家に歸りしは、夜闌けて後なりき。 ※10年前PIXIES妄想です。 ========================= 今日は金曜日。俗に言う所の週末だ。カンパニーは基本土日休業の週休二日制だが、出張の多い情報部ではそんな言葉が意味を成さない程に、スケジュールは暦通りにならない事の方が多い。 そんな事情もあって、週末、休みを控えた金曜の夜に貴広が自宅に居ると言うのは、非常に珍しい事と言えた。 そもそもにして自宅に戻る事が珍しい。貴広は普段殆ど寝泊まりをPIXIESのオフィスに隣接した、情報部の社宅──と言うよりは社員寮と言うべきか──で済ませて仕舞う事が多い。その為、カンパニー首都に一応購入した高層マンションの一室=自宅は、滅多に使われる事がない。 長期休暇の取れた時や、六天と言う内輪の者らだけで宴会をする時や、余程に疲れ切っていて、誰の邪魔も無く眠りたい時。その程度しか自宅が自宅として機能している事はない。 どうせ金目のものも無いし、万一の情報漏れになる様なものも置いていない。見事なぐらいに生活感に欠けたマンションの一室だ。週に一度ハウスキーパーのサービスを入れる様にしていたお陰で、室内は埃だらけの惨状と言う事もなく、小綺麗に片付いていた。 そんな自宅に貴広が戻って来た理由はと言えば、特にはない。偶々に週末がオフになっていて、臨時の任務が入る事もなく、社員寮に泊まり込んで備えねばならない状況も無かった。強いて言えば、だから、だろうか。 仕事疲れの体にシャワーを浴びてすっきりとしてから、着替えの類を置いていなかった事に気付いて、仕方無しに新しいワイシャツの封を切った。下着の替えまでは用意していなかったのは盲点であったが、致し方無い。上着こそ着ていないが、仕事中の休憩時間と同じ様な格好だ。これでは殆ど社に居る時と変わらんなとごちながら、貴広は濡れた髪の水分をタオルに吸わせつつリビングへ向かう。 最近入手した情報を纏めたファイルを鞄から出してソファに座ると、帰りにスーパーで買ったポテトサラダをつまみにしつつ、缶ビールを開ける。テレビは買っていない。カンパニーに支配された情報も娯楽もどうせ観ないからだ。 そうして貴広はビールを片手にファイルを開いた。 情報と言っても任務に直結する様なものではなく知識程度のものばかりだ。新聞でも読む様なつもりで、各国の技術情報からローカルな噂話、政府高官のゴシップまで。暇な時などにネット経由で集めたその内容は雑多だ。ある程度斜め読みをして行き、壁の時計をふと見上げてみれば、時刻はもう深夜の一時を回っている。 「いかんな…つい没頭し過ぎたか」 必要の無さそうな情報として選り分けた紙面を適当に破いて灰皿に放り込み、他はファイルに戻すと貴広はソファの上で伸びをした。寝室まで向かうのも何だか億劫に思えて、あくびを噛み殺す。 その時、何の前触れもなくインターホンが音を鳴らした。職業柄か、貴広は思わず肩を跳ねさせ、素早く立ち上がると窓から離れた壁際に立った。 深夜一時。どう考えても宅配業務が行われる時刻ではない。隣人に苦情を言われる事もしていない。しんと静かな夜の空気に不穏な気配が差し込む心地に項の辺りがぴりぴりとする様な錯覚を覚えながら、貴広はリビングの出入り口付近に付けられた来客用のインターホンのモニタを横目に見遣って──そこでぽかんと口を開いた。 「五十鈴?一体どうした、何かあったのか?!」 玄関に付けられたカメラが捉えている映像が、小さな液晶の中に表示されている。その中に映し出されているのはインターホンを鳴らした人物に相違なく、そしてその姿形には見覚えがあり過ぎた。 普段は兄の伊勢同様に穏やかで物静かな青年だ。その五十鈴がぜいぜいと肩を上下させながら、そこに居る。インターホンを押しただけで、名乗りもしないなどと言う真似は常の五十鈴ならばやらかさない筈の事だ。 インターホンのスピーカーボタンを押しながら思わず声を上げた貴広に気付いて、モニタの中の五十鈴がカメラを向いてかぶりを振った。意味や理由を考えるのはやめて取り敢えず貴広は玄関へと急いだ。相手が五十鈴であれば警戒の必要などないし、もしも緊急事態だとしたら捨て置けない。 物理ロックとチェーンとを貴広が外すのとほぼ同時に、扉が勢いよく開かれた。その侭素早く扉の中へと身を滑り込ませて鍵を掛ける五十鈴の動きは、まるで俊敏な野生の獣の様ですらあった。 「おい五十鈴、?!」 「っ隊長…!」 声を掛けた貴広の身体がふわりと一瞬浮かんだ。少なくとも感覚的にはそんな所であった。傾いだ視界が天井を捉えて、倒れる、と身を固くするより先に、壁に背がぶつかって何とか止まる。 ずるずるとその侭下方に引っ張られる様にして座り込んで、目を白黒させながら己に掛かった突然の加重の正体を見下ろせば、貴広の腰に五十鈴が両腕を回して抱きついていた。 がっちりと貴広に抱きついている、もしくはしがみついている、五十鈴のそんな姿は、飼い主に甘える犬か、母親に甘える子供の様である。 そこで貴広は半ば茫然と理解をする。扉を開けるなり飛び込んで来た五十鈴に、アメフトのタックルよろしく飛びつかれて座り込んでいると言う現状を。 「…お前なぁ…、」 漸く理解から思考が追いついて来て、貴広は表情筋を引き攣らせて呻いた。 五十鈴は出張中──と言う名の外地任務に就いていた筈である。潜入が予想以上に困難で、一ヶ月以上の長丁場になりそうだと現地から報告が届いたのが、確かそう、一ヶ月前の事であった。それからは、任務中なので不要不急の連絡は一切取っていない。 「任務はどうした」 「勿論ちゃんと片付けて来ました。で、隊長に早くお会いしたい一心で全速力で戻って来ました。そうしたら隊長の姿がオフィスに無かったので…」 ずり、と床に膝をついた五十鈴の体が伸び上がって、今度は背中に腕を回され思い切り抱きしめられる。息もし難い様な膂力の抱擁に思わず貴広が呻けば、その唇を噛み付く様に塞がれた。 「っこら、」 口腔を深く探ろうとする動きに抵抗して、貴広は頭ごと顔をひねって五十鈴の肩を拳で叩いた。それで漸く唇が離れたかと思えば、続けて耳朶に音を立てて口接けられて、貴広は半ば本気で身を捩りながらそれを振り解いた。 「取り敢えずちょっと待て、」 「止めないで下さい」 「だから一旦待てと!任務から戻ったらまずは状況の説明と報告からと教えただろうが!」 息を荒らげながら吼えた貴広の剣幕に圧された様に、五十鈴は子供の様に口端をむっと下げたものの、大人しく少し身を離した。廊下にちょこんと正座するその姿は「待て」を言いつけられた犬の様に見えなくもない。 貴広は襟元を直しながら息を吐いた。 「報告書は?」 「もう出来ています。帰りの機内で片付けました。後はプリントアウトしてチェックするだけです」 特に自慢する風でもなく淡々とそう答えると、五十鈴はじっと貴広の顔を見つめた。 「僕、もう今回は人生こんなに頑張る事はそう無いなってぐらい頑張ったんですよ?長期任務だから、隊長にお会い出来ない日々が続いて本当にしんどい中、とにかく一刻も早く終わらせて帰ろうと必死だったんですよ?それで漸く帰投したら隊長はお部屋にいらっしゃらないし、何とか聞き込み回ったら自宅に帰ったと言うしで…」 「………」 甘える様な声でつらつらと言って、こちらを見上げて来る目は、甘えたい盛りの子犬か何かの様だが、どう考えても立派な成人の男に対して使う様な形容ではない。 貴広は額を揉んで溜息をつくと、五十鈴の頭をぽんと撫でた。 「よく解らんが頑張ったのは解った。よくやったな」 良い年齢をして、上司に頭など撫でられて労われると言うのはどうなのだと思うが、五十鈴の様子はと言えば、頬を膨らませんばかりだった表情を忽ちに微笑みの形にして、酷く満足そうで幸福そうですらある。尻尾でも生えていたらきっとぱたぱたと忙しなく振られていたに違い無い。 「ですから、ご褒美を下さい」 「……自分から催促に来る奴があるか」 満面の笑みと共に言われて、貴広は呆れながら肩を落とす。その肩に五十鈴の腕が寄せられたかと思えば、再び背を引き寄せられて口接けられる。 こうなると何を言っても、しても無駄だろうと、貴広は深く激しくなる口接けの合間にそう考える。少なくとも五十鈴が一旦落ち着くか気が済むまでは抵抗しても無駄だろう。 唇が離れたかと思えば、鎖骨に歯を立てられ甘噛みされる。指で顎を辿られて、濡れた皮膚に熱い体温や吐息が当たるのを直接的に感じて仕舞い、貴広は背筋が震える感覚をやり過ごそうと目を固く瞑った。そうする間にも下肢をまさぐる手が衣服をくつろげながら下着を勝手にずり降ろし、貴広も脚に絡まるそれを蹴って落とした。 途端、弾んだ背に固い壁が当たって音を立てる。寸時我に返った貴広は五十鈴の両肩を何とか押し戻す様に掴んだ。 「っまて、待て…、せめて、寝室とまでは言わんから、ソファにでも、」 この侭勢いで廊下で致したら身体を痛めるだけだし、事後にその侭休む事も出来ず後で困った事になる。切れ切れに吐かれた言葉に、五十鈴は「失礼します」と言い置くと、貴広の身体を抱えて立ち上がった。勝手知ったる我が家の様に、寝室の扉を半ば蹴り開ける勢いで中に滑り込むと、寝台の上へとその身を恭しい仕草で横たえる。 その脚の間に膝を割り入れてのし掛かると、五十鈴はスーツの上着をばさりと脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを外しながら、余裕の無い表情で剣呑にわらう。貴広の背筋は咄嗟に厭な予感に震えるが、遅い。 「積極的にお誘い頂いたと判断しますから」 「………」 そう言う訳ではない、とか、反論は幾らでも浮かんだのだが、そんな事を言い募っても恐らくは何の効力もあるまい。貴広は諦めて覚悟の息を吐いた。玄関先で乱されて醜態を晒すのに比べれば、落ち着いていられるだけこちらの方が多分に幾分もマシだろう。 * 意識が浮上したのは朝だった。 養成所時代から身に染みついた習慣で、貴広が時間感覚を喪失する程に深く眠る事は滅多に無い。余程に徹夜や疲労が嵩んで参ってでもいない限りは。 (……朝?…あれ、昨晩はどうしたのだったか…) だから貴広は、意識の繋がらない目覚めに少なからず狼狽えながらも、まだ意識を完全には覚醒させない侭に自分の様子を確認した。疲労感。眠気。怠さ。上質な睡眠を提供してくれそうな上等な寝台。横臥して枕かクッションの様なものを両手で抱え込んでいる姿勢。 間違いない、これは滅多に帰らない自宅だ。ならばそんなに深い眠りに落ちる事はまず無い筈。 昨晩は週末で、久々に家に帰って、ビールを飲んでほろ酔い気分で──、 「………」 思考の続きを手伝ったのは寝室の外に感じる、人の動く気配だった。ついでに、漂うコーヒーの香ばしい香りも。 そこまで来て貴広は漸く、昨晩の記憶と現状とを繋げる事に成功した。意識も記憶も飛ばされた原因も含めて。 (……あいつも仕事続きで何かが切れて仕舞う事なんてあるんだな…) 五十鈴は普段から物静かで穏やかな性格をしている。感情制御も得意で、滅多に怒りを露わにしたり声を荒らげたりする事はなく、常に思考も冷静に働かせられる。兄の伊勢共々に実に情報部向けの人間であった。 それはセックスの時もそうだ。伊勢であろうが五十鈴であろうが、彼らは具に貴広の様子や反応を見て、その意に添わない事や無理は強いたりしない。恭しくそれこそお姫様でも扱う様にして、じっくりと追い詰めて来るのが常だ。 そんな五十鈴があれだけ色々とかなぐり捨てて来た結果がこの為体である。意外性があったと言うよりも、あいつに下手な辛抱をさせると反動が怖いらしいと言う事の方を、貴広は心のメモにそっと書き付けておく事にした。 怠さと微睡みとの狭間でそんな思考を転がしていると、寝室の扉が静かに開かれた。毛足の長い絨毯は足音を吸収して仕舞うから音はしない。だが、寝室に入って来た五十鈴が、寝台に横臥している貴広の横に手をついたのは解った。 無視して寝て仕舞おうかと考えたのは寸時。それも無駄かと思った貴広は、目を擦りながら頭を巡らせて、こちらを覗き込む様に見下ろしている五十鈴の顔を見上げた。 「五十鈴…」 「おはようございます、隊長。起きられます?」 「んー…」 頷いて上体を起こそうとすると、五十鈴の唇が額に音を立てて口接けて来た。挨拶のつもりか何かだろうか。背に手を添え起こされて、貴広は薄いカーテン越しの白い陽光を目を眇めて見た。良い天気の爽やかな朝の様だ。そんな爽やかさとは裏腹に、光を受けた目元は腫れぼったく感じられて、暫し瞼を固く瞑る。 何処に置いたかは確信が無かったが、寝台の頭の方へ眼鏡を探して手を彷徨わせると、察した五十鈴が貴広の眼鏡を取って手の上へと置いた。「すまん」と言って眼鏡を鼻の上へと乗せると、視界がはっきりした分意識も自然とはっきりして来る。 「朝食を用意していますから、宜しければ」 「あぁ…。コーヒーも頼む」 「はい」 やんわりと微笑むと、五十鈴は寝室から出て行った。その格好はと言えば、カンパニーの制服の様なものであるスーツの上着を脱いで袖を捲っただけの姿だ。貴広はぱちりと瞬きをする。 取り敢えず寝台から降りると、全裸と言う己のあられもない格好に思わず溜息がこぼれる。昨晩脱ぎ捨てた衣服たちは見当たらない。他に着替えもない。頭を掻くと、貴広はシーツを引っ剥がして羽織りながらシャワールームへと向かった。起きたばかりの時にはまず熱いお湯で全身をリセットしないと落ち着かないのだ。 貴広のそんな習慣をちゃんと心得ていたらしく、脱衣所にはタオルと、綺麗に畳まれた衣服が置いてあった。と言っても例によって、上着とネクタイとが無いだけで他はスーツ着用の際と同じだが。他に着替えが無いのだから仕方もない。 熱めのお湯にしたシャワーを浴びて、ドライヤーで髪を軽く整え、着替えてリビングへと戻る。リビングとダイニングは一体型で、昨今では調理をする人間など殆ど居ないから、調理器具や食器の収納場所も非常に少なく、空間的に広々としているとも言えるし、閑散としているとも言える。 すっきりと片付いた、水場と電子レンジと、お湯を沸かすか保存食を解凍する時ぐらいにしか使わないIHコンロだけのキッチンは、一昔前であれば手狭と言える程に小さい。 水場を挟んでカウンター状になった部分がテーブル代わりに使える様になっていて、その上では淹れられたばかりのコーヒーカップが湯気を立てて待っていた。 椅子を引いた貴広はそこに座るとカウンターに頬杖をついて、コーヒーカップを傾けた。カフェインの覚醒作用と深い苦みとが相俟って、脳を活性化させていく。 「直ぐに出来ますから」 言う五十鈴はコンロの前でフライパンを動かしていた。その上で熱せられているのはパンケーキだった。レトルトで、電子レンジではなく加熱調理するタイプのものだ。伊勢もよく貴広に軽食として作ってくれる。矢張り双子なだけあって嗜好は似ているのだろう。 (……と言うか、ここに食料の買い置きなんかあったか…?) 首を捻った貴広は、テーブルの上にスーパーの袋が置きっぱなしになっているのを見つけて、成程と頷く。貴広が目を醒ます前に、どうやらわざわざ五十鈴は買い物に出たらしい。早朝、空っぽの冷蔵庫を見て頭を抱えただろう彼の姿を想像して仕舞えば、少々申し訳のない気持ちになる。 然しわざわざその事を言わないのが五十鈴らしいと思いながら、貴広は熱いコーヒーを啜った。 コーヒーの三口目を啜る頃には、出来たてのパンケーキとスクランブルエッグ、コールスローサラダの載った皿が貴広の目の前に置かれた。全てレトルトだが、この時代はそれが普通である。 斜め向かいに自分の分の皿を置いた五十鈴も腰掛け、「いただきます」と唱和し食事が始まる。 「五十鈴」 「はい?」 「今日は土曜の筈だが、その格好と言う事は…」 貴広の問いに、五十鈴は口の中のものを呑み込んでから、困った様に苦笑する。 「はい。残念ながら現地居残り組との調整の事もあって、今日も明日も出勤です」 PIXIESの直接の上司である貴広への報告書は、この週末の事を全てまとめてから、月曜に提出されるだろう。貴広はその内容を精査して上に提出。ついでに次の対応策や任務のプランを作成して、あらゆる状況に備えなければならない。 現地で先日まで働きづめだった五十鈴の苦労や、まだ残って居る部下の頑張りを無駄にする訳にはいかない。入手した情報や操作した状況をどれだけ有効に活用するか。それを計画するのも隊長の務めである。 月曜からの仕事を考えつつ、溜息をついた貴広は続ける。 「じゃあ何故、昨晩お前はわざわざ此処に?よもや、現地組の事を蔑ろにした訳ではあるまい」 「そんな事当たり前じゃないですか。ちゃんと取れるフォロー策は全部取ってから来ました」 「何でまたわざわざ。どうせ月曜に報告で顔を突き合わせるのだろ」 「そんなの、隊長に一刻も早く、真っ先にお会いしたかったから以外に何があるんです」 「………」 真顔でさらりとそう言われて、貴広はパンケーキの最後の一口にスクランブルエッグを挟むと口に放り込んで、フォークを置いた。「御馳走様でした」と手を合わせてから、椅子の背もたれに背を預ける。 土日にいつも通り出社ならば、昨晩本社に帰投した所でその侭寮で一晩休んで、それから出勤した方が当然だが効率的だ。五十鈴の昨晩の様子やら、買い物に行ったらしい事を思えば、殆ど睡眠時間など取ってはいないのではないだろうか。半ば自業自得と言って仕舞えばその通りなのだが。 それでもどうしても、仕事と言う理性に背いてでも、ここまでわざわざやって来た。本人曰く、「早く隊長にお会いしたかったから」。 「……お前は時々、子供っぽい事をするよなぁ」 しみじみとそう言えば、五十鈴は目元を弛めて柔らかく笑った。 「一応は下の子ですから。誰かに甘える癖もありますし、誰かを甘やかして差し上げたくなる癖もあるんですよ」 その言う『誰か』が誰の事であるかは明白だったので、貴広は素知らぬ素振りで肩を竦めてやった。 汚れた食器を片付けて洗った五十鈴は、捲っていたワイシャツの袖を戻すと、いつも通りのネクタイを締めない襟元はその侭に、壁に掛けてあったスーツを羽織った。カンパニーの戦闘服でもあるスーツは一見してただのビジネススーツにしか見えなくとも、その素材は耐久性にも通気性にも優れた特別製のものである。昨晩脱ぎ捨てて放った筈だと言うのに、袖を通したそれに皺が残っている様子はない。 まだ怠い腰を叱咤して、貴広は玄関に向かう五十鈴の後を追った。靴を履いた五十鈴は、振り返るなり貴広の背をまたぎゅうと強く抱きしめて来たので、その背を軽く掌で叩いて宥めてやる。 「はぁ…。隊長がお一人でお休みなんて滅多に無いのに…。それでも僕は仕事に行かねばならず、隊長をお一人にしなければならないなんて、無情過ぎませんかうちの職場」 「一人休みですまんな。月曜にはまた愚痴ぐらい聞いてやる」 「……では、隊長はお体をゆっくり休めて下さいね。夜更かしとかしないで下さいよ」 「誰の所為だ誰の」 ちゃっかりと口接けてきた五十鈴の額をぴんと指で弾いてやるが、彼は大袈裟に痛がってみせる振りをしながらも、ふわりとした微笑みを浮かべており、全く悪びれる気配もない。 背を向けた五十鈴に、貴広はふと思いついて声を上げる。 「…五十鈴」 「はい?」 「これから出社する奴にはおかしな言い方かも知れんが…、『お帰り』」 すると五十鈴はゆっくりと振り向いた。幸福そうに目元を柔らかく弛めた彼は、貴広に向けて、常の穏やかな気性を表す様な静かな声で言う。 「……はい。『ただいま戻りました』」 貴方の居る場所が、僕たちの還る処ですから。 そうはっきりと語る、笑みだった。 別に付き合ってるとかそう言う訳ではなく、なんと言うかこれが日常。 ↑ : |