※十年前のPIXIES解体寸前の妄想。お伊勢の場合。
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 嵌め殺しの窓を、白いカーテンが覆っている。色彩は白いのに、遮光性のある布で裏を打たれたそこには僅かの隙間もなく、まだ明るいと言うのに酷く重苦しい閉塞感のある空間をそこに作り出していた。
 カーテンの向こうの空は、夕暮れ時の色彩を拡げている筈だ。それは橙か、雲の陰の菫色か、それとも血の様な朱の色か。
 考えども、それをここからでは伺う事は出来ない。窓辺に行って、カーテンをそっとめくるだけで知れる筈の答えは、今の貴広には何よりも遠いものだった。
 殺風景な室内は必要以上に広く、無機質だ。ぽつんと一つだけ置かれた寝台と、計測機器の類。枷の様に伸びた管が貴広の身体の至る所に取り付けられて、医療と言う建前を以てその存在を監視、或いは観察し続けている。
 部屋の外にも警備と言う名の見張りが立っているのだろう。隠された監視カメラの類もあるかもしれない。
 そんな事をしなくとも、どうせ何も出来やしないと言うのに。
 「隊長」
 やがて掛けられた声に、白いカーテンに覆われた窓を向いた顔を振り向かせる事もなく、貴広はふっと笑った。きっと非道い顔をしているだろうから、余所を向いていて良かったと思う。
 「俺はもうお前たちの『隊長』ではない。本日付けで任を解かれて異動が決まった。現場を退いて管理職への昇進。魅力的な話だ」
 肩を揺らして笑う貴広に、返ったのは小さな溜息だった。続く、眼鏡の位置を直す、かちゃりと言う小さな音。
 「…そうですね。もう少しお歳を召されていれば、心の底からそう言う事が叶ったのですが」
 珍しい、感情を押し殺した様な、部下の低く平坦な声音に感じたのは静かな憤り。貴広はそれを躱す様に態とらしく喉奥で笑い声を上げた。
 「皮肉るなよ。俺の言う台詞が無くなっただろ」
 「………」
 続く言葉は無い。返される言葉も。再びしんとなる部屋の中で、貴広はぴたりと閉ざされ揺れもしない白いカーテンをただ見つめ続けた。
 冗談で済ませたくない様な話題であったのは解る。この生真面目な部下が、貴広の態とらしい態度にお愛想ですら追従しないと言うのは、つまり、そう言う事なのだろう。
 「伊勢」
 沈黙の狭間にそっと差し入れる様に紡いだ呼び名に、其処に佇む気配は揺らがなかった。
 振り向かない背中に感じる視線は、静かで、憤って、悔いて、堪えて、ただただ待っている。貴広が一言、是と紡ぐ事を。有り得ないと解っていても、期待して待っている。まるで指示を待つ兵士か軍用犬かと言った気配を保って其処に居る。
 だから、貴広は目を閉じた。逸らして、呑み込んで、蓋をして仕舞おうと、そう思った。
 「……まぁ、そんな訳だ。恐らくPIXIESの次の隊長に任命されるのはお前だろう。こんな、壊滅寸前の酷い状態になった隊をお前に押しつけて行くと言うのは正直、気が退けるが…、主力の六天はお前を含めて全員生存出来た。お前ならあいつらと共にきっと立て直す事が出来る」
 情報部は易々と人員の補充の利く部署ではない。育成されているエージェントたちも実戦で即使えるものになるのかどうかは解らない。故に伊部隊PIXIESは暫くの間その役割や名声を、呂、波部隊に譲る事になるだろうが、伊部隊の強みは寧ろ生き延びた五人の精鋭たちの方にあると言える。少数精鋭での特殊任務と言う方角へ舵を切る事が出来れば、まだ望みは幾らでもあるだろう。
 五人の能力を誰よりも知る貴広には確信がある。伊勢を含めて、彼らは決して他部隊や兵器では到底代え難い人員だ。そんな彼らの戦力がある限りは、再起は叶う。
 「隊長」
 然し貴広のそんな思考を遮ったのはまたしても固い、伊勢の声だった。呼び慣れ、呼ばれ慣れた、最早意味を成さなくなった古い称号であるそれが、瑕だらけの身に新鮮な痛みを生む。小さくささやかな苦痛の中で、貴広は力無くわらう。
 「だから、俺はもうお前の──お前たちの『隊長』ではないんだ」
 そんなものは、朱に染まった空の下に潰えた。
 そんな幻想は、ただの人間の身に余って堕ちた。
 貴広はかぶりを振る。開かないカーテンの向こうから、あの時の朱に染まった斜陽の世界が見ている気がして、震える拳を誤魔化す様に毛布を掴んだ。
 歪な皺を刻む毛布が強く引かれた事で、その下に覆われたシルエットがよく解った。貴広は殊更に無機質な視線でそれを見る。己の身から欠損し失われた、四肢のひとつを。
 朱と、朱に染まった空の下で失われた、大いなる絶望に穿たれた空白を。
 「……お言葉ですが」
 きっと、静かに言葉を紡ぐ伊勢もそこを見ているのだろうと、貴広は確信に似て思う。その喪失を埋めるものを探しながら、彼はきっと歯痒い憤りを抱えながら、見つめているのだ。
 「私にとってのPIXIESは神崎貴広の率いるものです。いえ、私だけではない、恐らく他の誰に訊いても同じ答えが返るでしょう」
 断じる言葉は少し苛々として、余裕がない。常に優位である様に振る舞う事のアドバンテージを嘗て口にした男にしては、それは余りに揺らぐ感情を隠せてすらいない、意味のない様な言葉だった。
 「………子供みたいな事を言うなよ。上層部(うえ)の決定した処分だからな、現場の声程度でどうにかなる事ではないんだ。解るだろ」
 ずきりとした幻肢痛を訴えて来る、右の脚と言う空白にそっと手を触れさせてみれば、自然と自嘲を堪えきれなくなって、貴広は僅かに表情を歪めた。もうこれ以上、この傷を抉ってみても、血すら吐けない。全てはとうに決したのだ。朱の空の下に斃れたあの瞬間から、或いは、世界に生じた怪物を討てると奢った過ちの、その瞬間から。
 神崎貴広は敗北した。同じナーサリークライムの、極東日没と言う怪物の前に、全てを奪われて膝を屈した。
 貴広が死ななかったのは奇跡かただの皮肉か、それは解らない。ただ、伊勢ら五人が、他の多くの部下たちが、死に物狂いで貴広を生かして護って逃がしたと言う現実だけが在って、その結果が、こうして失われた力と脚の喪失と、喪われた部下たちの命の名残とを突きつけられた侭、病室にて貴広が監視下の軟禁状態にあると言う、現状だ。
 責任の下に用意した辞表は受け取りを拒否された。そして言い渡された異動命令と言う名の、罰。左遷。営倉。島流し。幽閉。飼い殺し。様々な意味の篭もったその処罰は、正しく貴広へと与えられた『罰』でしかない。
 それを前にして、全てを承知しながらも、伊勢は無言で貴広へと問いて来る。
 それで良いのですか?──と。憤りを隠しながら。
 「……私は」
 こつ、と靴音を立てて伊勢が寝台へと近づいて来た。その声は平坦で、落ち着いている様に一見聞こえる。だが、裡まではそうではない事は、付き合い慣れた貴広には解る。解って仕舞う。
 「私は貴方について行くと決めています。…いえ。これも私だけではない事でしょう」
 止まる靴音。溜息にもならない小さな息遣い。貴広はゆっくりと顔をそちらへと向けた。佇む伊勢の、眉を寄せた苦しげな表情を力無く見上げる。

 「私が貴方の前から消えるとしたら、それは私たちが死んだ時だけです」

 苦痛と言う名の瘡蓋の下から覗いたのは、瞋恚、そして悔恨。貴広と、貴広以外の全てへと向けられた伊勢の憤りは、きっとそういうもので出来ていた。
 半ば解ってはいたのだ。身を引いて責を果たそうと言う貴広を、彼らが許しはしてくれないだろうと言う事は。
 彼らは憤っている。既に無力な己が身に諦めを得て仕舞った神崎貴広に。そんな貴広を生かした侭なお搾取しようと下したカンパニーに。
 どうして、共に在ろうと言ってくれないのかと。助けろと一言、そう言えば良いだけなのだと。
 「もしも貴方がそうと望むのであれば、そうします」
 思考を継いだ様な伊勢の言葉に、貴広はそっと苦笑した。伊勢は本気だ。目の前から消えろと貴広が命じれば、自らの命だって断ってみせるだろう。助けてくれと言えば、自らの命の危険さえ構わずに、貴広を連れて逃げるだろう。
 「……重いなぁ……」
 貴広には言える訳がない。言う訳もない。それでも、告げる言葉に偽りなど無いと示す様に、伊勢は何処までも本気でそう紡ぐ。望む本心ばかりを寄越してくる。
 卑怯だと思う。互いに、上司を、部下を、棄てる選択肢など何処にも無いと言うのに、その時が来たら躊躇いなどしないと、嘘ではなく突きつけてみせるのだから。
 「その重さをも背負って頂くのに値するのが貴方と言う存在なのですよ。貴方にとっては迷惑極まりない話なのでしょうが」
 「全くだ。人の気も知らないで、お前らは…、」
 紡ぎかけた所で、貴広はじっとこちらを見下ろす伊勢の顔から視線を逸らした。無意識だったのか、行き着いたのは毛布の下に出来た、これ以上なく雄弁な空白だった。
 欠損と言うものは多かれ少なかれ重たく人生に陰を落とす。貴広のそれとて無論例外ではない。
 それはもう、まともに戦う事も、歩く事も出来ぬと言う絶望であって。
 伸ばした手の裡に何の力も宿らぬ喪失は、己と言う存在をただ無為へと打ちのめすには充分であって。
 最早、頭脳が冴えていようが、身体が健常であろうが、司令官としての才を持っていようが、関係などなかった。

 "神崎貴広は、もう以前の様に戦う事が出来ない"

 その結論が、現実が、全てなのだ。そしてそれは伊勢が、部下たちが、どう思おうが、どう思って呉れようが、決して変え難い。
 「……『これ』でもなお、お前たちはそう言うのか。変わらず」
 ここに残されたのは、嘗ては、ナーサリークライム、漆黒、神崎貴広と呼ばれたものの残骸で。
 だれかの投影した夢や未来のなれの果てで。
 得た名声も失って仕舞えば、それはもう、ただの人間かそれ以下のひとつでしかない。
 「はい」
 自嘲を隠さぬ貴広の言葉に、然し伊勢は何の躊躇いもなく一言だけ、そう頷いた。
 何故、と。そう問う事も出来た筈だったが、貴広は「……そうか」とだけ呟きを落とした。この心は、この身は、酷く草臥れていると、そう思った。
 彼らはいつだって神崎貴広を生かした。崇める様にして護ってまで、そこに瑕疵が穿たれる事を厭った。
 だから貴広には解って仕舞うのだ。伊勢が、五十鈴が、雪風が、島風が、矢矧が、どうしたって自分を見捨ててはくれない事が。カンパニーに背いてでも、自分たちと共に在って欲しいと言う彼らの願いが。
 (それが、苦しい)
 またずきりと失われた右脚が痛んだ。殊更に、己と言う存在の堕ちた無為を知らしめるかの様に。彼らが添おうとしてくれれば、くれるだけ、その苦痛は貴広を無言で苛む。
 彼らの憤りが、それに値する応えを持てぬ身が、叫び散らしたい程に苦しい。
 「お前たちが今後どう行動するのかその裁量すら今の俺には持てない。だから、好きにしろ、と言う他には残せる言葉も無い。ただ、」
 憤って、憎悪でも堪えているかと思いきや、そこで見上げた伊勢の表情は、酷く悲しそうであった。寄せられた眉を、顰められた目元を、今にも伏せられそうな目を、貴広は見上げた。毛布の下の空白を掴んでいた掌が、自然とそちらへ伸びる。届きもしないと言うのに、恐る恐る震えながら。
 「『それ』が原因で、お前たちの身に何か危険が起きるのであれば、矢張りそれは心苦しい。お前たちが失われる様な事があれば、矢張りそれは……──、悲しい」
 漸く探し出せた言葉を前に、伊勢の面相にほんの少し、驚きの気配が宿る。眼鏡の向こうの目を瞠らせるのに、貴広は自然と、己のエゴと言う偽善を承知で笑いかけていた。
 「正式にはお前たちの上司で無くなった俺は、何かを言えた身ではない。だが、それでも──叶う事ならば、お前たちには生きていて欲しいと思う。俺の見えない所でも。知らない所でも」
 受け取られる事のない掌の向こうに隠れた、伊勢は一体どんな表情をしているのだろうか。想像にだけ任せる事にして、貴広は目蓋をそっと下ろした。
 残酷だと思い、だがそれもまたお互い様かとも思う。永訣と取られた方がいっそ楽かも知れない。
 「……俺は、お前にも生きていて欲しいと思う。伊勢」
 伸ばした手の指をそっと折り畳んで胸に引き寄せながら、貴広は、これが無力と言うものなのだろうと、そう痛い程に感じていた。
 脚を、力を、地位を、形ばかりの役職を、失ってみればこの通り、何も残されない。出来るのは、ただ情に訴えて願う事だけ。
 (どちらが、子供みたいな事を言っていると言うのだろうな…)
 笑って仕舞う程に無様で、惨めな思いにさせられるものだと思って、貴広は浮かんだ感情の侭にわらう。きっとまた態とらしく見えるのだろうと思うが、そうでもしないとみっともなく当たり散らして仕舞いそうな気がしたのだ。
 或いは伊勢は、貴広がそう在る事をこそ望んでいたのかも知れないが。
 然し、ややあってから返ったのは、息の抜ける様な笑みの気配がひとつ。
 「貴方の為に命を尽くす事は易いと言うのに、貴方の望みの為に生存すると言う事は、想像するだけでも困難そうですね」
 ですが、と区切って、伊勢は続ける。
 「それが、貴方の命令であるのならば、出来得る限りは叶えましょう。それに、そう命じた以上、貴方もまた生き続けて下さると言う事ですから」
 そう、痛烈な釘を刺して寄越した伊勢の微笑みを前に、貴広は額を押さえて苦笑した。やられた、と思いながら視線を投げた先には、喪われた右の脚の──あらゆる得たものがあった筈の、痕。
 間違っても、責を取るにしても、短慮は赦さないと言う応えは、進言であって優しさであってただの脅迫めいたものだった。
 受けて、貴広は黙って頷く。それが今後の人生に落ちる翳りであろうが、永劫を苛む痛苦であろうが、それがささやかな願いであって、彼らの生の保証であるのだとしたら、それを叶えない訳にはいかない。
 責任ではなく、役割でもなく。ただそれが、彼らの尊敬や信頼や好意を受けて生きさらばえて仕舞った、貴広に出来る償いなのだから。





飯島の弁もあって、五人は貴広が再覚醒する事をなんか確信してた気がするんですけど、五十鈴の言い種を見ると、別に力を失った今の隊長の侭でも良いですって取れるし、皆して十年もぐだぐだお付き合いしてる訳で。
貴広も貴広で、平和を愛する社畜生活を満喫しながらも、五人にお願いしてちまちまカンパニーにイヤガラセしたり探ったりして自信回復図ってるし、なんかもう本当にただの愛でいいんじゃないのって…(語尾細

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