無題#1 ※モエかす真霧島ルート、12月15日の五十鈴との通信の前妄想と言うだけで、内容なんてものは無いです。 ========================= 歴史のある町並み、と言えばそれなりに格好の付く呼び方だが、要するに発展と変革から外れて仕舞った地域の事である。少なくとも五十鈴はそう思っている。 欧州地方にある、嘗て某国と呼ばれた国だ。今も一応その国名を保ってはいるが、実質近隣の大国に吸収されて従属している国家であって、その築いて来た歴史も権威も今ではおとぎ話程に遠い昔の事だ。 その大国はカンパニーにとって数少ない有力な対抗勢力であり、表立っては争う気配は見せない侭数十年を保って来ているが、昨今では国内に国家に対する叛乱勢力がちらほらと現れ始めており、情勢は些かに焦臭い。 その動きもカンパニーの工作の一つなのだが、それを解っていても全ての民衆を統制する事は難しい。況して、大国とこの国とは建国の経緯から元となった民族、果ては宗教まで、何もかもが異なるのだ。火種などいつでも簡単に放り込める。 そんな焦臭さの水面下で動く都市だが、少なくとも表向きは平和なものであった。嘗ての国の名を憂国の大義名分に掲げる、叛乱勢力の多く見られるこの地域は旧市街と呼ばれる一帯で、古いものになると百年ほど前のアパルトメントがひしめき合う場所だ。機械的に作られた建築物には古き良き趣など無く、正しく発展の陰に置き去りにされた印象を見る者に与える。 戦時中に車輌や戦車の往来であちこちが痛んだ石畳。その上で開かれている市場を五十鈴は歩いていた。褪色した空色のコートを翻して、それ一枚を重ねただけでは厳しくなって来た寒さに目を眇めて、小さくくしゃみを噛み殺す。 市場には様々なものが販売されているが、その殆どが雑貨や保存食だ。大昔は野菜や果物と言った生鮮食品がこう言った場所で売られているのが普通だったと言うが、この時代新鮮な生鮮食品は貴重だ。その為に市場の風景は単調で景気の悪い色彩で彩られ、そこに街の陰鬱な景観も併せて、如何にも貧しい者のひしめく地域の様に見せている。 実際主立った住人は中流程度の人々で、家もない様な孤児や浮浪者の姿がある訳ですらないのだが。 (まぁ、見た目からして陰鬱と言えば陰鬱な地域だからなぁ…) 時折吹く冷えた風に少し首を竦めた五十鈴は、市場の幾つかの店で缶詰や乾物を購入した。寒くなると外に出るのが億劫になるし、それ以前に本来ならば余り表をふらふらと歩いていて良い様な立場でもないのだ。保存の利く食料はいつでも一定数置いてあっても困るものではない。 首尾良く用事を済ませた五十鈴が帰路につこうとしたその矢先、スマートフォンが着信を知らせて来た。後ろポケットに入れてあった薄い板状のそれを取り出して画面に視線を落とすと、着信の正体は音声通話だった。発信元は──UNKNOWN。不明だ。然し五十鈴は躊躇う事なく受話操作をするとスマートフォンを耳に当てる。 「はい」 《久しぶりだな、五十鈴》 一言だけの応えに返ったのは、良く聞き慣れた声だった。拍子抜けした五十鈴は肩を竦めると歩を再開させた。周囲を注意深く、然し不自然ではない程度に見回すと、人通りの少ない道を選んで歩いていく。 「何だ、兄さんか。久しぶり。珍しいね、直接連絡を寄越すなんて。何かあった?」 《相変わらずだが、ここ暫くは特に目立った事は無い。暗殺騒ぎも無い。平和なものだ》 不明の発信人の正体は、何をどうした所で五十鈴が最も間違える筈の無い相手──双子の兄の伊勢である。十年前に同時にカンパニーを出奔して以来、互いに分かれて行動しているから直接会う事も滅多に無く、最後に直接顔を突き合わせたのもかれこれ何年か前に遡るだろう。 伊勢の居所は十年前から殆ど変わらない、大国の大都市だ。カンパニーと半世紀以上は軽く対立している国の情報部は、伊勢がそこに潜伏している事ぐらいは掴んでいるやも知れないが、わざわざカンパニーに表立って離反した元エージェントに、しかも極めて危険度レベルの高い者に手を出す必要はないからか看過されている。 一方でカンパニーが伊勢の居所を掴んでいるかは不明だが、掴んでいたとしてもまず手は出せまい。人口の多い都市部に大量殲滅用の核爆弾でも落とすつもりでなければ、伊勢を殺しきる事は難しい。そしてそんな事をしたら当然表立って戦争が始まって仕舞う。 目立った叛逆の動きでも無い限りは、カンパニーはそう言った強引な手段は取るまい。故にちまちまとした暗殺騒ぎなら偶に起きる様なのだが、伊勢の口ぶりから言っても取り敢えず現状はそう言った危機的状況下にはない様だ。 さて、そうなると何ヶ月や何年も声すら聞く事の無い事も珍しく無い、この双子の兄が珍しくも直接電話回線で連絡を寄越した理由とは何なのか。 《それより、指令だ。直接伝えた方が早いと思ったからな》 首を傾げつつ続きを待つ五十鈴の耳に、少しばかり懐かしい気のする響きが飛び込んで来た。「指令」思わず鸚鵡返しにすると、電話口の向こうから直ぐに答えが返る。 《隊長からだ。衛星回線で先程届いたんだが、手は空いているな?》 続けられた言葉に、意識せずとも眉が寄るのが解った。五十鈴は、見えないと解っていても思わず首肯の動作をした。頷いたその侭の姿勢で、気取られない程度に小さく息を吐く。 (やっぱり隊長が真っ先に頼るのは、兄さんか…) 一応嘗ての部下五名の居所は常に把握している筈の上司なのだが、行動を起こす際や、相談事があると、まず五十鈴の兄である伊勢の元へと連絡が行く。嘗ての右腕として話がし易いとか、五十鈴含む他の四名と違って大体居所がはっきりしているとか、そう言った事情もあるのやも知れないが。 「隊長から…?勿論こっちは何の問題もないけど…」 《…いちいちふて腐れるな。場所的にも内容的にもお前が一番適任だと判断した。指令のメールをその侭転送するから、委細確認の上任せた》 流石に双子の勘と言う奴なのか、五十鈴の僅かの声の変化から、何を考えているのかを察したらしい。溜息混じりに言って寄越す伊勢の聡さに、内心舌を巻きながらも五十鈴は軽く笑って言う。 「了解。隊長の命令なら何よりも優先するし、別に今更ふて腐れてもいないよ」 ふ、と電話口の向こうで兄が笑う気配を感じた所で、五十鈴は通話を切った。通常の電話回線での長電話は傍受の可能性を考えると危険なのだ。 沈黙したスマートフォンを見下ろして、五十鈴は先頃より少し急く足取りになった事を自覚しながらも思考の片隅で考える。 (それにしても、隊長が衛星回線経由で指令……お願い、かな?を寄越すなんて、ここ十年で初めてな気がする…。最初に聞くのが兄さんである以上、恐らく、としか言えないけど。それだけ火急と言う事なのか…) 風雨などの経年劣化に因ってあちらこちらの老朽化したアパルトメント群の一つに、慣れた足取りで五十鈴は入って行く。昔は鮮やかだったのかも知れないエメラルドグリーンに塗装された階段は、今は色褪せて、古い建物の風景と相俟って妙な趣がある。そんな階段を足早に上りながら、五十鈴はスマートフォンを操作してメールを開いた。そこには非常に複雑な文字列や数列が並んでいる。 (暗号の侭か…。まあ当然だな) 歩きながら解読をするのは流石に骨が折れる。五十鈴は一旦スマートフォンを後ろポケットに戻すと、昇降機などない古い建物の、六階までを階段で上り終えた。ここまで行くと人付き合いのある様な老人や子連れと言った者は居住するのには選ばないので、同階の住人たちは互いにその顔も知らない若い者ばかりになる。 自分の居住する部屋の扉に立つと指を扉と壁との隙間に押し当て、部屋を出る時に仕掛けておいたストッパーがその侭である事を確認してから、鍵を開けて部屋に入る。念の為に入り口に立って見回すが、部屋の様子は先頃出た時のそれと全く変わりはない。 そこまで慎重に観察してから、安全だろうと言う判断を漸く下した五十鈴は、リビングのテーブルに買い物を置くと、デスクの前の椅子に腰を下ろした。手の中に収めたスマートフォンを見下ろす。 (カンパニーの動きも、一斉粛正の火蓋が切られたと言う見方が強く、不穏な状況だ。そんな中で僕たちに連絡を取るなんて、隊長もかなりリスクを負っている筈だ…) 状況は楽観視出来るものではないかも知れない。五十鈴は背筋を正すと、伊勢から転送されたメールの、暗号文で書かれた内容の解読を始めた。 (ええと…、人捜しと、その安全の確保…?) 意外と思える内容に、五十鈴は眉を寄せて唸った。てっきり、自分の元への救援または本社の状況に対する調査か何かだと思っていただけに、少し拍子抜けする。 彼らの上司──正確には『元』上司だが──は、世界に於ける厄介な火種の一つである。火種と言うよりは寧ろ彼自身が火薬庫と言うべきか。ともあれ、いつ何時命を狙われてもおかしくないと言う意味では、伊勢や五十鈴よりも余程に危うい立ち位置に居る。そんな存在だ。 その為にこの一斉粛正と言う、隙を見せれば喰われるやも知れない状況に、危険を冒してまで連絡を寄越したのだから、何か余程の事があったのだろうかと、五十鈴は正直かなり身構えていた。だが、蓋を開けてみれば、まるで平時に聞く様な指令の内容と言う訳だ。 顎に手をやって、五十鈴はメールの文面を今一度じっくりと見た。指令の対象となっている人物の情報を確認する。 (霧島香織。2563号島の所長秘書を務める女性。以前隊長の言っておられた、有能だけど怖いって話の人だな…) 指令の内容は、簡単に言えば一人の人物の捜索と保護。対象人物は、現在2563号島で秘書職に就いていると言う、霧島香織。ニホンニア出身。女性。27歳。12月11日に本社へ向かったこの人物の安全を確保し、叶うならば保護をとの事だ。 (本社か…。この時期にどうしてまた) 指令には細かい経緯は書いていなかったが、恐らくは不本意な形でこの霧島香織と言う人物は本社へ向かう事になり、四日経過した現在、まともに連絡がつかないとかそう言う状況にあるのだろう。だがそれは現状の本社の状況を思えば当然であるとも言える。それ故の「安全の確保」「叶うならば保護」と言う事なのだろう。 数日前に、事故を装った形でカンパニー取締役会の重役が暗殺された。以来本社の様子はと言えば、世界の何処よりも剣呑で焦臭い状況にある。取締役会とて全くの一枚岩では無いだけに、粛正部隊の軍事的活動は、譬えどんな名目があったとして問題視される筈だ。 一方でLABは相変わらず事を静観している様で、目立った動きは無いと言う。 そんな時期に女性が一人で本社のある地域に向かって、果たして無事で居るのかと言う事を考えると可能性としては限りなく絶望的に近い。 (この人が到着してから、タイミング悪く粛正の動きが活発化したのは果たして偶然だろうか…) 元情報部と言う職業柄かそうつらつらと少し考えてから、立ち上がった五十鈴は衣服の隠しから小さな円形のバッジを取り出した。机の上に一旦置くと、続けて部屋に備え付けのクローゼットを開く。中に吊してあるダークグレーのスーツに手際よく着替え、更にクローゼットの中に隠す様に置いてあったゼロハリを引っ張り出した。二重底になった中から小型のラップトップPCを取り出す。 それを小脇に抱えてデスクに取って返すと、まずはバッジをスーツの隠しに慎重に収め、それから五十鈴はPCを起動させた。椅子には座らない侭、幾つかの偽装サーバ経由をしてから、カンパニーの人事ファイルに──当然ながら違法に──アクセスし、目当てのデータと一緒にランダムに何人かの情報を選んでそれらの詳細をダウンロードしてから接続を切る。 そうしてからダウンロードしたファイルを解析して、必要な情報だけを掻い摘んで頭に叩き込む。 大体のデータは指令にあった通りの内容だったが、写真は初見になる。人物を捜索する上で最も重要なのは矢張り人相だ。五十鈴は、年齢の割には大分幼い顔立ちと体型をした、霧島香織と言う女性の容姿をしっかりと記憶した。女性は化粧や服装や髪型の変化で大分印象が変わって仕舞うので、特徴のある部分や、変え難い特徴を特に注意しておく。 一連の作業に要した時間は僅か三十分にも満たない程度。五十鈴はラップトップを畳んでゼロハリに仕舞い、スマートフォンは胸ポケットへと滑り込ませると、部屋を施錠して足早に階段を上った。まだ午前中だからか、特に誰とすれ違う事もなく屋上へと出ると、柵も何もないその縁を無造作に蹴って空中へと飛び出した。 もしもこの瞬間の五十鈴の姿を見る者があったら、自殺にしか見えなかっただろう。然し誰も目撃者のいない中で、五十鈴の体は気圧の操作に因って起こった、上昇気流の様な風に乗って空を文字通りに『飛び』、高度を上げて忽ちに加速した。 これが、『神風』と呼ばれる双子の異能である。五十鈴の身は気圧や温度変化の影響一つ受ける事なく、真っ直ぐに目的地に向かって行った。 * 十年前、カンパニーの情報部には世界最強として育てられたエージェントを集めた部隊があった。 特殊情報課伊部隊『PIXIES』。三十六名の選りすぐったエージェントで殆どを構成されたその部隊は、正しく世界最強を冠される存在として、カンパニーの陰に日向にと活動を行っていた。 隊長であり、序列第壱天である神崎貴広を筆頭に、六天と称される者らが名を連ねる、正しく世界最強の特殊部隊。彼らは何れも単独で軍事力とカウントされる程の規格外の実力者であった。 第弐天『神風』の伊勢。同じく第参天の五十鈴。神風兄弟と呼ばれる双子もまた、PIXIESに在籍し、世界にその名を轟かせる程の存在であったのだ。 然し十年前にPIXIESは、神崎貴広の力と右足の喪失と共に徐々に解体の道へと進んだ。そして、貴広に付き従う事を選んだ六天は、受理されない辞表を放り棄てて、即座にカンパニーより逃走したのである。 無論立派な反カンパニー罪に当たる者として、貴広以外の六天は全員例外なく、現在もなお追われており、時に暗殺の警戒をもしなければならない状況にある。 然し暗殺や捕獲が悉く失敗したと言う経緯からも、カンパニーは一時的に六天を、表向きは追っているものの、大っぴらな活動をしない限りは放置せざるを得なくなった。要するに彼らの付き従う対象である、神崎貴広を確保さえしておけば、彼らが貴広の奪還にでも動き出さない限りは問題はないとみなしたのである。 そして現在の所、貴広にはカンパニーに叛逆すると言った野心は無い。 力を失って只人となった上司に付き従い、世界最強の称号や名誉を棄て、十年を無為に過ごしている様に見える彼ら六天を、愚かだと嘲る声は多い。 だが、そう言われる度に五十鈴は思うのだ。誰も、あのひとの事を何一つ解ってはいないのだと。 神崎貴広。世界に五人しか存在しない、ナーサリークライムと呼ばれる、恰も神が人の肉に無理をして収まっているだけの様な、絶対的な存在の一人。 力を失ったと言われ、遙か南洋の2563号島へほぼ幽閉の様な形で左遷され、今は大人しく無害な昼行灯として引退を決め込んでいる、そんな男は、十年前から変わらずにずっと、カンパニーにとっても世界にとっても、嵐の前の静けさの如き存在で在り続けていた。 当人の意志など、置き去りにして。 * 大きな主要都市に出た所で、地上に降り立った五十鈴は雑踏に紛れて自然な足取りで空港へと向かった。 (それが隊長からの指令なら何よりも優先するのは間違いないけど…、この時期に本社の、それも無法地帯であるジオフロントが目的地とはね…) 一斉粛正の主立った動きはカンパニー内部で起きている事であり、少なくとも見た目では都市の治安に影響などが出る様な事にはなっていまい。だが、そんな上の事情とは無関係に、年中無法地帯であるのがジオフロントと言う場所だ。伊勢と五十鈴は幼少期をそこで過ごした事があるだけにその事情についてはよく知り得ている。 そんなジオフロントに、外見は幼ささえある、妙齢の女性が一人で向かった。その行為自体が既に危険を通り越して自殺行為に近いものがある。 だから恐らく、霧島香織と言う人物が本社へ、ジオフロントへ向かったと言う事自体がそもそも、貴広にとっては已むを得ない様な、不本意な事であったのは想像に易い。貴広でなくとも、ジオフロントの事を少しでも知っている人間であれば同じ事を言っただろう。 だが、霧島香織は貴広の言葉を聞き入れずにジオフロントへと向かったのだろう。そこにどの様な事情があったのかは、2563号島の現状の情報を全く知り得ていない五十鈴には推理も妄想もしようがないのだが、とにかくそこに折り悪くも一斉粛正と言う報が入ったのだろう。 故に貴広は彼女の身を案じ、危険を承知でPIXIESを動かす事を決意した。 (そもそも霧島香織がジオフロントへ向かったと言う事は、そこに何らかの目的があったと言う事だ。更に付け加えるなら、その目的を達成出来る何かしらの勝算があった。 …これは、見た目の侭の様な人物だとは思わない方が良さそうだな…) 写真で記憶した、幼い少女の様な顔立ちをした霧島香織の姿を思い出してみる。 ジオフロントに務めるなり、暮らした事なりがあって伝手でも利くのだろうかとも考えたが、先頃斜め読みした霧島香織の経歴は絵に書いた様なエリートコースの歩みであった。どうあってもジオフロントに関わった事があるとは思えないし、友人が居るとも考え難い。 因って、五十鈴が真っ先に感じたのは、違和感としか言い様のない感覚であった。霧島香織の経歴と、無理を圧して2563号島を出て来た事と、危険を冒してまで彼女の身を案じた指令を出した貴広と、そして現状と。どうにも噛み合っていない気がしてならない。 これは情報部の人間の習性か、それとも性か。五十鈴は到着した空港の便を確認しながらそっと溜息をついた。 (どうも厭な予感がする。念の為、隊長に連絡をするのは、打てる手を全部打った後にしよう…) 偽造IDで難なく飛行機に乗って、座席に腰を下ろす。スーツ姿で周囲に普通に溶け込む五十鈴を見ても、ただのビジネスマンにしか見えないだろう。元カンパニーのエージェントで、逃亡者であるなどと誰も思いはすまい。 席についた五十鈴はラップトップPCを取り出した。よし、と一つ小さく頷くとキーボードを滑らかな手つきで叩き始める。 (基本的な所は予め調べておくか。時間も惜しいし。ええと、12月11日の、南南部諸島を飛んでいた航空機は…) 簡単な幾つかの検索とハッキングとで、五十鈴の知りたい情報は程なくして大体が揃った。然し、肝心の解答がそこには全く見当たらない。眉をひそめる。 搭乗記録を全て確認した五十鈴は、そこに目当ての名が無い事を訝しみながら、続け様に陸路と海路とも検索した。2563号島からの直行便だけではなく、中央島ターミナルを経由するものも、全てを余さず調べ終える頃、漸く航空機が目的地への到着を知らせて来た。 航空機を降りる為にPCを閉じた五十鈴の表情は、珍しくも複雑に強張っていた。 (おかしい…。少なくともデジタルのデータ上では、どこにも霧島香織、ないしその特徴に合致する人物は全く引っかからない…。まるで、2563号島から出た途端、忽然と消えて仕舞ったかの様な──いや、下手をすれば島から出てすらいないかの様な…、或いは、) 薄ら寒いものを感じながらも、本社付近の空港に降り立った航空機から、五十鈴は他の旅客に混じって出て行く。監視カメラや警備アンドロイドの持つ顔認証機能は全て、隠し持っているジャミング装置を使ってデータにノイズを混ぜているからまず誤魔化せる。 カンパニーの特級の逃亡者である五十鈴が気をつけなければならないのは、機械的な警備システムよりも寧ろ、勤勉な人間の職員や警備員の方だ。そして人間の注目とは、当たり前の様に群衆に埋没して仕舞えば易々気取られるものではない。 難なく入国──否、立ち入りの審査を抜けると、まず五十鈴はごくごく自然な動きで空港のバックヤードへと侵入した。監視カメラ等光学機器の類はジャミング装置に加えて大気の屈折率を上手く調整すれば誤魔化せるし、余りに当たり前の様に歩く五十鈴の姿は、何人かの職員とすれ違っても全く気付かれる事はなかった。 そうして五十鈴はあっさりと航空局の事務室に立ち入ると、アナログで残されているここ数日の搭乗記録のファイルを勝手に拝借して目を通した。然し、予想通りにそこにも矢張り目的の人物の記録ないし痕跡の一切を発見する事は叶わなかった。 (……厭な予感が的中した、と言う事かな…これは) ファイルを静かに閉じた五十鈴は、元来た道を同じ様に平然と戻って航空局を後にした。 11日に2563号島に降りて、飛び立った航空機は一本の輸送便のみ。それに加えて、中央島及び本社のターミナルに降り立った全ての航空機、船舶、車輌を調査したが、何れにも霧島香織らしき人物の存在は確認出来なかった。念の為に前後二日も調べたが結果は同じ。他に可能性と言うのであれば、個人所有のヘリやボートと言った手段も考えられるが、何れも余り現実的ではない上、そもそもにして2563号島から貴広の確認したと言う、霧島香織の出立は航空便だ。便数まではっきりとしている。 何より、神崎貴広を隔離している2563号島への出入りは厳しく監視されているのだ。それをかいくぐった航空便が易々出て来るとも思えない。 つまり、出発時は確実に一つしか途が、選択肢が無い筈なのだ。 貴広が見た霧島香織の最後の姿と言う証言を信じるのであれば、その他に可能性は有り得ない。その先の分岐の可能性を幾ら潰した所で答えが発見出来ないと言うのであれば、最初が既に間違っている事になる。 飛び立ったと言う肝心の一便の行き先、経由地、何れにも霧島香織の存在を確認出来ない以上、その『最初の間違い』でさえも疑わねばならないのだが、貴広が伊勢に嘘の指令を送らなければならない理由は無いし、彼に限って間違いや勘違いを起こす訳もない。そうでなくとも五十鈴は、神崎貴広の言葉が正しいと言う前提を常に持っているのだ。 (隊長の目を、言葉を疑わなければならない様じゃ、そもそも指令が成り立たない。だからきっとこれは、隊長でさえも気付いていない様な事だ…) つまりそれは、思いの外に剣呑で、危険な可能性を考えねばならないと言う事になる。五十鈴はその事実に密かに膚を粟立てながら、空港を離れ市街地へと向かうトラムに乗った。 町中、ビル群の威容の中心に聳えるカンパニー本社を横目に見上げながら、ジオフロントに程近い市内のビジネスホテルに宿を取る事にした。非常口になるべく近い部屋を首尾良く確保すると、室内に入るなりラップトップを開いて机に向かう。 先頃調べた、11日に貴広の見た2563号島発、本社着の航空便の資料を細かく調べ、他に乗客のいない事を再確認すると同時に、搭乗員の個人情報を素早く頭に叩き込んだ。 ラップトップを閉じるとゼロハリに収納して、シャワールームの天井へと隠すと、五十鈴は非常階段を使ってホテルの外へと出た。先程のターミナルよりも本社に程近い空港へ向かい、目的の人物を捜し出す。と言っても探すのは僅か二人、それも何れもカンパニーIDを既にハッキングで入手しているので、職員の動きを監視する追跡システムを勝手に使って現在地を確認するのは容易な作業だ。 「あのー、すいません。ちょっとお伺いしたいのですが」 空港で航空機の整備をしていた、11日の便に作業員として搭乗していた人物を捕まえた五十鈴は、彼ににこやかに声をかける。 「え?」 振り返った男は、どうしてこの整備場にカンパニーの職員らしい人物がいるのか、一体何の用事なのか、と言う一切を曖昧な認識で捉えた事だろう。五十鈴に因る気圧の操作で聴覚の一切が奇妙なトーンの中に呑み込まれて現実感を喪失した中で、ただただ問われる言葉に機械的に記憶が答えを紡いで行く。 「……そうですか。ありがとうございます」 さらりと言った五十鈴が姿を消してから一分後に男は我に返ったのだが、既にこの数分間の記憶は頭から消え失せて仕舞っている。 五十鈴の得意とする催眠尋問は、記憶から直接喋らせる為に嘘はつけない。予め嘘の情報を本当と思い込まされていれば別だが、それ以外に於いては覿面の効果を弾き出すのだ。 もう一人にも同じ様に当たって、目的を遂げた五十鈴の表情は然しやはり優れない。困惑を深めるだけだった調査に溜息をつきながら、ホテルへと戻った時には夕方になっていた。 道中のコンビニで購入したサンドイッチを囓りながら、改めてラップトップに向き合う。 液晶画面に、先程調査した霧島香織の経歴などが表示される。それを幾度も読み返してから、五十鈴はPIXIES六天が独自に記録として残しているデータを、PCの中から検索した。これはオンラインに保存してあるデータではなく、貴広以外の六天各人でもそれぞれが保持している、PIXIES活動中の本社の主要データである。本社のデータはいつ改竄されてもおかしくはないと言う貴広の持論に因って、PIXIESは独自に過去のデータを保存していたのだ。その幾つかを解凍し、内容を慎重に確認していく。 「………」 三度。五十鈴は慎重に慎重を重ねて、違う手順でデータを確認し、それが間違い様のない事実である事を改めて確認した。そして確信する。 己の至った結論に対するあらゆる可能性を頭の中で組み立ててから、五十鈴は深々と溜息をついた。本来ならばこんな事は決してあってはならない様な為体であった。2563号島と言う南洋の孤島は、確かに彼らと貴広との距離であったのだと言う事実を痛感し、唇を噛む。 霧島香織はファントムレディだ。それが五十鈴の結論であった。彼女と言う人間についてのあらゆる情報は、十年前、貴広の2563号島赴任が決定したのとほぼ同時期に発生している。十年以上前のデータに霧島香織と言う人物についての一切が記録されていない以上、それは間違い無い。 そして更に、彼女は貴広の目の前で輸送機に乗った筈が、その搭乗員たちの記憶に一切痕跡を残す事なく姿を消した。その上、2563号島から本土へ渡るには必ずターミナルを通過する必要があると言うのに、以降あらゆる記録に彼女の存在は残されていない。 情報の改竄か、それとも霧島香織自体が五十鈴の様に、誰にも気取られる事なく行動可能な異能を持っているのかは解らない。 ただ一つ確実なのは、カンパニー本社の情報を改竄出来るだけの力を持った得体の知れない存在によって、霧島香織と言う存在は捏造された。或いは霧島香織自体がそうして誕生した。 この事から成り立つ推測は、彼女が想像以上に剣呑な存在であると言う結論に他ならないと言う事だ。 (果たして、これをどうお伝えしたものか…。指令内容から見ても、隊長が霧島香織を全く疑っていない事は間違い無いだろうし…) 思ったより厄介な事になったが、だからと言ってこの侭黙っていて良い事とは到底思えない。少しの間脳内で幾つか手段をシミュレートしてから、五十鈴はスーツの隠しから円形のバッジを取り出した。スーツのボタンに直接留められる程度の大きさのそれには、PIXIESの意匠が施されている。 側面のダイヤルを指先で操作し、マッピングタイプのキーボードを壁に投影すると、そのキーを幾つか弾き、宛先を"Takahiro.K"へと設定する。 (……つまり、霧島香織の十年間は、隊長に取り入り、恐らくはその監視をする為に作られた。隊長の──ナーサリークライムである神崎貴広の信用を勝ち取る為に費やした時間だと言うのであれば、それは成功したと言わざるを得ない…) 霧島香織の目的が、貴広の暗殺であるとしたら、それはとっくに成されている筈だ。十年間も時間はあったのだ。その間に幾ら貴広が気を張っていたとしても、隙を晒す事が全く無いなどと言う事は有り得ない。それどころか、貴広は霧島香織の事を秘書として信頼していたのだから、機会など掃いて捨てる程にあった筈だ。 そして暗殺が目的でないとすれば、残された可能性は──監視。つまりは、カンパニーを出奔した五十鈴らPIXIES六天の他にも、ナーサリークライムとしての貴広が復活しない道理は無いのだと、確信を抱いていた者らの手に因る、監視だ。 (そうなると、矢張りLABか、或いは…) そこまで考えた所で五十鈴はかぶりを振った。そんな事よりも重要なのは、この霧島香織と言う人物に因って、貴広が十年もの間を欺かれていたと言う事実の方だ。どうオブラートに包んでみた所で、貴広には易々受け入れ難い事になるだろうし、それによって傷を負うだろう事も確かだ。 神崎貴広と言う男は、冷徹だの人間らしい感情が無いだのと度々評されるが、その実懐に入れた人間には酷く甘い。PIXIESの隊長を務めていた頃も、三十五人の部下ばかりか、その下になる補欠要員の事でさえも常に気に掛けていたぐらいだ。 (隊長の、そんな所に付け込んだのだと思えば──) そこで五十鈴は剣呑に嗤う。送信待ちのPIXIESのバッジを見つめながら、その拳は固く握り固められている。 (霧島香織──そう名乗る人物を、僕は絶対に赦さない) 呟いて、PCの画面に表示されている、デジタルの写真を五十鈴は静かに睨み付けた。五十鈴にとって神崎貴広と言う存在は己の全てを尽くしてでも仕えるべき存在であり、彼に捧げる敬愛や尊崇の念は他の何とも比べ難い程に深く、絶対的に根付いたものなのだ。 (なればこそ、事実をお伝えして、隊長をお護りするのが僕らの役目だ) それで貴広が傷つくとしても、成さなければならない。そうでなければ、今の貴広の置かれた状況は余りに危うすぎる。 「──」 息をゆっくりと吐き出して己の内圧を下げると、五十鈴は送信操作を行った。PIXIES謹製のこのバッジは、専用の衛星回線を経由して、地球上のあらゆる場所とでも遣り取りが、理論上は可能な代物だ。 程なくして、南南部諸島2563号島への回線が通じる。数コールも鳴らぬ内に発信を知らせるアラート音は途切れ、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。 《こちら貴広、霧島か?!》 「──…、残念、霧島さんじゃないですよ」 第一声に、その物語る、神崎貴広と霧島香織との信頼関係に動揺しなかったとは言わない。喉が張り裂けんばかりの、十年前の貴広ではまず出なかった様な叫びにも。何の疑いもなく自ら名乗ったと言う事にも。 (十年は矢張り、長くて、遠いな…。僕たちは変わらずに居る事が出来ても、隊長は随分と変わられたのだろう。変わる事が出来た、と言うべきか) 結論を遠回しにしながら、順を追って貴広に調査の説明をして行った五十鈴は、貴広の狼狽も困惑も傷も、全てをその声から聞き取る事が出来た。 告げられた、十年共に仕事をしてきた秘書の正体と言う事実を前に、貴広の様子は明らかに傷つき、消沈していた。十年前までの彼であれば即疑っただろう事さえも、今の貴広には遠い事の様だった。 彼が人間の様に、当たり前の様に傷ついているのだとはっきりと知れる。そこに付随して五十鈴の裡に湧いたのは、その傷を十年で深めた人物に対する憤り。そして。 「隊長は変わられましたね……」 《……》 やんわりとそう口にした五十鈴に、責めている気配や当て擦りでも感じたのか、貴広は黙り込んだ。多くの者が、PIXIESを離れて島流しにされた貴広の事を口々に、腑抜けたと評した。或いは罵声に交えて。世界最強の名を欲しい侭にした男が、孤島で引退暮らしを満喫するばかりで、カンパニーに対する叛逆の気配すら見せぬ事を、馬鹿にした。 そう──だからこそ五十鈴はそれらに対して思うのだ。矢張り誰も、あのひとの事を何一つ解ってはいないのだと。 「でも、そんな隊長も悪くないですよ……」 口にしたら自然と笑みが浮かんだ。きっとこれは掛け値なしの喜びなのだろうと、そう気付いた五十鈴は、憤りと共に湧いたその感情を、安堵と呼ばれるものなのだとも理解していた。 神が人間を不器用に模倣する様な姿を晒した、神崎貴広と言う『人間』は、他のどんな人よりも人間臭くて果敢ない感情を裡に抱えて、ただ静かに生きていたいだけなのだ。 そんなささやかに過ぎる彼の望みとは裏腹に、様々な思惑や色眼鏡が、勝手に神崎貴広を鋳型に押し込めて、各々が身勝手な理想や願望をそこに描いている。燈火に群れる愚かな羽虫の様に。 (だから、僕たちは貴方を護る。そのささやかで可愛らしい望みの中で、貴方がナーサリークライムと呼ばれる存在であろうとも、それを全うできる事を願って) 十四年前、神風と称される双子の兄弟が、神崎貴広に出会った時からそれは決していた事であった。 五十鈴の喜びは、貴広に全てを尽くす事にある。 貴広が穏やかに、彼の望む侭に生きる事、彼を安寧の元に生かす事、その為ならば何を差し出しても惜しくはない。 それ程までに研がれて澄んだその感情に、恐らくは最も近いと思しき言葉を当てはめるのであれば──それは『愛情』としか言い様のないものだった。 貴広との会話(抜粋)だけは原文まんま。 「でも、そんな隊長も悪くないですよ……」 の一言が全てを物語ってるなと思う訳で(力説 ↑ : |