神の還るところ / 12



 『敵』だ、と言われた。
 謂われも理由も原因も、解らないと言えば解らなかったし、解ると言えばある意味で全て正しく理解出来る様な事なのだとも解ってはいた。
 闘神士にとっての『敵』──正すべきものは、同じ闘神士では無く、誤った事象だ。人の世界に害を成す妖怪や世界の歪みと言ったものに立ち向かう事こそが、闘神士の本来の役割であって、遵守すべき使命とも言える。
 但しこの世界は僅か数ヶ月前まで、闘神士同士を『敵』とみなす風潮があった。
 それは平安の頃よりの長き時間の生んだ悲劇から連なるものであって、同時に闘神士と言う存在の歴史そのものでもある。本来成さねばならぬ使命とその『敵対』とはほぼ同時に存在した為に、未だに闘神士同士は流派の違いと言うものを理由に、対峙する事もある。
 永き時の鋳型で形作られた、流派や敵対の概念と言うものは、容易く消せる程に簡単なものでは無かったのだ。
 『理由』はそれで足りる。納得出来るかどうかは別として。
 ぎこちなく手を取り合った天と地の流派は、闘神士たちは、然し僅かのきっかけや何らかの拍子に、その手を振り払い神操機を向け合う。大戦で生じた結束は、残念ながら全ての闘神士の心に説得力を以て行き渡る程には盤石なものでは無かったのだ。
 悲しい話だとは思うのだが、恐らくその方が楽なのだ。遺恨、憎悪、嫌悪、憤怒──そして、諦観。様々に理由を付けて培って育てて来たそれらの感情を、敵対と言う概念と共に捨て去れと言われたならば、その新たな規範に従わねばならぬと言うのであれば、散々に持て余して来た『それ』を何処へと向ければ良いのか解らなくなって仕舞う。
 そこに来て、伏魔殿の半壊や封鎖に因って、一時乱れていた世に今度こそほぼ完全なる平安が訪れて仕舞えば、力の向く先も目的も行き場を失い果てる。世界を護れと言う体の良い役割さえ失われ消える。
 そうなった時にふと思い出される感情こそが──『敵意』。
 今までは闘神士同士の戦いと言う事で、ある意味で堪えられた喪失が、そこから生まれた憎悪が、取り合った手の下でそっと鎌首を擡げるのだ。
 だからヤクモは、己に躊躇わず攻撃が向けられたその瞬間に、「ああ、またか」と思った。
 ヤクモは基本的に闘神士として在るべき姿、形、規範を遵守して来たつもりでいる。少なくとも尊敬する闘神士である父や、自らの契約した式神の名に恥じぬ様生きて来た。
 それでもヤクモが天地何れかの流派に属する闘神士と言う存在である以上は、ヤクモ自身にそのつもりが無くとも、流派や目的を異にする闘神士と戦わねばならなくなる事もあった。
 『敵』だと言われた。断じられた。
 謂われも理由も原因も、解らないと言えば解らなかったし、解ると言えばある意味で全て正しく理解出来る様な事なのだとも──そう、解っていた。
 誰々の仇だと、そう言われた。
 降神された式神と共にその初老の男はヤクモへと、友か仲間か、兎に角仇であるのだと憎悪の感情を露わに述べて、戦いを挑んで来た。
 男が説得に全く応じる気配を見せぬ事と、闘神士としては確かな腕の持ち主であったらしい事とが、ヤクモに躊躇いつつも降神と言う手段を選ばせた。
 流派で争う必要の無い世界になった筈だった。然しそれでも──或いはそれだからこそ、今までは忘れた振りをして来る事の出来た憎しみを、闘神士たちは目の当たりにする事になったのだろう。
 嘗ての仇は今は同じ闘神士の同士として生きているのだ、と。
 無論、道理を受け入れ堪える事を良しとした者も多かった。だがそれと同じぐらいに、嘗て失われた絆や記憶を、もう取り戻す事の出来ない時間を、『敵』であるべきものへの憎しみに変えずにいられなかった者も多かったのだ。
 一度や二度では無いその苦い経験の記憶の中、それでもヤクモは穏便に事を済ませたかった。
 契約する式神の一体などは、いっそ介錯してあげるのが優しさだよ、などと実に正しい事を言って寄越したものだが、それを是として受け入れる事をヤクモが躊躇ったのは、矢張り心の何処かに、もう闘神士同士で戦わねばならない時代は終わったのだ、と解って貰いたい思いがあったからである。
 憎悪に戦いで応えたら、またいつかこの連鎖が続くだけだ。何処かで憎しみを、負の感情を断ち切って欲しいと願っていたから、飽く迄ヤクモは言葉と心を尽くし、自ら刃を向ける事も受ける事も出来ずにいた。
 
 そしてその瞬間は訪れた。
 青龍の式神の放った攻撃の前に、神操機を放り棄てた闘神士の男が飛び出した。
 式神を喪う苦しみをその身で思い知れ。憎悪に狂った嗤い声と共に放たれたどす黒い言葉に、その示す正体に、ヤクモは恐らく初めての恐怖を憶えた。
 闘神士として敗れて潰えた、彼の友の味わったと言う苦しみを。
 『それ』すら忘れられる事をも承知で。
 ただ、その瞬間のヤクモが味わう、恐怖と敗北と絶望と苦悩と言ったものを与える為だけに。
 その男は、自ら式神に殺されようとしたのだ。
 
 彼と、彼の友との間に何があったのか、ヤクモが奪った絆や時間がそこに何と言う感情を生じさせたのか、それは何処までも計り知る事の出来ないものだったが、男にとってそれは自らが死ぬ事よりも辛いものだったのだろう。
 それを酌む事も、救ってやる事も、赦して貰う事も出来ない。
 目の前に横たわる結末こそが、男にとっての復讐であって仇討ちであって、きっとそれは彼らの喪ったものにとっては、何の慰めにもならぬ無意味な事でしか無いものだった。
 それでも、それぐらいしか男には、喪ったものへと報いる事の出来る選択は無かったのだろう。
 手の中の神操機を通じて、青龍の式神の槍が『人間』の命を奪うと言う、残酷な未来を視て仕舞ったヤクモの確かな絶望は、男の溜飲をひょっとしたら僅かに下げる程度には足りたのかも知れない。
 
 その瞬間にヤクモは、無意識の侭に叫んでいた。
 「厭だ」と。
 己の式神たちの誰かが、その名を汚され名落宮へと堕ちる事も、絆が裂けて消える事も、『厭だ』と。
 
 *
 
 そこから先の事はよく憶えていない。
 ただ、闘神士からの一方的な拒絶が原因でか、手の中の紅い神操機が弾け、辺りを無色の衝撃が襲った。その反動でヤクモと男は崖を転げ落ちて行き、重傷。やがて付近の住民に発見されて通報されるに至った。
 闘神士の男はその際の余波でか式神を喪って記憶を失い、ヤクモもまた式神を喪って記憶を失い、全てを知る筈の紅い神操機は静かに沈黙した侭で取り残されたのだった。
 
 「──」
 
 永い、夢にも似た既視感の果てに、ヤクモは目を見開いた。
 崖を転げ落ちる寸前の絶望の記憶と、伏魔殿の中でフィールドの破片から落下していった記憶と、何処までも続く暗闇を仰向けに墜ちて行く記憶とが結びついたその瞬間、理解するより早く視界に入った紅い光へと手を伸ばす。
 これは理屈では無いと、そう思った。ただ、そこに、それに、己の探す何か、喪った事すら気付く事の出来ない、そんな当たり前で尊いものが在る事だけを感じて、無我夢中でそれに手を伸ばした。
 失いたくはない。そう願って得た絆が在った。
 届かなくなったそれを心の中でそっと悼んだ日々から、己を奮い立たせ共に在ろうとしてくれたものたちが、在った。
 「俺は、」
 指を伸ばす。声が震える。落下速度が速いのか、風圧で手が何度も押し戻される。
 届きそうで届かない『それ』を、震える指先をつと伸ばしてただ必死で求める。
 「お前たちを、失いたくなかったんだ」
 彼らをきっと苦しめた事を。悲しませた事を。憤らせた事を。永い間を待たせて仕舞った事を。
 取り戻すべく、今一度、願う。
 「俺と共に歩いて呉れた、俺を選んでここに来て呉れた、みんなを、喪わせたく、無かった…!」
 叫びに応える様に、ヤクモの指先が、遂に『それ』に届いた。
 紅い光を裡に宿した、白い封印に包まれた塊でしかなかった『それ』が、ヤクモが触れた途端にまるで羽化でもする様に解けて開き、掌の中に自ら戻って来る。
 それとほぼ同時に、音の無い衝撃と共にヤクモの体は永い暗闇を抜けて、荒涼とした大地を遙か彼方にまで拡げた、名楽宮の上空へと『堕ちて』いた。
 右の掌に収まったそれ──紅い神操機を、開いて、ヤクモは祈る様に叫んだ。
 
 「式神、降神──!」
 
 瞬間、零神操機から五色の光が溢れ出し、名落宮のあちらこちらから飛んで来た同じ色の光と合わさり、それぞれの姿形をそこに顕現させた。
 五体の、式神たち。
 「──」
 言葉の代わりに涙が溢れて落ちる。落下していたヤクモの体は彼らに支えられる様にしながら、名落宮の遙か上空で停止した。寄り添う様に集った五つの絆の、繋がるその先を追って、ヤクモは静かにその事実を受け入れる。思い出して、受け止める。
 「ヤクモ様、ご無事でありますか」
 「よく我らを再び呼んでくれた」
 「ずっと待ってたんだよ、ヤクモ!」
 「この感じ、何だかお久しぶりとは思えませんなぁ」
 「よくお戻りになって下さったでおじゃるよ」
 口々に五方向から再会を喜ぶ声に囲まれて、ヤクモは涙を堪えながら目を閉じた。腕の中の零神操機を胸の中にそっと抱きしめて、喘ぐ様に息をする。
 「タカマル、サネマロ、タンカムイ、リクドウ、ブリュネ」
 何年も口にして居なかった筈の、何年も己の裡から消えて仕舞っていた筈の名前たちは、ヤクモが彼らを取り戻す事が叶ったその証明の様に、身の裡から自然と湧いて口からするりと紡がれ、そこに集った彼らの心へと静かに収まった。
 頷く彼らと、心を繋げ通じた絆を、掌の内の神操機に感じられる。それは嘗ては当たり前の事であって、今もまるで当然の様に在り続けていた。
 だが、それは確かに一度はこの手を離れ、身の裡から何も言わずに喪われた。その経緯と、その間の苦悩すら赦されなかった時間の隔たりとに酷い罪悪を憶えたヤクモは、身を丸める様にして静かに嘆き悔いた。
 その身を包むタカマルの翼が、背を支えるブリュネの腕が、身に寄り添うタンカムイの体温が、戯けた仕草をするリクドウが、頭をそっと撫でるサネマロの掌が。彼らの全てが、ヤクモと言う契約者を呼び続け、待ち続けていてくれた事を伝えてくれて居る。
 その幸福と自責との狭間で、ヤクモは彼らの思いにせめて報いたくて、叫ぶ様にして言葉を、感情を絞り出す。
 「皆、すまない、俺の所為で辛い思いを──こんなにも永い間させて仕舞って」
 あの時のヤクモの決断は、自らの式神を失いたくない一心ではあったと言え、紛れもない『拒絶』であった。契約をした闘神士にその存在を拒絶されると言う事は、式神にとっては名落宮へと堕とされると言う事実以上に辛く、心を裂かれる程に苦しいものであった事は違えようがない。
 「ヤクモ様が、我ら式神の事を思うゆえに成された事だとは解っていたでおじゃるから、心配召されるな」
 「そうであります。再びヤクモ様にお会いする事が叶った、これ以上の喜びは無いであります」
 サネマロとブリュネの言葉にうんうんと頷いたタンカムイがにこりと笑う。
 「ヤクモ、また僕らを選んでくれてありがとう」
 契約の拒絶と言う悲鳴は、然し彼らと言う存在の否定では無かった。だから式神たちはヤクモの事を信じて居てくれたし、ヤクモもまた彼らの思いに自然と呼ばれ、その自覚は全く無い侭に、名落宮に通じる途を──伏魔殿を目指していたのだ。
 「お帰り、皆」
 「お帰り、ヤクモ」
 重なった言葉に、ヤクモと五体の式神たちは寸時きょとんとして、それから穏やかに笑い合った。
 喪った時と喪わせた思いを手繰る距離とは確かに永く、そして遠かったが、今再びここに在る。
 神は神の還るべき処を選び、そうして至ったのだ。






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