神の還るところ / 4



 慣れた道をこうして愛車で辿るのはもう幾度目になるだろうか。
 停車位置でブレーキをかけて、ヘルメットを外して軽く頭を振って見上げる、長い石段。京都のガイドブックの一切には記載されていない、規模としてはそう大きくないが決して歴史の浅くはない神社が山の上には在る。
 太白神社の名を持つそこは、通常の神社の持つ神のおわす処と言う側面よりも、ある種の人間たちにとっての修行場などとして扱われる事を主としている。一応神社の体裁である為に御祭神は置いているのだが、よくある神事には基本的には携わらない事の方が多いと言う。
 基本的に太白神社は天流の闘神士の修行場、或いは助けとなる施設との意味合いを以て各地に創建されている。つい二年ばかり前までのマサオミに言わせれば、あからさまに闘神士を配するなど、敵対する地流の者に「襲ってくれ」と言わんばかりの不用心さである。
 実際、この京都にある太白神社は、地流闘神士の襲撃を受けて一度は酷く破壊される災難に遭っている。然し天流宗家を待つと言う意図があった為にか、新太白神社と言う仮の社が設けられるに至った。こちらも矢張り地流闘神士に監視されていた事を思えば、矢張り不用心と言わざるを得ないのだが。
 そんな、一度は廃墟と化した太白神社だが、以前の大戦の終了後には再建される事となった。そこを天流の施設と言うより『実家』の意味合いで見ていた者らのたっての願い通りに、現在の太白神社は異なった流派の闘神士の襲撃を受ける事も無く、相も変わらずガイドブックには載らない『謎の』神社として存続し続けている。
 そんな太白神社なのだが、訳あってマサオミには幾度となく訪れている、慣れた場所だ。と言うのも、ここに刻渡りの『出口』があるから、である。
 刻渡りの際の『出口』は本来何処にでも設定が可能らしいのだが、何かと面倒と言うのもあるし何より場所が安全且つ便利と言う理由から、マサオミにとっての『出口』はこの京都太白神社の刻渡りの鏡の間に設定してある。
 要するに刻を渡る目的地でもあり、バイクを安全に置いておける場所でもある事が大きな理由なのである。……もとい、理由『だった』。
 現在の処は、マサオミが刻を越えてこの時代へとやって来る理由の大きな一つに当たる、ヤクモがまず彼の実家であるこの京都太白神社に居ない。趣味の丼食べ比べの旅だけが目的ならばそれでも然程に問題は無かったのだが、生憎と目的と言うレベルで言うならば、ヤクモに会いに来る方のウェイトはそれ以上にある。
 つまりは現状、マサオミがこの太白神社を訪れなければならない理由は、本来であれば全く無い。だが、刻渡りの鏡の『出口』が此処に設定されている為に、行くも帰るも此処を経由せざるを得ないのだ。
 京都からヤクモの現在一人で暮らす県までは、すぐ隣とは言えど馬鹿にはならない距離がある。太白神社をいちいち経由する事は時間の面でも手間の面でも燃料の面でも非常に無駄な事にしかならないのだが、『出口』の場所を変える事が(少なくともマサオミ側からは)容易では無いと言う事もあり、結果、この京都太白神社が相も変わらずマサオミの千二百年前と現代との唯一の接点となっている訳である。
 正直、今はここを訪れるのは気が重い。毎回『通り道』として通る度にそう強く思わずにはいられない。と言うのも、ヤクモの事について彼の家族と意見が折り合わなかったからだ。
 マサオミは、前大戦の後直ぐに千二百年前へ姉たちと共に帰還した。在るべき者らは在るべき刻へと戻り、それで刻の歪みも正されて終わりとなる筈であった。
 が、その少し後には軽く刻を越えて、牛丼目的やら嘗ての敵や味方たちと親睦を深めたりと言った事をして。それから二年の空白を経て、もう一度、と当初は軽い気持ちで三度目の刻を越えて来た時には、まさかあんな話を聞かされる事になろうとは思いもしなかったのだ。
 
 *
 
 ヤクモが闘神士を降ろされた。理由も、原因も解らない。
 モンジュの口からそんな言葉を聞かされた時、マサオミがまず思ったのは『嘘だろう』と言う事だった。相手がそんな嘘をつく様な人物では無い事や、人の悪い冗談を気軽に言う様な関係でも無いと言う客観的な事実を通り越して、とにかく、嘘だ、としか思えなかったのだ。
 天流闘神士ヤクモ。五行五体の式神を同時に使役する程の膨大な気力と、他者を圧倒する闘神士としての天才的な戦いのセンスを持つ、伝説などと謳われる存在。
 彼は、太極神の災いを鎮め、無へと消されかけた世界を救済し、二度──或いはそれ以上に世界を救った、太極の守護者たる闘神士を正に体現した様な人物だ。
 その強さを知っている。幾度か交えた刃の上でもよく知っている。だからこそ余計に信じ難かった。ある意味で最も闘神士らしい、そう在る事がまるで当然で当たり前の様な彼に、一体どの様な事があれば『闘神士を降りる』などと言う結末が与えられたと言うのか。
 重症を負ったヤクモと共に彼の所持していた零神操機は発見されたが、恐らく裡の式神たちは名落宮へと堕ちた。闘神士であった間の全ての記憶を喪失したヤクモの様子からしてそれは確かだろうと判断せざるを得ない。
 零神操機そのものは太白神社にてその侭封印預かりとなり、闘神士では無くなったヤクモは、人生に六年近くの空白を穿った記憶障害を抱えながらも日常生活を送る、『普通』の人間として生きる事になった。
 太白神社は闘神士の為の施設である為、闘神士ですらないヤクモには神社を継ぐと言う途もなく、彼はごく普通に進路を決めてごく普通の大学生としての未来を歩んで行く。少なくともこの二年間はそうして来たと言う。
 空白の二年間に起きた事を知らされた当初、マサオミは当然の様にヤクモを闘神士へと戻す前提で話をされていたのだと思っていたし、自分でもそのつもりで居た。
 だが実際は違った。ヤクモの家族たち──モンジュやイヅナ、ナズナでさえもマサオミの意見に全面的な同意は見せなかったのだ。
 ヤクモは闘神士となってから、あの歳で余りに苛烈な世界を生き過ぎたから、と。
 重責を負って、命さえ狙われ、人柱にまでなって世界にその身を捧げる事を厭わない、闘神士の領分をも越えた、太極をただ守護する為の様な存在。誰かや世界の為に戦い続ける事を躊躇わないヤクモが、いつ喪われてもおかしくは無いのだと、彼の家族たちは常にそう案じ続けていたのだ。
 故に、今回の『敗北』は、そんな運命から彼が解放されたと言う見方も出来るのだと、そう思ったと言う。
 もしもヤクモが自主的に再び、自らが闘神士である事を望まない限りは、もうあの世界には触れさせなくても良いのでは無いだろうかと──それが、彼の家族たちの出した結論だった。
 ヤクモは闘神士に戻るべきだろうと、特に根拠もなくそう思っていたマサオミとは真っ向から相容れないその結論に、然し返すべき正しい意見は出て来なかった。
 ヤクモの家族たちの思いは正しいのだと解って仕舞った事もあるが、何より、家族ですら無い、友人とすら言えないマサオミには、それを反対とする意見は感情由来のもの以外には無かったからだ。
 納得をと言い聞かせて、然し躊躇い、躊躇いを重ねて、諦めがつかない事を思い知ったマサオミは、ある意味で自分への慰みにと、ヤクモが現在一人で住むと言う町へと向かった。
 そして、全てを喪って忘れた彼と、千二百年ぶりの再会を果たしたのだった。
 
 
 全てを忘れた彼は、然し幸せそうに見えた。マサオミの知らない顔をして笑っていた。
 マサオミは幾度も、嘗ての事を、式神たちの事を、どうにかヤクモに伝えられないかと狡くも考えを巡らせはしたのだが、結局は出来ない侭で現在に至る。
 何しろ、リクの時とは状況が違うのだ。天流宗家は当時の神流の計画にどうしても必要な駒であったから、マサオミの私情以上に、何としてでも彼には記憶を、式神を取り戻して貰わなければならないと言う思いがあったのだが、今のヤクモの場合はそうではない。
 あの頃からずっと、厳しく張り詰めた顔をしていた彼は、然し今は穏やかに、年相応に笑っている。趣味だと言う古い社巡りをしている時の目は活き活きとしていて、いっそ無邪気ですらあった。
 歳の通りの、元来の性格の通りの吉川ヤクモと言う『人』ならば、それできっと良いのだと思える程に、彼は──喪った事をすら忘れた彼は、幸福そうにも楽しそうにも見えたのだ。
 時に感じる『ずれ』も、噛み合わない記憶も、元から無かった物だと思えばそう堪える事はきっと出来る。時間をかけてマサオミはそう思う為の納得を得ていき、今後はそのつもりで居ようと思っていた。
 忘れられて仕舞った事は変えられないが、また新たに彼は『大神マサオミ』を記憶してくれた。何も知らずに、突然近づいて来た不審な男を、友として受け入れてくれた。
 それでも。心の何処かで嘆く声がするのだ。彼は、以前までの吉川ヤクモではないのだと。
 マサオミだけが憶えている、忘れられて仕舞った共有出来ない記憶を胸の裡に言葉と共に仕舞い込んでは、その己ばかり理不尽と思える事実に打ちのめされる。
 際限のない溜息を殺すと、マサオミはバイクを『いつもの場所』へと停め置き、石段を昇って境内へと入ると、真っ直ぐに隠し神殿の方を目指した。
 そこにいつでも超然と存在する、刻渡りの鏡の前へと立つ。その直ぐ前には自分の──千二百年前へと戻る『出口』が在る。
 いつも、此処から元の時代へと還って、そうしてもう二度とこの時代へは戻らない方が良いのではないかと、考えずにはいられない。
 何故なら最早理由が無いからだ。丼を食べに行きたいと言う目的も一応あるが、飽くまで『一応』である。それよりも大きく目的としていた事柄が消えて仕舞えば、マサオミにとっての執着は半ばが失われたと言っても良い。
 鏡に掌を当てて項垂れる。二年前にはここから「また直ぐに会えるさ」と柔い笑みを添えて送り出された、その記憶は鮮やかに残っている。
 そのヤクモの言葉が無かったらマサオミは、この世界に赦されたとはなかなか感じる事も出来ずに居た事だろう。今一度、何だかんだと理由をつけてこの時代へと戻って来て、戻って来れて、変わらぬ彼らに再び出会えた事に、酷く安堵したのだ。
 「………」
 恐らく、は。どれだけ言い訳をしてみた所で、それらしく利口に振る舞おうとしてみた所で、己は未だ諦めきれずに居るのだと、マサオミは静かに得心する。
 今ヤクモが幸福に、安全に在って呉れる事を喜べる反面で、失われたものを取り戻したがっているのだ。取り戻せる様な方法があるのか、それとも無いのかすら掴めない侭。




モンジュは元々ヤクモを闘神士にしたくなかった経緯もありますし、もしもヤクモが「こう」なったら無理に戻そうとは言い出さないんじゃないかと。過保護…とはちょっと違うんですが。

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