神の還るところ / 3



 原付の後部シートから降りた時は流石に臀部が痛んだ。ついでに腰や背も。
 痛みで凝り固まった気さえ憶える体を軽くストレッチして動かしながら、ヤクモは大きく息をついた。暫くの間は筋肉痛を引き摺りそうな感覚には辟易とさせられるが、移動費が無料(タダ)で済んだと思えば悪く無い話だろうかと、半ば無理矢理に見つけたポジティブ要素に結論を着地させておく。
 「時間はかかったかも知れないが、そう悪い旅でも無かったんじゃないか?」
 停車させた原付の横で、こちらは何でも無い事の様に、マサオミ。普段から単車一台を足に全国を回っていると言う男は、その自らの言葉に違える事無く、長時間の運転にも移動にも慣れているらしい。にこやかに口にするその姿からは筋肉痛を堪えている様子などまるで見受けられず、実にけろっとしたものである。
 「……まぁ、前向きに答えるなら、悪くは無かったと言えるかも知れない。風景や空気を膚で感じられるとか、主にそう言う面で」
 「前向きって言うか随分横を向いた答えだなぁそれ」
 まあアンタらしいけど、と苦笑しながらヘルメットを脱いだマサオミは、少々むくれた感のあるヤクモの返答にも特に気にした様子は無い。
 「……」
 何を言った所で、「出かけるなら送って行ってやるよ」と言うマサオミの鶴の一声──もとい余計な誘いに乗って仕舞ったのはヤクモの方である。県越えの道中をほぼ休憩無しに原付一台で走り抜けると言う、マサオミの提案の正体に全く想像がつかなかったと言う訳でも無いのに、だ。
 ともあれ。溜息と体の痛みとを何となく隠しつつ、ヤクモは鞄から取り出した地図を拡げた。スマートフォンにも地図は入っているが、こちらの方が慣れもあって見易い。
 「あとは徒歩だな。ここら辺り、駐禁取り締まりとかやってなければ良いんだが」
 カラー印刷した地図に手書きで目的地とメモ書きとがされたそれを横から覗き込んだマサオミは、額の上に庇を作りつつ陽のある方角を見て、現在位置と方位とを大凡確認したらしい。ヤクモが考える内にとっとと目指す目的地のある方角を指さして言うと、愛車を手押しで道の隅へと運んで行った。
 そんなマサオミをして、変な奴だ、と己を棚上げにしてそういつもの様に思うと、ヤクモは地図を畳み直してポケットに突っ込んだ。目指す方角が取り敢えず解った以上、暫くは地図の必要はない。
 見回す左右は何の変哲もない、山の縁に添って作られた車道だ。車の今は殆ど走っていない道は、古びて蔦の巻き付いたガードレールで斜面側を保護し、その反対側は落石や土砂崩れ防止の防護ネットが張られており、そこにも満遍なく植物が繁茂している。
 そんな斜面の狭間には狭い山道が、申し訳程度の石段に沿って続いている。その先、少し高台になった所には、人の手の最近入った気配に乏しい小さな墓地が見える。恐らくは地元に住んでいた人々の祖先が眠っているのだろう。
 こんな場所で駐禁の取り締まりなどやっている筈も無いのだが、マサオミは崖側の路肩にある退避スペースに愛車を至極大事そうに停めると、道路側から見てそれが車の往来の邪魔にはならない事を確認し、満足がいったのか何やら頷いている。まあここに至る唯一の『足』だと思えば、確かに帰る時までは無事でいて貰わなければ困るのは確かだ。
 確認を終えたマサオミが歩いて戻って来るのを待ってから、ヤクモは彼の先ほど指さした、目的地の方角に当たる件の狭い山道を見遣った。念のために振り返ってみるが、相変わらず呆れた軽装のマサオミには端からこの辺りで待っていると言う選択肢は無かったらしい。平然とヤクモの傍らに立って同じ様な姿勢で山道を見上げている。
 「…行っても然程に面白いものがあるとは思えないが」
 それでもついて来るのか?とヤクモは言外にせずにそう呟いてみるのだが、対してマサオミは目元を穏やかに弛めてみせる。
 「でもアンタにとっては面白いものなんだろ」
 「……まぁ、それは」
 山奥の、朽ちたり放逐されたりした社やその跡に一体何の興味があるのやら、と問われても、ヤクモの方こそ実の所余り上手い返答を出せる気はしていない。実家が神社であると言う事も手伝ってそう言ったものに興味があるのだ、とはよく口にする解答なのだが、それならば有名な寺社仏閣でも巡っていれば良いだろうにと大抵の場合は呆れられる。
 そう言った経緯もあって余り、ヤクモは己のこの『趣味』に関して、他者に誇らしげに語れる様なものではないと言う認識はしているのだ。古びた社などに興を惹かれるのも勿論だが、訪ね歩く事でちょっとした冒険気分を味わえると言う、己でも少し子供っぽいと感じられる様な理由がある所も大きい。
 それもあって、マサオミが楽しげに足を提供した挙げ句、「ついて行く」と言う態度を崩さない事に対してヤクモとしては、申し訳無さ半分、呆れられたり理解の無さを思い知るのだろうと言う想像半分と言った所なのである。
 一つ、深い溜息をつくとヤクモはマサオミの決断が変わる見込みを諦め、背負い鞄を担いで山道へと足を進めた。そんなヤクモの後ろを、歩きにくそうな軽装でも然程に困った様子でも無く、マサオミが矢張り当たり前の様について来る。
 山道は段々と道路に添った道を逸れて、野放図になった山林へと分け入って進んで行く。一応は足下に道らしきものや、古びたロープの張られた痕跡などもあるので、道を見失って遭難すると言う事は無さそうだ。
 台風や嵐の被害なのか、大小の木の枝や落石がそこかしこに転がっていて、気をつけなければ少々歩き難い。足下も、未だ腐葉土にはならない程度の枯れ葉で埋まっていて、道が解りにくくなっている。結果、距離の割には疲れさせられると言うなかなかの難所だ。
 「…最初に遭遇した時にも思ったんだが、ひょっとして山歩きに慣れてでもいるのか?」
 疲れを紛らわそうと、ヤクモの三歩ほど離れた後ろを、それ程困難でも無さそうに歩いて続くマサオミへとそう声を掛ければ、彼は流石に少々弾んだ呼吸を整えてから、
 「何分、田舎暮らしなもんでね。こう言うのは、まあ、それなりに慣れてるのさ」
 そう、苦笑を添えて言って寄越して来る。ヤクモは「へぇ」と相槌を返しつつも、マサオミの言葉遣いや振る舞いは余り田舎の人間のそれでは無いだろうと瞬間的に指摘を巡らせ──然し結局は口にせずに飲み込んだ。
 少し疲れ始めていたからと言うのもある。或いは単に、答えの貰えないだろう推理ごっこが馬鹿馬鹿しくなっただけだったのかも知れない。
 友人としての付き合いと言う程度の時間は積んでいるが、未だにヤクモは大神マサオミと言う男の正体や目的──或いは己が気に入られて仕舞ったらしい意味とを掴めてはいない。そしてその空白は、こうして共に出掛けてみた所で埋められる様なものでは決して無いのだ。
 その侭二人して口を噤んだ侭山道を進み、小一時間近く歩いた所で漸く目的地へと到着した。
 元々廃村の一部だったのか、石垣で支えた畑の跡が斜面に残っているが、建物の類は建材ごと見当たらない。基礎らしき石積みの跡が、落石だらけの中に何とか見て取れたので、ヤクモはそこで一旦スマートフォンのシャッターを切った。
 目当ての社は、崖に添った岩陰にぽつりと存在していた。昔はこの廃村に住んでいた村人たちに信仰されていたのだろう、付近には供え物の皿などだったのか陶器の破片が散らばっている。
 「戦前のものかな。手厚く祀られていた様だけど…、村に人が住めなくなって廃れて仕舞ったんだろうな」
 いつもの様に独り言に乗せて所見を述べながら、ヤクモは何枚か写真を撮影し、手帳にメモを手早く書き記していく。こうしていると、矢張り『趣味』と己で認識しているだけあって、ここまでの疲れが一気に吹き飛んで、思考も活性化していると自覚する。余り理解されたものではないと言っても、矢張り趣味は趣味と言う事だ。
 ヤクモがそんな趣味に励むその間、マサオミは散歩でもする様に歩いてみたり、時折ヤクモの呟きに相槌を打ちながら一緒になって辺りを見て回っていた。大して物珍しい見物がある訳では無いだろうに、付き合いの良い事だ。
 「地図には何も残って無いんだな」
 小規模とは言え、人々の暮らしていた場所である筈なのに。と何処か物寂しげに口にしたマサオミは、人の生活の痕跡を窺わせる様な、錆びてぼろぼろの農具か何かを靴先で軽く蹴った。土に半ば埋まったそれは、ただただ錆びて朽ちて風化するその時を、人間の視線や感想になど構わず無言で待ち詫びている様にも見える。
 「暮らしている者が去ればそんなものだろう。誰かがその存在を憶えていても、段々と世代を経る内、時を重ねる内に自然と忘れられて行く。人の記録と記憶から外れればどんな事物もそうして消えて行く」
 古い社を巡るヤクモの『趣味』に於いては、こう言った廃村や廃墟を目にする事も少なくない。寧ろ見て回る殆どがそう言った、時の流れの果てに在るものだ。だからこそヤクモは、己がそう言ったものに惹かれるのかも知れないと思っている。
 朽ちて消えゆく前にそれを少しでも『誰か』の記憶として留めようと、趣味と冒険心とが半分、残り半分に寂寞とした思いを混ぜて、忘れられて消えゆくばかりの人の信仰や縋るカミ様の痕跡を追って仕舞うのかも知れない。と。
 「……記録と、記憶とは大事なものだと、そう思い知って来たからこそ、俺はこうしているのかも知れないと、時々思う」
 不意に、ヤクモは胸の奥から涌いた感傷の侭にそんな事を口にしていた。その言葉にマサオミが、弾かれた様に振り返るのが視界の隅に見える。
 これは別に話す必要もつもりは無かったのに、と思っていた筈なのだが。胸から涌いたのが物寂しさに似た感傷だとしても、喉に引っかかったものは果たして『何』なのか。見定め無い侭にヤクモは意識して小さく笑った。
 「実は俺、二年ぐらい前だったかな?事故に遭って、記憶障害を煩ってたんだ」
 よく思い出せないその事を思い出そうとすると、まだ少し胸が痛む。父や巫女のイヅナとナズナにはとにかく酷く心配をかけたのだと、今でも申し訳ないと思わずにいられない。
 それでも笑みを浮かべられる様になったのは、ヤクモがそこから立ち上がれたからだ。己の努力と家族の協力があったからこそ、今こうして一人暮らしをしながら大学へ通い、こんな風に『趣味』で山まで歩いている。その事に対する自信が、良かったと心底思える事こそが、本来ネガティブである筈の『事故』の、消えて仕舞った記憶を、笑みさえ添えて話す事が出来る様になっているのだ。
 「記憶、傷害」
 「そう。小学生の頃ぐらいからの記憶が綺麗さっぱり無くなって仕舞って、当時は大変だった。父たちにも迷惑をかけたし、俺自身も苦労させられたし」
 鸚鵡返しにしたマサオミの調子が深刻そうなものに聞こえたから、ヤクモは殊更に明るく、肩を竦めて笑いながら言う。
 「まるでドラマみたいな話だろ?」
 実際自分が直面するまでは、そんな絵に描いた様な『記憶障害』などと言うものが起こるとはまるで思ってすらいなかったのだ。少なくともヤクモに残っている限りの記憶の範囲では、記憶喪失などと言う現象は、ドラマや漫画の中の出来事でしかなかった。
 「…………」
 何やら深刻な顔を形作った侭黙って仕舞ったマサオミを振り返るとヤクモは、矢張り気にさせて仕舞ったかと少し後悔を憶えた。この話を聞かされると大概の場合は、同情したり心配したりと言った感情を向けられて来た。だからマサオミにも、きっと余計な気遣いをさせたのだと思って、ヤクモは意識を切り替える様に声を上げた。
 「苦労はしたけれど、支えてくれた家族には感謝が尽きない。お陰で今もこうして俺はちゃんと俺として生きていられるのだし。こんな風に、忘れられるものの痕跡を辿る趣味も得たしで」
 「………………、」
 ヤクモのそんな言葉に、マサオミは一瞬何かを言いかけ口を開いたが、直ぐに閉じるとその侭唇を真一文字に引き結んで仕舞った。つい、と目を逸らす。
 怒っているのか、それとも苛立っているのか今ひとつ解らないそんなマサオミの横顔を、何だか気まずい心地を抱えつつもヤクモが暫くの間見つめていれば、やがて彼は小さく息を吐くと、人の痕跡の乏しい山中へと視線を向けた。
 「忘れられるってのは…、辛いだろうな」
 やがて、時間をかけてマサオミのこぼした言葉は、恐らくはただの独り言だったのだろうと思う。然しヤクモは、はっきりとは晒されない感情の正体が同情であれど気遣いであれど、それを躱す事にした。
 「…ああ。だから、家族には本当に感謝しているんだ」
 『今』の自分がこう在る事が出来ると言う、その全てを肯定すべく。はっきりと、しっかりと、満足を示す様に笑ってそう言った。
 ──応えは、返らなかった。




…まあそういう訳です。

:next → /4