神の還るところ / 6



 妖怪とは古代の頃から連綿と、生物同様に存在するものだ。一種の生き物である事は間違いないのだが、その実体は曖昧で、多くの場合は人の目や知覚では観測する事が不可能な存在だ。
 彼らは主に世界の陰の気に反応して生じ、世界に固着する。存在を保つ様になると幾つかの、生物的とも取れる形質や分類に変化を遂げるのだが、そうなった妖怪の大半は人間に何かしらの害を成す存在となる。
 妖怪に襲われた時に生じる、恐怖や苦痛と言った人の陰の気に因って妖怪はその力を更に増す事が多く、一旦どこかで妖怪騒ぎが起きると連鎖的に被害が拡がる事となり、それが自然に消える事は滅多に無い。
 その為に闘神士は力を与えられる。闘神士の使役する式神は、世界の陰の気の肥大を防ぐ為に、或いは単に苦しむ人を救う為に、その力を振るう事を許された存在なのだ。
 妖怪とて退治はされたくないと言う事なのか、大概の場合彼らは、人間の気配の遠い──滅ぼされる心配のない──人里離れた地に多く生息している。この吉野の山々とてその例外では無いと言う事だ。
 マサオミの生きていた時代から比べれば、伏魔殿へと大量の妖怪が逃れた事、そして人間の版図が増えた事とで、妖怪の絶対数は現代の方が遙かに少なくなっている。それでも矢張り、人間よりは妖怪の生息域に近いとも言える地で迂闊に陰の気を含んだ感情をぶち撒けたりもすれば、妖怪の群れぐらい容易に涌きもする。
 況してこの地は、嘗て天地の封印のあった地だ。その裡に1200年分の刻を凝縮し内包していただけあって、周囲よりも妖怪には馴染み易いのだろう。
 まだ『種』としての分化もしていない、黒い不定形な靄の様に現出した妖怪たちは、マサオミたちの見ている前でぐるぐると中空に螺旋を描く様に蠢いている。
 時折、人界にて妖怪騒ぎが起きても、多くの場合それは野生動物が突発的に暴れたのだと解される事が多い。人智を越えた、生物であって生物ではないその存在を認識出来るのは、闘神士や巫女と言った、そう言った能力を持つ者に限られるのだ。
 まあ、仮にこんな靄めいたものや、多少は動物に似た特徴を持ったものが『目撃』されれば、そう解釈されるのが普通だろう。妖怪などと言う存在は大昔の物語の中にしか存在しないと言うのが、多くの人間にとっての正しい認識だ。
 闘神士では既に無い、ヤクモを万一にでも傷つけさせる訳にはいかない。こんな場所まで連れて来たマサオミの行動にも責任がある。
 驚いたりしてヤクモが飛び出したり逃げ出したりする事が無い様にと、マサオミは左腕を伸ばして彼の進路を遮りながら、逆の手には闘神符を掴み取った。油断なく身構えながら黒い靄の作り成す渦を見遣る。
 この程度の妖怪に後れを取るつもりは無いが、やはり背に護るものがあると慎重にもなる。現世に隠れ棲む妖怪は伏魔殿のそれよりも強い事が多いので、余計にだ。
 (来るな)
 マサオミが、ぐ、と唇を引き結んだ瞬間、黒い靄が幾つもの断片に分かれて一気に飛びかかって来た。吠え声とも鳴き声ともつかぬ雄叫びをあげる妖怪たちに、背後のヤクモが思わず身を竦めるのを感じる。
 蜘蛛や蠅や猫と言ったものにそこはかとなく似たそれらは、妖怪のよく取る形だ。彼らの棘や牙や爪が近づいて来るより先に、取り出した何枚かの符を投じる。すれば符は緑色の光と共に『滅』の効果を発現し、妖怪たちの半数程度は瞬く間に消滅した。
 「っマサオミ、」
 息を呑むヤクモに、動くな、と仕草で示しながら、マサオミは続け様に符を、今度は頭上から襲いかかって来た一団へと投じた。こんな人里離れた土地に訪れる獲物は久々なのか、妖怪たちは滅ぼされる事に恐れる様子も無くただただ本能の侭に向かって来る。
 普段、己が妖怪を退治するのに式神(キバチヨ)を頼っていた事を、こう言う時になってみてまざまざと思い知らされる。符でちまちまと妖怪を倒すのは面倒だし、同じ気力の消費ならば式神を降神した方が早いと、どうしても思って仕舞うのだ。
 目の前で繰り広げられる事態について行けていないのか、困惑した様に立ちすくんでいるヤクモの事を意識する。天流最強の、伝説の闘神士などと呼ばれていた彼の符使いは非常に鮮やかだった。
 式神を降神すべき状況と、そうでは無い状況とを瞬時に把握し、符を効果的に用いる。その腕前は感嘆に値するものとしか評しようが無い。本人曰く、符一つで妖怪退治をやって除けていた父親の影響が主だろうとの事だが、矢張りあの父子は少々闘神士としては規格外と言わざるを得ない。
 (そんな事を思い出しても、仕方ないが…!)
 愚痴めいた思考に出掛かった舌打ちを飲み込んで、マサオミは符を投じて的確に妖怪の群れを仕留めて行く。『あの』ヤクモならばこんな時でもきっと表情ひとつ変えずに平然と、符の数枚で以て妖怪を滅していただろうか。
 ──そんな彼が、どうして失われる事となって仕舞ったのか。思えばそれすらマサオミは知らない。
 『その瞬間』に、式神の無い自分が傍にもしも居たら何かが変わっただろうか。変える事が出来ただろうか。それとも余計に絶望と懊悩を増すだけの結果になったのだろうか。
 (どうして、)
 繰り返す言葉の無意味さは、然し元来の人格や歳に相応に、幸福そうに笑う様になった『彼』を思えば行き場を失い果ててただ胸の底の、重たく苦しいところに堆積するばかりだ。
 割り切って、割り切ったと思い込んでは苦悩して、取り戻したいとただ叫ぶ事しか出来ない己は、子供の頃から何一つ前へなど進めていなかったのかも知れない。
 (いい加減、俺も諦めが悪い)
 その負の感情が陰の気を撒いて、大人しく散っていた妖怪を今目覚めさせる事になったと言うのに。思ってマサオミは、最後の妖怪を滅した所で口元を歪めて無理矢理に笑んだ。酷い自嘲の籠もったそんな笑みでヤクモの方を振り返れば、彼は未だぽかんとした様子で辺りを見回している。
 「……妖怪?今のが?」
 やがて、長い時間をかけて硬直から脱した彼がおずおずと呟くのに、マサオミは、仕舞った、と思いながらも頷いた。自分は未だ一応は闘神士だが、今のヤクモはそうではない。只人に過ぎない彼には、さぞや奇妙に聞こえる言葉であっただろう。
 「退治したのか?あの、靄みたいなものから出来た、蜘蛛とか…、そう言うのを、」
 「あー…、ちょっと雰囲気に乗っただけで、あれは単なる野生動物で……、」
 符の効果は『力』を持った者にしか知覚する事は恐らく出来ない。闘神士を降りたヤクモは恐らくは今はその知覚を持っていない筈だ。もしも仮に妖怪を見る事が叶ったとして、それが『何』であると言う判断には至ることは出来まい。
 実際、この花畑に至る山道を隠す様に施してあった、符に因る幻術の効力にヤクモが気付く様子は全く無かった。
 とは言え、目前でマサオミが何やらそれらを祓っていた事ぐらいは幾らなんでも解ったのだろう。混乱を来した様におろおろする彼を、マサオミは闘神士がよく使う言い訳を交えて宥める事にした。
 大体の場合、人は信じ難い現象や光景を目の当たりにすると、それを己の知る何かや経験則に因る何かに置き換えて仕舞うものだ。そうして解釈した方が幸せな事もある。
 それに、現世にて存在の曖昧な妖怪は、『力』の無い者の目には留まっても、記憶からは段々と薄らいであやふやなものになって行くと言う性質も持っている。その為、妖怪の姿形を目撃する事があっても、「あれは野生動物です」などと説明すれば大体はそれで収まるのだ。
 「妖怪なんて居る訳──、」
 誤魔化そうとへらりと笑ってみせたマサオミだったが、然し次の瞬間目を見開いた。ヤクモの両肩を掴む。聞き捨てならない言葉が確かにあったと、今更の様に気付く。
 「っ今、何て…、蜘蛛とか、」
 「大きな蜘蛛とか…、って蜘蛛はやっぱり野生動物じゃないじゃないか!」
 泡を飛ばしながら問うマサオミに、ヤクモも釣られたのか声を荒らげる。そもそもあんな大きな蜘蛛がいる訳ないだろうと酷く当たり前の事を言う彼を半ば茫然と見返して、マサオミは呻いた。
 (まさか、見えてた…?!)
 つまりそれは、妖怪の姿形を見る事が出来たばかりか、『そう』在るべく取られた存在としての形を見たと言う事になる。少なくともヤクモの言う通りに『蜘蛛』と言う形を目撃していたのであれば、そうなる。
 闘神士を降りて、『力』のある者の知覚を失ったヤクモであっても、黒い不定形の靄を見る事ぐらいは出来るだろう。だがそれを、野生動物やあやふやな姿形をしたものでもなく、『妖怪』の一種として蜘蛛と言う形として『見た』となると、それは明らかにおかしい話になる。
 闘神巫女ないし闘神士としての才能がある者であっても、素質と呼ばれる『力』或いは血筋があれども、専門の修行をしなければ『妖怪』と言えるその姿をはっきりと認識する事は出来ない。
 そう。見えていたとして、知覚と言う技能や知識が明確な存在の認識へと値しないのだ。
 「何が見えた?!ヤクモ、今さっきここに、アンタは『何』を見た?!」
 両肩を鷲掴みにして迫るマサオミの様に不審さや忌避感を憶えたのか、ヤクモはマサオミの手を振り解く様にして払うと、一歩、後ずさった。
 「お前こそ、一体何なんだ?!今の──、妖怪?それを倒して、お前は、、」
 「っ、」
 払われた手を寸時見つめて、マサオミは舌を打つと自らの目元を片手で覆った。ヤクモの、何も知らない真っ直ぐなだけの目を、とてもではないがこれ以上は見ていられる気がしなかった。
 何も知らない彼の、只の人の、無知の目が。問いが。或いは弾劾も似た言葉や拒絶が。闘神士同士として敵対し向かい立った時よりも余程に、遠い。
 何故解らないのだと、何故忘れて仕舞ったのだと、怒鳴りたくなる様な衝動にひととき必死で堪えたマサオミは、軋る歯の隙間から漸く震える言葉を紡いだ。
 「……すまん」
 それが『何』に対しての謝罪なのかなどきっとヤクモには解るまい。だが彼は、自分でも怒鳴り声を上げて空気を悪くして仕舞った事には気付いていた様で、少し狼狽の気配を漂わせてから俯いた。
 「………こう言う時、先に謝るのは狡いだろう」
 「すまん」
 「……………」
 再度謝罪を重ねるマサオミをちらと見上げて、ヤクモは不承不承と言った感の溜息をついた。妖怪が暴れたにも関わらず、美しくもの悲しさを宿した風景を少しも損なってはいない花畑を見回す様な素振りをしつつ、言う。
 「…俺も、声を荒らげて悪かった」
 「すまん。……その、今はまだ上手く言えない事なんだ。…その内、ちゃんと話す」
 でも、と言葉を続けようとしたヤクモを遮る様にそう言うと、マサオミは忌々しい記憶しか刻んでくれそうもない、花の咲き誇る大地からそっと顔を空へと向けた。
 「………」
 対するヤクモは、到底納得がいったと言う表情はしていなかったものの、何処か諦めた風に息を吐いた。溜息と言うには少し気鬱さが足りないそれは、恐らくはただの息継ぎだったのだろう。次の瞬間にはヤクモは、気持ちを切り替えたのか小さく笑みを寄越すと通って来た山道を振り返った。
 「そろそろ戻ろう。腹も減って来たし、昼時までに町には戻りたい」
 「……そうだな」
 ヤクモほど上手く感情を切り替えられなかったマサオミの返した笑みは、多分酷くぎこちないものだったに違いない。肩を竦めるなり背を向けたヤクモの背を視線だけで追いかけると、マサオミは体の左右に力無く下がっていた両の手を、ぐっと握りしめた。
 ひょっとしたら、と言う考えが頭に過ぎっていた。
 式神を失い、闘神士を降ろされれば、人は現世の理へと戻される。具体的に起こる事を連ねるならば、闘神士と言う存在に関する知識は消え、闘神士であった間の記憶を失い、振るう事の許された権能と力とを喪失する、と言った事が上げられる。
 だが、ヤクモは闘神士であった記憶やその知識を失ったその癖、知覚を完全には失っていないかの様な反応を見せた。
 (………それに、思えばヤクモの式神は一体だけじゃない。五体居たんだ)
 思えば何故これを疑問に思わなかったのか。ただ、ヤクモが闘神士を降りたと言う事で、自然と『そう言うものだ』と思っていた。
 だが。五体の式神を一度に全て失うなどと言う事が、有り得るのだろうか──?
 それも、『あの』ヤクモが、だ。一体を失うならばともかく、五体とも同時に失われるなどと言う事が果たして起こるのだろうか。
 神操機が破損したとか、そう言った様子は無かったとモンジュは言っていた。つまり起こった事だけを言えば確かに、ヤクモは五体の式神を一度に、負けて失ったと言う事になる。
 或いは、結果としてはそれと同じ状況になっただけ、なのか。
 (そんな事が有り得るのか?いや、無いだろう…?!)
 果たしてこれは都合の良い考え、可能性に縋っただけの事だろうか?
 浮かぶ推論に、マサオミは乾いた唇を湿らせて、ともすれば焦りの侭に走り出しでもしそうな衝動を堪えた。もしもこれが正しい予想だとしたら、取り戻す手立てはまだ失われてはいない筈だ。
 ──つまりヤクモは、リクがコゲンタとの契約を拒絶したのと同じ様にして、五体の式神たちを自ら遠ざけて仕舞ったのでは無いか、と。
 闘神士を降りたにも関わらずその全てが失われたと言う訳では無い、記憶は無いのに知覚はその侭と言うヤクモの置かれた中途半端な状況。そこからマサオミの至った考えは、そんな都合の良い偶然が起きるのだろうかと言う失笑にともすれば打ち消されそうな、余りに弱い可能性を手繰ってみただけに過ぎない事だ。
 だが、もしもその推測が正しいとすれば、闘神士ヤクモを取り戻す事も出来る筈だ。
 静かな決意に一人頷くと、マサオミは先を行くヤクモの背を追った。途中で一度だけ、嘗ての忌み地を振り返り、そこに潜めた記憶にそっと蓋をする。




アニメじゃ大体野生動物扱いだったなあって…。

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