神の還るところ / 11



 元々、この世界には隔離世とも言うべき、現世とは座標を異にした空間が存在していたと言う。神或いはそれと称される現象の在る時空、世界を表裏一体となり支える時空などと推測されて来たそれらは、然し通常の人間──人類には知覚も干渉も決して叶わぬものだと言う。
 例えば式神の存在など、そう言ったものが『在る』のだとは、人は古来より漠然と理解は得ていた。だが、実際にそれらの在る隔離世への扉に手を掛ける事は不可能とされていた。
 そんな隔離世の一部を、人として初めて切り拓いた者がウツホであった。実際にウツホが『人間』と呼べる存在であるのかどうかが解らず悪魔と称するほか無かった事も、ここより始まった所行に由来するとも言う。
 ウツホは文明を得た人間と相容れぬ存在となった、妖怪たちの安住の地として隔離世を拓いた。それが後に伏魔殿と呼ばれる事となる空間である。
 当初はただの、妖怪の住まう空間でしかなかった伏魔殿は、天地流派がウツホをそこに封印した事に因ってその性質を大きく変容させる事となる。
 天地流派の術者たちはその総力を用いて伏魔殿を幾つもの空間の断片へと分解し、闘神石を核として五行の属性を持たせる事で、一つ一つの断片を一種の構造物として固着させた。そして全てを相し克する五行の理を術式とし、伏魔殿そのものをウツホの封印空間とし再構築した。
 彼らはウツホの存在を畏れていた。万一にでも彼の『悪魔』を再び現世へ呼び起こす事があってはならぬと、伏魔殿の存在を禁忌とした。
 本来であれば封印の隔離世毎に世界より葬りたかったに違いない。だが、伏魔殿を封印空間として構築した天流は、ウツホの力を封じ畏れながらも、その一方で伏魔殿より得られるものの大きさに目が眩み、禁忌にも手を出し続けたのだった。
 それもあって天流には、秘された伏魔殿の記録が数多く存在していた。嘗てヤクモが単身で伏魔殿の調査に向かえたのも、それらから得た情報や知識が大本になっていたと言う。
 だが然し、そんな伏魔殿は今や、当初より持たされていた役割や機能を失って久しい。封印を中央に抱えてこそのフィールドの構成は、封印されていたものを無くしてからは、言うなればピースの欠けて仕舞ったパズルの様なもので、その形を時と共に不安定に変容させ続けている。
 更には、その隔離世を拓いた張本人であるウツホの力の影響を受けて何とか保っていた部分もあった為に、一部では現世との連結点も危うくなっているらしい。
 これらの事から現在の伏魔殿の置かれた状況をざっくりと説明するのであれば、『未知に程近い』空間と言う言葉一つで足りるだろう。バラバラになった上に座標も性質も以前までの伏魔殿とは全く異なるそこには最早、別の隔離世と言っても良い様な未知の法則が働いている可能性も否定出来ない。
 嘗て伏魔殿を庭の様に歩き回っていたマサオミとてその例には漏れない。鬼門から降り立った空間が果たして何の行で構築されたものなのか、何の行が連結して仕舞ったものなのか、或いは砕けて仕舞ったものなのか。見覚えも無ければ把握も全く出来そうも無い風景をぐるりと見回して、何もない天に湖を湛えた不可思議なフィールドに思わず眉を寄せる。
 「……ここは、」
 ぽかんと、マサオミの隣で同じ様に空を見上げて茫然と呟くヤクモとて、恐らく嘗ての記憶があったとしても似た様な反応を見せたに違いないと、そんな事を思う。伏魔殿と呼ばれ、ウツホの封印を為していたこの隔離世は、最早その名であった頃とはあらゆる意味でその性質を違えて仕舞っている様だった。
 正直な所を言えば、マサオミの知る名落宮のあった座標がこの空間の何処にあるかの見当はまるでつきそうもない。
 元々名落宮はこの伏魔殿と言う隔離世に在る存在ではない。伏魔殿から名落宮へと通じる『途』と言えるものは、偶々にそこに程近い空間座標を、その裡に何カ所か持っていたと言うだけのものでしか無いのだ。
 名落宮はどちらかと言えば式神界に近い性質の存在だ。この、伏魔殿の様な空間座標が曖昧になった隔離世でも無い限りは、どうしたって人間に辿り着く事の叶う時空では無い。
 それでも嘗て、伏魔殿から名落宮へと近づく事の叶う途を見出したのは、闘神士だった。世界に、生命に背く罪科を、世界の守護者たる式神へと負わせる、その責や所行を償う為に。式神をそこから解放する為に。
 だが、式神が──世界がその気になれば、式神界や名落宮を人間の手に触れさせる事すら本来不可能でもおかしくはないのだ。然しそれは叶う。叶う侭に赦されている。人は、闘神士は、式神界に在る式神と契約する事が出来るし、名落宮へ消えた式神に償い、或いは救済を与える事も出来る。
 これは、世界の譲歩であり、慈悲であり、救いの可能性でもあるのだとマサオミはそう解釈している。嘗て伏魔殿より途を辿って名落宮へと接近し、願う事で再びキバチヨに出会った。その現象が世界の呉れた機会と言わずして他に何と言えるのか。
 「……行こう」
 言って、辺りを不安そうに見回しているヤクモの手を引けば、彼はふらふらとした足取りで、マサオミに促される侭に未知なる空間をゆっくりと歩き出した。
 引く手の、逆の掌の中には、封印に包まれた神操機。
 ヤクモは『それ』が何であるのかを理解していなくとも、きっと本能的に何かを感じているのだ。封印の裡で閑かに眠る五つの絆や、隔離世に満ちた空気。それらはヤクモの裡より失われようと、或いは遠ざけられようとしているものを呼んで、繋いで、結びついて、還ろうとしている。その摂理をマサオミは信じる事にした。ヤクモの辿った無意識を、望むだろう事を、確信を以て認める事にした。
 名落宮は式神界と同じで、空間的な隔たりよりも、式神との心の距離に基づいて闘神士に近づいたり遠ざかったりする性質のものだ。伏魔殿と言う空間の曖昧な隔離世が、それを感覚的に近づける手伝いをしてくれるだけであって、その途はマサオミの嘗て辿ったそれと同じで無くとも構わない筈だ。
 「アンタが、式神たちを強く望めば、その心が近くなれば、きっと辿り着ける」
 「どこへ」
 鬼門の前でも問われたその言葉は、先頃よりも乾いて空々しい響きを以て放たれた。問いは反射的なもので、恐らく実際に彼はそれを疑問にすら抱いていないのだろうと思える様な言葉であった。
 説明も理解も出来ぬ様な何かに理由を知らされながらも、それはまだ明確な形を成してヤクモの裡の解答にはならずに居るだけで。
 「……アンタの、取り戻さなければならないものの元へ」
 「………………」
 前でも、後ろでも、左右でも。進むべき方角は関係は無いが、マサオミは振り返らずにそう答えると足をただ先へと進め続けた。困惑と動揺の気配を湛えて、手を引かれる侭に歩くばかりのヤクモは黙った侭、然し本来『一般人』の彼には山とあっただろう疑問や混乱を露わにする様な事も無い。
 これを、この現象を、ありの侭に無意識的に受け入れながらも、己の立つべき場所を見極める事の叶わないその不安や苦痛は、マサオミの理解の及ぶものではない。
 幸いにも己の手から式神が喪失した経験は無いし、苦痛すらも『忘れ』る目に遭った事も無い。
 忘れた事を、奪われた事を、ヤクモの意識は明確には記憶していない。だが、喪われていないものは確かにあって、それがヤクモの、嘗て闘神士であった彼自身をここに辛うじて繋ぎ留めている。
 きっとそれは途方もない苦痛なのだろうと思う。
 全てを忘れた筈の彼は、然し呼ばれ導かれる様にして闘神士の存在に近いものへと近づいた。探求や興味と言う言葉にすり替えた感情は、どう在っても闘神士より他に望むものなど無かった彼の生き様を自分自身へと突きつけているかの様であった。
 「……俺は、何を忘れた…?何を忘れた事を、失ったんだ…?」
 「…………」
 今度はマサオミが沈黙する番だった。否、そもそもにしてヤクモはそれを矢張り問いたかった訳では無い様で、何かを紡ぎかけては困惑した様にかぶりを振って、自問自答でもする様にぶつぶつと明瞭ではない呟きをこぼして──、やがて、唐突にその足を止めた。
 固く握っていた筈の手がするりと解けて、慌てたマサオミが振り返ると、座り込む様にしてその場に膝をついたヤクモは、掌の中の神操機をじっと見下ろしていた。
 「──ヤクモ、」
 今にも何かを叫び出しそうな、様々な感情をない交ぜに湛えた彼の苦悩に寄り添う様に、マサオミは神操機を握りしめるヤクモの手に己の手をそっと添えた。
 ヤクモの今感じている苦痛や混乱と言ったものを、どうすれば楽にしてやれるのか、気休めの様に笑わせてやれるのかが解らなかったのだ。
 名状し難い記憶或いは感情に押し出される様にしてヤクモの唇が戦慄き、幾度も左右に振られた頭はやがて天を仰ぎ、苦悩の響きを軋る奥歯の音へと変えて吐き出した。
 己の掌を包む様に寄せられたマサオミの手に伝わるのは、冷え切った体温と微細な震え。何れもヤクモが苦しみを訴えている事の知れる反応だった。
 「だから、俺は記憶障害になって、太白神社から遠ざけられて──、それが、それを、俺が、、……っ、失ったから、」
 途切れ途切れにヤクモが呻いたその瞬間、びしりと厭な音を立てて空間が軋んだ。咄嗟に頭上を見上げたマサオミの目に飛び込んで来たのは、天に何の支えもなく存在している湖──水の塊が恰も巨大な生物か何かがのたうつかの様に蠢動する有り様だった。
 封印と言う役割を失った伏魔殿は不安定過ぎる状況にある。このフィールドに果たして、行を固着させる為の闘神石があるのかすら判然としていない中では、残存している属性や理が気紛れの様に変容したり崩壊したりする事も、恐らくは珍しい現象では無いのだ。
 それがヤクモの感情のぶれに、主に負の要因として誘発されて仕舞ったのか、それとも単にそう言った現象の起きるタイミングだったのか。
 兎に角、湖は大粒の雨へと姿を変えて次々辺りに降り注ぎ始め、所々では水行である筈が金や土の行に変容でもしたのか、石礫でも降り注ぐ様な鈍い音を立てて岩肌の覗き見える地面へと落ちて来ている。
 マサオミは咄嗟に符で障壁を作る事で、頭上から滴り落ちるそれらの脅威から一旦は逃れる事に成功したが、この侭この場所でじっとしているのが危険である事に変わりはない。
 何しろ、符の力とて限界がある。天上より降る災厄を回避する手段と言うものを、人類は未だ持ってはいないのだから。
 「ヤクモ、取り敢えず安全な、身を隠せる場所へ行こう」
 符を握りしめて頭上の障壁を何とか維持しながら言うマサオミに、然しヤクモは天を見上げた侭で、まるで背についた糸でも引かれる様にしてぎくしゃくとした仕草で立ち上がった。その目は茫然と天を、災厄の如き変容を続ける天の事象を、意味も感想もなくただ見つめて、動かない。
 「場所は関係ないんだ、アンタが式神たちを望めばそれで。だから──、」
 びし、と再度響いた大きな音に、マサオミの言葉は途切れた。空間が、軋んで捻れて、まるで硝子でも叩いた時の様に辺りに無数の罅を、空間のほころびを一斉に生じる。
 それはまるで、裡に抱えた圧力に耐えかねて何かが破裂する時の様な、正確無比な迅速さ。
 「──、、する事が、未だ、に、赦され、の、、、」
 両の掌に神操機を抱いたヤクモが、まるで細かな雨の様に降り注ぐ水の緞帳の中、嗚咽でも漏らす様に、息苦しさに喘ぐようにして途切れ途切れに吼えた。
 その名前を、どうか呼ばせて欲しい。
 「──、」
 思わず息を呑むマサオミの目前で、恐らくヤクモはそう叫んだ。少なくともマサオミにはそう聞こえた気がした。
 軋んで崩落を始めたフィールドの大地が忽ちに崩れ落ち、どんな空間の奈辺とも通じるか知れぬ深淵へと落下しながら、手を伸ばしたヤクモに、然しマサオミの腕は届かない。
 「っヤクモ……!」
 がらがらと崩落の音を立てて砕けて行く大地のひとかけらに何とか符を使ってしがみついたマサオミは、底が抜けた様に一息に滝の様に流れて行く水と、その遙か底へと落下し消えていったヤクモの姿とを、掴む事の叶わなかった指の先に茫然と見ていた。
 最早先頃までの姿など全く留めぬ程に砕けたフィールドの残滓の中で、然しマサオミの裡には衝撃こそあれど悲壮感や最悪の想像は全く涌いてはいなかった。
 この深淵の底に、ヤクモは落下したのではなくて、きっと呼ばれたのだ。だから、大丈夫な筈だ、と。
 ここまで彼を呼んだのが、還りたいと言うヤクモ自身の願いや、そんなヤクモを呼び続けているだろう式神たちであるのだとすれば、これはきっとその為の『途』に相違ない筈だと、そう信じる事に決めたからだった。






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