ぼくはあなたがこの世で占めている位置と、そこにしか住めないぼくを知っている。

※10年前とそれ以前の双子妄想です。
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 「どうして『兄さん』なんだ?」
 
 「………はい?」
 唐突に投げられた上司からの疑問の声に、五十鈴はぱちりと瞬きをした。余りに唐突も唐突に過ぎて、脳が寸時思考を停止してしまう。
 休日である。片付けなければならない仕事も、任務も無い、完全な全休だ。暦通りのスケジュールにならない事の多い情報部では揃って非番と言う事は滅多に無く、この日も六天中で丸一日休みとなっているのは五十鈴一人だけだった。
 する事も特に無く、暇潰しついでに買い物にでも行くか、それとも同僚の勧めていた映画でも観るかと考えていたそんな矢先の事。こつこつと言うノックの音に部屋の扉を開ければそこには、重たそうな段ボール箱を抱えた神崎貴広の姿があった。
 曰く。
 「この中に探している資料がある筈なのだが、伊勢がいないから勝手が解らん」
 要するに、手伝って欲しいと言う事である。そう解釈した五十鈴は、他ならない上司の頼みを二つ返事で了承し、取り敢えず箱を抱えた彼を部屋へと招き入れた。
 どさりと床に置かれた箱はカンパニーで主に書類整理に用いられる上蓋のついたもので、その重量は音からすると相当のものだった。
 箱に記された管理番号からしても、この中にあるのは間違いない筈だ。そう、タブレットに記録されている資料のデータを示して言う貴広の顔は妙に疲れた様子であった。訊けば、目当てのこの箱に辿り着くまでの間も資料室を探し回っていて、既にお疲れらしい。
 何処かに脱ぎ捨てて来たのか、ジャケットも纏わずに、ネクタイの端を胸ポケットに突っ込んで、普段はふわりと整えられている髪もそこはかとなく散っていた。現場以外の事務仕事は本分では無いのだと常々こぼしている通りの、貴広のそんな有り様に五十鈴は苦笑する。
 「それなら最初から呼んで下されば良かったのに。兄さんがいないなら尚更ですよ」
 非番なので五十鈴はいつもより大分ラフな、長袖のTシャツにソフトジーンズと言う格好である。その袖を捲り上げて言うのに、段ボール箱を前にしゃがみ込んだ貴広は決まり悪そうな表情を浮かべてみせた。
 「休みの部下を働かせると言うのは流石に気が退けるだろ。期日が今日でなければ、伊勢に任せられたのだが…」
 「ああ…、兄さんの帰投は明晩の予定でしたっけ…」
 伊勢も特段机仕事に向いている訳では無いのだが、貴広に比べればその仕事振りは大分良い。整頓や仕分けも得意なので、今回の様な資料の収蔵や検索を伊勢が請け負うのも常の事だ。
 五十鈴の認識でも、伊勢は書棚をきっちりと作者や分類で並べるタイプである。整理整頓が好きとか几帳面とか言うよりは、手間を惜しまない方が結果的に良い事が多いのだと言う考え方なだけなのだが。
 そんな伊勢だが、今日は本社の外に出向いて任務に就いている。頼る術を肝心な時に失った貴広が途方に暮れるのも致し方の無い話だ。
 それで五十鈴にお鉢が回って来たと言うのが経緯らしい。貴広もぎりぎりまで、五十鈴が非番である事を考慮していた様だが、結局頼らざるを得なかった現状は些かに不本意そうであった。不承不承に頷いて、溜息をつきながら段ボール箱を開けている。
 そうして二人で箱の中身をひっくり返し、中に詰められたファイルをあれこれ捜索していた時であった。
 「兄さんの整頓癖は、時々病的ですけどね」
 僕は割とその辺り適当ですけど、と、伊勢の部屋の書棚と対照的に、それ程にきっちりと整頓はされていない、自分の机の上を示して五十鈴がそんな事を口にしていたら、貴広から件の問いが飛んで来たのである。
 「どうして『兄さん』なんだ?」
 唐突な言葉であったが、それが問いの調子である事は解る。然し意味が掴めずに首を傾げる五十鈴に、貴広は膝上に乗せたファイルの上に頬杖をついて、補足する様に言葉を重ねた。
 「伊勢の事だ。どうして『兄さん』なのだと」
 重ねられはしたが、矢張り今ひとつ意味に辿り着けた気がしない。五十鈴は手にしていたタブレットの角を指で意味なくなぞりながら呻く。貴広が一体何を言いたいのだろうかと、思考をぐるぐると巡らせてはみるのだが。解らない。
 「どうしてと言われましても…、兄さんは兄さんなので…」
 眉を寄せた五十鈴が解り易い困り顔を浮かべてみせれば、貴広はそこで漸く己の言葉が足りていない可能性に思い至ったのか、小さく息を吐いた。続ける。
 「お前たちは双子だろ?」
 「はい」
 「双子で、ほぼ同時に生まれているから、同い年な訳だろ?」
 「はい。そうらしいですね……、ああ、」
 そこで漸く五十鈴は貴広の疑問の意図に辿り着いた。理解を示す様にぽんと手を打つ。
 つまりは、兄と弟と解り易く分けられているとは言えども、双子で年齢も立場も職業でさえも同じなのに、敢えて『兄』と呼ぶのは何故なのだと、そう言いたかったのだろう。
 「うーん…、何て言ったら良いですかね…」
 喉奥で唸って、五十鈴は頬を掻いた。貴広の疑問は理解出来る。世間一般では双子は互いに明確な上下差を持っていない事が多いとは聞いた事がある。書類などでは法律に基づいて兄や姉と弟や妹と序列が付けられ区別されているが、実際の所、双子間でそれらの序列に基づいた差別化がされている事は、跡継ぎの問題などで敢えてそう育てられていない限りは、余り無いと言う。
 伊勢と五十鈴は、孤児であった為に己の明確な出自を知り得てはいないが、一卵性双生児である事は遺伝子検査で確認されている。つまりは紛う事なき双子であり、カンパニーの戸籍データ上でも同一の胎から同一の出生日に誕生したと記されている。
 大気を制御する異能を双方共に持ち得ているのは勿論、容姿や声、体格もよく似ている。その為に慣れぬ者は二人の区別を誤る事もある。
 そこまで相似形であるのならば、確かに貴広の疑問は尤もだとは五十鈴とて思う。だがどうしても五十鈴は兄の事を直接に『伊勢』と呼ぶ気には余りなれないのだ。拘りや主義主張と言う程ではなく、単純に習慣的に。
 「多分、色々と考えや理由はある筈なんですけど、一番に答えとして値しそうなのは、本当の名前ではないから…、でしょうね」
 我が事ながらどこか他人事の様な言い種になった。貴広も五十鈴のそんな、妙に客観的とも言える物言いが気になったのか。無言の侭に先を促す様に見つめられて、五十鈴はゆっくりと言葉を探した。
 「伊勢も、五十鈴も、カンパニーの養成所に拾われてから与えられた名前なのですよ」
 ご存知とは思いますが。そう付け足すのに貴広は軽く顎を引いて頷いた。己を指す名を識別名として与えられる。これは伊勢と五十鈴に限らず、情報部では珍しくもない事だ。何しろ素性の知れない孤児や、名前も呼ばれぬ内に親に売られた子供を積極的に集めて、エージェントとして教育している様な部署なのだから。
 無論中にはデータに裏付けされた己の名前を正しく持つ、或いは記憶している者もいる。神崎貴広もそんな一人だ。
 ただ、このPIXIESと言う過酷な淘汰を生き延びたエージェントたちの集まる部隊では、名を知るも知らぬも、何の意味も為さない。出自が判然としているも、いないも、幸も不幸も無い。ただ実力だけがものを言う世界なのだ。
 ここでは名など、互いを認識する為のものか、墓碑銘に刻むものか。その程度の意味しかない。故に同僚の誰もが、『自分』の名前と言うものに然程に拘泥しない。
 「確かにそれが自分を指す名称と言う認識では勿論居るんですよ。だけど、それ以前の自分たちを、僕たちは、当たり前の事ですけど知っているんです。親が付けたかも知れない本当の名前なんて解りませんし、伊勢と言う名は確かに兄さんを指すのですけど、何だか慣れないと言うか…」
 また少し考えながら、五十鈴はそれなりに慎重に言葉を選んだ。別段、名前が無い事も知らない事も、カンパニーに因って運命の筋道を決められた事も、不幸とは思っていないし、なる様になって来た結果だとしか思ってはいない。故に感傷はないし、牽強付会に過去の事物に無益な感慨や意味を見出すつもりもない。
 語る、その事自体には五十鈴は別段何とも思っていない。ただ、問いを投げた貴広が万一にでも気にする様な事があったら悪いなと思っただけだ。何しろこの上司はこと任務に於いては冷徹で合理的なのだが、存外に部下や仲間への情は深いのだから。
 伊勢と五十鈴の出自は、世界の終わった日と言われる、Jesus and Mary Chainの頃である。それ以前なのか以降なのか詳しい事は憶えていないし解らないが、兎に角生まれて間もない内に孤児院に引き取られて育ったらしい。当時は、未曾有の大災害の後で世界中が社会性や秩序を失い荒れ果てていたから、同じ様な境遇の子供は珍しくなかったと言う。
 そんな風にして世界に増加した孤児たちを、社会奉仕活動の名目でカンパニーは集めたり、買い上げたりをした。そして『才能』のある者を選り分けて養成所へと送る。その基準に漏れた者たちがどうなるのかなど、誰も気にする事はない。
 取り分け情報部がエリートとして育成しようとしていた子供らは、性別や年齢や人種に関わらず、有無を言わさずに同じ様な境遇の者で構成された、生存競争と言う淘汰の中へと放り込まれた。それは非人道的ではあったかも知れなかったが、合理的な手法であったのだろう。
 他に寄る辺の無い子供らは、与えられた命題と己の生存と言う事のみを頼りに生き延びようとする。人の本能と言うものは侮れやしないのだと、五十鈴も散々に思い知って生き延びて来た一人だ。
 「元々、孤児院に居た時も、本当の名前なんて持たない子供が多かったですし。それでも人数ばかりは多いものだから、皆数字をもじった名前で呼ばれていたんですよ。ですからその頃は名前と言うものを記号の様にしか感じられていなかったんでしょうね」
 言って五十鈴はどうでも良い事であると示す様に肩を竦める。孤児院での記憶など殆ど無いし、思い入れが何かある訳でもない。その頃の記憶で憶えているのは、双子の兄の背中と、掌の温度ぐらいのものだ。
 あの時代の子供は、未来への希望などと言うものを持たされていなかった。一人一人に愛情を注いで育ててくれる様な余裕など、大人たちの誰にも無かったのだろう。金銭的な事情に於いても、精神的な面に於いても。
 何しろ世界の滅んだ日を越えた、『先』の日々だったのだから。滅んだ後に何が生まれるとも、誰も期待などしていなかったに違いない。
 故に、特別虐待される様な事もなく、可愛がられる様な事もなく、ただただ狭い世界で各々が、自分たちの為だけに必死で生きていた。
 あの頃同じ様にしていた子供らは何処へ行ったのだろうか。顔すら知らない、仲間意識すらない、単に同じ場所に居ると言うだけの子供たちは果たして、無事に大人へと成長出来たのだろうか。
 「僕は幼い頃ちょっと体が弱かったんですよ。そんな子供、本来なら淘汰されて然るべきだったんでしょうけど、何かと面倒を看て護ってくれた兄さんのお陰で無事生き延びていられたんです。ですから僕は孤児院の人にと言うより、兄さんに育てられた様なものだったと言えるかも知れません」
 殆ど曖昧な記憶でしかないが、煤煙にやられ度々咳き込んだり寝込んだりしていた幼い五十鈴に、伊勢は同い年だと言うのに、親鳥の様に振る舞ってくれていた。足手まといと切り捨てるのは容易だったろうに、決してそうしなかった。
 それが、双子や家族と言う関係性に因って生じたものだったのか、それとも誰かを庇護する事で伊勢自身の生存への意思を強めていたのかは解らないが。訊いてみようとも思わない。確かなのは、双子の兄がそう在ってくれたと言う事だけだ。
 「ですから、僕にとって伊勢は『兄さん』なんですよ。この名を与えられるより以前から、そう呼び続けていたから。そう在り続けていたから。双子で、同じ年齢であって、同じものから双つに分かれた、よく似た存在であっても」
 五十鈴の話を黙って聞いていた貴広は、その解答で納得した様であったが、踏み込み過ぎて仕舞ったとでも感じたのか、深々と頷いた侭視線を下方に落として仕舞った。
 貴広にそう思わせない為に殊更に軽く言ったつもりであったのだが。五十鈴は澱みかけた空気を払う様に、貴広へと笑いかけた。
 「養成所では別々のグループに振り分けられていたんですけど、その数年で僕は病弱なんてすっかり克服しちゃっていて、再会した時に兄さんは暫く習い性で世話を焼きたがって、正直困ったものでした」
 軽い喉奥の笑い声に、誘われる様にして貴広が俯かせていた顎を持ち上げる。僅かに寄った眉の下で、困惑を示す様に目蓋が幾度か上下した。
 「……伊勢(あいつ)の過保護さはひょっとしてそこから来ているのか?」
 「…かも、知れません。僕の面倒を見なくて良くなった反動が隊長に回ったのだとしたら、ちょっと申し訳ないですけど」
 「………」
 単に、対象に関わらず面倒見が良いと言うだけの性分として培われただけの事なのかも知れないが。ともあれ五十鈴のそんな戯けた調子で紡いだ結論に、貴広は追求も解答も探すだけ無駄と判じたのか、そっと息を吐くと膝上に乗せていたファイルを開いた。お喋りはもう終わりと言う事らしい。これ以上特に続ける気も無かった五十鈴も、貴広の動作に従ってタブレットに視線を落とす。
 そうして何十分か経過して、漸く目的の資料を発見した貴広は、五十鈴に礼を言うと元通り封をした段ボール箱を持ち上げ立ち上がった。
 「資料室までお手伝いしましょうか?」
 「いや、いい。休みの所に悪かったな」
 少し申し訳なさそうにそう言う貴広に、「そんな事を気になさる必要、ないのに」と笑って言いながら、五十鈴はせめて部屋の扉ぐらいは開けようと、貴広の前へ回り込むとドアノブに手をかけた。
 「五十鈴…、」
 「はい?」
 どことなく躊躇いのある呼び方だった気がして、五十鈴が真っ直ぐに振り返ると貴広は、難題に直面した学者か何かの様に、眉間に皺を寄せていた。何かを思い倦ねる様に喉奥で小さく唸って続ける。
 「…と、呼ばれるのは好きではないのか?」
 そう口にしたものの、それが余り実用的な問いではないと言う事に気付いたのか、貴広の眉間の皺が深くなる。ドアノブから手を離した五十鈴は、気にする事はないと示す様にひらりと手を振った。
 「いえ。言ったでしょ、それが自分を示す名称である事はちゃんと理解しているんです。それに、隊長が僕と言う存在をそう認識して呼んで下さるのであれば、次郎三郎でも八幡太郎でも、何と呼んで下さっても構いませんよ?」
 「……そう言う問題でもあるまいに」
 笑んで言う五十鈴に、貴広はそう呆れた様にかぶりを振った。大体の場合で貴広の言う事を肯定して仕舞う、五十鈴には言うだけ無駄だと思ったのだろうし、五十鈴としてもその方が良かった。
 結局五十鈴の言い種をいつもの戯れめいたものと捉えたのか、貴広はそっと肩を竦める。それから両手で抱えた重たい段ボール箱を持ち直す様な仕草をした。促されていると感じた五十鈴は慌ててドアノブに手をかけた。
 「邪魔をしたな」
 「隊長」
 自分で、余りらしくはない事を口にしたと言う自覚はあったのだろう、そそくさと立ち去ろうとしていた貴広の背に向け声をかける。果たして貴広は、嫌そうな顔はしていたものの素直に足を止め、呼び止めた五十鈴を振り向いた。
 「確かに、兄さんのそれも、僕のそれも、後から与えられたものであって僕たちの『名前』では無いのかも知れません」
 伊勢と、双子の兄をその名で呼ばないのは、五十鈴にとっては彼が『伊勢』である事よりも、家族であり『兄』である事を習慣的に思っている故にだ。そこにはそれ以上の理由はない。
 解り易く貴広の表情筋が固くなる。彼が何か口を開こうとするのを制して、「ですが」と五十鈴は続ける。
 「問題が無ければどうぞ、五十鈴と今まで通りに呼んで下さい。隊長がその方が良いと思われるのであれば、この識別名(なまえ)にも充分過ぎる程に意味があります」
 ここでは『名前』など単なる記号だ。だが、不確かな記憶以外に何の証明も持たない自分たちを、そう名付け、定義付け、呼んでくれると言うのであれば。
 (それが、記号ではない、五十鈴と言う僕を表す、唯一の名前になる)
 ふっと、気の抜けた様な微笑を向けて、五十鈴は貴広を見つめた。社員寮の廊下。扉の前に佇む己と、呼ばれ足を止めただけの上司。これは何か特別な場面でも記憶でも、恐らくは値しない様なものでしかない。日常の風景かそれ以下の、ただの一場面。
 それでもこれが──この一瞬が、そこに生じた些細な意味が、貴広の永い生にほんの僅かでも痕を残してくれたらと願わずにいられない。
 (貴方に、名を呼ばれるだけで歓喜出来る程に、心の底から慕う者が居たと言う事を)
 ただ微笑を向けるだけの五十鈴をまじまじと見返して、貴広は目を暫しの間游がせてから、陰気のこもりそうな調子で呟いた。
 「………まぁ、お前がそう言うのであれば構わんが…」
 五十鈴はそんな上司を抱きしめて頭や背でも撫でてやりたい心地に駆られるが、ここは社員寮の廊下。日常であり公でもある空間だ。そんな狼藉が許される筈もない。だから、延べられなかった手の代わりに、意識して笑みを深めた。
 「隊長は、僕だからそう言うのだと思うのかも知れませんけど、兄さんに──伊勢に訊いても同じ答えが返りますよ」
 双子だからこそそう思うのか。判然とはしないが、確信を込めて言う五十鈴に、貴広は殆ど微笑みとは解らない程度に口端を動かして、今度こそ背を向けた。
 
 *
 
 カンパニーの戸籍を取ろう、と言い出したのは兄だった。
 その頃の孤児院は、支援が幾らあろうが足りない程に孤児を抱えていたし、その子供らを育て上げて社会へと送り出す術すら不確かな状態にあった。
 何しろJesus and Mary Chainと称される災害の日は、世界と社会のあらゆるシステムを各地で同時多発的に崩壊させて仕舞ったのだ。叡智も道徳も歴史も停止、或いは消失したその先を生きる者らは、人間性でさえ問われる程の変容を受け入れるほか無かった。
 孤児院は、大災害の直接の影響こそ受けていなかったが、被害の酷かった近隣の国から押し寄せた膨大な数の難民と、それに乗じた犯罪などに因って、政府もまともに機能出来ていない状態の元で辛うじて運営されていた。そんな所でまともな生活を送れる筈もない。
 兄は咳き込み伏している事の多い五十鈴の横で、子供なりの視点で現状の生活を観察し続けたのだろう。或いは大人の話を聞いて思考の足しにしたのかも知れない。
 当時の双子の年齢は、正確には解らないがまだ十歳にも満たない頃だった筈だ。様々な復興の為の活動が世界各地で行われ、少なくとも世界の一部での秩序は大災害の傷跡から少しずつ蘇りつつあった。
 取り分けカンパニーの復興支援は大規模なものが多く、世界中にその影響力を更に広めつつあった頃だ。
 そうして出した結論が、孤児院を出て国境を越えてカンパニー首都へ向かうと言う事だった。
 辿り着いたカンパニー本社の、ジオフロントと呼ばれるスラム街に身を落ち着けたは良いが、ただの貧民街の孤児が籍を取る事は容易ではなく、異能を用いた窃盗などで何とか糊口をしのいだ。
 双子は社会と言うものに適応すべく、様々なものを見て学び、己の能力の扱い方を熟知し研鑽した。
 その後、決定的な犯罪行為に手を染めるより先に、カンパニーの、孤児狩りを目的としたスラムの摘発に捕まった。一見して社会福祉活動の一環としか思えないそれは、カンパニーにとっては使い捨てても問題のない様な兵士を養成したり、そこから才ある者を見出す為の活動でもあった。
 異能を持つ双子はカンパニーの育成部に興味を持たれ、直ぐにレベルの高い養成所へと引き上げられ、そこで五十鈴は兄と別々のグループに分類された。家族や兄弟を共に生存競争へと放り込むのは意味が薄いからだとは、後から知った事だ。
 年頃も民族も思想も目的も、何もかもが異なった子供たちの生存競争は熾烈で。五十鈴は病弱と言う甘えを脱して生きる事に専念する事を余儀なくされ、そうする内に病を克服していた。
 恐らくは、偶然と言うよりそれは必然に近いものであったのだろうと、今となってはそう思う。
 兄と己の持つ異能が、軍事力と数えて良いレベルのものであった事実を前にすれば単純に、生存出来た事には奇跡以外の厳然たる理由が存在していたのだと、薄らとだが理解は出来ていた様に思う。
 (そうして、己の身がカンパニーの兵器の一つであるのだと定義するのとほぼ同時に、)
 双子は──神風の伊勢と、神風の五十鈴は、PIXIESと呼ばれる部隊に配属され、神崎貴広と言う唯一無二の化け物と出会ったのだ。
 
 *
 
 「…まぁそんな訳でして。つまりは、隊長にお会い出来た事も、その指揮下に付けた事も、何もかもが僕たちにとっては僥倖であったと言う事なんです」
 「…………」
 資料室の脚立に腰掛けてにこにこと喋る五十鈴の顔をうんざりと見上げて、貴広は溜息にもならない息を吐き出した。
 結局あの後、資料室に戻ったついでに少し片付けておくかと思った所で、五十鈴が後を追ってやって来た。オフィス棟に立ち入るからか、休日だと言うのに私服もしっかりとスーツに着替えている。いつも通りどこかゆるそうななりではあったが。
 それで、何をしに来たのか、仕事でも手伝うつもりなのかと思った貴広であったが、どうやらそのついでに話をしたかったらしい。
 ファイル捜索で少々散らかった資料室を片付ける貴広の作業を積極的に手伝いながら何やら、思い出話にもならない様な、掻い摘み過ぎて気の抜けた話をつらつらと彼は語った。
 貴広的に要約すると、詰まる所、双子共々に貴広を上司として仕えられたのは最良であったと言う主旨の内容である。他ならぬ自分の事を眼の前で惚気られると言うのは、気恥ずかしい様な呆れる様な、実に妙な心地になるものであったと追記したい。
 だから、呼び方など気にしないで欲しいと言うフォローのつもりなのか。貴広は己の、失言と言う程でもないが、変な問いを──識別名を呼ばれるのは嫌いなのかと言うあれだ──投げた事を少々後悔しつつも、その事を楽しげに語る五十鈴を、彼の座る脚立の下で、適当に相槌を投げつつ聞いていた。
 双子とは異なり、貴広にとっては唯一の、己を『己』であると定義出来る記憶であり、寄る辺であり、持ち物であったものが、神埼貴広と言う自らの名であった。だからなのか、呼び名と言うものを記号として扱うと言うのはどうにも気が引けたのだ。
 「これが最後の箱だな。三段目の空いた所に頼む」
 「はい。右側ですね」
 外から見て解り易い様に、注釈を書き添えたラベルの新たに貼られた、一抱えほどの箱を持ち上げて言う貴広に、頷いた五十鈴は箱を軽々と受け取って棚へと押し込んだ。
 これで終わりだと、少し埃っぽい気のする手を叩いてみせる貴広を相変わらずにこにこと見つめながら、脚立から降りた五十鈴は「お疲れ様です」と微笑んで言う。
 非番の日に、業務外と言ってよい雑事などを手伝って、それでも彼は心底に楽しそうにしている。
 どうしてだ、と問うのは、伊勢を兄さんと呼ぶのは何故だ、と訊いてみるよりは遙かに簡単だっただろうが、貴広はその疑問をどうでも良い事かとすぐに忘れる事にした。
 そうでなくとも、きっと答えなど昔から知っていた。PIXIESが実働可能な部隊として本格結成した時から、伊勢であろうが、五十鈴であろうが、どちらも貴広に対して変わらぬ敬意を払ってくれている。
 好意やら説教やら過保護やらを常に全力で表現されると困惑の方が上回るが、信頼の確実における存在であって呉れると言う事は、何かと敵の多い貴広にとっては酷く有り難いものであった。
 忘れないように避けて置いておいた、発端の資料ファイルを拾い上げようとしていた貴広の背に、何処かへ適当に脱ぎ捨てていたスーツの上着がそっと掛けられる。
 「…さて。俺は仕事に戻るが、お前はどうする」
 すまんな、と言うジェスチャーを向けつつ上着に袖を通した貴広がそう問うのに、五十鈴は気の抜けた笑みを浮かべて返す。
 「どうすると思います?」
 「………まぁ、好きにしろよもう」
 「はい、好きにさせて頂きます」
 仕事だろうが資料室の整頓だろうが、五十鈴にとっては然程に関係がないのだろうと思って、貴広は溜息をついた。
 彼らの拘泥する事のない、呼び名と同じだ。五十鈴にはきっと、貴広の居る場所が己の身の置き場なのだろう。彼の言葉に拠れば、伊勢もそれと同じだそうだが。
 酔狂な連中だと思うのと同時に、それも当たり前の事なのかも知れないとも思う。
 何しろここは化け物たちの世界だ。人の分際を超えたこの化け物に添おうとする者など、同じ化け物以外には、きっと居ない。
 値しない者には、同情や畏れしか無い。だから、普通に生きる事にすら苦心するのだ。
 「では行こうか、五十鈴」
 貴広の鉄面皮に浮かんだその表情は常よりも幾分皮肉気な笑みであったが、それを向けられた五十鈴は「はい」と目の縁までを穏やかに細めてただ、応じた。





双子の過去は完全妄想捏造。
双子の口調や呼び方には未だに躊躇いが物凄くある訳なのですが…、(言い訳)
双子の同一意識は(取り分け隊長を挟むと)結構に強いので、上を指す意味での兄ではなく、「兄」と呼んで「伊勢」と読むと言うか、もう「兄さん」なのが呼び名そのものになっていると言うか。そんなイメージ。
六天の名前は貴広以外は皆名字も無い異名みたいな扱いだし、全員偶然にも艦船名だったとか流石に無いだろと言う事で、識別名称と言う事にこれまた勝手にしてます。

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