神の還るところ / 5



 吉野と言えば桜の景勝地として有名な地だが、生憎と花の見頃の季節は過ぎて仕舞っている。
 然しそれでも、保護された自然の多い山地は豊かな緑と比較的に澄んだ空気に護られて心地が良いし、景観も見事なものだ。
 マサオミに突然提案されて、彼の運転する原付に乗って訪れた吉野の山は、有り体に言えば良い所だった。折角だから幾つか神社や史跡を巡ってみようと、唐突に過ぎる誘いの割には素早く有益な計画を練ったヤクモであったが、そう言った明確な『目的』が無くとも、来てみて良かったと、正直にそう思える様な所だった。
 「昔は修験者たちの開いた道だったらしい。信仰の集まる地だったと言うのも頷ける話だ」
 山道を、観光用の順路から逸れて歩くマサオミの後を追って、ヤクモは深い森の中から空を見上げた。丈高い杉の作る濃い緑陰の遙か向こうに、よく晴れた青空が僅かに覗いている。荘厳な空気さえ漂って見える、現実感に乏しい風景はまるで天然の伽藍か何かの様だ。
 「それより昔は、何も無い様な山だったんだ。信仰のある一部の地域以外は人も滅多に立ち入らない様な山で、弱い人たちが身を寄せ合って暮らしているだけの場所だった」
 「…ふぅん?」
 閑かな空気に融けて、注意していなければ聞き損ねて仕舞いそうな声で、独り言の様に呟くマサオミの言い種は返事を求めているそれでは無かったのだが、ヤクモは一応相槌を入れて首を傾げた。
 正直を言えば、意外と詳しいんだな、とでも軽く訊いてみたかった所なのだが、少し先を歩くマサオミの背が、会話を拒絶している様に見えたのだ。
 (……話してみれば意外と、知識の幅が広いのかも知れないな。余り話す機会も無いけど)
 丼についての蘊蓄なら、訊かずとも立て板に水を流す様に出て来る事は知っているが、思えばそれ以外には大神マサオミと言う男の人となりなど然して知らなかった、と、幾度目になるかそんな事を思ってヤクモは密かに息を吐いた。
 謎や奇妙な行動は確かに多いが、段々とそれにも慣れて仕舞っている気がする。少なくとも突然「吉野の山に行こう」と誘われて二つ返事で頷いて仕舞う程度には。
 山歩きそのものは、多少は心得ているのもあるし、見物の景観もあるしで、純粋に楽しい。だが、ヤクモをここに連れて来た張本人である所のマサオミが、何故か歩を進める毎に無口になって行く気がしてならない。否、確実に口数が少なくなって行っている。
 何処かへ出かけよう、ではなく、わざわざ、「吉野の山に行くから一緒に来てくれないか」などと誘いをかけて来た以上、マサオミには多分に何か目的地ないし目当てのものがある筈なのだ。だがその癖、進む毎に何を思ってか、口数を減らして空気を重くして行く。
 普通に考えるのであれば、目的地へ向かう事にこそ何故か憂鬱になる様な事があるのだろう。ヤクモを連れて行く事に何か思う所があるのだとすれば、そもそも最初からヤクモに声など掛けて寄越さない筈だ。
 「……そんなに、気が重くなる様な事なのか?」
 少しの間の後、溜息を一つつくと、結局ヤクモはそう口にしていた。元来余り、気に掛かる事を前にして黙っていられる性分でも無いのだ。
 閑かな、本来勝手に立ち入っても良いのかすら解らない山道を平然と往くマサオミは、ヤクモの問いに足を止めると、少し眉を寄せた顔を振り向かせて来た。
 「…本当はもう、重くはならない様な場所なんだけどな。多分、昔の癖みたいなものさ」
 「………」
 最後にわざとらしい苦笑を添えて言うそんな言葉は、言い訳でもなければ説明でも無いもので、恐らくはヤクモでなくとも嘘だと思えるものだった。
 それでも、嘘だろうと指摘した所で、ならばと本音を言い出す様にも思えない。だからヤクモは黙ってそれを聞き流す事にした。厭な心地はしたが、易々触れて良い話題と言う気がしなかったのだから仕方がない。
 それに、嘘であろうが本当の事であろうが、何故か己が責められている様な気がしたのだ。
 「疲れたか?もうじき着くから、あと少し辛抱してくれ」
 返事をせず黙り込んだヤクモの様子を勝手にそう解釈したのか、これはいつもの様な軽い空気を纏って言うマサオミに、「ああ」と特に気もなく頷く。
 一体何の用事なのか。何処へ向かおうと言うのか。マサオミの背中に向けて幾ら問いてみた所で返事がある筈もなく、ヤクモはすっきりとしない心地を持て余した侭で、朝もまだ早いからか、霧を纏った山中へと視線を投げた。
 と、マサオミがいきなり足を止め、余所を向いていたヤクモはその背にぶつかりそうになって止まる。
 「確かこの辺りだった筈だが…」
 言って、態とらしく手で庇を作って頭を巡らせるマサオミ。「場所も憶えてなかったのか?」と思わずヤクモが呆れた様な声を上げれば彼は、「いやぁ〜」と半端な笑みを浮かべて辺りを見回してみせた。と言っても周囲はひたすら山林の連なるばかりの風景で、もしも突然こんな場所に放り出されたりしたら、遭難しかねない様な場所だ。
 「あっちの方だったかなあ…」
 明らかに山道の途中の、何も無い様な方角を向いて言うマサオミに倣って同じ方角を見つめながら、ヤクモは腰に手を当てて嘆息した。ここまで山を歩いて来て、目的地が解らない、は流石に無いだろう。
 「ああ、こっちだこっち」
 ややあってから、ぽんと手を打って言うマサオミを振り返ると、彼は木々の間にぽかりと開けた小さな、確かに一瞬は見落として仕舞いそうな細く目立たない道を示してみせる。
 (……?さっきまであんな所に道、あったか…?)
 指された方角を見るヤクモだったが、森に囲まれた山中などどこも同じ様な風景にしか見えない為、首は傾げたものの疑問の確証は無い。周囲に埋没して仕舞いそうな細道の存在を単に気付かなかっただけか見落としていただけだろう。
 「さ、行こうぜ」
 ぽんとヤクモの肩を叩いて歩き出すマサオミの背を仕方無く追うと、狭い木々の間を通る道は程なくしてまるで嘘の様に開けた。一気に近づいた気のする空の下、陽光の明るさに思わず目を眇める。
 「……ここは、」
 眩しさがひととき遠ざかってから、ゆっくりと細めた目を開いたヤクモは、そこで目を瞠った。眼前に突然現れたのは、森深い山中の一箇所を綺麗に切り開いた様な平坦な広場が拡がっている有り様だった。
 きっとよく陽が当たるのだろう、空に向けて大きく開けた空間には無数の花が咲き誇っていた。色も種類もバラバラで、整然と植えられている訳でも無いと言うのに、それが全体に拡がっている様はただただ美しい。
 蝶や蜂がひらりひらりと花々の間を飛んでいる以外には、風の他に動くものは何も無い。人の手も全く入った形跡すら無い、見事な天然の花畑だった。
 「……気に入ってくれたかな?」
 思わず茫然と眼前の花畑の風景へと見入るヤクモに、やがて少し戯けた様な調子でマサオミが言う。その声には先頃までの気鬱な気配は無く、寧ろどこか安堵した様な風ですらある。
 多分にそれが、ヤクモの反応が悪いものでは無かったと言う事に対してのものなのだろうと、何となくそう気付いて仕舞ったヤクモは、咄嗟に出掛かった言葉を飲み込んだ。
 確かに見事だが、女の子でもあるまいし、花なんて見せられても──そう照れ隠しに言おうとしたのを止めれば、自然と口元に柔らかな笑みが宿る。
 「…ああ。きっとここはお前の何か、思い出深い様な大事な所なんだろうな。そんな場所に連れて来てくれてありがとう、マサオミ」
 こんな山の中に密かに存在していて、場所を思い出しながらやって来たと言う事は、きっとしょっちゅう訪れている様な場所ではないが、何かマサオミにとって思い入れがある様な地なのだろう。
 そんな事を思って紡いだヤクモの言葉の中に果たして正解があったのか、目を瞠ったマサオミの拳が固く握り締められた。ぐっと下顎と口とを引き結ぶ彼は、なんだか泣き出す寸前の子供にも見えた。
 安堵の響きに対する礼として向けられる表情では到底ないそれを、ヤクモは若干の驚きを込めて思わずまじまじと見つめて仕舞う。何か間違えただろうか、何かに触れて仕舞ったのだろうか。誤りをすら思える、そんなマサオミの表情は然し直ぐに見えなくなった。「え」と訊き返す間も無く、次の瞬間にはヤクモの体はマサオミの両腕に抱きしめられている。
 「──、」
 少なからず得たヤクモの驚きに関わらず、マサオミの肩越しには相変わらず美しい花畑が拡がっているばかり。
 ひょっとしたら泣いているのかも知れない。そう思ったヤクモの背を掻き抱く掌の、力の強さに息が僅かに詰まった。
 「解ってるんだ、でもやっぱり割り切れない。俺はアンタを諦めたくない…!簡単に手放す事が出来るぐらいだったら、刻なんて誰が越えようと思う?!」
 「……?」
 マサオミが軋る様に呻く、そんな言葉たちの意味は、ヤクモには全く知れない。ただ、逃がさぬ様にかそれとも縋る様になのか、捉えた腕の力だけが強くて、その強さにヤクモは困惑する事しか出来そうもなかった。
 ひょっとしたら『こう』しているマサオミの方が惑い、苦しんでいるのかも知れない。何故か直感的にそんな事を感じたヤクモが、何かを言わなければならないと口を開き掛けたその時、目の前の、美しい花々の隙間から突如として黒い靄の様なものがじわりと噴き出した。
 「っ!」
 何かを感じたのか、素早く振り返ったマサオミが、ヤクモを庇う様に手を伸ばしつつ懐から紅い、カードの様なものを探り出す。
 そんなマサオミと、眼前に凝って渦巻く黒い靄の様なものとをヤクモが茫然と見る内、靄は徐々に奇妙な生物じみた姿を形作り始める。
 「くそ、妖怪だ…!」
 呻くマサオミの小さな声に、然しヤクモは奇妙な得心を憶える。
 目の前で、黒い靄から姿を転じたそれらは確かに、マサオミの口にした通りの『もの』なのだと、何処か遠い所で理解をしていた。




アニメ最終話のあそこ=多分隠れ里は、吉野の山らしいですね。

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