メモラビリア / 2



 ぶつん、と。テレビの電源をコンセントを抜く事で切った時の様な、唐突な反転。違うのは逆に、断絶される事でスイッチを入れられたとも思える奇妙な違和感。
 意識が途切れるのは如何なる状況でも唐突だが、目を醒ますには大概脳が活性化するまでのブランクがある。それを思えばこの『目醒め』は確かに暴力的なほどに唐突で不意打ちであるとしか評し様がない。
 然し違和感の支配も一瞬だけ。現出した座標の物理法則が、取っている体勢にその侭変化を伝えて来る。
 逆さまの座標で現出すれば当然、立っていたのは地面であっても次の瞬間それは空向きになると云った具合に。
 それは極端な例だが、伏魔殿のフィールドを渡る時も注意は常々怠らない。微細な違和感をも逃さぬ様、神経を張り詰め世界を見据える。
 (……ああ、着いたのか)
 靴底に触れる気配が先程とは異なる。同じ様な石の堅さだが、冷たさよりも温度を、堅牢さよりも脆さを何処か憶える足下。
 膝をついていたどころか這い蹲っていた──否、倒れていた気がするのに、どうやってか今はきちんと二本足で立っている。
 空気は鼻につく、ぎらぎらとした太陽の照り返し。暑い。夏の様な。
 紛れなく先程と空間座標を異にしたと云うのに、何故己の意識はこんなにも散漫なのだとヤクモは自身へと問いてみる。が、返る答えは不明瞭な確信ひとつ。
 違和感に即時対応出来る様に慣れきった身は、感覚は、此処が危険の無い場であるといち早く認識している、と云う。
 (………あついな………)
 散漫に過ぎる意識は思考を肉体感覚へと流して仕舞う。目蓋にじりじりとする熱を憶えながらヤクモはゆっくりと、怠ささえも憶えながら目を開いた。
 人の声。雑踏。遠いクラクションの音。蝉の声。足下から這い上がる様な熱は、舗装されたアスファルトの照り返しだ。
 (え)
 はた、と目を見開き。寝起き並に回転の鈍くなった脳をフル回転させ、ヤクモは周囲を見回した。ぎょっとなる意識に逆らわず表情を歪める。
 佇んでいたのは町中だった。初夏頃の晴天真夏日と云った所か、まだそう低すぎはしない空から太陽がほぼ頂点の角度で睥睨して来ている。
 空はさておき周囲だ。現実逃避している場合でもない。見回したそこは紛れない町中であり、しかもヤクモには酷く憶えの深い風景だ。
 京都郊外の太白神社から徒歩で十五分程度の辺りにある、個人商店の幾つか立ち並ぶ小さな商店街。子供の頃はよく買い物や遊びに出て来た場所。
 陽の角度からして昼を僅か過ぎた頃。道行く人はそう多い人出では無かったが、それでもマント姿の青年がいきなり現れて良い様な場所では当然無い。
 伝説とまで謳われる闘神士の装備も、人の真っ当な世界に於いては不審者となんら変わりないのだ。
 (撮影です、とか、学校の演劇部です、とか──)
 泡を食った表情の侭、目まぐるしく思考を巡らせながら振り返ったヤクモの正面、至近距離にいきなり中年の女性の姿があった。
 こう云った年頃の人に捕まると後が色々面倒な事になる。慌てて道を空けようとした時──女性はヤクモの身体を、まるで何も無い様に通り抜けた。
 違和感ひとつなく。透り抜けた。
 「え」
 今度は声にはっきりだして呟いた、その瞬間には自転車に乗った男性が同じ様に身をすり抜け去って行く。
 それを呆然と見送ってから、思わず己の手を持ち上げて逆の手で掴んで見るが、当然物理的な感触が返る。掴んだ方にも掴まれた方にも。
 続けて両の手指を軽く合わせ、握り、己の肩に足に次々触れ、その感触が紛れない実体であると確認してから、ヤクモは近くにあった商店に近づいて行った。肉の入ったショーケースにてのひらをつけてみれば、これにも感触がある。然し店にやって来た客へと手を伸ばしても、それはすり抜けて仕舞う。何の感触も無しに。
 「…………」
 マント姿や、いきなり現出した事を咎められないで済んだのは幸いと云うべきか。それよりもこの尋常ならざる状況をどうしたら良いかと考えるべきか。
 途方に暮れた様に見上げた陽は、暑い。物体や天候や、足が地面についていると云う様な物理法則は紛れなくこの場に沿っていると云うのに、何故己と云う存在だけは生命の知覚認識に触れる事叶わずかけ離れて仕舞っているのか。
 その時、ふと巡らせた視線が違和感を捉える。商店の一角、老夫婦の経営している古そうなパン屋が目に留まった。
 (あの店は……確か少し前にご主人が他界して潰れた筈…)
 記憶にある情報の呟きに反し、硝子越しの店内には仲睦まじく客を迎えている老夫婦の姿がある。
 はっとなってヤクモは駆け出し、記憶に引っ掛かった部位を次々思い起こした。眼前に広がる光景と次々照らし合わせて行く。
 (この家、三年前に新築していた──こっちは去年か一昨年に新装開店で、)
 町並みは、訪れる事の少なくなった頃から見ても年々何らかの変化を見せていた。然し今目の前に広がるそれは、全く変化の無い──
 「………六年前の、侭…だ」
 喉を打ったのは己でも驚く程に掠れた声音。
 六年前。闘神士として生き始める、その頃に、その前によく見ていた。この様子。毎日の様に遊んでいた場所だけに、はっきりと。違和感の無い事を思い知る。
 ふと脳に引っ掛かった、空間座標を渡った時の感覚が不意に再生され、ヤクモは蒼白になった顔半分を押さえて、戦慄く唇に歯を立てた。
 (刻を、渡る感覚)
 理違えた歪み。切開した不可の現象。惑い叩き込まれた狭間。反転した知覚。囃し立てた否定本能。
 がつん、と頭に強い衝撃を受けた様な感触を憶え、強い眩暈に力なく空を仰ぐ。目を灼く太陽の距離はあの頃と変わらない。目線の位置だけが違う。
 (まさか……本当に?)
 あの記述にあった、『失敗』と云う言葉が脳裏をちらつく。
 これら全てがヤクモの過去を探り出し再現した幻影の一種ではないとは、言い切れない。刻を渡ると云う事はそもそも安易に起こせる奇跡ではないのだ。
 周囲に他に異変はないだろうかと見回しながら、ヤクモは反射的に闘神機に手を触れさせて──そこで、今度こそはっきりと凍り付いた。
 「………………ブリュネ?」
 名を紡ぐ。声が、震える。
 「タカマル、サネマロ、リクドウ、タンカムイ、…」
 腰に下がっているのは紛れない己で持っていた紅い闘神機。常であればそこには己と共に在る式神達の気配が寄り添っている筈なのだ。
 然し触れた指は、感覚は、心は、何も訴えてはこない。まるで遠い隔絶の先の様に、絆さえも感じる事が叶わない。
 「皆、」
 つるりと冷たい物体はただ物質としての感触だけを指先に伝えるばかりで、そこに式神達の馴染み深い気配は無い。感じられない。
 「──ッ!」
 背筋を辿ったのは冷や汗ではなく恐慌。焦燥。絆が途切れた感覚はまるでしないのに、確かにそこにない。
 「ブリュネ!タカマル!サネマロ!リクドウ!タンカムイ!」
 闘神機を鷲掴み、実体だったら周囲が何事かと振り返る様な勢いでヤクモは声を張り上げた。然し幾度呼びかけても裡より返事が返る事は無かった。通り過ぎる人も、欠伸をする軒先の猫も、誰一人としてそれに気付く事もない。
 俯き呆然と見つめる先の闘神機がかたかたと揺れている。否、震えているのは己の手だ。ヤクモは左の手で右手甲を包み、ひととき目蓋を閉ざしてみる。
 落ち着け、と静かに己に言い聞かせてから、薄く目を開く。混乱を憶える事態にあるからこそ、理性的に、冷静に状況を把握しようと務める。
 (ここが、本当に……刻を渡った先なら)
 式神達が過去と云う時空を越えた先に至る事が出来なかったと云うのも無理の無い話かも知れない。何しろ記憶の風景が確かならば、この時間軸で吉川ヤクモと云う闘神士は白虎のコゲンタと契約を結んでいたのだ。
 刻渡りの鏡ではない、あの儀式の間の構築した術に因って擬似的に転移させられたこの過去の空間では、恐らくそう云った時空の矛盾を解消する事が出来ない故にだろう。
 「………──過去」
 先程一瞬辿りかけた記憶を結び、ヤクモは顔を起こした。
 希望か。畏れか。久しく憶えなかった感覚を胸に宿し、静かに見やる方角は──太白神社。
 久しきその感覚の名前は、不安と云う。
 
 *

 山側の方は蝉の声が一層強かった。未だ空は高い癖に勢いばかりは強い日差しに輪郭をくっきりと照らし出されながら、ヤクモは歩き慣れた石段を一段一段登っていく。
 買い物に遣られ重い荷物を持って辟易したり、掃除を言いつかって溜息をついたり、学校での事をいち早く父へと話したくて息急いて駆け上った道。
 あの戦いを終え、父を一年振りに取り戻した、五年前のあの時も。
 ここから家を見上げた。おかえり、と云ってくれた父を見上げた。叶った願いを噛み締め、失ったものを胸に抱いた。
 太白神社が襲撃を受けた後も、幾度もこの石段を登った。朽ちた実家を見つめた。戻らない時を思い出した。取り戻すべく日常を再び誓った。
 雑草の量以外は殆ど変化の無い石段を、そんな様々の思いを過ぎらせながら昇って行く。足取りは自覚する迄もなく、酷く重い。
 「……………変わってないな」
 見上げた鳥居に、ふとそんな呟きが漏れた。それなり年数を重ねた古いものだが、何処にも破損なく、門扉の様に参拝客を、家族を迎え入れてくれていたその侭に在る。
 極力先に視線をやらない様にと云う無意識の行動だったのか。鳥居を見上げた侭、気付けば石段を登り終えていた。数えずとも感覚で覚えている段数。その事に我知らず苦笑しながら、ヤクモは視線をゆるりと落とし太白神社境内を静かに見渡した。
 蝉の声。鳥の鳴き声。木々の葉擦れ。囲われて在るのは静かの本殿。横手には──紛れのない、見慣れた、暮らし慣れた実家。
 今知る、襲撃に因って破壊され尽くした地ではなく。在りし日の侭の。還る場所。
 「──……」
 鳥居に手が触れる。どうやら気付かぬ内にふらついていた様だ。倒れる様な気はしないが、非道い極彩色の眩暈を憶える。
 情けないなあと再びの苦笑を漏らしてから、ヤクモは唇を噛んだ。望郷なのか既視感なのかとも知れない惑いに押し流される侭に、眩暈の中できつく目を閉じる。
 これは本当に過去なのか。誰かの見せている淡い幻なのか。或いは──
 
 跳ねる様に、石段を駈け登る音が、聞こえた。
 
 気付かなかった訳ではない。然し、振り向くことは、出来なかった。
 
 
 
 ──或いは。
 取り戻せない過去と云うのは何と残酷に思えるほど、甘い夢なのだろうか。
 
 
 
 感触もなく。感慨もなく。
 綺麗に真っ直ぐ顔を起こしたヤクモの身をすり抜け走る、少年の背中。
 
 「ただいま、イヅナさん!」
 
 見つめる、同じ色の瞳にはまるで気付かない侭、少年はばたばたと慌ただしく家へと駆け込んでいく。
 その腰──全く同じ位置に下げられた、白い闘神機が静かに揺れて目に留まった。
 
 
 ちがうのに。
 隔てた先だと云うのに。
 今己の腰に揺れる闘神機にはまるで感じられない式神の気配が、絆が、確かにそこにあるのがわかる。
 白い闘神機。父より受け継いだ、彼の白虎との縁深きその中に──確かに、今はもう遠く感じられない筈の絆が、居るのが解る。
 
 「……コ、」
 
 名を紡ぎそうになって留まる。
 我に返ると同時、激しい眩暈と耳鳴りとに思わずヤクモは膝をついた。
 天の日差しより猶熱いのは心の奥底。記憶の深い深い憧憬の遙か先。
 灼くのは陽光ではなく焦燥。絆の遠い遠い断絶の遙か前。
 
 *

 今頃は部屋で支度を済ませ、イヅナの準備する刻渡りの鏡へと向かっている頃だろうか。それとも、鏡が使えない時には白虎と共に境内で修行に明け暮れていたから、そちらの方だろうか。
 願わくば後者でなければいい、と云う願いが果たして通じたのか。それからヤクモが鳥居に凭れた侭、待てど暮らせど少年とその式神が境内に姿を見せる事はなかった。
 出ない溜息の代わりに、疲労感に似た脱力が全身に重くのし掛かっている。ヤクモはふらふらと何とか立ち上がると、本殿の賽銭箱の横側に寄りかかって座り込んだ。辺りで鳴き交わしていた小鳥達が驚いた様に飛んで行く。
 足を拡げ伸ばして溜息を吐き出すと、のろのろとした所作で先程時空を転移(?)した際に咄嗟に掴んだあの紙片たちを取り出し、何処に遣る事も出来ない感情を放逐した侭でじっくりとその内容の検分に入る。
 脳内が混乱じみていた割には、思考は酷く鮮明だった。或いは落ち着けていない事を自覚していたからこそ、逆に落ち着く事が出来たのかも知れないと思いながら、単語を書き留めたメモ帖をぱたりと閉じる。
 気付けば陽はすっかり西側に傾いている。夕刻の残照に照らされる境内を横目に見つめながら、ヤクモは解読をざっと終えた紙面に再びの視線を落とした。
 概ねの内容はこうだ。
 『大鬼門へと封じられた天流総社の闘神士らは伏魔殿の内部で、想像を絶する地獄を垣間見た』事。
 『次々と数を減らす闘神士達は、生き延びる為に伏魔殿を裡より開く手段を求め続けた』事。
 『天流再起の為には宗家ヨウメイの存在を求めるしかないと云う結論に達した』事。
 『天流の悲願。宗家を取り戻し、再び栄光を手にする』事。
 『時空を越えた宗家の血を得る為、刻を自在に渡る為の術の研究が密かに進められていた』事。
 そして『長年をかけて構築した、刻を越える術は然し不完全の侭、失敗して放逐された』事。
 文面の最期の方は殆ど狂気じみた書き付けばかりで、理知的な意味はなにひとつ記されてはいない。然しそんな中でも幾度と無く繰り返されていたのは矢張り『悲願』。天流宗家ヨウメイを再び取り戻し、伏魔殿より逃れ天流の栄光を再び、と云う。
 息を吐きながら、ヤクモは書き付けを纏めて丁寧に畳むと、メモ帖に挟んでジーンズのポケットへと戻した。寄せた膝に顎を乗せ、気怠い表情とは裏腹に思考を回転させていく。
 刻渡りの鏡と言う神具を扱わず、人の力だけで刻を渡る術についてはそもそも明確に確立されていない。然し天流総社が地流の襲撃を受けた際に、天流は何らかの術を用いてまだ幼いヨウメイを遙か時空の彼方へと飛ばしたと、有力な一説ではされていた。
 この書き付けはその説を裏付けてくれたと云えるだろう。紛れなく宗家ヨウメイは時空を越える事で行方を眩ませたのだ。
 そのケースの様に、刻を渡る術、とは云えそこに明確な指向性を持たせる事は現状叶ってはいない。そもそもヨウメイが刻を飛ばされたのは実の所大鬼門の解放と云う外的な力があった事で起こせた所行に因る。
 それだけでもリスクを伴うほか、示す時空に指向性が無いと云うのは致命的と云えよう。当然逆に越えた時空から元へと戻る事など易々とは叶うまい。
 先程ヤクモが望まずとも発動させて仕舞ったあの術式には、そうして刻を飛ばされたヨウメイを確保し戻って来るだけの指向性を持たせようと云う実験が幾つも施されていたらしい。
 とは云え。刻渡りの鏡でさえも万能に刻を行き来する便利なアイテムではない所に持って来て、その所行を人為で操る術を構築しようなどと云う方がそもそも無謀である。余り術の技術的な知識には詳しくないヤクモにも、その程度の分別はつく。何しろ前提として『禁忌』と言う現象である事がまず挙げられるのだから。
 だが、それほどまでに、伏魔殿内部へと閉じこめられた天流総社の闘神士達は、自らの再起を──悲願を、切望していたのだろう。
 そう思えば実に業深い。結局術は失敗し、研究を続ける人員もいつしか失われ、せめて他の者に悪用される事にはならぬ様にと、術を内包したあの儀式の間ごと封印を施す事にし──そして現在に至る。
 問題は、術がどの様な事例を元に失敗と判じられたのか、と云う経緯の記録が残っていなかった事だ。もしもこの『失敗』である術でヤクモが六年前と云う刻へと飛ばされているのだとしたら、その要因を探る事が元の時代へと戻る為の手がかりに成り得るかも知れないと云うのに。
 或いは実験で送られた者が今のヤクモの様に、誰にも触れられず戻ることも出来なくなった所為で記録が何も残らなかった、と云う実に厭な可能性もある。
 (それにしても、六年前か……。偶然かも知れないが本当に、この辺りの時代に宗家は飛ばされて来たのかも知れないな…)
 確かこの何年か前に、天流総社の遺跡にあるご神木が再び花を芽吹かせたと云う記録があった筈だ。当時のヤクモ少年は闘神士になるなどと云う事を夢以上には考えていなかった頃だった為、そんな事実は知る由も無かったのだが。
 ともあれ。今は存在の不確かな宗家よりも己である。この懐かしいばかりの時間軸の中に、然し無力で立たされると云うのは皮肉な仕打ち以外の何でもない。
 この侭。この、取り戻せない時間の中で、取り戻せない運命を辿る己を見守るしかないとしたとして──
 辿った己の道を否定したくはない。刻の理に個人の願望に因る歪みを生じさせる訳にはいかない。
 それを重々承知しているからこそ──狂おしいほどに、辛い。
 過ぎた事、有り得た事を、何度も振り返る理由など持たないと云うのに。
 そして何より、過去の追体験より未来だ。早く戻らなければ皆に心配をかけるし、まだ己がやらねばならない事は山積みなのだから。
 「……なんとか、戻る手段を捜さないとな……」
 ぐしゃりと前髪を指の間で握り潰して、ヤクモは漸く重く息を吐き出した。
 最も簡単なのは此処にある刻渡りの鏡を使用する事だが、鏡は能力を持った闘神巫女にしか扱えない。ヤクモは専門的な知識を持っている訳ではなく、嘗てのイヅナの見様見真似だけでは到底こなせるものでもない。
 そもそも、この時代の生物に存在を知覚されていない事から考えると、今の、十七歳のこの吉川ヤクモと云う存在はこの時間軸に於いて『有り得ない』ものとして扱われている為に、一種の矛盾事象として排されて仕舞っている可能性が高い。
 その考えが正しかったとしたら、再度元在った時間軸へと戻った瞬間、本来その時間軸に『在った筈』の己自身の存在に再び弾かれかねない。
 刻渡りの鏡とは時空の歪みを正す為の指向性を持った力だ。故に鏡を用いた時空転移であれば、その辺りの矛盾は自動的に修正してくれるのだが、不完全な術ではそうもいかなかったと云う訳だ。
 どうすれば、元の時間軸へと元の様に至れるか。
 どうすれば、帰る事が叶うのか。
 すっかり陽も沈みきり、細い、触れただけで切れそうな月が静かに見下ろす境内に、ヤクモはひとり佇んでその事を幾度となく口の端に昇らせた。
 巡る天体の下、考えと否定と希望とが次々浮かんでは消え、やがて疲れた様に息を吐く。
 あれほど望んだ『家族』の場所が、こうして目の前にあると云うのに──そこでは未だ、当時彼が必死で望んだ願いは叶っていないのだ。
 そうして全てを叶えた筈の己もまた、何もかもを取り戻せない侭、こうして此処に佇んでいる。
 傍には在るのに。
 あの頃、ずっと続くと信じていた思いが。在るのに。
 失って仕舞った筈なのに、こうして今恰も手の届く場所に在るかの様に、感じられると云うのに。
 喪失を未だ知らない自分が、我武者らに日々を走っている。
 未だ先を、知ることのない侭。
 あの絆ひとつを胸に抱いていられた。
 ふたりの願いとひとりの望みを──ずっと。ずっと、証の様に。
 

 『ヤクモ』
 

 記憶の淵で微笑んだあの姿を見つめたその刹那。
 声ははっきりと、きこえてきた。
 
 
 
 父の様な力強さや包容力とはまた違う、安らぎを憶える声音。
 友達よりも家族よりも、もっと近しく別の場所に常に居た。最後の瞬間まで共に居た。
 柔らかな日差し。温かく大きな手。ひとを見守る優しい眼差し。厳しく叱ってくれる思いやり。
 信頼にこたえてくれた、願いを共にいだいてくれた、式神。
 節季を越えて共に。永遠に切れない絆と信頼とを捧いで、そうして去った。
 
 「──」
 
 それでもずっと心に抱かない日は無かった。
 名を与えた、己の節季を司るたったひとりの式神。
 
 ひた走った。
 父を取り戻したい、その願いを叶えるべく、共に歩んだ。
 日々をただ戦い。苦しい時も悲しい時も共に在った。
 一年間。少年は式神と共に戦って、戦って、ひたすらに願いの結果を求め続けた。
 
 「──    ……、」
 

 待っていた結末は、必ずしも全ての望みの帰結ではなかったけれど。
 

 『よォ。やっぱりヤクモか、お前』
 

 全てを越えた先の感慨は、この、今もなお確かな絆が示してくれていた。





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