夢を見ている。
 あれからずっと、夢を見ている。
 醒めると泡と消えて仕舞う、果敢なく砕けるばかりのそれを、掴みたくて手を伸ばした。
 空気を切るばかりの指先は然しそれに届く事も無く、醒める。
 
 掴めるまで、夢をきっと見続けている。
 触れれば消えるだけのそれを求めずにいられないから、夢を見ている。



  神の還るところ



 ちょっとした山だと教えられた通りに、向かう道はそれなりに困難だった。ハイキングコースの様に整備されている訳でも無い山道は古い、大昔に壊れた石段の跡を辿って行く道程で、険しい程では無いのだが優しくもない。普段着にスニーカーと言う軽装で来た事を若干後悔しつつも、進むヤクモの足には澱みがない。
 元より運動神経は良いし、体力にもそこそこ自信がある。それに何より、持ち前の好奇心で以て、探検や冒険と言う言葉を想起して仕舞えば足取りは更に軽くなろうものだ。
 今住んでいる地域からも程近い、ちょっとした山中だ。ちょっとした、の言葉通り、市街を離れて直ぐ目に付く山である。と言ってもハイキングの出来る環境がある訳でもなく、何か名勝や史跡のある様な所ではない。地域の人々が山菜採りに良く立ち入る程度の山林は野放図に植物を繁茂させていて、人間の奥地への立ち入りを拒んででもいる様だった。
 そこをヤクモが訪れたのは、史跡と言う程ではないが、小さな社跡の様なものがあると聞いたからである。大学に通う合間を縫って、そう言った史跡の類を巡るのが、ヤクモの趣味と実益とを兼ねたフィールドワークの様なものなのだ。
 額に浮いた汗を拭うと、深い木々の隙間から差し込む眩しい日差しを見上げて、ヤクモはそろそろ目的地の近い事を知る。道の嘗てあった名残か、この辺りは木々の並びが綺麗で、藪の繁り方もそう深くはない。
 固い足場にアタリを付けて、しゃがみ込んで少し土を払ってみれば、石段の名残がすぐに顔を覗かせた。汚れた手をはたきながらヤクモは、あちこち崩れ落ちた石段の跡に沿って歩き始める。
 石段が元はあったと言う事は、大昔には人の往来が普通にあったと推測出来る。だが、その道の痕跡は今や殆ど残ってはいない。石積みの道を破壊するのは人力ではそう容易では無いだろう。土砂崩れなど何か天災が起きたか、はたまた。
 そう言った、明確な解答の無い想像をするのも楽しく、休みとは言えこんな所まで出向いてみて良かったと、心地よい疲れと合わせてヤクモは満足げに微笑んだ。
 「わ、」
 担いだリュックを背負い直し、急な石段の痕跡を慎重に追って行く。と、突然藪から鴉が派手に鳴き散らしながら一斉に飛び立ち、その嵐の様な羽音に思わず立ち竦む。
 ひととき辺りを賑わせた鴉たちはその侭木々に留まり、立ち尽くす人間の姿を見下ろしながら鳴き交わしている。黒い羽根や枯れ葉がぱらぱらと樹上から散り落ちる音さえも、針が落ちる様に鋭く静かな警告音を鳴らしている様だ。
 「……」
 まるで何か、触れてはいけない域に立ち入って仕舞った様な錯覚を憶えたのは寸時。滅多に誰も来ないだろう鴉の縄張りに、人間が無粋に踏み入って来た事に抗議されているのだろうと現実的に思い直して、ヤクモは再び石段を追った。と、視界に明らかに人為的と思しき物体が目に入る。どうやら目的地に到着した様だ。
 鴉への畏怖など振り捨て、思わず小走りになって仕舞ったヤクモは、取り敢えず目的地への到着を喜んで深呼吸をした。それから、付近に鳥居の様なものは見受けられなかったが、ぱん、と柏手を打つと一礼する。
 神社の息子と言う事もあってか、こう言った場所には敬意を払うべきだと言うのが、ヤクモなりの考えである。崇め方やカミサマの質は違うやも知れないのだが、他人の家に上がる時に「お邪魔します」と言う様なものだと思っている。
 「さて、と…」
 藪と森とで隠されていた参道から見れば、そこは未だ幾分開けていると言えた。とは言っても手入れのされている様な様子は数十年単位で無さそうで、辺りには丈高く雑草は覆い繁っているし、木々も生え揃って来ている。衛星写真などで見下ろした所で、一見野放図な山頂の風景にしか見えないかも知れない。
 目の前には、崩落し朽ちた社らしき建物の残骸。鳥居、狛犬、手水舎の類の痕跡無し。史跡を表す道標や碑の様なものも無し。然し建物のつくりは明らかに人家の類ではなく、社の様だ。形は崩れているのではっきりとはしないが、こんな狭い空間に人は住むまい。
 取り敢えずリュックを降ろすと、ヤクモは荷物の中から手帳とペンとを取り出した。スマートフォンで付近を撮影しつつ、手帳に気付いた事や感想などを書き記して行く。
 「……普通の、神を祀る類じゃ無いのかな。どのくらい前の物だろう?この地方独特の宗教とかがあるのかも知れないな…」
 通常に社に勧請する神の類を祀っている様子では明らかにない、奇妙な社をぐるりと周りながらヤクモは小さく呟く。余りに辺りが静かなので、自分だけでも声を出していないと、何だか居心地が悪く感じられて仕舞ったと言うのもある。
 地方に因って祀られている神、或いは人柱や英雄。そう言ったものを奉じていたのだろうかと思いながら、瓦礫の隙間を覗き込んではみるが、ご神体やそれに類したものは一切見えそうもない。恐らくは何も残ってはいないのだろう。
 「昔の街の中心地から見ると、丁度鬼門、艮の方角か…」
 情報は少なすぎるが、逆に興味が湧く。明確な解答は恐らく得られないだろうが、推論を並べ立てるだけでも十分に実りがあると言えた。少なくとも、ここまで山道を苦労して歩いて来ただけの分は取り戻せているだろう。
 壊れた社の周囲を見回せば、深い藪の繁る中に朽ちた道祖神らしきものがあった。ヤクモはその前にしゃがみ込むと、苔生した石像をまじまじと見つめてみる。ただの地蔵にも見えるが少し違う気もする。
 取り敢えず写真を撮ろうとスマートフォンを構えたその時だった。
 「よぉ」
 「!」
 突然背後から声が聞こえて、振り向いたヤクモはその侭尻餅をついた。悲鳴の類は辛うじて出なかったが、余りの驚きに心臓がばくばくと飛び跳ねている。
 「……や、驚かすつもりは」
 無かったんだ、と、降参でもする時の様に両手の平を胸の辺りに上げた姿勢でそこに居たのは、一人の男だった。化け物でも見た様なリアクションを取って仕舞ったヤクモに、逆に彼の方が面食らった様である。
 「…、…、…、」
 未だ突発的な驚きと、抜けた腰の戻らないヤクモは口を幾度か無意味に上下させた。何だ、とか、誰だ、とか、恐らくそう言う類の言葉を紡ぎたかったのかも知れないが、先程まで周囲には誰も居ないと思い込んでいた為に、なかなか衝撃から思考が戻って来ない。
 男は、一言で言えば優男だった。柔和そうな顔立ちに通った鼻梁を抱く、一見して華やかな風貌。前髪を垂らした長めの髪は項で一つに結んであって、困った様に首を傾げる彼の動きに合わせて尻尾の様に揺れる。
 「…あ、」
 そこで漸く思考がゆるゆると戻って来て、ヤクモは決まり悪く口元を押さえた。
 「ひょっとしたら、この土地の管理者の方、とかですか?すいません、勝手に立ち入って…、」
 「へ?ああいや違う違う、俺はただの通りすがり。管理者でも無ければ地元の人間でも無いさ」
 思い至り、言って頭を下げるヤクモに、然し男は慌てた様にかぶりを振って肩を竦めると、やんわりと微笑んでみせた。
 他者の警戒を解こうとする意図の見える、少し態とらしい笑顔だと思ってヤクモは僅かに顔を顰めた。初対面の人間に対して抱く感想としては余り宜しく無いのだが、直感的に思う。これは本心など易々晒さない類の人間であると。
 「通りすがり」
 「そ。通りすがり」
 「……こんなところを?」
 鸚鵡返しにするヤクモに、彼はにこりと更に笑みを深めて頷く。軽薄そうだが人当たりは良さそうだ。顔の造作も良いし、異性にもてそうだ、とそんな感想を抱いたヤクモは、不審な男の姿をまじまじと見つめた。荷物の類を持っている気配は無いし、自分よりも遙かに軽装だ。それが一体何の用向きでこんな山中に入って来たのか、全く見当もつかない。
 「それはお互い様じゃないかな?アンタは何でこんな所に?」
 飽く迄にこやかな表情でそう問われて、ヤクモはこんな場所で独り言をこぼしながら写真撮影などに励んでいる己も充分、不審者の類に見えても無理もないと言う事に今更の様に思い至った。自分を棚に上げての為体に顔が熱くなる。
 「俺は…その、趣味と言うか…、」
 「ふぅん。アンタもこう言うの好きなんだ?若いのに神社巡りとか感心だね〜」
 自分で余り上手くない説明だとは思ったが、幸いにか男がそれ以上の問いを重ねる事は無かった。彼はヤクモの、怪しいとしか言い様のない言い分に何やら納得した様にうんうんと大袈裟な所作で頷いてみせる。
 「実家が神社で…、それもあって興味が」
 「…成程ね」
 言いながら男が右手を差し出して来る。「ほら」と促された所で、ヤクモは自分がまだ尻餅をついた侭で居た事に気付いて、顔を紅くしながらも手を伸ばした。そっと引っ張られて立ち上がる。
 ヤクモが立ち上がった所で、男は掴んだ掌に少し力を込めて言う。
 「大神、マサオミ、だ」
 ほんの僅か目を細めた男の表情は、微笑んでいるとも顰めているとも取れる、奇妙な感情をその端正な造作の中に表していて、ヤクモはその様子に寸時意識を奪われる。
 そっと握られた手に視線を落とせば、それはただの握手であって挨拶でしか無いのだと思えるのに。手を介して、見えない裡の何かに触れて仕舞った様な、何とも名状しがたい思いを一時抱えたヤクモは、僅かの間を置いて応えた。
 「…吉川ヤクモ、です」
 すれば、大神マサオミと名乗った男は「へぇ」と感心した様に頷くと、
 「ヤクモか。…神の帰る地。良い名前だな」
 そう笑った。その笑みにも言い方にも厭な感じが無かったので、ヤクモも釣られて微笑み、詩を諳んじる。
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」
 「そうそれ。八岐大蛇を退治した須佐之男命の詩だったか」
 「そうですね。日本最初の和歌と言われています。…とは言っても、俺の名付けの由来は訊いた事が無かったから、それかどうかは解らないんですけど」
 ぽんと手を打つ様な仕草を片手でするマサオミに微笑を向けると、ヤクモはそっと手を離した。ただの『通りすがり』への挨拶にしては何だか長い事喋って仕舞った気がする。
 「そうなのか。まぁ、アンタにぴったりの名前だから何でも良いじゃないか。宜しくな、ヤクモ」
 いきなりその名前の方で呼ばれて、ヤクモはぱちりと瞬きをした。どうやらこのマサオミと言う男は、見た目からなる想像に違えぬ、社交的で気さくな質らしい。ぐいぐいと他者の裡へと踏み込んで来るのは無遠慮と言えば無遠慮な筈なのだが、何故か余り厭な気はしない。
 それは余りに彼が、自然体で何の裏表も無い様に、一見して見えたからなのだろうか。本心など出さない笑顔を作ってみせる様な男だと、直感的にそう感じていた筈だと言うのに。
 (よろしく、って…、何にかかる『宜しく』なんだ…?)
 ふと疑問を浮かべたヤクモに、マサオミは何やら戯けた仕草で掌をひらりと振って笑んでみせた。今度は会心の、自然と浮かんだ笑顔だったと何となく確信する。
 「さて、じゃあお近づきの印に、牛丼でも奢ろうか」
 
 ……それが大神マサオミとの出会いだった。




パロっぽいですが不定期で続きます。

:next → /2