望む必要はない。
 欲する必要もない。
 気付かぬ程に、意識している事さえも忘れて仕舞う程に。
 心にいつでも、それは在る。



  メモラビリア / 1



 身体感覚と云うよりも、脳の何処かが認識する浮遊感。
 伏魔殿のフィールドを『跳ぶ』度に憶えるのはそんな感覚だ。実時間にして僅か一瞬程度の空間座標の転移は然し、質量保存の法則をねじ曲げる所謂超常的な現象である故に、『その矛盾を排する』法が働いているとは云え微細な反発をその際に起こす。
 何も無かった空間に突然人間の質量ひとつを吐き出す以上、その座標に予め存在する『何も無かった』事実が排される。それは決して大きな反発を生む仕様にはされていないが、詰まる所、普通に地上の上ならば、己と云う質量を無理矢理そこに押し込んだ分の空気抵抗などを受ける訳である。
 それは物理的に起こる浮遊に似た感覚となって顕れる。身に纏ったマントがふわりとはためいて落ちる。一瞬の。
 逆に寧ろ感覚的としてはこちらの方が大きい気がする──脳で認識している浮遊感だが、これは単純に転移術の際などに憶える、空間転換の違和感だ。
 瞬間で変じるのは空気の匂いや温度の違いばかりではない、本能的に判じる『差』。物理的な違和感が何ひとつなくとも、感覚として『違うこと』を理解する為に或いはそんな警鐘を違和感として脳が叩き出しているのかも知れない。
 昔は、どこかの漫画である様な『便利な瞬間移動』としか感じていなかった様な気がする。事実、空間座標を転じる時に、その先の覚悟や警戒などなにひとつ抱いていなかった。
 しかもそれは空間どころか時空まで軽々と越えていた頃の話だ。嘗て軽率な刻渡りを行った際にイヅナにこっ酷く叱られたのも無理ない話と云えよう。
 ……今思えば実に危機感の足りない行動である。
 ヤクモが伏魔殿を深く探索する様になり、内部の危険性、空間を安易に跳ぶリスクを身に沁みて憶える様になった今では、その軽率さに『若気の至り』などと名を付けて記憶に蓋をして仕舞う訳にもいくまい。思い出せば恥ずかしいばかりに、精々猛省を。
 実際。伏魔殿の各フィールドは、人が跳び回る為に構築されたものでは決してないと云う事実がまずある。
 軽く隣のフィールドへ行って来ます、と跳び出したら谷底の上でした、などと云うのは初歩的。炎熱地獄に放り出されました、と云うのもよくある話。水の底に出て溺れかけました、なんて経験もある。
 もう少し怖い話になれば、いきなり高地に出現し急激な気圧変化に意識を失いかけた事だってあるのだ。そんな所で神流の闘神士に襲われていたらひとたまりも無かった。
 現出した途端待ち伏せの攻撃を受けた事はあるが、幸いそう云った環境的危機の濃い状況で襲撃を受けた事は未だ無い。
 無い、とは云え、今後も有り得ない、とは決して言い切れないのが伏魔殿、そして神流闘神士の驚異である。
 そんな経験則もあって、ヤクモはフィールドを越え空間座標を異にする際には警戒を常々怠らない様にしている。脳で憶える浮遊と云う違和感は、後天的に培われた警鐘を端的に示す事象と置き換えても良いだろう。
 空間構成から大まかなフィールドの形質を予想し、座標を比較的に現在位置と差異の少ない地点へと向かわせてはいるが、そうしていたとしてもフィールドの転移とは、一瞬前の立ち位置とは全てが異なると云っても良い。
 異なると云う事は通じないと云う事だ。通じないと云う事は──時に予想だにしない事態を軽々しく引き起こす。
 僅か一瞬の違和感からその全てのケースをはじき出し対処すると云う訳には流石にいかないが、出来得る限りは怠る事なく驕る事なく注意を払う。
 そう易々と全てが危機的状況を招く訳では無論、無い。然し出来る最善は尽くしたいのが吉川ヤクモと云う闘神士の生き方だ。
 …………とは云え、傍目には彼が常々そんな警戒を感覚的レベルで抱いている様には全く見えない。
 つまりヤクモはごく自然体でありながらそう云った警戒感覚を研ぎ澄ませているのだ。特に伏魔殿の内部では。
 或いはそう云った本能的な感覚部位に特化していたからこそ、彼は歴戦の闘神士として育つ事が適ったのかも知れないが。
 ともあれ──いつも通りの警戒を抱き跳んで来た今回のフィールドには、想像し得ない様な不測の事態は起こっていない様だった。
 鼻孔を満たしていた草いきれの匂いからひととき、無臭に近い埃の匂い。風のまるで無い澱んだ空気感。立ち尽くしていたのは先程までの草原のフィールドとは全く異なった、薄暗い、木造と思しき建造物の内部。
 (………珍しいな)
 今まで幾つも伏魔殿のフィールドを巡って来たが、建造物の内部へとダイレクトに放り込まれたのは流石に初めての事だ。
 ぐるりと周囲を見回す。左右はつるりとした木目の壁が遮り、前後にのみ通路が続いている。前方にも後方にも何らかの指針になりそうなものは見受けられない。壁に沿って見上げた高い天井は成人男性を四、五人は軽く縦に積める程。
 感想としては見事なまでの長い廊下。路の幅は四米程度。廊下にしては広いが、空いている空間にしては奇妙な圧迫感を憶える。
 飾り気のまるでない造りは反対に機能性すら排除しており、云って仕舞えば現実味がまるで無い。
 ついでに、前後にも左右にも何の気配もなし。生物、無生物共々。
 壁を背にするのも得体が知れないので(背後から罠が飛び出さないとも言い切れない)、前後に伸びる廊下その侭に立ち尽くした侭、ヤクモは顎に折った指を当てた。目まぐるしく頭を回転させ始める。
 伏魔殿のフィールドの殆どは五行を司る自然の姿を示しているが、明かに遙か昔の天流が構築したと思しき施設や擬似的な空間(フィールド)もごく僅かながら存在している。それらは妖怪や神流、プラス地流の存在以外は無人とも云える伏魔殿の中に於いて、重要な資料──歴史を示唆しているものばかりだ。
 ヤクモも実際そう云った施設やフィールドを探索する事に因って、ウツホと云う存在や天地流派の分断の歴史などの詳細な伝承を知る事となった。
 つまりは大自然のフィールドの多くに隠されたそう云った断片的な記録を求める事が、今のヤクモの、伏魔殿探索と云う目的そのものと云う事になる。
 中でも建造物の多くは天流の構築した封印結界である事が多かった。ヤクモは今までにも既に解かれた封印や未だ封ぜられた侭のものを幾度か発見している。
 今回の様に唐突に建造物の内部、と云うフィールドに出たのは初めての事だが、今までのセオリーから行くと此処も何某の封印の役割を持つ地、と見た方が良いだろう。
 『ねぇヤクモ、この建物すっごいイヤな感じがするよ』
 黙った侭巡らせていたヤクモの思考を継ぐ様に、腰に下げた闘神機からタンカムイの霊体が姿を浮かばせて云うのに耳を暫し傾ける。
 『何ていうかなぁ……遮断されてる感じ。遮蔽かな。結界とか封印とかとはちょっと違うんだけど』
 「ああ。『閉じ』ている様な感じはするな。五行の何れの気配も遠い。この壁も」
 口を尖らせてぶちぶちと云うタンカムイに頷くと、ヤクモは慎重な所作で左側の壁にそっと手を触れさせた。
 「……見た侭の木造ではなさそうだしな」
 ひたり、とした壁材の感触は冷たくも熱くもない、物質として何と例えれば良いのか解らない様な曖昧な印象を、触れたてのひらに伝えて来る。感覚として例えるならば、水面に触れるか触れないかの位置を掌で辿る様な感じだ。
 うーん、と喉奥だけで呻いてから、ヤクモは取り出した闘神符を一枚壁に貼り付けた。三歩、下がってからそちらに掌を向け、人差し指を、とん、と、恰も中空のスイッチを押す様に跳ねさせる。
 と、貼り付けられた符が遠隔発動し、ごくごく僅かの斥力を発生させた。小さな火薬玉を叩き付けた様な音と共に壁材の一部が破損したかと思うとその疵口から黒い靄を生じる。
 それは妖怪にすら変容する事の適わない、一種の『陰』の流れだ。
 靄は丁度集めて固めれば壁材の破損部の体積になるだろう程度の量。紛れないこの壁材の構成物質そのものである。
 もっと大きく破壊すれば一定量を保ち妖怪の様なモノとして変容するだろう。
 この一風変わった壁材──と云うか建築材、とでも云うか──は、無論生活の知恵でも文化の極みでも何でもない。天流が材料の無いこの伏魔殿で尤も安易に利用出来る素材として扱っていた(危険極まりない)方法であり、大概の封印的な意図を持つ建造物は全てこれと同じ形式で構築されている。
 恐らくは封印を解くべく結界を破壊するリスクを外部の者に与える、封印の要としての意味を指すのだろうが。
 ともあれこれで確定である。この建造物はどうやら何かをその内部に隠しているらしい。仕業としては恐らく遙か昔の天流の。
 「これだけ大がかりな封印に遭遇するのは初めてだな。何か重要な情報があるかも知れない」
 ぱたぱたと、わき出た靄(陰の気)をマントで軽く払い除けると、ヤクモは前後の途を交互に振り返った。調査が必要なのは明かだが、果たして何処から手を付けようかと思索する。
 とは云っても廊下の前後は全く変化の無い、遠近感で先細りに見える直線の道が続くばかりで、周囲の薄暗さも相俟って、選択の判断基準になりそうなものはやはり見受けられない。
 結局の所は勘頼みと云う事だ。二分の一。前か後ろか。
 『ここ、結界っていうか『壁』の内側っぽいから、ちょっと僕らの力も遮断されちゃうね。油断しないで行こう、ヤクモ』
 「ああ」
 そうして前方へと目標を定め、何処までも続く暗い廊下を見据えるヤクモへとそう云い、タンカムイは霊体を引っ込ませた。頷きと同時に右手を闘神機に軽く触れさせ、そっと足を踏み出す。
 一見木目に見える床板は、然し足音を吸収したかの様に何の音ひとつ立てず、その歩みをただ見送っていた。
 
 
 (六百)
 頭の中で数えていた歩数がその数字に達すると同時、ヤクモは足を止めた。再び注意深く周囲をぐるりと見回すが、前後には先行きの不明な道、左右には高い壁と、歩き出した頃と全く景観に変化の無い様相を目の当たりにするばかりだ。
 比較的ゆるりと歩いた為、一歩を一秒と数えたとして、十分間はこの道を歩いて来た事になる。道中には曲がり角も緩やかな円弧も無く、ただただ一直線に過ぎる道のりだった。左右の壁にも全く変化は無く、時折見上げた天井も相変わらずの高さと暗さを持って足下の道と平行に伸びている。
 歩幅が70糎程度だとしても結構な距離を歩いて来ている事になる。建造物と云うより伏魔殿に数多く存在するフィールドとして見れば、別段それは不審な距離でもないだろう。が。
 「……搦められたな」
 溜息混じりに吐き出す。そうしてちらりと見やった壁面には、先程ヤクモが符で削った傷が穿たれている。つまりぐるぐると同じ箇所を回らされていた、と云う事だ。
 薄々とは思っていたが、全く面倒な事である。故の溜息。
 「どうしたものか……。解くのは簡単だが一応これ、封印ぽいしなあ……下手にキャンセルさせると何が出て来るやら知れないし…」
 封印を構築している『内側』ないし『一部』に搦め取られた以上、それを『解か』ない限りに、内部から出る事は外部からの手助けでも無いと困難な話になる。その事自体に問題は特にないのだが、問題は、解いた後の事である。
 一応は封印の意を持たせてあるのだろう『場』を解くと云う事は、その封印と云う効力をも解く事になる。結界とは解くよりも張る方が通常困難で、今回のこの建物の様に物質として『場』を構築して敷いた結界様式ともなると、流石のヤクモとは云え簡単に戻すと云う訳にもいかなくなる。
 全く質の違う結界ならば即時張り直す事が可能だが、直接『封じられていた何か』に作用しない結界では守りの意は為せない。
 例えるならば扉が封印で鍵が結界。壊れた鍵を補修する事は困難。その代わりに鍵を壊してから扉の前にやっつけで衝立を立てる様なものだ。
 「封印されているのが妖怪程度なら問題はないが……」
 云いながらも、これだけ大仰な結界を敷いてまでそれは有り得ないだろうと、即時己の否定が返るのを感じ、ヤクモは眉を寄せた。天井を仰いで息を吐き出す。
 『ヤクモ様、これは…!』
 「………あ」
 闘神機からサネマロの声がするのと、ヤクモがぱちりと瞬きをしたのは同時だった。
 ばっと身を翻し、ヤクモは左右を伺いながら廊下を暫し走り、それから天井を再び仰ぎ立ち止まる。首当てを結んだ紐が、急激な運動の停止に遅れてひらりと舞った。
 「灯りが、無い」
 視線を辿らせる、壁の平坦な木目柄。同じ様な天井。床。丁度全く同じ筺の様な、ただ前後にだけ広さを持つ空間。そこには、灯りとなるものがなにひとつ存在していない。
 飾り気の無い壁面にも天井にもまして床にも、何らか光源となる様な物体は存在しないし、それらしい術が働いている気配もまるで無い。
 だ、と云うのに、ヤクモの眼は薄暗い視界と云う形ではあるが、壁を、床を、廊下を、天井を、確かに見定めている。無論のこと建材そのものが光を放っていると云う事もないのに。
 「成程な。搦められていたのは場にではなく様式そのものにだったか」
 『どうやらその様だな。そもそも騙しの扉ならば──』
 「ああ、解っているよタカマル」
 天井を見上げ、細い呟きに続きを促すタカマルの声に頷くと、ヤクモは符を五枚抜き出した。
 ひゅ、と無造作に五枚を放つと、それぞれ五方へと綺麗に散り五行を示す色の光になった。符が丁度五紡星を描く中心にヤクモが佇む形になる。
 火、土、金、木、水。五行の理は全てを生む始原であり、真逆に全てを消滅させる終でもある。時に相し時に克する。
 即ち五行の理とはあらゆるものを生み、また、廃する力。
 「『破る』のは偽だけだから、結界まで解く必要も無くなる」
 謳う様な囁きとほぼ同時。ぱん、と、実際に鼓膜ではない何処か別の部分で擬音が鳴った。五行五色の光が弾けると同時、結界の裡にて囲われた、偽の姿がまるで散乱する硝子の様に砕け散る。
 瞬時にして辺りが暗さを持たぬ黒い世界に変容した。割れた先程までの風景が、破られた絵画の様にひらひらと散って消えて行く狭間に放り出され、ヤクモはひやりとする前に、半ば反射的な行動で符を発動させていた。
 途端、胃の下を冷やす様な落下感が止まり、その身はゆるりと自由落下するに任される。ふわりと殆ど円形に広がったマントの柔らかな具合からして、落下速度はそう早くもないのが解る。そうする為に投げた符だが、実際周囲に何も標となるものがないと感覚的にどの様な速度具合なのか解り辛かった。
 上手く行って良かった、と密かに息をつき、ヤクモは先程まで天井だった方角を仰いで見るが、そこは今己が落下していく空間と同じ、無明の黒が続くばかりで空ひとつ見えそうにない。実のところ下に向かって昇っているのか、上に向かって落下しているのかさえも判然としないのだ。
 黒い世界は先程の偽──幻に因って構築された紙っぺらの『建造物』の場に似た、暗闇の様に見えてそこにあるものを視覚で認識出来る空間だった。色として云えば確かに『黒』いので暗闇の様に思えるが、ひらひらと翳す手も、ゆっくりと落下する風圧に煽られ舞うマントもはっきりと視認する事が出来る。
 どちらかと云えばこの黒い世界も幻に似たものと取っても良いだろう。
 先程までヤクモが囲われていたのは、結界の外周とでも例えれば丁度良い部分に当たる。正確には封印している裡を覆う偽りの『場』。結界の構築した『場』に閉じこめられた訳ではなく、結界を構築するひとつの要素に惑わされただけだったのだ。(それもトラップの一つなのだろう)
 幻に似た『場』であった為に、灯りもなければ足音もしない。光源が無くとも視覚で認識していたものは偽の空間。故に幾ら歩いても抜け出す事は適わなかったのだ。
 目に見えるものが偽であるのならば、それを破らない限りは『認識』の内側に囚われる。あれはそう云う類の術だ。
 解り易い名で云うのであれば、幻術。
 その為にヤクモは五行の力を使い幻の場を破った。つまり今落下(或いは上昇)しているこの空間こそは結界の内側。結界と云う構築要素そのものを打ち破った訳ではないので、効能はその侭保っている。
 然し見渡せど周囲は黒い闇ばかりで何も見えそうにない。空気の流れさえも或いは偽であれば、既に地に降り立っていると云う状況なのかも知れない。が、それすらも相変わらず定かではない。
 ヤクモは中空に伸ばした足首を軽く振ってみるが、取り敢えず地面らしきものに触れている様子はない。然し、落下(上昇)を続けていると云う確たる証明も何もない。
 ひょっとしたら無重力の様な場に延々浮かび続けているだけと云う可能性も有り得ないとは言い切れないのだ。
 『永久ループってー奴じゃないといんですがね〜』
 「…………そうだなあ……」
 暢気そうなリクドウの声に、返すヤクモの苦笑。
 「もう暫くは様子を見てみよう。先程の様に搦められている様だったら……次も破るしかないな。余り気乗りはしないけど」
 足場も手摺りも無い中空で器用に三角座りの姿勢を取って、ヤクモは軽く頬杖をついた。鬼が出るか蛇が出るかとも知れないが、そもそもどちらが地面かさえも判然としない現状では、立ち姿勢を保っているのも何だか莫迦らしい。
 状況の変化はそれから数十秒に満たない後の事だった。
 キン、と一瞬何かに触れる様な反応。中空に浮かんだそれは『天』の字を示した結界。青い残滓を残して揺らいだそれを、思わず立ち上がって見上げながらヤクモは眦を細めた。
 天流の結界があった以上、ここは紛れなく天流が何かを封じた(或いは隠した)地に相違ない。
 結界に触れ程なくして、靴底が、こつん、と地面に触れた。軽く腰を折って着地の衝撃を緩和すると、ふわりとマントが落ち、そこが地の上であるとヤクモに告げて来る。
 「………………………ここは」
 見上げた上は黒い世界ではなく、なにやら複雑な図式がびっしりと描かれた天井。床の感触からして、石で出来たフロアの様だ。
 ゆるりと頭を巡らせる、その表情に疑念が昇る。
 ほぼ円形に近い広間。壁は緩やかな曲線を描く壁で地を囲い、円柱状になった先の天井はドーム状に収束している。その八方には柱が等間隔で立てられ、それぞれの上には術で作られたと思しき灯明がぼんやりと空間の全容を照らし出していた。
 広さはそう無い。軽く見回すだけで一望出来る。
 その様子に憶える既視感に、ヤクモは表情を不審に歪めた侭、息を吐く様に云う。
 「……太白神社の隠し神殿にそっくりだ」
 節季と方位とを刻んだ、一種儀式的なものを思わせる場は紛れなく、ヤクモには酷く憶えの深い光景だった。実際広さは太白神社のそれよりも一回り程度は広いだろうか。
 中央に刻渡りの鏡などは無論置かれてはおらず、何かが封印されている礎らしき物もない。
 『儀式の場なのは間違いないでおじゃるね……多分』
 額の上に手をやり、サネマロが霊体を浮かばせぐるりと周囲を見回す。その対角線側を視線だけで舐めながら、ヤクモは間の中央へと歩んで行く。
 奉じるものや儀式に扱いそうなものの見当たらない、広間の中央辺りに紙片が幾枚か散乱しているのが目に入った。思わず膝をつくと一枚を手に取って裏表。
 「書き付けみたいだが……相当書き殴りだな…」
 紙はかなり古そうだが、伏魔殿と云う空間の裡にありなおかつ結界の裡にあった為か腐食などはしておらず、書き主の精神状態を伺いたくなる乱雑さ以外には解読に問題はなさそうだった。
 天流が伏魔殿に立ち入っていた時代、紙は相当な貴重品だった筈だ。それをこんな風に書き散らしている辺り、ここで何らかの儀式を試みていた者らは身分のあった者らだったのではないかと軽く推測を巡らせつつ、ヤクモは紙面に目を走らせてみる。
 書かれているのは殆どが太極文字だが、文法は今の時代のものでは勿論、無い。更に専門的な用語や難解な言い回しまで混ざれば、幾ら資料の調査に慣れ、五十音の対応表など無くとも解読が可能になっているヤクモとは云えその全容を一見で明かにする事は難しい。
 更に、書き殴りに近いこの様子。ヤクモは苦笑混じりに頬を掻きながら、然し表情は真剣に文面を辿り始める事に専念しだす。ジーンズの後ろポケットから幾つかの用語や隠語などを書き留めたメモ帖を取り出し照らし合わせながら、取り敢えず意味のありそうな単語だけを拾って斜め読みして行く。
 「……天流……伏魔殿……宗家……悲願……再び…………刻渡り…、時空、を異に……悲願……求め……」
 次々に紙片を拾い、断片的な単語に目を走らせて行くヤクモの手がやがて止まった。
 重ねた紙をぱらぱらとめくり、中程を抜き出して琥珀の目を細める。
 「…………悲願…叶わず。──失敗」
 この儀式の場と云い紙面の概ねの内容と云い。恐らくは嘗て天流が何らかの実験(儀式)を試みたものの、それは失敗に終わった、と云う事だろうか。この紙面はその実験ないし儀式の記録や経過と見て良いだろう。
 詳細は後でじっくり調べてみるとして、気になるのはこの儀式の場が何故あれ程までに厳重な結界に閉ざされていたか、である。
 「天流が……隠匿しなければならない様な。術や儀式…?」
 悲願。文中で幾度か繰り返されていた言葉がヤクモの脳内に静かに留まる。
 
 (天流が、悲願にした事と云えば──)
 
 宗家。刻。亡失。再びの栄光。悲願。悲願。悲願。悲願。悲願──!
 

 『ヤクモ様!!』
 
 戦慄いた脳髄の奥に暴力的な迄に唐突に何かが流れて来て、式神の呼び声にではなくヤクモは目を見開いた。
 視界に満ちたのは光。青い天流の光ではない、白い何をも示さない光が気付けば、恰も地から咲いた花の様に儀式の間に満ちて広がっていた。
 「────ぁ、」
 ぼうっとした輝きが螺旋を描き、大地を走って陣を縁取って行く。中空に浮かび上がる八方音の印。目映い光と圧力とに下方から照らし出され、ヤクモは腰を起こす事も侭ならず蹲りながら、咄嗟に散らばっていた紙片を手に掻き抱いた。
 それは物質的な圧力をも感じさせる光。奔流は情報の波の如く、強く圧力に這い蹲った身を打ってのたうち、間全体を強く白く輝かせて広がらず収束していく。
 『ヤクモ!』
 『ヤクモ様!』
 『これは、不味いでおじゃるよ!』
 式神達の声が遠い。肉体的にではなく感覚的に揺さぶられ、得体の知れない光と圧力とに支配され。脳髄に直接指を差し入れ掻き混ぜられる様な激しい不快感に、強靱な筈の意識は然し一瞬で千切られた。
 理違える歪み、切開するは不可の現象、惑い叩き込まれる狭間、反転する知覚、囃し立てる様な否定衝動。
 探し出せ、有り得ぬ偽を。探し出せ、有り得る矛盾を。探し出せ存在違えず己を構成した全ての要素から探し出せ誤らず辿れ記憶事象を。
 ふらりと仰向いて倒れた筈の後頭部は、然し何秒待てど地面には触れない。
 その侭泥に呑み込まれる様に、瞬間的に己の在るべく座標が全てを違える。

 (……………この、感覚を、)

 俺は知っている。

 空間転移の違和感よりも強い、嘗ては何も畏れず飛び込んだ。
 
 (そうだ、これは)
 




 刻を渡る感覚だ。





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