※十年前のPIXIES解体寸前の妄想。五十鈴の場合。
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 ぼんやりとした意識の侭、見上げた先には点滴のパックがあった。そこから細い管を通って、チャンバーで静かに滴下しているのは鎮痛剤だ。その作用のお陰で脚の傷の痛みは軽減されているが、眠気が酷くなると言う難点があった。
 規則正しい滴下を見つめている内にまた目蓋が落ちて来る。ねむい、と口中の呟きですら音になって出て行かない。
 何しろ、絶対安静と言う名の処分待ちの時間だ。考えなければならない事は多かったかも知れないが、こんな様では碌な思考すら紡げない。やる事がある訳でも無いし、やらせて貰える自由も無い。
 つまりは、ゆらゆらと揺れる意識を必死で保っていなければならない理由も特にないと言う事だ。だから貴広は、重みを増して行く目蓋に逆らわず目を閉じた。視覚が働かなくなった事で、脳が休息に向けて働き出す。
 病室の空気は相変わらず、凝って重たい。嵌め殺しの窓を塞ぐカーテンは陽光を通さない上、体内時計のすっかり狂った状態では今が何時頃であるのかの把握も難しい。
 「…昨日、伊勢が来た」
 風一つ吹かない静かなだけの空間にも、眠らないでいなければならない理由は無い。だが、眠気にふわふわとしかけていた脳味噌を何とか叱咤した貴広は、重たい目蓋を持ち上げるのは諦めてぽつりとそう呟いた。眠りに落ちない様に居る為にも。
 「んー…、それは多分、一昨日の事だと思いますよ」
 「……そうか。寝てばかりいるから日時の感覚が曖昧なんだ、少しぐらい見逃せ」
 返る訂正の言葉に眉を寄せて、貴広は漸く脳が眠気を押しのけて思考を紡ぎ始めた事を意識しながら片目を薄く開いた。幾ら時間感覚が喪失していようが、至近に居る人間の気配ぐらいは流石に解る。
 「そうです?曖昧ならなおの事、正しい情報をお伝えすべきかと思ったんですけど…」
 半ば目を閉じていようが、貴広の浮かべた渋面ぐらいは解っただろうに、しれっとそう応えて寄越すのは五十鈴だ。寝台の上に浅く腰掛けてこちらを見下ろしている。
 「要するにどっちでも同じと言う事だ…。…で、お前はいつ来たんだ。一日前からとか言うなよ、怖いから」
 「流石にそれは無いですよ。出来ますけど。えーと、二十三分と十五秒前ですね」
 腕時計を見下ろしながら言う五十鈴に向けて嘆息すると、貴広は未だ怠くて重たくて堪らない目蓋を擦った。
 「二十分も何をしてたんだ。暇人か。そんな訳もないだろうに」
 眼球と言うよりも、脳の奥の方が目蓋を開く事を拒絶しているのが解る。そのぐらいに眠い。自然な眠りと言うよりは強制的に寝かしつけられる様な、薬物などに特有のそれを貴広は余り好まない。
 上から掌で抑えつけられる様な錯覚さえ憶える、気怠い目蓋をそれでも何とか無理矢理に開いて、目の下縁に当てた手で、その侭で居る事を己に促す。目蓋に触ると余計閉じようと押さえて仕舞う気がしたのだ。
 そうして苦労しながら見上げた五十鈴の姿も、余り元気そうとは言えなかった。片腕は固めたギプスで吊ってあるし、頬にも薄いガーゼが当ててある。きっと他にももっと負傷は多い筈だから、結構な怪我人の有り様だ。スーツの上着も羽織っているだけで、袖を通せていない。
 「ええまあ、暇では決してないですね。負傷もですけど、始末書と報告書とが殺人的な量積まれていますから」
 三十人分もあれば当然ですけど。小さくそう付け足した言葉に、貴広は咄嗟に俯いた。目元を押さえる指に力がこもる。
 決まり悪い沈黙に思わず噛んだ唇を、伸びて来た五十鈴の指が制した。親指で口端をやんわりと引っ張られて、貴広はますます下顎に力を込めてしまう。
 「駄目ですよ。これ以上傷を増やしてどうするんですか。それに、僕は貴方にそんな表情をさせたくて来た訳じゃないですよ」
 紡がれた言葉と仕草とに優しげな気配を感じて、貴広はようよう下顎の力を抜いた。
 「……伊勢は、怒っていただろ」
 「まあ、お見舞いに行く前から怒っていましたから。…あのですね、兄さんが怒っていたからと言って、僕も怒っているなんて事はありませんよ。まぁ正直怒ってはいるんですけど、貴方に向けて怒っている訳では無いです」
 さらりとした調子でそう言うと、貴広が寝た侭碌に動けないのを良い事に、先頃まで口元を無遠慮に引っ張っていた五十鈴の手が、今度は頭を撫でて来る。幼子にする様なその仕草をむっと睨み上げるのだが、全く意に介した様子なく、逆ににこりと笑い返された。
 「…では、何に対して憤っていると?」
 問いに、五十鈴の手が一瞬だけ止まって、それから彼は困った様に笑う。
 「……そうですね…、一口では言えない。色々な事に対してです」
 「……………」
 深々とした溜息。その口調からも態度からも、五十鈴が全てを馬鹿正直に言う事は、貴広が半ば命令の調子で、言えと迫らない限りは無いなと判断出来た。
 伊勢の様に正直に、ストレートに伝えられるより、望まれるよりも厄介だ。五十鈴は昔から基本的に、貴広の言う事や方針に否やを唱える事はない。それをして矢矧に『神崎貴広イエスマン』などと呆れ混じりに言わしめる程度には、その態度は解り易く、頑なである。
 (…伊勢は、カンパニーから離反しろと唆した。自分達はそれに協力は惜しまないから、そうして欲しいと、そうするべきだと言って寄越した。説得はしたが、多分あいつの中ではまだ折り合いがついていない。だから、怒っている…)
 貴広はただ、力を失い果てた己に、未だ健在の彼らが付き合う必要などないのだと、道理としてそう思っただけだ。日頃は冷静且つ論理的に行動する筈の伊勢がそれに憤ったのは、恐らくは珍しい、感情面の問題だったのだろうと思う。
 PIXIESが極東日没に惨敗し、多くが死に、自分たちの信じていた神崎貴広と言う存在は喪われた。そしてカンパニーは、命令違反にも近い独断専行であった彼らの処遇を、無難な形式通りの処罰に留めた。
 世界最強の号を持っていた者らの敗北に、喪失に、伊勢の裡では未だきっと惑いや混乱が消えないのだろう。だからこそ、左遷と言う貴広への処罰に憤りを隠せないのだ。未だ、その現実を受け入れ難いからこそ、神崎貴広と言う名に、存在に、縋ろうとしているのだろう。カンパニーの決定の方が間違っていると、そう思う故に。
 (だが、俺には、もうそんな価値はない。だから…、)
 カンパニーを離反しろと言う伊勢の囁きは──彼らが己を慕うと言う可能性の上での事実は、貴広を余計に苦悩させるものでしかなかった。正直、買いかぶりだと思っている。そのぐらいに、彼らと言う存在の重みは思い知っているのだ。
 だから、伊勢を説得した。遠回しにその望みを、願いを、断った。故に、伊勢がその事に対して憤りを憶えるのも無理からぬ話だ。
 (…では、五十鈴は?どう思っていると…?)
 貴広の言う事に基本的には是としか応えない、五十鈴はどうなのか。双子の兄の望む事と真逆の事をまさか考えているとは思うまいが。
 先頃よりも目を開いている事に慣れて来た、目蓋の狭間で眼球を動かしてそっと見上げてみれば、五十鈴は天でも仰ぐ様に天井を見上げていた。
 暇でもないのに、何故来たのか。そんな単純な疑問でさえ口に乗せるのが憚られる気がして、貴広は感覚の絶えた脚を意識した。憚られているのではなく、畏れているからだと、己の裡で嘲笑う様な声を聞いた気はしている。あれから、ずっと。
 黙り込んだ貴広の頭をなおもやわやわと撫でていた五十鈴だったが、やがて小さく息を吐いた。見上げていた天井から視線を落として来て、やはり、わらう。
 「隊長」
 「……」
 伊勢とまるで同じ調子でそう呼ばれ、貴広は息を詰めた。
 そうではないと。俺はもうお前たちの『隊長』ではないのだと、またその呪いの言葉を口にしなければならないのか。
 然し、貴広の裡の苦悩を察した様に、五十鈴はそっとかぶりを振った。
 「隊長。大丈夫ですよ。僕たちは貴方に責任や役割を求めるつもりなんてありません。貴方に、それ以上の何かを求めてもいません。ただ、隊長とお呼びするのに慣れているし、相応しいと思うからそう呼ぶだけです。そう在って欲しいからと呼んでいる訳じゃないですよ」
 目を瞠る貴広に向けて静かに笑いかける五十鈴の表情にも口調にも、それ以上の、紡ぐ言葉以上の意味は無いと──そう断言出来る程に、貴広の見慣れたいつもの、五十鈴がそこには居た。
 「貴方は、貴方の侭で良いんです。思う様に、望む侭に、貴方の選択を、人生を生きて下されば、それで」
 五十鈴はそこで一旦息を継ぐと、態とらしい仕草で肩を竦めてみせる。
 「兄さんはあれで、我儘って言うか融通が利かないから、つい隊長にきつく当たったんじゃないかと思いますけど…、思っている根っこは同じなんですよ」
 「……」
 茫然と瞬きを繰り返す貴広の髪を指の間で弄んで、それから手がするりと解ける様にして離れていった。それを追いかける貴広の視線の向こうで、ピントの合わない筈の五十鈴の顔が、酷く穏やかな笑みを形作っているのだけは、何故かはっきりと解った。
 「ねぇ、隊長?貴方が居なくても、僕たちは生きて行けるのですよ?」
 目を細めて紡ぐ、いっそ辛辣にも聞こえる言葉が、貴広の裡に落ちて来て、切れ味の良すぎる刃の様に胸をそっと刺し貫いた。然し痛みはない。当たり前の様に言われたから、痛くはない。
 穏やかな調子を保ちながら、五十鈴は続ける。これもやはり、当たり前の事の様に。
 「けれど、貴方の為以外には生きたくないだけです。貴方に添う事以上に、この生を有意義に思える事は無いんです」
 言って、ゆっくりと移動した五十鈴の手が、貴広の右の脚に触れる。もう喪われたそこに。シーツの感触しかしない筈のそこが、撫でる様な指の動きを感じた気がして、びくりと震えた。
 何も無いそこを辿った指が、やがて包帯で覆われた傷口に到達する。鎮痛剤を打って眠りに落とされていてもじくじくと鈍く痛むそこへと。喪われたものの大きさを知らしめる、感覚の一切のない筈の、そこへと。
 「繰り返しますよ?僕たちは、貴方に何も求めません。望むとしたら、ただひとつだけ。添う事だけを赦して欲しいのです。貴方が必要とした時に、いつ如何なる状況であっても、貴方の力になろうとする事だけを、どうか赦して下さい」
 「──っ、」
 掌が、包帯で覆われた欠損部位へと触れる寸前で止まり、触れない侭にそこを撫でた。反射的に身を竦める貴広に、五十鈴は飽く迄穏やかに微笑んでいる。一切、触れない侭に、慰撫する。
 「だから、良いんですよ。貴方が責任や重荷を感じなくとも。貴方が上からの処分を受け入れて、その途を望んで選んだ様に、僕たちも、好きでそうしたいだけですから」
 そうしてゆっくりと離れて行く手を思わず目で追った貴広は、己が酷く物寂しげな眼差しを五十鈴のその手に向けていた事に気付いて、咄嗟に俯いた。
 そこにはもう無い筈のものを、恰も在るものである様に扱われる事は、苦痛である事を思い知らせるのと同時に、貴広の心を楽にもしてくれた。何でも無いからだと言われた気さえもした。
 そして、そんな現実逃避の気休めに縋ろうとする己を羞じた。
 座った侭、負傷で吊った自らの腕を軽くさすった五十鈴は、そんな貴広を不躾ではない程度に見つめた。それから少しだけ、何かを堪える様に目を瞑ってから、あっけらかんと笑って言う。
 「人それぞれ、幸福と感じる事、意味があると思えるものは異なるでしょ。僕たちにとって最も価値があると思えたのが、貴方に尽くす事だったと言うだけです。それだけは貴方が、どんな姿になろうが、どんな状況に置かれようが、どう思おうが、変わらないんですよ」
 「………」
 「隊長が勝手に居なくなる事を兄さんは憤ったんでしょ?だから、隊長も僕らが勝手に添おうとする事に、幾らでも憤って下さって構わないんです。馬鹿な事をしやがって、って、呆れてくれて構わないんです」
 そうして貴広の顔を──きっと酷く困惑した顔を見下ろす、五十鈴はそこで始めて笑みの表情に苦みを潜ませた。苦しそうに。辛そうに。
 「……隊長が、苦しんでまで、生き延びた者全てを負おうとする必要なんて、無いんですよ。少なくとも僕たち六天は、隊長がその代わりに責を負う事なんて、望んでいなかった」
 「…………痛烈だな」
 居心地が悪くなった気がして、貴広はもう既に重たくもなくなっていた目蓋を閉じた。五十鈴は元々他者の心の機微に聡い。それをいちいち指摘し論う様な真似はしないだけの思慮分別はある様だが、今回ばかりは流石に少し違う様だ。貴広に、言いたい事を、貴広の心の裡を解った上で、忌憚なく述べて寄越す。
 それは気遣いや気休めであるのと同時に、貴広に対する指摘でもある。それが棘や痛みを伴うものかどうかを判じるのは、貴広自身の問題だ。
 「過ぎた事をどうとか言うつもりはありませんよ。それに、もしも仮に、隊長がそうと決める前に僕らが説得する余地があったとして、きっと隊長の出す結論は変わらなかったでしょ?」
 「………」
 返す言葉もない。目を閉じた侭で貴広は溜息をついた。
 部下を死なせ、右の脚と漆黒の能力とを失った、その時点で、貴広には己の余生に対する一つの諦めが既に出来て居る。だからこそ、面会謝絶の内に辞表を提出し、それが受理されずとも、左遷と言う処分を諾々と受けた。そこには伊勢の唆した様な、カンパニーに離反し逃亡すると言う途など入り込む余地は無かった。
 初めから、全ては決まっていて。決めていて。だからこそ、伊勢は憤ってみせたのだ。どうにも出来ないと、解って仕舞ったから。
 「隊長」
 呼ぶ声は静かだった。だから貴広は目蓋を持ち上げた。
 目の前に、五十鈴の作った、優しくて辛辣なばかりの笑みがある。
 先日に見た、拒絶に対して役割を求めて寄越した伊勢の、痛烈な刃にも似た笑みとは異なる、穏やかな──その癖に酷く痛そうな、口端だけが刻んだ僅かの弧。
 「これからの貴方の人生に、僕の触れる事が出来るものなんてもう無いのかも知れません。ですから、これだけは憶えておいて下さい。償いなどと少しでも思われるのであれば、それでも構わない。僕は嫌ですが、貴方が憶えて居て下さると言うのであれば、それでも構わない」
 その侭首が傾いだ。口接けられるかと思いきや、項垂れた五十鈴の額は貴広の胸の上に当てられて、軽く傾いて止まった。
 鼓動でも聞いているのかも知れない。貴方が生きていて良かったと涙した、朱キ日の時の様に。
 ふう、と溜息にも満たない呼吸をひとつ。
 「僕たちは決して隊長の言葉を聞き逃しませんから。何かがあったら、頼って下さい。どんなに下らない事でも構わないですし、どんなに大がかりな事でも構いませんから。お一人で、何かをしようなどとは、絶対に思わないで下さいね…」
 「……」
 これは懇願か。それとも独り言のつもりなのか。気遣う心を内包しているだけ、伊勢の寄越した願いよりも質が悪い。思ったが、貴広は小さく頷いた。呻く。
 「…五十鈴。お前、伊勢より怒っているだろ。本当は」
 「そうですか?そう見えるのならばそうなのかも知れませんけど。ただ、僕はそこまでするってだけですよ」
 「………それが、怒っていると言っているんだよ」
 盛大に溜息をついた貴広が、胸の上の五十鈴の頭を撫でて言うのに、笑う気配こそ返ったが、言葉は無かった。
 「兄さんと違って譲歩はしていますよ。強制もしませんし」
 はっきりとした物言いに、胸に手を当てて考えてみろ、と言いたくなる心地を呑み込んで、貴広は撫でていた五十鈴の頭髪をぐいと掴んだ。いたた、と返る態とらしい笑い声に、心に降り積んだ澱を散らす様な気分で舌を打つ。
 「……揃いも揃って、脅迫みたいなものだろ。人の弱味や罪悪感に付け込んで」
 「ですから、そんなつもり無いですってば。信じてください、隊長」
 顔を起こして笑う五十鈴の額をぐいと押しのければ、彼は大人しく身を起こした。吊っている腕を庇う様にしながら立ち上がる。
 返答を寄越してやる気はなかったし、五十鈴の方にも聞くつもりは無い様だ。目蓋を帳に見上げる天井の、白く清潔な色の下で、言い知れぬ焦燥かそれに似たものをそこに描きながら、貴広はそっと息を吐く。
 「あ。隊長、って呼ばれるの、お嫌なら変えますよ?貴広さん、とお呼びした方が?」
 貴広の内心を知ってか知らずしてか、何やら楽しそうな調子で突如そんな事を言い出す五十鈴のにこにこと微笑む顔を見上げてみれば、自然と押し出される様に笑い返していた。
 「……いや。その侭でいい」
 身勝手なものだと思う。恨まれようが憎まれようが見限られようが、それこそが当然の報いであるとさえ思っていた筈だと言うのに、向けられた望みや掛けられた情けが、嬉しいなどと。
 この、何一つ残さずに消して仕舞おうと思った残骸の様な身が、今更になって、生きようと足掻く惨めさから遠ざかった様に感じられるなどと。
 「…そうですか。ありがとうございます」
 失意など何処にも無い様な素振りで、五十鈴が言って、微笑む。双子の兄同様の、脅迫めいた優しさの下で、それでも確かにそこに安堵を潜ませて。
 ひっそりと殺した失意の先に、貴広の進むべき途を示してみせながら。彼らは酷く優しくわらっていた。





お伊勢は文句をストレートに言う嫌味策士だけど、五十鈴は一見文句には聞こえない言い方をする更なる策士。
やっぱり色々責任抱えてただけあって、すんなりと所長生活に行く前に、葛藤や気休めの言葉は必要だったと思う次第。

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