神の還るところ / 10



 夜明けを迎えた、霧のぼんやりと漂う静かな山中を、古びた石段を駆け上がれば、社のある部分で綺麗に空が開ける。
 朝の最初の陽が目に真っ直ぐに飛び込んで来るのに、マサオミは咄嗟に掌を伸ばしてそれを遮った。眼を灼いた真白な朝陽の余韻を振り切る様に目元を歪めて細めて、それでも前方を凝視する。
 「──」
 果たしてそこに、探していた姿はあった。思わず足下から脱力していく様な感覚を覚えながらも、急いていた心が跳ねる鼓動と共に静かになって行くのを感じて、マサオミは一呼吸するとゆっくりとした足取りで朽ちた鳥居を潜った。
 地流に害されたのではないかと言う最悪の想像も、肯定するに足る材料が無かった訳では無いのだ。敢えて、それはあり得ないと言い聞かせて可能性から除外する事にしただけで。
 「……、」
 そこでふとマサオミは足を止めて振り返る。そこにはたった今通り抜けた鳥居が佇んでいる。そこには確かに『今は』何も無いが、術や結界の残滓が僅かに残っているのを、感覚的な部分で確信する。闘神士として培われた来たその感覚を今更疑う筈もない。
 (天流の、結界)
 ヤクモとここで『再会』した時には、マサオミは鳥居には近付いていない。それどころか社にすら近付いていなかった。結界があると言う可能性すらも全く考えてすらいなかった。
 ごく、と我知らず鳴った喉の音に促される様にして、マサオミは再び振り向くと、朽ちた社の前にぽつりと立ち尽くしているヤクモの背へと駆け寄った。
 「ヤクモ!」
 何歩か前で叫ぶ様にして呼べば、彼はごく普通の所作で頭を巡らせてマサオミを振り向き、それから驚いた様に目を瞠る。
 「マサオミ?何でこんな所に」
 「〜っ、それはこっちの台詞だ!アンタなぁ、今何時だと思ってんだよ!どうしてこんな所で、一体何を、」
 振り向いて言うヤクモが余りにも普通の様子だった為に、マサオミはぐしゃりと前髪を潰して頭を抱えて喚いた。どれだけ心配したと思っているんだ、と、自然と出て来た溜息に混ぜて吐き出せば、ヤクモはきょとんとした表情の侭でマサオミと、空とを見上げた。ぽかりと口を開く。
 「……ひょっとして、朝か?」
 「ひょっとしなくても朝だよ、何言ってくれちゃってるんだアンタ本当に…」
 「いや、」
 呆れ調子で言うマサオミからそっと遊がせた目を閉じると、額を人差し指の爪先でぐりぐりと揉む様にしながら、ヤクモはばつが悪そうな様子で続ける。
 「正直、どうしてここに来たのかとか、よく解らないんだ。ただ…、何だろう、じっとしていられなかったと言うか…」
 「………」
 ここが鬼門であれば、天流の結界があった筈だ。ヤクモはそれを、無自覚の侭に通り抜けてここに居た。この結界の残滓が果たしてどれだけ前に破られたものなのか、そこまでは知れない。だが、闘神士では無い者ならば自然と遠ざけられ、近付く事すらならなかっただろう筈のそれを通り抜けてヤクモはそこに確かに居た。
 自分でも理由さえ定かではない侭に、その足は施錠と言う当たり前の様な日常動作を彼に忘れさせる程の衝動を以て鬼門への訪いを促した。
 今のヤクモの住む地域から最も近くに当たる鬼門は、在りし日のその姿をただの瓦礫に変えて久しい。だが、社が朽ちようとも鬼門の口は──或いは蓋は決して変わらない。その裡に隔離世へと通じる途を潜めて沈黙をしていようとも、その性質も実態も変わらない。
 もしも、ヤクモの裡から式神との契約が完全に断たれた訳ではないと言うマサオミの予想が当たっているのだとすれば。
 闘神士であった彼が、記憶を失う以前の彼であれば全くの無関心だっただろう、朽ちた寺社や史跡へと興味を抱いた。それも或いは必然。その足は、意識は自然と闘神士としての日々に在った非日常を思い出そうとでもするかの様に、人の世界から少しでも遠ざかろうとでもするかの様に、『それ』へと──そこへと、向かった。
 (そうだ。ヤクモは、まるで伏魔殿に呼ばれてでもいる様じゃないか…!)
 或いはそれに似たものを本人が無意識の内に探そうとでもしていたかの様だ。
 これを単なる偶然と、もう片付けて良い訳は無かった。マサオミは懐の内に潜めた零神操機にそっと手を添えると、確信を以て口を開く。ずっと噤んで来た言葉を。ヤクモにとって決して失い難い筈の名前を。彼の記憶や意識へと届かせようと、紡ぐ。
 「……白虎のコゲンタ」
 静かに放たれた言葉の、然しその意味を計りかねる様に、ヤクモが眉を寄せる。そんな彼にまるで畳みかける様に、マサオミは続けた。
 「雷火のタカマル、消雪のタンカムイ、榎のサネマロ、黒鉄のリクドウ、青龍のブリュネ」
 流れる様に紡がれる名前たちを耳にして、それでも目の前の彼が──人間の『彼』が何ら明瞭な反応を見せる事は無い。然し落胆はせずに、マサオミは懐から取り出した、繭の様に封印を施された紅い神操機を、ヤクモの手を取って無理矢理に握らせる。
 「その神操機で、アンタが契約した式神たちだ。アンタと共に戦い、共に生きて来た式神たちの、名前だ」
 手の中に持たされたそれを、ヤクモは困惑を隠さぬ瞳で見つめて、それから困り果てた様子でマサオミの姿を見遣る。普通の『人間』であれば全く、何を言っているとも知れぬ、世迷い言も良い所の言葉の羅列を向けられた人間としては、恐らくごく当たり前の反応と言えよう。
 だがマサオミは怖じけずに続けた。今のヤクモに『それ』が解らなくとも、伝わらなくとも、届けなければ与える事は決して出来ない。諦めて仕舞ったら二度と取り戻せはしない。
 「コゲンタとの契約は満了出来たが、残る五体に関しては未だだ。彼らはきっと名落宮でアンタを待ってる。アンタを助けようと、アンタの力になろうと、アンタと共に歩みたいと願って、アンタと言う──吉川ヤクモと言うたった一人の契約者を、ずっと、ずっと、待っている筈だ」
 ヤクモに持たせた神操機ごとその両手を掴むとマサオミは、無知と無垢の果てに佇む彼へと必死で言い聞かせた。
 言葉は無意味へ届いても、意味が形となってそこに届けられる様になるのか。それは見えないし、知れない。然し、『忘れた』彼の心の何処かが、闘神士に纏わる何かを感じて、呼ばれて、自然とまたそこへ近づこうとしている事はきっと間違い様のない事実だ。
 縋るとしたらその可能性が一つ。
 取り戻す手がかりがあるのだとすれば、その可能性を無理矢理に広げて手を伸ばす以外に方法は無い。
 ひょっとしたら、それは残酷な所行になるのかも知れない。失われた記憶を、千切れそうな所に辛うじて留まった絆を再び引っ張り戻す事は、ヤクモにとっては何らかの疵を拡げる事なのかも知れない。
 (それでも俺は、ヤクモの──嘗てのヤクモの意志を、心を、知っている)
 怖じけて立ち竦む様な真似は、彼ならばきっとしない。望まない。
 「きっと、アンタはそれを取り戻さなければならないんだ。取り戻そうと足掻くアンタの意志がそこにある限り」
 「……」
 ヤクモはマサオミの言葉を、困惑と混乱を隠さぬ様子でただ黙って聞きながら、手の中の物体を見つめていた。きっと否定や笑い飛ばす類の言葉は幾らでも浮かんでいたのかも知れないが、それを口にするには余りにマサオミの様子が真剣で、真摯であったから、躊躇われたのだろう。
 「行こう」
 どうしたら良いのか解らない様子で黙りこむ彼の手を取って、マサオミは静かにいざなった。その逆の手には翡翠の色をした、涙滴型の闘神石。
 「どこへ、」
 引かれる侭に歩き出すヤクモの前で、マサオミは朽ちた社に向けて闘神石を投じた。封印の意を失った伏魔殿の役割や構造が変わってからと言うものの、伏魔殿のあらゆる理は変容した。裡から妖怪が溢れ出すと言う事はもうない。
 「アンタが取り戻さなければならないものを、取り戻す事の出来る場所へ」
 社の前で一度、振り返ったマサオミがそう言うのとほぼ同時に、鬼門がその口を開く音がした。只人では視認する事すら叶わぬ、鬼門開放の光を茫然と見つめるヤクモは、手を引かれるその侭に前へと歩を進めて行き、鬼門は二人の人間をその裡へ呑み込んでまた静かにその蓋を閉じた。






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