寛容は怠惰で許容は諦観 ※10年前PIXIES妄想です。 ========================= 執務室の机に突っ伏して寝息をすやすやと立てている貴広の姿を見つけた時、伊勢は、またか、と思った。 机の上の、点けっぱなしのPCと開きっぱなしのファイル、まだ長い侭灰になった煙草の入った灰皿、冷め切ったコーヒーと言ったものたちに囲まれて、自らの腕を枕にして、神崎貴広は眠っていた。 (そんなにお疲れならばきちんと休めば良いものを…) きちんとした休憩時間を挟んで一度疲れを取った方がより効率的だろうと思うのだが、貴広は時折こうして自分のペース配分を見誤る。仮眠の姿勢を取る間もなく落ちている以上、その睡眠は深く、ちょっとやそっとの事では起きないと言うのが殆どだ。 伊勢はそっと腕時計を見る。20時過ぎ。通常の就業時間は終わってサービス残業と言って良い時間帯だ。隊員の遠征任務が多くなればなる程に人が減ってオフィスは静かになるが、逆に報告書のチェックや作戦行動の企画立案が増えて、隊長である貴広の机仕事も増えて行く。 つまりは、人員が少ないと言う事で。つまりは、眠りを妨げてくれる部下も滅多にいないと言う事だ。 伊勢は嘆息するとPCの電源を落とし、机の上のファイル類に機密に関わるものがない事を確認した。大体貴広の緊張感が切れて眠っているのは、経理など地味な事務まわりの仕事の時が多い。そしてどうやら今回もその例には漏れていない。 元より机に向かうよりも現場仕事に特化したエージェントとして育てられた人間なのだから、その辺りは酌もうとは思う。だが、疲れているからと言って毎度の様に机に突っ伏されるのも困る。同じ事を何度も繰り返すぐらいならば、せめてもう少し自己管理に気を遣って貰いたい。 そっと椅子を引くと、伊勢は貴広の膝の裏に手を回して、その体を抱え上げた。女子供の様に軽いものでは勿論無いので、ずしりとした重みが腕に伝わる。気圧操作での重量の軽減は可能だが、そうすると貴広が目を醒まして仕舞う可能性が高いと思い、やめておく。 重たいが無理と言う程ではない。伊勢は全く目を醒ます気配のない貴広を抱えた侭、居住棟へと足早に向かった。 * 夢と現との間の事がもやもやと意識の底で動くのを感じて、貴広は半ば以上眠った侭で、現の事を夢の中でこなす心地良い不安定感の中にふわふわと意識を漂わせていた。 (…ん?) 然し意識の一部が、違和感を不意に捉える。微細なそれは環境に起因するものだ。変化か、違いか。 どうやら今眠っているのは己の部屋ではないらしいと至って、貴広は小さく鼻を鳴らす。確かに寝台の上で眠っている様だが、自分ではない誰かの匂いがした。シーツの手触りは同じだが、寝心地がほんの僅かに異なる気がする。 僅かに持ち上げた目蓋の下で何とか眼球を動かすと、明瞭ではない視界の中に、机の上に積まれた書籍が目に飛び込んで来た。視力の低い裸眼を必死に細めてタイトルや本の種類を探るまでもない。こんな風に書籍を部屋に積んでいるのは、六天の内では一人しかいない。 ああ、伊勢の部屋か。そう思って再び眠りに意識を任せようとした時、「隊長」と声を掛けられて、意識がぱちりと開く。 声の主は果たして直ぐ近くに居た。見上げる貴広の視線の先で、柔らかな表情を形作った部下が──貴広の想像した通りの部屋の主が、こちらを見下ろしている。 「……伊勢」 「まだ眠り足りなさそうな所で恐縮ですが、起きて下さい」 「……………」 寝台に腰を下ろしていた伊勢はそう言って、読んでいたらしい本に栞を挟んで立ち上がると、コップにボトルから汲んだ水を、のろのろと背を起こした貴広の手に持たせる。 「…何故起き抜けに叱られなければならんのだ」 「……これが、叱っている様に見えますか?」 「叱りたそうには見える」 コップの水をぐいと呷って言う貴広に溜息をついてみせると、伊勢は空になったコップを受け取って机上へと戻した。その動作を追う合間にちらりと時計を見上げてみれば、時刻は既に日付変更に近かった。最後に執務室に居た時の記憶は19時頃だった筈なので、どうやら結構な時間を眠って仕舞った様だ。 「これで何度目かお解りですか?」 仕事の進捗はどうだったか。あやふやな記憶を辿りながら欠伸を噛み殺す貴広に、溜息混じりの伊勢の声が飛んで来た。何の話だろうかと思わず首を傾げる。 「……ん?」 「執務室での寝落ちです」 珍しくもじとりとした目と共に言われて、貴広は「あー…」と目を游がせた。どうやら伊勢の憤りの様なものは、執務室で寝落ちをしていた貴広の生活態度に起因しているらしい。 寝落ちから、伊勢の部屋へと運ばれ寝かされたらしいと言う所まで現状を理解した貴広は、上着を脱がされネクタイを外されシャツのボタンも弛められ、ベルトまで丁寧に抜かれている事までを更に気付いて、どうやら伊勢にそこまでの手間を掛けさせて仕舞った事も、視線に込められた批難の意に含むのだろうと察した。 「…いやな。だから、それならその場で無理矢理にでも叩き起こせば良いだろ。前もそう言ったと思うが。お前がいちいちこうして面倒など看てくれるものだから、」 「疲れた顔を晒して寝落ちしている貴方を、叩き起こす訳にもいかないでしょう」 真顔で返されて貴広は頭を抱えた。寝落ちと介抱されている現状を責めるぐらいならば、最初から文句を言えばそれで幾分かは済む話だろうに、伊勢の性分が話をややこしくしている。 「それを構わんと言ってるのだろうが。言っておくがな、お前たちがいちいち俺に甘くするから、俺が付け上がるのだぞ」 「……威張って仰られる事ですか。大体、私が申し上げたいのはそこではなく、そんなにお疲れになる前に休んで頂きたいと言う方ですよ」 「…そうは言ってもな。どうも限界が来る前に眠ると言うのが、上手く無いと言うか…」 固くなる語調と共に、ずい、と顔を寄せて言う伊勢から少し仰け反って距離を取りながら、貴広はしどろもどろになって呻いた。 貴広は養成所での訓練で、どんな環境であっても短時間で効率的な睡眠を摂ると言う事には慣れているのだが、敵地への遠征中ならばまだしも、緊張感のない日常ではどうにもそれが難しいのだ。朝も昼も夜も時間通りに動くし、本社内で何か非常事態が起きる事などほぼ無いから、突発的な緊張感も訪れない。そんな中で、軽く仮眠でも摂ろうと思ったら仮眠のつもりが本気で眠って仕舞いかねない。 何もない時であれば、仕事は終わらせれば後は定時だ。だから下手に仮眠を選ぶよりも、それまでの時間は動いていた方が良い、と、いい加減な考えの元に脳が動き続けて、そしてふつりと限界を迎えて眠りに落ちる。そんな事の繰り返しなのである。 「元々余り、集中力は高くないんだよ。現場や任務に関わる様な義務感が働けば別だが、経理とか明らかに直接的に関わるものでないのはどうもなぁ」 布団越しに抱えた膝に顎を乗せてそう、唇を尖らせてみせる貴広に、伊勢は何やら疲れた様な仕草で溜息を投げて寄越した。 「今時、ゆとり社員でもそんな事は言いませんよ」 「ゆとっていようがいまいが、仕事内容を選ぶ権利などカンパニーには元から無いだろうが」 反論が段々と単なる愚痴へと転じようとしている事に気付いた伊勢が目をそっと眇めるが、気付かない振りをして貴広は続ける。こうなればとことん愚痴ってやろうと言う腹である。 「それにな、元々管理職に就く気だって無かったんだよ。だと言うのに、気がついたら情報部の肝煎り部隊の隊長と来たものだ。確かに幹部養成組として育成された事は認めるが、そもそもに選択肢などある訳もないのだから、そればかりはどうしようもないだろ」 流れる様に紡がれる上司の言葉に、伊勢は口を挟みはしなかった。ただ、促しも相槌も打たず黙った侭で、細めた目の前にある眼鏡の位置を指先で軽くなおす。 相槌のない独り言は大体が気まずいものだが、気にせずに貴広は続ける事にした。返答が無い以前に、こんなものは何の意味も無い泡の様な言葉でしかないのだ。構うまい。 「そこに来て、俺が、机に向かうよりも頭と体を動かしている方が向いている事ぐらい解ってるだろうに、機密がどうとか言う建前を並べて、事務方の人員はおろか秘書一人も回せないとか、人事部のイヤガラセでしか無いだろ」 最早意見や言い訳や会話ではない。完全に全方位に向いた愚痴の散弾へと変わった事を、貴広の一度吐き出したそれが易々止まらないだろう事をそこで確信したのか、伊勢は諦めた様に苦笑しながら腰を浮かせた。 「アルコールでもお持ちしましょうか」 「水の肴にはもたれるか?」 「いいえ。少しぐらい酔って下さった方が、すっきりと眠って頂けるかと思いまして」 仕返しのつもりで上げた口角が、返る伊勢の一言でまた下がる。膝の間に乗せて傾けた首で伊勢の笑みを見上げながら、貴広は態とらしく舌を打った。 「…いや、良い。愚痴を吐き過ぎて二日酔いになる訳にもいかんからな」 「そうですか」 貴広のむすりとした表情など意に介した様子もなく、伊勢は元通り寝台に腰を下ろしてにこりと微笑んでみせる。先程から既に笑んではいたのだが、更に恣意的になった。この、穏やかさや人の善さを絵に描いた様な優しげな風貌をした部下が、存外に食えない男である事は貴広もよく知っている。 苦虫を噛み潰すどころか、奥歯で磨り潰す心地で大仰に溜息をついてみせると、貴広は座った侭で指を噛み合わせた両掌を前方へと伸ばした。今更ながら、寝心地がお世辞にも良いとは言えない机で眠っていた事に対する負債でだろう、身体のあちこちが痛い事に気付かされて、自然と眉が寄った。それ見た事か、とばかりの顔をされるのは癪だと思い、ごくごく自然な動作で伊勢の方から目を逸らす。 然し貴広のそんな内心など、伺うまでもなく察していたらしい、伊勢は口元に手をやって忍び笑う。隠す気のまるで無い笑みを背けた項で受けた貴広は、ばつの悪さを憶えながら、くすくすと笑う己の右腕を睨んだ。 「……そんなに笑える事か?」 「いえ。可笑しい訳では無いのです。すみません。微笑ましかったとでも申し上げましょうか」 「上司をやり込めて楽しむなど、趣味が良くないな」 弁解する様に言いながらも笑みの気配を消す様子のない伊勢であったが、いよいよ唇を尖らせる貴広に気付くと、態とらしい咳払いを挟んだ。「とにかく、」と少し硬さの混じった語調で紡ぎ、膝の上で掌を組む。 「隊長がお忙しい立場である事は重々承知です。我々が常に補佐に回れるとは限らないと言う事も。でも、だからこそ、休まれるのであればきちんとお体を休めて頂きたいのですよ。隊長お一人に無理を強いる事は我々の本意ではありません」 「………」 重ねて言う形だが、要するに、執務中にうたた寝をする事など論外と言う事である。布団越しに抱えた両膝に顎をだらりと乗せた貴広は、果たしてどう返したものかと、輪郭の曖昧な思考の侭に考える。 確かに伊勢の言う事にも一理あるとは思うのだ。貴広の性分は元来面倒臭がりな所があって、仕事と言う必須事項にそれを出さない分、仕事に付随して生じる部分にそれが反動の様に出る。つまりは、時間管理を怠り己の疲労を見誤ると言う部分の事である。 伊勢の言うそれが、ただの上司への小言や苦言ではなく、心配に起因しているものである事は解る。故に貴広は真っ向から伊勢の進言を躱す事も、過ぎた真似だと言い張る事も出来ないのだ。 そうして結局は折れる。なまじ正論過ぎず、情に訴える訳でもない、ただの部下の善意でしかない言葉に、貴広は酷く弱い。その事に自覚はあるが、無碍に出来る程に傲慢でも居たくはない。 「………俺も大概だが、お前も結構面倒臭い性格だよなあ」 捨て台詞だと思ったが、そうぼやいて、貴広はぱたりと仰向けに倒れた。自分のものではない枕の硬さに後頭部を沈めて目を閉じる。 「お褒めに預かり光栄ですよ」 生真面目な性分の部下の放つそれは、嫌味かそれとも冗談か。ふ、と鼻から抜ける様な調子で寄越された言葉に貴広はそれ以上の意味は求めない事にした。果たしてそれは正しい判断だったのだろう、続きも咎めの言葉も降っては来ない侭、目蓋を下ろした貴広の肩まで布団がそっと上げられ、「お休みなさい」と小さな声で囁かれる。 それから静かに伊勢が立ち上がって、離れて行く気配。ぱちん、と小さな音と共に室内灯が消えて暗くなるのを、閉ざした目蓋の裏側から見上げる。 その後も伊勢が物音を出来るだけ立てぬ様に気遣っているのが解る、そんな挙措を感じ取った貴広は、掛けられた布団に顎先を沈めてそっと息を吐いた。 部屋に担ぎ込む手間をかけさせられ、更には寝台まで占領されていると言うのに、伊勢の声の質も行動も、何処までも穏やかで物静かで気遣いに満ちている。 さて、こいつは一体どこで眠る気なのだろうか、と少し考えた貴広であったが、わざわざそんな事を、して貰っている身で問うのも馬鹿馬鹿しいと思って、半ば自棄の様に目を更に固く瞑った。 休んで貰いたいと言うだけであれば、貴広の部屋へと連れて行けば良かっただけの話だ。起きた所でうたた寝に対する文句をつけて、後は寝かしつけて帰ればそれで良い。 でも、そうしなかった。何故だろうか。 放っておけばきちんと眠らないとでも思ったのか、或いは。 (………考える迄もない事か) 閉じていた片目を薄く開いて、眼球をそっと動かす。眼鏡のない貴広の視界は暗闇で更に曖昧にぼやけてはいたが、脳が記憶にある風景を自然と補完する。 片付いた室内には、同じく片付けられた書棚があり、その傍らには机が置いてある。探し回るまでもなく、伊勢はそこに向かって真剣な様子で筆を執っていた。 矢張り、と。浮かんだのは呆れか諦めかそれともそれ以外の何かだったのか。 点けられたノートPCの液晶のぼやりとだけ照らす机の上には、恐らく貴広がこなしている最中に寝落ちした分の仕事があるのだろう。 キーボードを叩く音と、ペンを動かす音とを暫しの間黙って聞いていた貴広だったが、やがて、「伊勢」と声を発し、呼んだ。どことなく溜息の混じった声音に、伊勢が振り向くのが明瞭ではない視界の中に映る。 「寝付けん」 「すみません。煩かったですか?それとも眩しかったでしょうか…」 椅子に座った侭こちらを向いた伊勢が、決まり悪そうに言って寄越すのに「そうではなく、」とかぶりを振った貴広は、掛けられた布団の中でもぞもぞと動くと、寝台の端へと寄った。 「ただ、寝付けない。…寒いし。寝慣れないし。添い寝でもしてくれ」 「…………」 もっと上手い言い種は無かったのか。即座にそう思うが、口にして仕舞った以上はどうしようもない。布団に顔半分まで潜り込んで壁を向いた貴広が密かに唸るのには気付いているのかいないのか、伊勢が絶句している様な気配だけは感じる。居た堪れない。 「……その。普通の」 何とか誤魔化そうとつい付け足しておいて、何がどう普通なのだと己に問いて、貴広は頭が痛くなった。未だ寝惚けているのだと言えたらどれ程楽だろうか。 もういっそ眠ったふりでもしようかと貴広が考え始めた頃、ノートPCをぱたりと閉じる音と共に辺りが再び暗くなった。その中を近づいて来る衣擦れの音。続けて寝台に手をついて座る、伊勢の声。 「…隊長がそう仰るのであれば、仰せの侭に」 それこそ伊勢に言わせる所の『微笑ましさ』でもありそうな笑んだ声と共に、ぎしりと音がして、壁を向いた貴広の背を向いた伊勢が横になって、布団を引き上げた。 一人用の寝台だから、当然の様に大の男二人が並ぶと狭い。布団を掛けた手が、布団の上から背に乗せられているが、気を遣っているのか重みは感じない。 「……隊長」 殆ど触れ合っている体温に、ふ、とささやかな吐息が差し挟まった。貴広の項辺りに伊勢の額が押しつけられて、息遣いを感じる。 「明日、続きを手伝いますので。ゆっくりとお休みになって下さい」 下手な気遣いを、と思ったかも知れないが、伊勢はわざわざそんな事を指摘する程に無粋では無かった。布団ごと包み込まれる様な気配に貴広の意識は落ち着いて、目蓋も自然と落ちている。 甘やかされているな、と思いながらも、悪い気はしない。困った事にも。 「………お前も。おやすみ」 布団の中で窮屈な素足を、とん、と触れさせて言えば、「はい」と大真面目な声音で返された。 隊長は口下手なので、一瞬真面目に取るお伊勢を度々意図せず困惑させていればいいよって。お誘いなのか方便なのかを酌んでやる所までが右腕の仕事です? ↑ : |