当に…」
 違法に合成された、たちの悪い薬物などの匂いや味を判別出来る程度には訓練されていても、市販薬の類はそうもいかない事が多い。況してやアルコールに混ぜられると判断は怪しくなる。
 つまり篠山は、貴広を行動不能にしてからゆっくりと『料理』しようとしたと言う訳だ。睡眠薬程度なら民間でも簡単に手に入れる事は出来るから、特定した所で余り役には立たない証拠だが。
 五十鈴は丁寧な仕草で貴広の身体を抱えあげ、使われた形跡のない寝台へと横たえると、備え付けの冷蔵ボックスからミネラルウォーターの瓶を取り出した。瓶に工作された形跡が無い事を確認してからキャップを開け、自ら一口含んで、舌の上で慎重に吟味した。妙な味や違和感の無い事を確信してから、取って返す。
 「隊長、水です。飲めますか?」
 起き上がろうともぞもぞ動いていた貴広の肩を支えて瓶をもたせると、何とか首肯が返る。薬物ならば水で薄めて体外排出を急がせるのが良い。すぐ完全に元通りと言う訳には行かないが、幾分楽にはなる筈だ。
 「ゆっくりで良いですから。噎せない様に」
 覚束なく震える手を支えてやりながら言って、貴広がゆっくりと水を、幾度かに分けながら飲むのを手伝う。
 「……落ち着きました?」
 「……すまん」
 まだ怠そうで眠そうではあったが、部下の手前気を張ろうと努められる程度には回復して来たらしい。五十鈴は改めて安堵の溜息をつきながら、緩やかな呼吸に上下している貴広の背を撫でた。
 「遅れて仕舞い申し訳ありません。でも、もう大丈夫ですからね。お傍に居られる限り、お護りします」
 「……………すまない」
 宥め調子の言葉に、改めてこんな下らない事で殺されかけていた己を恥じたのか、助けて貰った分際で謝られると言う事に気まずさを覚えたのか。憤りを堪える様に呟いた。貴広が内罰的なきらいである事には慣れていた為、気休めも、それ以上の余計な意見も探さずに、五十鈴はただ黙っていた。
 この人を護りたいと思う気持ちに偽りはない。もっと早く駆けつけたかったと悔やむ様な思いも嘘ではない。足元に拡がるシートに並べられた道具の数々を見るとぞっとする。最悪以下の想像は唾棄したい程に腹立たしい。
 (隊長がご無事で、本当に良かった…)
 自分たちの判断の甘さと、本社のお膝元でまさか妙な事は起こるまいと高を括ったツケが、思い出すだけで暫くは胸を悪くしそうな想像の数々だと言うのならば、それだけで済んだと安堵してばかりもいられない。
 そこに、扉の開く音がした。五十鈴は扉を閉めたが施錠はしていなかった。然し貴広も五十鈴も警戒姿勢に移行する事はなかった。室内に入って来たのが伊勢だったからである。
 「…ご無事ですか」
 眼鏡の奥の眼差しはいつになく厳しく、いつもは着崩れひとつないスーツはどこか草臥れて、肩も珍しくはっきりと上下していた。余程に急いで、文字通りに駆けつけて来たのだろう双子の兄の様子に、五十鈴は曖昧な苦笑を向けた。
 現状を見れば、無事は無事だが、100%の安全確保といかなかったのは明らかである。
 「無事だ」
 「…一応は」
 きっぱりと言う貴広にそう言い添える五十鈴を見やって、伊勢は疲れた様に大きく息をついた。
 「被疑者は…、何とか生きている様だな…」
 よくやった、と、付け足す言葉は、貴広を未然に救出したと言う事ではなく、被疑者を殺さずに居たと言う方に向けてかけられたものだったのだろう。伊勢は完全に気絶している篠山を、所持しているワイヤーで手早く拘束した。攻撃用途ではなくトラップなどに用いるもので、柔軟性と頑丈さとに優れたものだ。
 これで、目が醒めても抵抗は出来ない筈だ。ひとまとめにした両腕と両足を背中側で拘束された篠山を見て、海老の様だと五十鈴はぼんやりと考える。
 「研究開発部の様な、中央の関心の低い部署とは言え…、人員を送り込むには、内部からの手助けが必要になる筈だ。暫くは情報部で転がして、熟した鬼の首を…、腐る前に商品管理部へ突きつける事になりそうだな…」
 また少し水を含んだ貴広がそうぼやく様に言う。殆ど体内に入っていなかった薬効程度なら、彼の身にある耐性も手伝ってか、随分と早く回復している様だ。無論、貴広自身が部下たちの手前、気を張っていると言うのも手伝っているのだろう。
 「……それにしても、危うく生きた侭で腑分けされる所だった様だな…?」
 今更の様に、並べられた工具や道具の数々に気づいたのか、少し顏を顰めてそう言う上司の、冗談めかした口調に、然し伊勢は眼鏡の位置を直しつつ嘆息した。
 「…隊長。お言葉ですが、流石にそれは笑えません」
 「…………すまない」
 嗜める様な伊勢の言葉に、貴広は正直に謝った。皮肉屋な上司にしては珍しくも、本気で落ち込む所があったらしい。五十鈴はさりげない仕草でその背を撫でた。
 「…然し、目的が隊長の殺害ではないと言う事は、大分対象を絞り込む事が出来そうですね。カンパニー内部に入り込んだ他国の間者と言うより、情報部(うち)に対抗意識を持つ派閥と言う可能性の方が高いかも知れません」
 何れにせよ、取った鬼の首を調査すると言う仕事に変わりはなさそうだ。取り敢えず伊部隊に連絡を入れようと思いポケットを探る五十鈴だったが、スマートフォンが見当たらない。
 「五十鈴」
 そんな五十鈴を見て声を上げた伊勢が、ポケットからぽいと放って寄越したのはスマートフォンだった。それも、紛れもなく五十鈴自身の物だ。万一の『事故』が起きた際に五十鈴の所在が『犯行時刻』に『犯行現場』にあるのは宜しくないからと、ここに来る途中で適当に手放して来たのだ。
 「あれ、どこに捨てて来たかよく解ったね?」
 「お前のGPS信号の途絶えたポイントを見たら、清掃作業中のアンドロイドが居たからな」
 勘のいい兄に「流石だね」と愛想笑いを向けるが、伊勢はどこか呆れた様な表情である。要するに、あれだけ軽率な事はするなと言われたにも関わらず、五十鈴は『事故』を想定していたのだから。
 「仕方ないでしょ…。隊長に狼藉を働こうとしたんだから。状況次第では『事故』ぐらい起きるよ」
 咎める様な伊勢の、細まった目に向けて続ける。
 「兄さんが僕だったとしても、同じだったでしょ」
 「…………」
 伊勢が返したのは沈黙ではあったが、それは最早肯定したも同然の態度であった。趣旨はさておき、貴広も『何』が議題なのかを察しているのか、余計な口は挟まない事にした様だった。
 「…業腹な事には同意するが、逆の立場であるだけに推奨はしない」
 同じ時に居合わせていなかったからこそ嗜めるのだと、実に優等生な双子の兄の言い種に、想像通りだなあと五十鈴は喉を鳴らして笑うと、スマートフォンを操作した。伊部隊オフィスではなく、PIXIESで用いている直通回線へと繋ぎ、貴広を暗殺しようとした愚か者が居た事、未然に阻止した事を伝え、下手人の正体と目的との調査に入る事を簡潔に伝える。それから現場であるこの場所の速やかな捜査を頼んでから通話を切る。
 「…仕方はないし事実でしかないのだが、改めると我が事ながら情けない為体だな…」
 「まぁ、そう仰らず」
 五十鈴の通話を聞いて、改めて溜息をついてみせる貴広に、散々心配をさせられたのだから、少しぐらいは凹んで貰わないと困るとでも思っているのだろう、伊勢は僅かに笑んで言う。
 確かに、貴広自身にも少しは真っ当な警戒心を持ってもらわねば困る。貴広はなまじ『強い』為に、大抵の危機は簡単に自らの力で切り抜けて仕舞う。その為に結構に足元が危うい事も多い。疑心は強いくせに警戒心が弱いとは、実にアンバランスな性質である。
 「そう言えば…、一体何と言われてこんなホテルに連れ込まれて、アルコールまで入れたんですか?」
 ふと思い出して問う五十鈴の顏を見上げて、貴広は一瞬きょとんとしてから、何やら不満そうに口端を下げてみせた。
 「連れ込まれ…ってお前なぁ。もう少し言い方ってものがあるだろ…。──別にただ、出来れば研究室や実験室ではなく、普通の生活空間でのデータが取りたいとか、アルコールの影響下ではどうとか、そんな事を頼まれただけであって…、」
 「「………」」
 何でもない様にそんな事を言う貴広を前に、双子は思わず顏を見合わせた。物言いたげに口を上下させる伊勢に代わって、五十鈴は溜息をつきつつ呻いた。
 「ちょっとチョロすぎでしょ、隊長…」
 「…いや待て、何かお前ら不本意な事を考えてやしないか?飽く迄、商品管理部絡みの案件だから、角が立ってもいかんだろうと、出来るだけ穏便に大人しく振る舞おうとした結果だぞ?!」
 「社内の仕事と言う前提が入っているからと言って、脇が甘くなるのは論外ですよ…」
 あからさまな呆れを孕んだ部下の言い種に、流石に声を荒らげた貴広が立ち上がろうとするのを、向かいから伊勢が宥めるのだか釘を更に刺すのだか解らない調子で言って制止した。まだ足元の覚束ない貴広は大人しく寝台へ逆戻りしたが、己を支える様に腕を回す五十鈴をちらりと睨む事は忘れない。
 正直を言えば、貴広の気持ちも解らないでもない。全面的に恥じ入る事かどうかはさておき、悔やんだり殊勝に謝罪したりする程度には、部下に対する申し訳の無さや己を不甲斐なく思う気持ちはあるのだ。ただ、自分が猜疑心の強い性質であると自負している貴広としては、ちょろいだの、騙され易いだのと言う評価は看過しかねるのである。
 それでも敢えて気付かぬ素振りで五十鈴は振る舞うし、伊勢も釘を刺すのを已めない。「もう少し警戒心を」と度々進言はするのだが、それは残念な事にも余り本質的な意味で伝わっていないのだろう。
 「……お前らまるで、年頃の娘の父親みたいだぞ…」
 捨て台詞としか言い様のないものが、貴広の口から漸く、諦めと言う名の敗北宣言と共に放たれた丁度そんな所で、扉をノックする音が響いた。時間からしても、先頃呼び寄せた部下たちが到着したのだろう。
 貴広の横顔が、隊長としてのそれに素早く転じるのを見て、五十鈴は彼から手を放して立ち上がった。
 (隊長が見た目の割にチョロいのも、迂闊なのも、疑心は強いくせに身の内には甘い事も──、知っているのは、僕たちだけで良い)
 佇まいを整える双子の兄の姿を横目に、五十鈴は足元で意識を失った侭転がっている男を無感動に見下ろした。
 だからこの狼藉者はいつか消すし、伊勢もそれに反対はしない。重要なのはこの男の口から出る、貴広を狙った理由だけだ。情報さえ得られれば、記憶だろうが命だろうがもう必要ない。
 貴広は、まだ立ち上がって平然と振る舞うのは難しいと判断したのか、立ち上がらなかった。彼もまた、多くの部下の前に無様な姿を晒すのを望んではいないのだ。
 「入れ」
 隊長である男の言葉に部下たちが入ってくる。暗殺を目論んだ下手人と、その調査とを命じる指示に呼応する彼らもまた、経緯や事情を細かく問う様な無駄な真似はしなかった。
 それが伊部隊PIXIESの本来あるべき、カンパニーの望んだ姿なのだろうと思って、五十鈴はやんわりと細めた目でそれを見回した。





部署とかあれこれかなり適当に作ってますお察しください。
実際隊長は疑り深い癖に人がよかったり、信じたい人は信じたい甘いタイプなので、疑りまくるのって信じたい人に対する反応で、逆にどうでも良い対象は信じる信じない以前にどうでも良いんじゃないかなと思います。裏切られたら殺せばいいやぐらいの。

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