神の還るところ / 8



 飛来する無数の符を、それと等量の符を投じて迎撃する。衝突し合った異なる行の属性はほぼ同じの質量の力に因って、音のない衝撃を伴って相殺されて消える。
 夜の山中。神おわす筈の地である境内にてぶつかり合う二つの力は、綺麗に切り取られた結界の隔の裡で静かに、然し苛烈な攻防を繰り広げていた。
 ぜ、と肩で息をしながらマサオミは、もう良い年齢だろうにまるで衰えを感じさせぬ符使いと身のこなしとで向かい立つ、モンジュの姿を正直歯噛みしたい心地で見る。
 流石に『あの』ヤクモの父であり師である闘神士と言うべきか、符と体術とを駆使した鮮やかな戦いぶりは、そこいらの、式神と契約している闘神士など相手にならぬだろう程に、強い。
 「そろそろ降参してはくれないかな。君もいい加減疲れて来ているだろう?」
 「、いいえ、まだまだ疲れる程じゃないですよ。何せ若いもんでね」
 明らかな挑発や冗談の意図強いモンジュの言い種に、マサオミは深呼吸を一つすると背筋を正して無理に口端を吊り上げて笑ってみせた。正直を言うと体力面ではこちらに圧倒的な不利がある。元々余り体を動かしたり鍛えたりするのは得意な方では無いのだ。
 そこに来て久々の真っ当な、闘神士を相手にした戦闘で、且つ相手は規格外の存在。ついでに言えば年季も違う。それだけにせめて、心意気だけでは負けるつもりは無い。馬鹿げた精神論に頼る気はさらさら無いが、それも勝因には──少なくとも可能性程度には──関わる要素だ。マサオミはゆっくりと呼吸を整えながら、己の裡を鼓動めいた早さで流れる気力を集中させて、手の中に収めた闘神符をぐっと掴んだ。
 「年寄りには優しくしろと、ご家族は教えてくれなかったのかな」
 「若者に、そう厳しく当たってばかりだと嫌われる一方だと学びませんでしたか?」
 「全く、最近の子供は甘やかされる事に慣れすぎでいけない」
 呼吸を整える合間の緊張感の無い応酬に、モンジュはやれやれと困った風に笑った。笑いながらも、退く気を一歩も見せないどころか、その立ち居振る舞い一つにさえも今にも呑まれそうな気迫がある。それが歴戦の闘神士の持つ心の強さ故なのか、家族を護りたいと願う父親の思いの故なのかは、解らない。
 それでもただひとつマサオミに言える確かな事は、負ける訳には、諦める訳には、翻す訳にはいかないと言う己が意志が一つ、ここに在るからだ。
 己が誤っているのか、それとも相手が間違っているのか、それを判じる事の出来るものは生憎とこの場には存在していない。
 これは暴力のぶつかり合いでは無く、互いの異なった意志の衝突だ。投じる符の力は論を投げ合うも同義。だから、体力がどうとか運動性がどうとか、そんな言い訳を前に負ける訳には断じていかない。
 言葉も無く投じられた符が、中空で『雷』の文字と共に光へと変わり、辺りへ目映い稲光を瞬かせながら弾けて飛んで来る。白い光の尾を引く散弾めいた無数の雷を、マサオミは符の助けを借りて後方へと大きく飛びすさって回避する。
 火や水と言った解り易い行では無い雷は完全に防ぐ事が難しい。先程まで己の立っていた場所を灼く光の舌先に今にも絡め取られそうになりながらも後方へ退避したマサオミは、膝を撓めて着地の衝撃を殺しながら符を正面と、同時に空へと向けて投じた。
 白々と夜の森を鮮やかに明滅させる光の中、然しモンジュはマサオミの投じた符の軌道の全てを見逃してはいない。続け様に張った障壁が、真っ向からの力を打ち砕き、天から矢の形をして降って来る光の礫を忽ちに相殺させて仕舞う。
 「……」
 「……」
 そうして互いに睨み合った侭なかなか次の行動へと移らない。攻防は殆ど一進一退の様相を呈していたし、気力も当分尽きそうもない。体力の面ではマサオミの方に不利が少々あるかも知れないが、当人の言う通りにモンジュとてそう若い訳でもない。気力や体力の回復速度は、若者のそれに比べればかなり劣っている筈である。
 結果、互いに隙を窺っては軽口を投げ合ったり、攻防のターンを転じ繰り返している様な状況。埒が空かないと言うよりは、開けられない。マサオミは額の汗を乱暴に拭いながら、ゆるりと立ち上がってまたしても身構える。身構えながら、軋る様に言う。
 「……取り戻せる可能性が、あるとしたら?それでもアンタたちは目を背けようとするのか?」
 それはマサオミの縋った僅かの、きっとほんの僅かの都合の良い可能性の一粒に過ぎない。筋立ててその可能性を説明してみた所で、その『僅か』に縋って危険を顧みない様な決断は選べまい。少なくともヤクモの家族らの『今』の考えでは、論外だろう。
 だが、取り戻す、と言う言葉に、モンジュの瞳が僅かに揺れた。無言の侭で眉が寄せられる。
 「話した事は無かったかな。俺は元々、あの子を闘神士にするつもりは無かったんだ」
 その、突き放してさえ聞こえる言葉に、マサオミはかっと頭に血を昇らせた。隙や様子見など無視して、衝動めいた感情の侭に符を投じながら叫ぶ。
 「それでもヤクモは闘神士になった!それは、発端は父親を救う事が目的だっただろうが、そう選んだのはヤクモ自身だ!そう在ろうと戦い続けて来たのは、ヤクモの意志だ!」
 マサオミの投じた符が『地』の字を示し発動すると、モンジュの足下ががくりと崩れた。地面が突如柔らかな砂へと変わったのだ。然し彼は全く動じる気配一つなく、符の一枚を自らの足下へと投じ、他の数枚をマサオミに向け飛ばす。
 砂と化して陥没した様に崩れたモンジュの足下は、符の発動と同時にその場に現出した木の根に因って瞬く間に固められその強度を取り戻す。そればかりか樹木は大地へと張り巡らされた根から養分でも得た様に巨大化し、美しい花まで咲かせた。
 「これでも昔は、土の行に長けた闘神士としてやらせて貰ってたんだぞ。土行の扱いなら未だ易々遅れは取らないさ」
 完全に地を固めた樹木に触れて、こんな状況とは思えない程暢気な調子でモンジュは言う。マサオミは己に向けて飛んで来た符が火を飛び散らすのを、水行の力を込めた符でなぎ払って舌を打った。
 闘神士は式神を使役し戦うものであると言う認識が、マサオミの時代では強い。符が無い訳では無かったのだが、符を扱うのは式神を降神するまでもない様な時か、飽く迄式神の力の及ばない事ぐらいのものであって──符の役割は補助的なものに留まる事が多かった。
 ヤクモの様に符を積極的に戦いに取り入れて用いる方が、あの頃は異端だったのだ。それもあってマサオミは戦闘行為に於いてはキバチヨに頼りがちだった。キバチヨの契約をウスベニに返してからと言うものの、符でもまともに戦える程度(ヤクモほどではないにせよ)には鍛えて来ていたつもりだったのだが、実際にこうして戦闘となると段々ともどかしさを憶えずにいられなくなる。
 この、意志と意志とのぶつかり合いが。どちらにも大義や意味があって、思う心があって、それ故に交わらない事こそがもどかしい。戦いと言う論戦に、己に絶対的な力が無い事が口惜しくてもどかしい。真っ向から説き伏せる事の出来るだろう理由と、論拠と、説得力を持たない無力さが、悔しかった。
 「アンタたち家族が、どうして真っ先にヤクモの事を諦めているんだ!どうしてヤクモの事を護るばかりで、その意志を蔑ろに出来る?!」
 握った拳の先で、然し指の狭間の符は何の力も発動させていない。それを見たモンジュは、僅かに眼を伏せると静かにかぶりを振った。まるで何十年もそこに在り続けた痛みや重みに耐える様な仕草だと、何故かマサオミはそう思う。理解など無い筈なのに、そう思う。
 「では逆に、誰があの子を、どうして、どうすれば護ってやれる?」
 苦みの強い言葉に口端をそっと歪めて、モンジュは符を持った両手をだらりと下へ降ろした。恐らくはいつかの時を思い出しているのだろう、ゆっくりとその顔が、視線が、隠し神殿のある方角へと向けられる。全ての始まって仕舞った、彼の地へと、向けられる。
 「俺は式神を自ら失わせた、闘神士失格の人間だ。だからヤクモには万一にでもそんな哀しみや苦しみやリスクを背負って欲しくは無かった。闘神士の必要とされる事の減って来た世で、普通の人間として生きて、幸せになって欲しかった」
 だが、とそこで言葉を切ると、モンジュは鳥居の遙か上へと昇った月を見上げる。恐らく、その時憶えた筈の感情は、この地上の風景にも、己の前に立ち塞がる人間にも向けるべきものでは無かったからだろう。
 「ヤクモは闘神士である事を選んだ。そうして気付けば俺にも、家族の誰にも、手の届かぬ場所で独り、この太極を等しく護らんとする闘神士として、誰よりも相応しく超然と在る様になっていた。
 あの子が同じ天流の者にさえも、『何』と呼ばれているかは知っているだろう?あの子がその力で、命で、己以外の全てを護らんと身を捧げた事を、君も知っているだろう?」
 そこで顔を降ろしたモンジュの──ひとりの父親の刻んだ表情は、悲しむにも、泣くにも、笑うにも似た、静かな憧憬と憤怒とを湛えて苦しげに揺れていた。
 「ヤクモは世界を護って戦う。そう在る事を容易く選んで仕舞った。だが、そんなあの子を護って、諫めて、共に並び立って呉れる者は、式神たち以外には居ないんだよ。式神を持たない君にしても、あの子にとっては仲間でも好敵手でも親友でも無い、『護るべき世界』の一つに過ぎない」
 「──……」
 きっとそれはモンジュの憶えた、父親としての絶望だったに違いない。人間としてヤクモの父親で在る事、人間である彼を護る事、人間として彼を支え導く事は出来ても、戦い歩む事を選んだ闘神士ヤクモにそれは値する事が出来ない。
 家族は──家族でさえも、ヤクモにとっては護るべき世界の、対象の僅かにひとつ。
 ヤクモには、それが世界を護る為であるならば、己が身や命のひとつなど、容易く差し出して戦う事を選べて仕舞う。 
 誰も、彼の隣に立って彼の助けになれる様な『人間』は、居ないのだ。
 頭で解ってはいたが、実際にその絶望に直面した人間の──父親の口から放たれた言葉となれば、それは酷く重くマサオミの臓腑に落ちて澱んで拡がった。
 誰も、何も、彼の助けにはなれない。誰にも、何にも、彼を護る事は出来ない。誰でも、何でも、彼と等価に在る事の叶う闘神士は居ない。
 それは明確な、隔絶以上に明確な、永訣を見た解答だ。
 (だが、)
 それでも、それでもなおマサオミには、諦めてはいられない想いがあった。
 その仄かな感情ひとつを信じて、抱いて、ここまで来たのだ。ここまで来ようとした己を、救って呉れた者が居たからこそ。
 ヤクモが呼んで呉れたから、マサオミは諦めと言う生から這い戻る事が出来た。
 戦いを通じて彼から投げられた言葉たちでさえも、何れを取ってもマサオミの眼を醒まさせようとする意味以外のものは無かった。
 敵として立った者に向けたその手心を嘲った事もあった。愚かな天流の驕りと憤った事さえもあった。
 その心の何と小さく愚かだった事か。今となっては悔いる事しか出来ない記憶の中には、罪悪も大義名分も全部が残されて仕舞った。それ故に己は彼に赦されて世界に赦されはしない侭に、ただ呼び戻されたのだ。
 (俺は、)
 ヤクモが居なければ、マサオミはきっと何も知らない侭に楽になって、悔いる事さえ赦されずにただ無明の闇の中でその生を終えていた筈だった。キバチヨを苦しませ、悔いさせ、救われないウスベニたちを見捨てた侭で終わって仕舞っていた筈だった。
 「──ヤクモは、」
 拳を握りしめたマサオミは、苦しげな表情を湛え佇むモンジュへと、怒鳴り声にも似た言葉を投げた。
 「ヤクモは、闘神士になる為にコゲンタと契約をしたんだろうが!父親を助けた後も、闘神士として再び生きる為に、五体の式神たちと契約をしたんだろうが!
 まだその契約は満了しちゃいない!ヤクモの意志を、願いを、あいつにとって大事な家族である、アンタたちが目を背けて無かった事にしてどうすると言う!」
 
 彼の『願い』こそが、きっとその答えなのだ。
 彼が闘神士として、世界の全てを護る為に、何もかもをも差し出そうとまでした、その思いこそが、護りたいと言う心こそが、きっと『願い』そのものだった。
 
 マサオミの絶叫じみた言葉など、きっと既に幾度も考えて来ては、躊躇いの侭に伏せざるを得なかったのだろう。不意にモンジュは苦しげでさえあった感情を振り切る様に、ふっと穏やかな笑みを浮かべてみせると、手にした符をはらりと地面へと落とした。
 「……誰かがそうやって、本気であの子の事を思ってくれるのを、きっと俺は心配性な父親として見届けて、確かめたかったんだろうな」
 「…………、」
 悄然と、独り言にも似た呟きをこぼしたモンジュは、符を落としたのと同時に戦意をも手放したのか、全身から緊張の強張りを解いて立ち尽くしている。父親として、大事な一人息子を護ってやりたいと、思うが然し叶わない事に、果たして彼は幾度苦悩したのだろうか。疲れた様に佇む、静かなだけの筈の言葉からは、どれだけの時の堆積を見て来たのかすら計りは知れない。
 「太白神社(うち)の者はどうした所で、ヤクモにとっては『家族』でしかなく、そうとしか在れない。かと言ってこの時代の存在でも無い君に、過剰な期待も責任も押しつけるつもりは無い。
 ……だが、」
 そこで一旦言葉を切ったモンジュは、警戒姿勢を解く事をすっかり忘れて身構えた侭で居たマサオミの事をその真っ直ぐな、父子共にそっくりな眼差しで見据えて来る。
 そこには笑みは無く、然し先頃までの様な苦しさや悲哀も無く、ただ穏やかで静かな様相であった。
 「君の縋る『取り戻せる可能性』とやらを全面的に信じる訳では無いし、俺は今でも、この侭の方があの子の為には良いのでは無いかと思っている。
 それでも、もしも本当に取り戻す事が出来ると言うのであれば──、」
 頼む、と、重たい吐息に乗せてそう絞り出す様に言って、モンジュは頭を深々と下げた。
 「………解っています。言われる迄も無く」
 そこで漸く、もう互いの主張を衝突させ合うだけの無為の戦いは終わったのだと悟り、マサオミは全身に籠もっていた過分な力を抜いた。
 後に残されたのは、取り戻したいと言う己のエゴを貫いた事に対する僅かの罪悪感と、それ故に、彼の願いを取り戻してやりたいと言うこの『願い』を、必ず叶えねばなるまいと言う、決意。




「息子さんを下さい!」「出直しな!」みたいだなぁって…。
こんな過保護じゃない気はするんですが、一年間石化の反動とその後伏魔殿こもりがち>人柱なんて見たらって言う…。

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