ケルベロス第五の首

※十年前のPIXIES妄想。
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 特殊情報課所属のエージェントなどと言うと、現場仕事しか無い、いわゆる実働部隊であるとよく思われがちだ。
 だが実際どんな業種だろうがどんな部署であろうが、何かと書類仕事は付き物だ。事務方に比べればその量も質も大した事が無いのは確かだが、任務の後には体裁通りの報告書を納め、金銭や備品の要請そのほか、まあ兎に角現場が本業であるエージェントとは言え、机に向かってする仕事は何かと多い。
 況して貴広は隊長と言う管理職にある。提出された報告書に目を通して確認と修正を行い、上への報告として纏め、更にはそこから先の作戦行動のプランも考えなければならない。
 情報を武器に価値にと扱う部署なだけあって、その鮮度は非常に重要だ。つまりは、特殊情報課の書類仕事の期限は短い。物によっては数時間で成さねばならないなどと言う事もある。時に、部下が命懸けで得て来たものを確実に活かす為には、どうしたって貴広の仕事の出来が関わって来る。
 そんな訳で、今日も貴広が必死に机に向かうのを横目に、伊勢はそっと立ち上がるとコーヒーを入れた。机の上、貴広の手の邪魔にならない範囲に無言で置けば、礼もそっちのけで伸びて来た手がまだ熱い中身を啜る。
 「熱いですのでお気を付けて」
 「あぁ」
 一応注意を促しはするが、完全に手元の書類に集中している貴広は気もそぞろに、そう投げる間にも忙しなくキーボードを叩き、書類に向けてペンを走らせ、眉間に皺をぐっと寄せている。
 伊勢は貴広の秘書の様な仕事も請け負っている。と言うのも、そもそも特殊情報課で秘書を雇い入れると言うのがまず非常に難しいと言う事情がある。何かと機密の多い部署であるだけに、中途採用など余程の事が無ければ有り得なく、信頼のおける人材の確保が困難なのだ。
 そこに来て、秘書を雇用したいと言うのが、PIXIES擁する漆黒の神崎などと呼ばれる人外だ。少なくとも名声の面ではかなり一人歩きしているその称号や名が災いして、秘書の募集をかけた所で希望者など常にゼロだ。正しく、人が畏れ近づきたがらない、そんな職場なのである。
 そんな次第で、貴広同様に元々は現場一筋の人間であった伊勢も、やらざるを得ないと言う事情も手伝って、今では立派な秘書役として貴広の事務面での補佐を行える様にはなった。
 モニタを凝視しながらコーヒーを啜る貴広の横顔からその集中の度合いを確認すると、伊勢は音を立てない様にして椅子に腰を下ろし、隊長の執務室に運び込んである自分用のノートPCに向かった。今貴広の行っている報告書作成の手伝いは出来ないが、今月分の予算の調整の仕事はほぼ手つかずの侭に残っている。それを片付ける作業に入るのだ。
 手さえ空いていれば五十鈴や雪風もこう言った事務仕事をこなすべく駆り出されるのだが、今日は生憎と二人ともそれぞれ別の任務に出ている。と言うか正確には、PIXIES六天で本社に現在残って居るのは、貴広と伊勢の二人だけである。
 残る他の三十天たちも大半が外地任務に出されており、この伊部隊のオフィス棟はいつもより大分静かであった。
 そんな中で出来る事はと言えば、二人揃ってひたすら執務室に籠もって書類と格闘と言う訳である。伊勢は電卓とキーボードとを叩いて帳簿にペンを走らせながら、これは仕事が終わる頃には相当のストレス値になっているだろうと経験から判断する。自分もだが、貴広の方はもっとだろう。仕事が上がったら、外に酒や食事に連れ出した方が良いだろうか。

 やがて、伊勢の腕時計がアラームを鳴らした。就業時間はもう終わりだ。音に気付いた貴広はモニタから顔を起こすと、両腕を上に上げて伸びをした。
 「就業時間は終わっても、こちらはまだ終わりとは行かないな」
 「残りはどのぐらいになりますか?」
 伊勢の見ていた帳簿の方はもう概ねが終わっている。今すぐにでも追加の領収書が届かない限りは特に問題はないだろう。チェック作業は疲れた脳で続行するよりは、後からやった方が良い。ノートPCを閉じた伊勢は貴広のデスクに向かうと、横からその手元を覗き込んだ。
 「まぁ殆どは片付いた。これなら残業にする必要は無さそうだ」
 終わりが見えていたからこそ、アラームの音に反応をしたのだろう。伊勢は一つ頷くと、貴広の飲み終えたコーヒーカップを片付けながら言う。
 「隊長。この後はお暇ですか?」
 「ん?特に何もないが……、と言うかお前はどうせ俺の予定ぐらい把握しているのだろうが」
 「それはそうですが、一応お訊ねしておこうかと」
 「……そこは否定しないのだな」
 右腕として隊長の予定の把握をしておく事ぐらい当たり前だと伊勢は思っている。過干渉と言われようとも変えるつもりは無いので、当然の様にしれっと答えた伊勢に、呆れとも諦めともつかぬ溜息を返しつつ、貴広は再びキーボードを叩き始める。然しその表情は先頃までの難しい顰め面とは異なり、穏やかなものだ。矢張り終わりが見えていると気が随分と楽になるのだろう。
 「宜しければ、食事ついでにお酒でも如何です?」
 続けて机の上の書類をファイルに片付けながらの伊勢の問いに、貴広は手は止めぬ侭に「んー」と考える様な素振りで唸った。
 「お食事だけでも構いませんが」
 「うーむ……、」
 重ねた問いに貴広は少し困った様に眉を寄せた。手を止め、頬杖をつくと、傍らにやって来た伊勢の姿をその侭見上げる。
 「一日中机の前に座っていて、肩も腰も痛んで仕様が無いし、フラストレーションも溜まっているからな…。提案そのものには賛成するが、遠い所や堅苦しいのは勘弁願いたい」
 良い店はあるのか、と問われて、伊勢は胸ポケットからスマートフォンを取り出した。以前に調べてあった幾つかの情報を検索し直す。
 「大衆向けのオステリアと、中流向けのレストランが、本社から近くて手頃で、味も申し分ないと、以前他部署の者から聞いています」
 要するに世間話程度にお勧めを貰ったと言う事だが。言って、伊勢はスマートフォンの画面に表示された検索結果を確認した。後者は今日日珍しい準シェフを擁している店で、中流階層向けの価格帯の割に評判が良い。そして前者は食事はシェフ作とは行かないが、酒の品揃えが良いらしい。
 画面を向ければ、貴広はそれを覗き込んで「ふむ」と頷いた。再びモニタへと向き直ると、キーボードをかたかたと叩きながら言う。
 「アルコールが欲しいからな。気楽な大衆向けにしよう」
 「解りました。ではその様に」
 貴広の結論に、伊勢はスマートフォンを手早く操作し、店に予約を入れた。
 (気にかかる事はあるが…、さて、どうしたものか)
 我知らず和みつつあった目元を引き締めると、伊勢は貴広の仕事が上がるのを待つ間、店までの経路を確認しておく事にした。
 目的の店は少し本社からは離れた区域にあるが、移動には小一時間もかかるまい。本社の周囲はカンパニーの関連施設の中枢機能が密集しており、一つの機能性都市と言った様相をなしている。その中にも無論様々な食事処はあるのだが、カンパニーのお膝元と言う時点で、従業員にアンドロイドも多く常に何らかの監視網が働いているから、事情を知る内部の人間からすると非常に落ち着かないのだ。そんな中で到底ゆっくりと食事を摂る気持ちになどなれる筈もない。
 それから三十分程度が経過した頃、貴広が漸く、大きな息をついて「終わった…」と呻いた。データを外部保存したUSBメモリを引っこ抜きながら、眼鏡を外すとキーボードに突っ伏して仕舞う。
 「お疲れ様です」
 「あぁ…」
 余程に堪えたのか、眼鏡を外した目元を親指の腹で揉みながら、貴広はその侭暫し目を閉じた。今にも眠って仕舞いそうに見えるが、眠いと言うより単にもう動きたくないだけの様だ。
 「…よし。ではそろそろ行くか。仕事上がりの一杯を楽しみに」
 「はい」
 やがて一息ついて眼鏡をかけ直した貴広が荷物をまとめながら立ち上がるのに続いて、伊勢も自分のノートPCを小脇に抱えた。ここに置きっぱなしにする訳にはいかないから、一度部屋に戻って置いてこなければならない。
 「落ち合うのはエントランスで良いか?」
 執務室の在室表示をオフにして、電気の消し忘れなどが無い事を律儀に確認する貴広に、伊勢は今日は誰もおらず静かなオフィスを見遣りながら言う。時期が時期と言うのもあるのだが、ここまで見事に人員が出払っているのは滅多に無い事だ。
 (これを偶然と、確信を持って言えるのであれば気も楽だが…)
 生憎とその『確信』に至る判断材料が足りない。諦めの名をした結論に、伊勢はそっとかぶりを振った。
 「…いえ、車を出しますので、エレベーター前でお待ち下されば」
 「了解した」
 言って、ひらりと手を振った貴広がエレベーターホールの方へ歩いて行くのを見送ってから、伊勢は居住棟の自室へ戻り、仕事に使った荷物を机に戻した。引き出しから車のキーを取り出してポケットに放り込む。
 エレベーターで一気に地下駐車場へと下りると、貴広が壁に寄りかかって待っていた。長時間のデスクワークで凝って仕舞ったのか、首をこきこきと鳴らしているのを促して、車に乗り込む。
 伊勢がいつも通りに後部席を開けようとしたら、手の仕草だけでそれを留めた貴広は珍しくも助手席に乗り込んだ。シートベルトを締める彼にそれとなく問いてみれば、「眠くなりそうだからな」と笑み混じりの答えが返って来る。
 車は社用車ではなく伊勢の私物だが、駐車場はこの通りカンパニーの駐車場を使っているし、本社周辺を移動する時にこうして偶に使う以外では殆ど乗っていない。外地任務で運転する事は多いが、その場合は乗り物を現地で調達するのが普通だ。
 本社の周囲には鉄道やトラムと言った交通網が発達しており、カンパニー籍を持つ者ならば簡単に利用出来ると言う事もあって、PIXIESの六天では伊勢ぐらいしか車の所有者はいない。免許に関しては普通から特殊から航空機まで、皆取得しているのだが。
 プライベートの移動の際には便利ではあるのだが、余り利用する事はない。そんな車が滑る様に静かに走り出して、日のすっかり沈んだカンパニーのビル群の狭間へと出て行く。
 道は幸いにか混雑しておらず、整えられた賑やかさを保つ町中を、先頃確認したルート通りに伊勢は車を走らせていった。
 やがて、頬杖をついてサイドミラー付近を見つめていた貴広が、不意に思い出した様に眉を寄せた。
 「……と言うか伊勢。車と言う事は、お前は飲まないのか?」
 伊勢は怪訝な表情を浮かべてそう問いを投げて来た上司の顔をちらと見遣る。ここまでその考えに思い至らなかったと言う事は、矢張りその疲労は酷いらしい。
 「ええ」
 「人には飲みを勧めた癖に何故?」
 お酒でも如何だと言っただろうに、と唇を尖らせる貴広に、赤信号で車をゆっくりと停車させた伊勢は小さく笑う。
 「最初はご一緒するつもりでしたが、想像以上に隊長が疲れておられるご様子でしたので。お気遣い頂かなくとも、私は隊長ほどには疲れていませんから、元々余りアルコールに浸る気はありませんでしたし」
 すると貴広は前方を見つめる伊勢の横顔をむすりと渋面と共に見つめて、はあ、と態とらしい仕草と共に嘆息した。
 「上司が潰れたのを介抱する役に徹すると言う事か?真面目か」
 「まぁ、そう受け取って頂いて問題無いかと」
 「素面の部下を前に上司だけへべれけになるとか、気まずい以外の何でも無いだろうが」
 「一向に構いませんよ?」
 車と言う手段を選んだ時点で、伊勢にはアルコールを一滴たりとも入れるつもりはなかった。公共交通機関を用いるとつい油断が出て少しは付き合って仕舞うだろうし、そうなると万一にでも潰れた貴広を介抱するにも支障が出る。タクシーは無人の自動運転車だが、乗客の記録が映像ごと残されるから余り宜しくない。
 「そりゃあ、お前はそう言うだろ」
 落胆したのか呆れたのか、少し投げ遣りな調子で言って貴広は肩を竦めた。
 「それに、酔った隊長を余り衆目に晒したくはないもので。気が気でないですから」
 「出たな、過保護め」
 冗談交じりに笑いながら言う伊勢に、ふんと息を吐いて返すと、貴広は再び視線を外へと投げた。これ以上言い募る気は無いと言う事だろう。単に疲れていて、千日手の様な言い合いが億劫になっただけなのかも知れないが。
 (警戒…、とは言わない方が良いな。最終的には『過保護』とまた罵られるだけだろうが…)
 このカンパニーのお膝元で何かがある、とは断定出来ないが、PIXIES三十六天がそのトップ2を残して不在と言うケース自体は非常に珍しい事だ。『何か』が起きてもおかしくはないと疑える程度には。
 それならば余計に、本社の敷地を出ない事が安全──とも言い切れない。何しろPIXIESの敵は中にも外にも居るのだから。
 
 *

 それから暫く静かな移動が続き、港湾部付近の繁華街で伊勢は車を停車させた。目的地から徒歩三分も離れていない時間貸しの駐車場に停めて、徒歩で店へと向かう。
 店は繁華街の食堂の連なる一角に位置しており、テラス状のオープンスタイルの席は時間も相俟ってその殆どが埋まっていた。職業柄、動きが取り難く逃げ場の少なくなる建物の奥を好まない二人なので、伊勢が予約を取ったのも、店の角に張り出した席である。
 適当に注文をすると貴広はネクタイを弛めて息をついた。端から見れば仕事帰りの若いサラリーマンと言った風情だ。やはり立地上客にはカンパニーの関係者が多い為、町の至る所に同じ様なスーツ姿の人間が居るので、その存在は見事に風景に埋没している。
 付近のテーブルからは他の客の頼んだ食事の、レトルトとは言え食欲をそそる匂いや、アルコールによる浮いた気配とが漂って来ている。そこで空腹を思い出しでもしたのか、貴広はワイシャツの上から胸の辺りに手をやった。
 「一日中座って仕事をしているだけでも、寝ているだけでも腹は減る。人間と言う生き物はどうしてこう燃費が悪いのだろうな」
 「生物、とりわけ食性生物の生命維持方法は、植物等と比べると非効率的ですからね。昨今では単純に必要な栄養素だけを効率的に摂取し続ける事で最低限の生命維持を行うと言う技術もありますが、非人間的であると言う指摘は絶えません。矢張り食を楽しむと言う行為が、人間的に、道徳的に、社会的に必要不可欠な要素である事は間違いない。確かに燃費は悪いですが、それを補うだけの価値の方が重要なのでしょう。少なくとも、通常の社会生活の上では」
 主に軍事方面や宇宙開発方面の一部では既に採用を見ている技術だ。敵地での長期任務や作戦待機中には栄養素を摂取出来るゲル状の『食事』で過ごす。空腹感は感じる様だが、生命活動を維持する為の栄養素は足りているので、作戦活動に肉体的な支障は出ないと言う。
 とは言え植物状態の人間とほぼ変わらない状態になる為に、任務状況も相俟って多大なストレスをもたらして仕舞う。その為に飽く迄『非常』時の手段として技術開発されたものなのだが。
 「…ま。確かに、古来から食事と言うのは、駆け引きの手段であったり、娯楽であったりと言う側面を持っていたからな。効率の悪さをこそメリットと考えるのは頷ける」
 紋切り型な伊勢の言い種に頷いた貴広の前に、やがて注文したワインが運ばれて来た。高級なものではないのもあって、貴広は気軽な手つきでグラスの足を取り、乾杯の仕草をしてみせた。
 「では、悪いが遠慮無く飲ませて貰うとするが、今度からはちゃんと付き合え。効率の悪い食事とやらと同じで、一人で杯を傾けてもつまらんだろうが」
 言うなり、空きっ腹だと言うのに思い切り飲み干す。マナーに煩い場であれば顔を顰められそうな行為だが、ここにはそれを咎める様な者もいない。
 何処か拗ねた様にも見えなくもない上司の態とらしい不機嫌顔と態度とに苦笑すると、伊勢も付き合ってノンアルコールのドリンクを口にした。
 「…そうですね。心得ておきます」
 素直にそう言えば、鷹揚に頷いた貴広の目元が少し和らいだ。慣れないデスクワーク続きに凝り固まっていた全身も精神もほぐれて来て、下らない世間話の様な会話にも花が咲き始める。それがアルコールや食事と言う行為によるものと言うのは少々残念だが、貴広の疲労が取れて気が少しでも休まれば良いと伊勢は思う。
 「……だからな、俺は思う訳だが…、」
 段々と貴広が饒舌になって来た頃合いを見計らって、伊勢はスマートフォンを使って会計をさっさと済ませた。時計を見遣れば時刻も大分遅くなっていて、店の客や街路を行く人も随分と減っていた。
 貴広はアルコールを入れるとやたらと饒舌になる。頭の中の思索を独特の言い回しで垂れ流すそれは少々婉曲した愚痴の様なもので、聞き手がどう言う態度でいようが構わず続けられると言う特徴がある。
 酔い潰れて仕舞う程に理性や正体を無くしている訳ではなく、くだを巻いて人に絡む事もない。つまりは基本的には素面と大差ないのだが、ただただ饒舌なのだ。普段の、淡々とした調子で最低限の言葉を放つだけの神崎貴広しか知らない者が見れば、それなりに驚く姿ではある。
 「隊長。そろそろ引き上げましょう」
 饒舌な言葉の切れ目でそう切り出せば、貴広は漸く気付いた様に腕時計を見下ろした。「もうこんな時間か」とぼやく様に言うと、空になったワイングラスをそっと手放す。
 「会計…、」
 「もう済ませておきました」
 「伊勢よ、こう言う時は上司が支払うと言うのが普通だろうが。仮にも部下に、酒を飲んで奢られるなど体裁が宜しくない」
 「デジタル処理ですので、体裁も何もありませんよ。それに、隊長がお疲れの所をお誘いし連れ出したのは私の方ですから」
 「そう言う問題ではないだろう。全く、お前の気の回る所は普段は頼もしいと思えるが、こう言う時は賢しいとしか思えん」
 まるきり酔いが無い訳では無いからか、ぶすりと唇を尖らせて抗議を寄越した貴広はなおもああだこうだと小言の様に続けるが、慣れたもので、伊勢はほどほどに聞き流す。
 車の元へ戻ると、念の為に伊勢は、車輌に何者かの細工が無いかと注意深く探ってみる。が、特に異常は見当たらない。そうする間に、まだぼやき調子でいた貴広が、今度は後部席に自分から乗った。
 酒も入れ、腹も膨れて、程良く愚痴も吐けた。揺れる車中での移動時間を眠らずに居る事は難しいと判断したのだろう。貴広はこう言った効率的な行動は見栄だの外聞だの自尊心だのを無視して行う。根っからエージェントとして教育された本能がそうさせるのだろう。
 「着いたらお知らせします」
 「……すまんな」
 エンジンをかけながら言う伊勢の後頭部を、貴広は寸時何か言いたげに見はしたものの、大人しくそう言うと目を閉じた。賢しいとかそう言った類の事をまた言いたかったのだろうが。思って伊勢は苦笑しつつ、シフトレバーを切り替えた。アクセルを踏んで車を出す。
 腕を組んで目を閉じた貴広の眠りが瞬時に深くなるのを、寝息の質から伊勢は聡く聞き取った。矢張り現場の方が得意な人間に長時間のデスクワーク続きと言う生活は、肉体的と言うよりは精神的な方面で堪えると言う事か。
 上司と部下と言う体面を気にしていたと思ったら、その数分後にはもう、己のコンディションを維持する為にはそう言った事は一切気にしない。
 カンパニーの養成所、とりわけ情報課のそれでは、人付き合いや人心については知識として叩き込まれる。信念や好みなどと言う個人的な感情を排して、計算と利益の為に動き、それを躊躇わない様に。
 『そういう』効率的且つ無駄のない行動の遵守を徹底して教え込まれるから、貴広は酔って肉体が睡眠を欲する侭に行動した。部下に運転させていると言う体面上の問題は、その場合は気にするべき事項では無いのだ。
 それが、物心ついた時からエージェントとしての鋳型に収められた者にとっては普通の振る舞いであると、伊勢も無論知っている。
 ひょっとしたら、神崎貴広はPIXIESの隊長と言う自分を、部下との関係性を円滑に保つ為に無意識に演じているのかも知れない。上司だけ飲むのは体裁が悪いなどと口にしたそれは、果たして彼の本心から出たものなのか。それとも、普通の上司と言う人間ならそう言うのだとすり込まれた知識から振る舞っているのか。
 そんな考えがふと浮かんだが、伊勢はそっとかぶりを振る。
 (……まぁ、素だろうな。少なくとも、部下を気にかける事に関しては元々の性格に世話焼きな所があるからだろう)
 ただ、優先事項を解っていて、ついでに言うと伊勢ならば任せて問題が無いと、そう言う前提に基づいて行動をしているだけなのだ。そんな上司の分析に関しては、伊勢には誤りではないと言う自信がある。
 (全く…)
 日頃は過保護だの賢しいだの気を回し過ぎだのと小言を言う癖に、その当人が部下のそんな部分に何の疑問も抱かずに甘えるのだ。
 仕方がない、と伊勢は笑う。尊崇する程の対象にある者が当たり前の様に寄越してくれる信頼や期待を、一体誰が裏切れると言うのか。
 「………──」
 然しそこで、不意に違和感を憶えた伊勢は、ちらりとサイドミラーを見た。眼鏡の向こうで目が細まるのが自分でも解る。先頃から同じ何台かの車が後方を走っている。ローテーションがある様ではないが、兎に角幾度も同じ車ばかり目につくと言うのは偶然ではあるまい。
 道は時間もあってそう混雑してはいない。少し考えてから、伊勢は曲がる筈の道を間違えた素振りで通り過ぎた。次の交差点で、その間違いを取り戻す様に遅めの方向指示器を出してから曲がる。
 最も近くに居た車は直進して通りすぎたが、次の車は食らいついて来た。
 判断は易い。──尾けられている。
 「……」
 さてどうしたものか。ちょっとしたカーチェイスをやらかして、安全な本社の付近へと誘導し撒いて仕舞うのが定番だが、このタイミングでの尾行となると、相手はカンパニーの関係者と考えた方が無難だ。その目的が伊勢の当初思った通りに、PIXIESの概ねの人員が不在と言う隙に切り込もうと言う輩であるとすれば、尾行を撒いても意味はない。寧ろ撒こうとした時点で、尾行から襲撃に目的が変わる筈だ。
 そうなると撒くのは論外。何より、乱暴な運転をしたら貴広が目を醒まして仕舞う可能性が高い。
 伊勢はルームミラー越しに後部席で俯いて眠る貴広の姿を見る。着いたら起こすと伊勢が言ったのだから、起こされるまでは多少の事では目は醒まさない筈だが、流石に荒っぽい運転となれば直ぐに危機意識を感じて覚醒するだろう。
 (……已むを得まい)
 小さく溜息をつくと、伊勢は車の進路を裏路地へと向けた。飽く迄安全運転に務めながら、逃げ場の無い埠頭の方面へと進んで行く。
 そんな伊勢の運転から、尾行を見抜かれたと気付いたのだろう、追って来ていた車は最早隠しもせずに速度を上げて忽ちに併走に入った。そのサイドウィンドウが僅かだけ開かれ、中から消音器付きの拳銃の銃口が飛び出してこちらを向く。
 (飽く迄静かに事を成す腹積もりか。市街地を想定して来ているのであれば頷ける判断だ)
 銃口から発射された弾丸は、然し伊勢の運転する車にすら当たらなかった。トリック映像の様に、着弾寸前で空中にぴたりと静止し、走り去って行く車に取り残されてその場に留まって、落ちる。
 (社内の者であれば、通常の火器で重風を貫ける筈はないと知っていそうなものだが)
 と、なると社内の人間に雇われただけの外部のエージェントと言う可能性もある。それならば生きた侭捕らえて首謀者の名前ぐらい聞き出したい所だが──、
 「…………」
 別に構わないか、と思い直した伊勢は、車を路肩にゆっくりと停車させた。天秤の傾きは実に簡単だ。殲滅ではなく捕獲と言う手間のかかる行動をして、貴広の眠りを妨げてまで得たい情報ではない。それだけの錘。
 シートベルトを外しながら見るが、貴広はまだ目を閉じていた。その侭起きないでくれれば有り難い、と思いながら車から降りて戸を静かに閉めると、細かな連続音が鳴るのが聞こえた。消音器を装着したARの発砲音だ。凄まじい速度で向かって来る弾丸は、然し矢張りその一発たりとも車に命中すらしない。
 その侭ARを乱射した車が、真っ直ぐに突っ込んで来る。車から降りて数歩離れた伊勢がそちらを見遣るのとほぼ同時に、車が壁か何かに衝突した様に突如ひしゃげて『潰れ』た。
 「私を殺す事すら出来ないと言うのに、隊長を害そうなどと──度し難い愚かさだ」
 後続の車たちはそんな光景を見てか、急カーブして停車した。夜道に耳障りなブレーキ音が響くのに伊勢は顔を顰める。神風の範囲もあって恐らく貴広の耳には届いていないだろうが、普通に耳障りな音だ。
 車外へぞろぞろと降りて来たのは、服装がバラバラで、目出し帽を被った男たちであった。それぞれ銃器を手にああだこうだと標準語以外の言語で叫んでいる。
 見るからに、単に雇われただけのアウトローたちだ。軍役従事者どころかテロリストですらない。恐らくはカンパニー籍と引き替えにとでも唆されたのだろう、こう言った名も籍も持たぬ不法滞在者は、本社付近にも多く存在している。
 (これは、何も知らされていない可能性の方が高いな)
 捕獲も尋問も矢張り必要無い。そう思うなり伊勢は、問答無用で発砲して来た男たちに向けた掌をすいと横に払った。途端、鉄をも切り裂く、圧縮された風が車ごと彼らを一瞬で細切れにする。
 余りにも細かく砕けたから、車は軽い音を立ててその場に折り紙か何かの様に崩れ、数秒前まで人間だったものたちがその周囲に落ちて、拡がる。
 正当防衛の証拠は幾らでも残っているから何の問題もない『作業』であったが、余り後味の良いものでもない。況してや旨い食事の後だ。
 はあ、と溜息をついて眼鏡を直した伊勢は、車に戻ろうと振り向いた所でぎくりと足を止める。後部席のドアはいつの間にか開かれており、そこに貴広が寄りかかる様にして立っていたのだ。
 「…起こして仕舞いましたか」
 「いや。元からそこまで寝入っていた訳ではないからな。何かがあるかも知れないと、お前もずっと気にしてただろ」
 肩を竦めて笑う貴広に、伊勢は糾弾されている様な心地を憶えて、己の過信と失態とを羞じた。伊部隊が空になるタイミングを狙った謀略などと言う自分でも考えつく様な事を、貴広も考えなかった訳が無いのだ。
 「……それは…、完全に私の未熟です。報告をしなかったのは、隊長のお手を患わせる迄も無いと思った次第ですが…、至らず申し訳ありません」
 隠すつもりならば──少なくとも何も報告や相談をせずに片付けようと思うのであれば、完全に隠し通せるだけの振る舞いをしなければならなかった。伊勢が完全に単独で事を成すつもりであれば、それを全く態度にも気配にも微塵も出す事がなければ、恐らく貴広は気付かぬ素振りで居てくれただろうに。
 「…ん?……ああ、いや、別に責めている訳ではなくてだな…、」
 そこで一旦言葉を切ると、貴広は市街地の中でスクラップになって転がる車たちと言う異様な風景を軽く見回して肩を竦めた。
 「これならば、寝入っていても問題無かったと思ってな」
 あふ、と隠さずに欠伸をしてみせながら、貴広はスマートフォンを取り出した。現場をこの侭にしておく訳にもいかないから、本社の処理班に報告を入れているのだろう。主犯が社内にいる以上、暗殺の失敗をも即座に悟られて仕舞うと言う事だが、気にした様子もない。
 (……それはそうだろう。この人にとっては、部下が全員揃っていようが、いまいが、自身の身を護る事に何か支障が生じる筈も無い。言うなればこんな事は些事でしかない)
 「すまないな」
 「…え、」
 思考の中に不意にそんな言葉が差し挟まれて、伊勢はぱちりと瞬きをした。己でも間が抜けていると思える様な、唖然とした声の向いた先で、貴広はスマートフォンを懐に戻した。顎を擡げて夜空へと視線を投げると、車体に背を預ける角度が増して、脱力した様にだらりとした姿勢になる。
 「連中の狙いはどうせ俺だろうが。お前の手も気も、煩わせたのは俺だ。お前が謝る必要など何一つ無いだろ」
 長めの前髪がさらりとこぼれてその表情を隠す。手の届くに易い至近で、然しその目は何処か遠い奈辺へと向けられている。貴広の視線を追う事なく俯いた伊勢は、無言でかぶりを振った。
 「……だからこそ、です。貴方を煩わせるものは、些事であろうが人であろうが、敵う限りの全てを払うと自ら課しているのです。ですから、貴方にそう思わせて仕舞った時点で、事の責は私にあります」
 「……真面目か」
 本日二度目のそんな言葉は、どこか呆れた様な響きと小さな笑いと共に放たれた。
 「どうぞ、そう受け取って下さい」
 今度はきっぱりとそう言い切った伊勢の事を果たしてどう思ったのか。「ふは」と息の抜ける様な笑い声を漏らした貴広は、夜空へと投げていた視線を正面へ戻すと、その侭車の後部席に乗り込んだ。
 自分で扉を閉めた貴広に続いて、伊勢も運転席へと乗り込む。車通りも人通りも全く無い、静かな道には、車と、襲撃者だったものたちの残骸だけが残され、処理の時をただ待っている。
 「然し、『予期せぬ』トラブルで酔いも冷めたな」
 「…そうですね。非常に残念なお話ですが」
 「では飲み直すか。今度は運転して帰る必要の無いプライベートで」
 組んだ足を抱えて、貴広がルームミラーの中で笑った。伊勢も思わずそれに釣られて笑うと、「では、アルコールの調達出来るコンビニに立ち寄りましょう」と言って車を、惨劇の跡の様な現場からさっさとUターンさせる。
 上司と部下との円滑な関係を築く為と言うお題目だろうが何だろうが、先程一人で杯を傾けていた時よりも貴広が楽しそうに見えたので、もう構うまいと伊勢は思った。





お伊勢の人となりは正直不明瞭なのですが、律儀真面目なのは何となく察せるし、あの五十鈴の双子の兄なので、過保護度はもっと重症なんじゃないかなと勝手に想定している次第。

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