神の還るところ / 7



 山の上の樹木に引っかかった三日月の、今にも落ちて来そうな暗い夜空だった。本当は無数に瞬いている筈の星の光は地上の灯りに遮られ遠く、薄く重く伸びた雲が更にそれを遮っている。
 原付を停車させたマサオミはヘルメットを脱いで、見上げた空にそっと溜息を逃がした。少し視線を落とせば否応無しに視界に入ってくる、薄ら暗い夜の参道への入り口を見据えれば、己が今これからどんな行為をしようとしているのかを思い知らされる様な気がして、苦しい様な居た堪れ無い様な心地になる。
 時刻は殆ど深夜と言って良い。閑静な住宅街に光るものはと言えば無機質な街灯や大きな通り沿いにあるコンビニぐらいのもので、道を歩く者の姿は最早殆ど見受けられない。駅前まで出ればそれなりにまだ人通りはあるだろうが、宅地へと通りを入り込んで仕舞えばもうそこは閑かに寝静まった夜の家々しか無い。
 脱いだヘルメットを原付のハンドルに引っかけると、灯りの一つも無い真っ暗な参道へと向かう。
 道自体は通い慣れたそれとしか言い様がない。夜だろうが朝だろうがそれは同じだ。だが、刻渡り以外の明確な目的を持ってここを訪れるのは果たしていつ以来の事になるだろうか。しかも余り宜しい目的では無いと自覚して向かうのなど、恐らくは初めての事になる筈だ。
 (…今度こそ、もうこの時代には来るなと言われるかもな)
 思って嘆息する。恐らくこの家の人々は、マサオミがヤクモに再び接触している事を知れば余り良い顔をしない筈だ。マサオミの今している事は、言葉通りに『何も知らない』ヤクモを、感傷的な感情や手前勝手な理由だけで、危険と背中合わせの世界へと引き戻そうとしているも同然なのだから。それも、家族の意志を無視すると言う最悪の形で、だ。
 長い様に思われた石段の参道は、思考に躊躇いの余地を挟むより先に終わって仕舞った。考える余地がそもそもあったのか、考えたかったのかもよく解らない。躊躇う様な素振りを見せる事で、少しでも罪悪感を感じない様にしたいだけだったのかも知れない。
 (式神をもう持たない俺が、闘神士であったヤクモの事をどうこう言う権利なんざ、多分無い。だが、それでも──、)
 唇を噛み締めて鳥居を抜ける。嘗てそこで迎えてくれた姿は、存在は、今は無い。あれから、何だか随分と色々なものが失われて仕舞った気がする。だがそれも単なるマサオミの個人的な感傷に過ぎない事なのだろう。
 静まりかえった夜の境内には誰の姿も無い。辺りに住み着いているらしい野良猫の姿すら見当たらない。まるで窺い、憚る様だと思って苦笑する。後ろめたい感慨ひとつでここまで弱気になるとは。
 (…そうだ。それでも、確かめてみなければならないと、思ったんだ)
 ぐ、と体の左右で握りしめた拳に力を込めて、今のこの時間は無人の本殿へと歩き出す。
 もしも、マサオミの考えが正しければ、ヤクモを──闘神士であった彼を取り戻す手段は未だ残されている筈だ。
 神操機や闘神機に因って契約した式神を、自らの意志で拒絶する事で契約が解除される現象に似た事が起きたと言う前例が無い訳では無い。太刀花リクは実際そうやって、自らの恃んだ式神であった白虎のコゲンタを名落宮へと、契約を神操機の裡に保った侭で遠ざけて仕舞った事があった。
 マサオミはその現象に直面した事があるが、他の闘神士で類似したケースを他に知っている訳ではないし、あれが太刀花リクと言う──天流宗家と言う特殊な闘神士であったから偶々に起きた事であったと言う可能性も有り得る。
 故に、ヤクモがその『偶々』と同じ現象に直面しているのかどうかははっきりと、確信をもってそうだと言える訳ではない。
 だが、他に考えがつかないと言うのも事実だ。あのヤクモが、五体の式神を同時に失って敗北する様な事が果たして起こり得るのか。妖怪の姿を認識出来る、闘神士としての技能や感覚を有した侭で居る彼を、闘神士を降りた只人と呼んで良いのか。
 縋る可能性の弱さは承知の上だ。だが、それでもマサオミはその可能性に縋って、試してみようとそう思ったのだ。それがどんなに馬鹿げた、手前勝手で都合の良い考えである事は解っているつもりで、それでも。危険性のある事をヤクモに強いる事さえも承知の上で、それでも。
 (──それでも。もしも『そう』なんだとしたら、ヤクモの方が寧ろそれを望む筈だ)
 足音を殺して入った本殿には、マサオミの予想した通りに人っ子一人いない。灯りの一つも無いそこに、記憶の限りの風景を思い描きながら真っ直ぐ進むと、やがて紗幕に覆われた祭壇に行き着く。
 紗幕を払い除ける様にして伸ばした無粋な手は、三宝の上に置かれた塊の上で一度躊躇う様に指を揺らし、然し次の瞬間には一息に『それ』を掴み取った。
 幾重にも護りの符を巻き付けられた、てのひらに収まる程度の、勾玉に似た形状の物体。マサオミが触れたところで、その裡に何かが宿っているのか、そうでないのかすら知る事は出来ない。
 それは神操機と呼ばれるものだ。闘神士が式神と契約を交わす為の陰陽神具のひとつ。それも、名落宮にてヤクモが玄武の式神より託されたと言う、源流の名を持つ唯一無二の代物。零の名と力とを冠したものだ。
 紅いその神操機を振るうヤクモの、闘神士としての姿は今でもはっきりと思い出せる。その裡に宿る彼の式神たちとの絆も、戦い方も、知り得る限り容易く思い出せるだけに、今それが誰の手の中にも無く、こんな場所に置き去りにされている事が未だに、マサオミには信じられないと思えてならない。
 (この裡に彼奴らが『未だ』居るのであれば、ヤクモ自身がきっと誰よりもそれを悔いている筈なんだ)
 『今』のヤクモはそれをすら憶えていはしないが、在りし日の彼であればきっとそう思った筈だ。彼は自らの恃んだ式神たちを何より大事に思っていたし、彼らもまたヤクモの事をたった一人の闘神士の様にして慕っていた。その絆の深さと強さとは、それを目の当たりにしたマサオミの目にも心にも未だ強く焼き付いて離れない。憧憬や羨望さえも抱く程に正しくて美しい姿だった。
 マサオミはヤクモが、『何』を願い彼らと契約を交わしたのかと言う事は知らない。ただ、己の求めに応じて来てくれた五体と契約を交わしたのだと、以前ヤクモがそう語っていた事は憶えている。
 そして、マサオミの知らないヤクモの『願い』は、未だ果たされていない。
 契約は、未だ満了してはいない。
 (ヤクモの為にも、彼奴らの為にも、)
 決然と思ったそれは、己への言い訳でも大義名分でも、きっと値は出来ないと思う。
 ここには居ない、ここからは失われて仕舞ったヤクモの言葉を、思いを、勝手に代弁する程に己が彼を知悉出来て居るとも思っていない。可能性がどれだけ希望的で、そして弱いものであるかも解っている。だが、それでもマサオミが選んだのは『こう』だった。
 個人的に過ぎる感傷や、恩義や、身勝手な理由が元々の動機だとしても。それでも、だ。
 (俺は、ヤクモの願いを取り戻したい)
 決意と同時に、握りしめた零神操機を懐に仕舞い込むと、マサオミは踵を返した。静謐な空気を宿した本殿を後にして、境内へと出て行く。
 「──、」
 然しそこでマサオミは足を止めた。鳥居の前、三日月の縁に今にも触れそうな所に佇む人影には憶えがあったし、何となく、そうなる様な気も、何処かでしていた。
 「……そう言うのは、現代では泥棒と言うんだ。知っているだろうがね」
 そう言う人影の正体は、薄い緑の、古くからある闘神士の装束に似たものを纏った男だ。眼鏡の奥の眼差しをそっと剣呑では無い程度に細めて見せる、その表情や仕草は、矢張り親子だけに良く似ていると思って、マサオミは口端を苦々しく歪めた。
 「…勿論、承知の上ですよ。けれど、元の持ち主の元へ届けるだけなら、盗んだとは言えやしないでしょう」
 マサオミの屁理屈じみた言い種に、この太白神社の主でありヤクモの父親でもあるモンジュは、腕を組んだ侭小さく肩を上下させた。露骨に溜息などはつかなかったが、そう言う気分だった事は確かな様だ。眼鏡を軽く押し上げながら、己より古い時代の人間であっても、人生を過ごして来た年齢としては己の半分にも満たないマサオミの事を相変わらずの静かな表情でじっと見つめて言う。
 「これは家族の問題だ、とまでは言わないが…、君はどうしてヤクモを、闘神士として生きる道へ戻そうとするのか。戻したいのか。──突き放した言い方をすれば、君の今後の人生或いは過ごす時間には全く関わりの無い事だと思うんだが?」
 モンジュの言い種は流石に大人でありヤクモの親であるだけあって、正確だし論理的ではあった。確かに本来この時間軸にこれ以上干渉する事が不文律とも言える、マサオミとしては痛い所を的確に衝かれた形である。
 だが、そんな『真っ当な』説得で引き下がる程度の事であれば、マサオミは疾うにこの時代から尻尾を巻いて逃げ帰って居ただろう。
 執着が、或いはやらねばならないと思える事が、未だ残っているからこそ。
 刻を越えて此処に居る、その事実こそが己の正しさを証明してくれているのだと、そう思えていたからこそ。
 「俺は未だ、ヤクモに恩を返せたとは到底言えないんですよ。それに、ヤクモならばきっとそう簡単に諦めて仕舞ったりはしないと、確信もしてますから」
 「………」
 『そう簡単に』諦める事を選んだとも取れるモンジュたちへの、それは皮肉としか聞こえない言葉だっただろう。マサオミの、挑発的ですらある言葉に、モンジュは然し真っ向から憤ってみせたりはせず、困った様に曖昧な笑みを浮かべて頬を掻いてみせた。
 恐らくは否定的な言葉を呑み込んだ動作であるとは知れて、マサオミはこの『大人』をただの言葉で説き伏せる事は、恐らく己には出来ない事なのだろうと直感的に感じる。
 彼ら『家族』の抱く、ヤクモへの思いと、マサオミの裡に根付くこの想い或いは情動とは、種も質も動機も違いすぎるのだ。
 そうしてそれは求める結果としては相容れない。
 「……君が君自身の考えを押し通そうとすると言うのであれば、悪いがそれを止めなければならない。何より、盗人を黙って見過ごす訳にも行かないからな」
 眼鏡を外しながらそう、静かな声の調子を保った侭言うと──告げると、モンジュは鳥居の前へと無造作な足取りで進み出た。慣れた手つきで紅い符を取り出して、そうと解らぬ程度に身構える。
 (……やっぱりこうなった、か)
 マサオミは奥歯に強く力を込めて、懐から同じ様に符を取り出した。互いに式神は持たぬが、嘗ては腕に憶えのあった闘神士同士。本来であればきっと戦う必要さえ無かった相手だった筈だと言うのに。
 己とてそこいらの盆百の者よりは使える闘神士であったつもりだ。故にただ負ける気がしていると言う訳では無い。ただ、出来ればこうなる事は避けたかった。モンジュが強い闘神士である事は勿論知っている。だがそれよりも、ヤクモを同じ様に案ずる者として、どうして衝突しなければならないのだと、悔いるに似た感情があって、それがマサオミに苦しさに似たものをもたらす。
 だが、モンジュもきっと同じ事を思っているに違い無いとは、確信に似て思うのだ。互いに目の前の、理解の相容れぬ相手を敵として打ち倒す為に向かい合っている訳ではきっと無い。
 目的の相違を、それでも解らせたいと、その道理を通したいと思うのであれば、それなりの覚悟を見せろ、と。恐らくはそう思っているのだろうと。




勝負にならないとか言わないであげてください…。

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