神の還るところ / 2



 実家が神社だ、と言うと大概の場合まず最初に驚かれる。
 とは言えそれは驚嘆の類と言うよりは、ごく普通の「へぇ」程度の──物珍しさから出る感想である事が殆どであった。
 そして大体その後にはこう続く。「じゃあ将来は神主を継ぐんだ?」と。
 物心ついた時から神職の仕事を目の当たりにして、手伝って来たヤクモだ。特に父から跡継ぎ云々と言う話を出された事など無かったが、ごくごく自然に、当たり前の様に、自分もそうなる──父の後を継ぐ──のだろうと思っていた。
 だから先の問いに対する答えは「ああ。多分そうなると思う」がヤクモにとっての模範解答だった。今まで誰に問われても同じ様なそんな答えを返して来たのだろう。恐らくは何の疑問も無く。当たり前の事の様に。
 そのぐらいに、ヤクモの裡で「父の跡を継ぐ」事は当然の事なのだろうと言う認識として根付いていたのだ。
 だから、高校の卒業も徐々に近づいて来ていたあの頃、父にそれについての進路を尋ねた時、「お前には俺の跡を継がせるつもりは無い」と、これもまた至極当然の様にそう返されて、暫くは茫然となったのをヤクモはよく憶えている。
 無論その後、どうしてだとか、そう言う事になっていたのではないかとか、色々と問答はあったのだが、結局幾ら話し合った所で父親の意見が覆る事は無かった。
 また、ヤクモの側も特別神職を目指していたと言う訳ではなく、ただ何となく「そう言うものだろう」と思っていたと言う曖昧に過ぎる事情も手伝って、漠然と存在していた将来の展望は唐突且つあっさりと諦められて消える事となったのである。
 梯子を外されたとは思わなかった。そうなるのだろうと己で勝手に思っていただけの事なのだから、仕様がない事なのだろうと納得した。
 それならばと、前々から興味の対象であった歴史の研究に携わる職を目指そうと、実家からは県を隔てた立地にある大学へと進学し、そうして現在ヤクモは家賃のお高くないこぢんまりとしたアパートで一人暮らしをしている。
 進路では確かに一時揉めはしたが別に勘当された訳でも無いので、家族が不仲になったから家を出たと言う様なものでは無く、実家にもちゃんと定期的に連絡を入れているし、巫女のイヅナに至っては毎日の様にメールを送って来てくれている。
 当初は一人暮らしをすると言う事でさえ、家の者たちが反対気味であった事を思えば、どれだけ己が心配される程に頼り無いのだろうかと、少々悲しくなって仕舞うヤクモである。
 そんな現在一人住まいの『我が家』は、大学から電車で通う程度の距離にある。本数の多い路線である事も手伝って、移動の面での不便は特に感じてはいない。
 そんな移動中の、空席の目立つ車内で本を読んでいたヤクモは、不意に胸ポケットの中でスマートフォンが振動した事に気付く。だが直ぐには動かず、本を切りの良い所まで読んでから栞を挟み、それからゆっくりとスマートフォンを手に取った。音は消してあるが、振動のパターンから着信相手が誰なのかは既に解っている。
 その予想通りに、大神マサオミ、と差出人名の書かれたメールの受信通知を開けば、隣の県まで行って名物の丼を買って来たからそっちへ行く、と言った内容が、よく解らない絵文字の数々を多用した無駄に長い文章の中から読み取れた。
 その調子から差出人の軽い笑顔まで覗き見える気がして、ヤクモは我知らず弛んだ口元に笑みを許すと、了解と言う旨を手早く入力して送信した。それからスマートフォンを元通りに仕舞うと再び本の攻略の続きにかかる。
 あの、山中の奇妙な社で出会った、大神マサオミと言う男との付き合いもそれなりに長くなった。
 正直な所を言えば、どうして『そう』なったのかをヤクモは未だに良く解ってはいない。ただ何となく──何となく、としか説明しようのない経緯で、『何となく』だらだらと付き合いが続いている。
 同い年──正直そう聞かされた時が一番驚いた──で、仲良しと言う程に趣味思考が合致した訳でもなく、適度に距離のある関係を築けたのが多分良かったのだろうとは思うのだが、そもそもどうして、突然会ったばかりの見知らぬ相手と今に至るまでの友人(?)関係を保つに至ったのかが今ひとつ見えて来ないのだ。
 無理矢理に己に納得出来る様に言うのであれば、気に入られたらしいから、としか言い様が無い。
 ヤクモは元より人好きのする質ではあったが、それでも初対面の、学友や知人でもない不審な男といきなり「仲良し」とは普通はいかない。当初はそれなりに警戒があったし、別段親しくなりたいとも思わなかったぐらいだ。
 故に、大神マサオミと名乗ったあの男の方が、何故か一方的にヤクモの事を気に入って(こちらの意思は余り考慮されず)仕舞ったらしい、と言うのが最もしっくり来る話と言う訳だ。
 下車駅を知らせるアナウンスが耳に入ったのを契機に、ヤクモは栞を挟んだ本を閉じた。鞄に仕舞うとICカード代わりのスマートフォンを手に持って席を立つ。
 車窓の見慣れた風景を見つめながら、手を伸ばして揺れる吊革を掴む。時刻は夕の暮れ時。夕飯の支度をあれこれと考えなくて良いのは、幾ら変な『友人』だろうがメリットに成り得る点だなと、ヤクモはそんな事を考えた。
 
 *
 
 アパートの前に停車していた見慣れた原付。と、同じぐらいに見慣れた人の姿。
 ヤクモの帰りに気付くと、彼は人当たりの良さそうな笑顔と共に、戯けた仕草で手を振って寄越して来る。
 そんなマサオミへと手にした部屋の鍵を放ってやると、綺麗にキャッチするなり彼は片手に持ったビニール袋を揺らしてさっさと歩き出す。
 階段を上がっていく背中も、迷わずに並んだ扉の中からヤクモの部屋の鍵を開ける様子も、既に慣れきったそれである。
 「ただいま〜」
 「そこは、お邪魔します、だろう普通」
 言って、玄関の壁に刺してあるフックに鍵をぶら下げる所まで、まるで家主の様な澱みのまるでない動作だったのを見て、ヤクモは呆れた様に息をつきながらも、靴を脱いで部屋へと上がるマサオミの後を追った。
 家の鍵を一時とは言え預ける事にも、自分より先に部屋に入れる事にも、抵抗は既に無い。慣れたからだ。
 遭遇した日の内に何故か牛丼を奢られ、連絡先を交換させられ、その翌日には既に手土産つきで家を訪れると言うのは、よくよく考えても全く普通とは言えない筈なのだが、疑うのも馬鹿馬鹿しくなる程に、大神マサオミには嘘くさい笑顔こそあれど、悪意の類はまるで感じられなかったのだ。
 親しげなのを通り越した様子は、一般的な観点から見れば、図々しい、と言う評価に寧ろ近いと思われた。だが、故郷を離れて、大学に通っている間以外はそう深い友人を作っている訳でも無いヤクモにとっては、彼はそれなりに『楽しい』存在と言えたのかも知れない。
 「……で、今日は何丼だって?」
 鞄を置いたヤクモがそう問うのに、矢張り勝手知ったる家の様な態度で薬缶を勝手に沸かし始めていたマサオミは酷く得意気な顔で振り返って来た。毎度の事なのだが、どうやらこの男は丼飯関係にやたらと造詣が深いらしく、よくぞ訊いてくれた、とばかりの様子を見せる。
 「聞いて驚け、今日は京都まで足を伸ばして、特製鱧丼を買って来たんだ」
 「……へぇ」
 京都であれば寧ろヤクモの領分である。それもあって今ひとつ気の乗らない相槌となったのだが、マサオミは余り気にした様子も無く、ああだこうだと聞いてもいない丼の蘊蓄などを語り始めて仕舞う。
 余程好きなのだろうが、まあいつもの事だし、と思いながら、適当な相槌を挟みつつお茶の準備をしたヤクモは、同い年だと言う今ひとつ正体の不明瞭な男についての考察を止めた。
 このよく解らない男の事については、実家の人間たちには取り敢えず報告していない。それは、この年頃にもなって、いちいち人付き合いについてを親に窺う事は無いだろうと言う尤もな理由である所が一番なのだが、それより何より、これを──この、丼飯を時々携えて柔和な笑みと共にやって来る人物の事を何と説明したものかが解らなかったからである。
 (……まあ少なくとも、犯罪の類の匂いはしないよな)
 丼講釈を続けながら箸を動かす男の正体についてを棚上げするのは、これで果たして幾度目の事であったか。日和見なものだと時折己に呆れはするが、純粋に好意──或いは行為が嬉しかったのは間違い無い。それもあって余り、悪意と言う方面を考えるには向かない。可能性の面でも、少しばかり穿った見方をしてみようと言う面でも。
 「それで?京都まで行って何か収穫はあったのか?鱧丼以外の」
 「……ん、」
 食後、湯飲みを傾けながらヤクモが何となくそう問えば、マサオミは曖昧に頷いて肩を竦める様な仕草をしてみせた。不自然に口元を持ち上げてみせる表情に、質問を誤ったかと思うが、何をどう誤って仕舞ったのかが解らず、黙って続きを待つほか無い。
 「…京都の寺社仏閣巡りってのも、まあ楽しいもんだよな」
あれだけ淀みなく丼講釈を垂れ流していた男と同一人物とは思えぬ程に、ようよう紡いだ言葉は空々しく、そして全く熱量が籠もっていなかった。
 「……若いのに感心な趣味だな」
 嘘だ、と瞬間的にそう思ったヤクモだったが、それでも、いつか言われた言葉をその侭投げ返していた理由は、自分でも今ひとつ不明瞭な侭であった。
 「アンタほどじゃないさ」
 それを、詰まって仕舞った己の言葉に対する救いと取ったのかは定かではないが、マサオミは小さく笑うと話題を自然にヤクモの『趣味』へと移した。
 「俺のは本当にただの趣味だからな。別に参拝や観光を目的にしている訳でもないし」
 自分から仕向けた思惑に乗った形となったヤクモは、ごく自然に会話を続けながら、不意に少し遠くを見る様な目をしたマサオミの顔を密かに観察する。
 正直な所を言えば、矢張りよく解らない。悪意の無い事が解っても、好意や行為の意味までもが解ると言う訳ではないのだ。
 ただ──、そうされるに値する理由だけが知れないから、ヤクモは困惑しながらもそれを飲み込む。マサオミの見せる嘘くさい笑顔の裏にどんな理由や意味があるのかを、考えないで済む方法をこそ考えて。






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