神の還るところ / 9



 鍵は開いていた。引っかかりなく掌の中で回転したドアノブに眉を寄せて、マサオミはドアをそっと引き開ける。
 玄関先に佇んだ侭見遣った部屋は、ほぼ一目でその全てが見渡せる程度の広さしかない。アパートの、ごく普通の、一室。ごく普通の大学生の青年が一人で暮らしている、普通の、部屋。
 「……ヤクモ?」
 呼びかける声が自然と潜めた音量になって仕舞うのは、今の時刻が早朝と言うのも難しい様な夜明け前だからだ。近所迷惑にならぬ様にと放たれた声は手狭な室内を空しく漂って落ち、返事の無い空間は痛い程に静寂を保って沈黙を返答としてただ返して来ている。
 幾度か鳴らした呼び鈴に応える声は無かった。こんな時間にドアをやかましく叩く訳にもいかず、取り敢えずノブを握ってみたら鍵は掛かっていないと言う始末。
 靴から足を抜いて、室内へと上がる。よもや、と思いながらも覗いた風呂場にもトイレにも矢張りヤクモが居る様子は無い。部屋の何処かに隠れていると言う事も当然の様に無い。
 留守、と言う言葉を脳裏に反芻してから、いや、と思い直してかぶりを振る。幾らヤクモが勤勉な学生だとしても、夜明け前から学校に行く訳は無い。夜明け前から鍵も掛けずに何処かへ出かけると言う事も考え難い。
 掌で触れてみるが、簡素なパイプベッドの上に敷かれた布団には今晩使われた形跡は無い。朝起きて軽く整えた、その侭の様だ。
 「──、」
 指折り可能性を消してから息を呑む。つまりは、どう言った理由あっての事か解らないが、ヤクモは鍵も掛けずに家を空けたと言う事だ。それも、最低でも夜の間中ずっと。
 (まさか、今更地流の連中が何かをしたとか、)
 天流のヤクモと言う闘神士が、幾ら闘神士である事を降りたとしても、未だそれを目の敵の様に思っている者は恐らくゼロではあるまい。天流を未だ嫌う者も少なくない、単独で活動を続けている地流闘神士なら或いは、と可能性は浮かびはするが、それらは具体的に『誰』が『どうして』と言う可能性や答えを出すには至らない。
 (仮に、地流の連中が今のヤクモを襲撃したとして…、)
 有り得ない話では無い。だが、闘神士ですらない一般人を相手に、果たして彼らが何をしようと思うと言うのか。恨み辛みがあったとしてそれこそ今更の話だし、況してや闘神士を降りた者へ危害を加えるなど言語道断だ。式神を名落宮へと堕とすリスクを負ってまで行う事では無い。
 基本的に闘神士同士の戦いでは、片方が勝利すればその時点で遺恨も無いものとして扱う。決着がつけば最早手打ちと言う事で終わりにすると言うのが暗黙の了解と言う部分があるのだ。
 神操機の契約に於いて、敗北はイコール喪失。それは式神の喪失だけではない、それまでの記憶──時間を失う事でもある。その時点で何よりも報いを受けていると言うのが通常の闘神士の思考だ。
 そう言う意味ではヤクモは既に『報い』を受けたと言える。故に、もしもそんなヤクモを襲撃するとしたら、それは最早闘神士の領分を越えた話に──刑事事件の段へ進んで仕舞う。
 部屋からリスクを負って連れ去って、それで害を加えるなどと、そんな面倒な手順をわざわざ踏んでまでヤクモを恨む者が果たして居るだろうか?
 幾ら恨みつらみがあれど、敵意があれど、闘神士ですら無くなったヤクモをわざわざどうこうしようと思うだろうか?
 (……有り得ない)
 半ば願いを込めた否定と共に呻く。そんな『有り得ない』思考が己の心を不安で踏みにじって行く事に気付いて、マサオミは数度深呼吸をした。
 それから未だ少し落ち着きなく室内を見回す。部屋に荒れた様子の無い事が無い事から、取り敢えずマサオミは、無理矢理に何者かが部屋に押し入ってヤクモに危害を加えたと言う線は無さそうだとは最低限判断を下すに至った。
 そこで、懐に潜めた、封印に包まれた零神操機に無意識に手を添わせていた事に気付いて思わず苦笑する。不安の顕れは実に解り易い。
 だがそうなると、ヤクモは自主的に鍵も掛けずに外へ出たばかりか、深夜になっても戻らなかった事になる。
 「一体何処へ…」
 呻いてもう一度室内を見回すが、書き置きの類は矢張り見当たらない。少々心は痛んだが、ヤクモに心の中で謝りつつ、マサオミは部屋の中を勝手に家捜しする事にした。
 ヤクモを連れて奈良に行ったのは昨日の朝の事だ。それから夕方までには現地を発っている。原付だと疲れるからと言うヤクモを、彼の希望通りに駅まで送ってそこで別れている。
 それから夜に太白神社へマサオミは向かい、用を済ませてから一晩中原付を飛ばしてここまで来た。
 駅で別れたが、ヤクモはちゃんと家(ここ)には戻っている筈だ。そうでなければ部屋の鍵が開いている理由が無い。
 つまりは、ヤクモは一旦家に戻り、それから恐らくは夜に何かを思って出かけた。鍵を掛けなかったのは余程に急いでいたのか、それとも意識が散漫になっていたからなのか。
 ヤクモの『趣味』で持ち歩いている鞄は、ベッドの横に置かれていた。中を開ければ、筆記具に文庫本、ちょっとした『冒険』の出来そうな細かな道具類などが入っている。
 そして更に、スマートフォンが入っていた。
 「〜…」
 バッテリー残量の少なくなったそれを手の中で弄んで、マサオミは溜息をつく。慣れないもので、まず電話で安否確認と言う発想に至らなかったのだ。尤も、肝心のヤクモのスマートフォンがここにある以上、マサオミが電話を掛けた所で出る者はいなかったのだが。
 さて、ヤクモはどうやら本当に財布程度しか持たずに外へと出たらしい。どう考えた所で普通夜に行う行動では無い。スマートフォンを持たずに出かけると言う事も同様にだ。今時近所のコンビニにだって、財布とスマートフォンと鍵ぐらいは持って行くだろう。
 鍵、と思って玄関を振り向いてみれば、鍵はいつもの場所に下がっていた。いよいよ本当に、ヤクモが唐突にふらりと外へ出て行ったと言う事に間違いは無さそうだった。
 「!」
 と、そこで玄関先に小振りの手帳が落ちているのが目に入った。まるで、靴を履こうとして落とした様な位置だ。玄関に入ってからは足下も見ないで靴を脱ぎ捨てたマサオミの丁度死角だ。
 飛びつく様にして拾い上げた手帳をめくって行くと、中にはヤクモの『趣味』のあれこれが描かれている。マサオミには大した興を惹く内容では無いのだが、唐突に何処かへ飛び出したヤクモがこれを落としたと言うのであれば、何か行き先にヒントがある筈だ。
 (何か、きっと何かがある筈だ。突然理由も無く飛び出す様な奴じゃない。奈良から戻って、何か思い当たったり気付いたりする様な事があって、それで…?)
 と、手帳の最後の方でマサオミはふと手を止めた。いやに書き込みが少ないその頁が、斜めに折られている。
 これだ、と確信して折り目を拡げて、よくよく見ればそこは、この時代に戻って来たマサオミが、闘神士を降りたヤクモと最初に再会した場所だった。ここからもそう遠くはない。
 「小さな……、中に何も無い社の廃墟」
 気にはなるけど正体はわからない、と走り書きで記されて終わっている、そのページをマサオミはぱんと勢いよく閉じた。
 確信があった訳ではない。だが、脳裏に、一度しか行った事のないその場所の地図を描いて、「くそ、」と舌を打って立ち上がる。
 (どうして気付かなかったんだ!?あれは、あの位置は、鬼門だ…!)
 ヤクモの記した、正体不明の社の廃墟。今思い起こせば解る、あれは鬼門だ。恐らくは遙か昔には天流が護っていた、鬼門だ。
 そこにヤクモがいる、と。そんな確信を、折り目のついた頁が後押しした。立ち上がったマサオミは、自分でも何故そう確信しているのか今ひとつよく解らない侭に、再び原付に跨ると勢いよくエンジンを掛けた。
 闘神士ではもう無い筈のヤクモが、然し闘神士の痕跡に何か惹かれると、そう言った事もひょっとしたらあるのかも知れない。或いは、奈良の山中で妖怪の存在に触れた事で、彼の裡の『何か』が、闘神士であった『彼』を呼んだのかも知れない。
 否。寧ろそうあって欲しいと何処かで願っている。
 可能性以下の思いつきと願望とに、然し今は他に縋る術も選択肢も無い。徐々に白み始めてきた空の下、マサオミは一直線にそこへと向かって原付を走らせた。






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