それでも彼は絶望しない。
 如何に望みを絶たれたとして、如何に失意を憶えたとして、彼は全てを受け入れ続ける途を選ぶ事をきっと已めない。
 彼は人を愛していたし、世界を愛していた。
 世界が人を愛している事を知っていた。
 
 故に彼は、空の筺の如く。
 全てに蓋をして、ただ静かに微笑んでみせる。



  天より堕ちて災厄と為す



 ふわりと、紗幕を除けて通る時の様な違和感が身を包むのは一瞬。踏み入った清浄な空気の揺らぎの中、マサオミはそっと息をついた。己の過ごす1200年前の世界とそう変わらない──或いはこちらの方がより澄んでいるとさえ感じられる程の世界の息吹は、幾度訪れても心地よさよりも寧ろ圧迫感を憶えずにはいられない。
 余りに澄みすぎていて、人間と言う穢れが土足で立ち入る事を思わず躊躇って仕舞う様な、そんな感覚だ。
 手にしたビニール袋を軽く握り直すと、マサオミは辺りに当たり前の様に満ち満ちている清浄な空気を押しやって歩き出す。目的地はそう遠くないし、道程も穏やかなものだから、自然とゆっくりとした足取りになって仕舞う。気持ちばかりは急いていると言うのに。
 空はよく晴れ渡り、薄い蒼の色彩を遙か彼方にまで拡げており、その所々に如何なる力に因るものか、大小様々な形をした岩塊が浮かんでいる。浮島とでも呼ぶべきそれは、晴れた天の何処かより降る水を受け止め、小規模な滝の様にして地上に川や湖の流れを作っている。
 そんな現実離れした風景を背景に背負って、小さな森に囲われた神社がやがて見えて来た。朱塗りの鳥居に護られた小規模な社。そしてその脇に控える様に、レトロな趣の和風建築が一軒。
 鳥居から続く、木々に囲われた参道で、彼は箒を手にして掃除中の様だった。マサオミは意識して気持ちを切り替えると、自然と優しくなった目元を細めて、彼を呼ぶ。
 
 「おーい、ヤクモ」
 
 環境音のみしかしない、清浄な空間を無粋に裂く様なノイズだと、マサオミが己の声に思うのはいつもの事だ。ここは余りに人の気配が遠すぎる。
 呼ばれて、真っ白な着物を纏って掃除をしていたヤクモが振り返り、そこにマサオミの姿を認めると僅かな笑みを形作った。
 「マサオミ。久しぶりだな」
 清浄な空気に混じって溶けそうな、透徹とした声音だった。その声が、微笑みが、確かに己を認めてのものだとゆっくりと噛み締めながら、マサオミは手を振ってヤクモの元へと小走りで駆け寄る。
 「久しぶりって、俺にとっては一週間程度だけど?」
 「? そうだったか。相変わらずここは時間の感覚が曖昧だからな。久しぶりと言う感じがするだけか」
 琥珀色の瞳を瞬かせて、ヤクモは少し困った様に笑う。その姿に、隔絶の余りの大きさを思い知らされた気がして、マサオミは思わずヤクモの背を抱き寄せていた。記憶と全く変わらぬ彼の頭より、少し上になって仕舞った位置でそっと目を閉じる。
 「まあでも、アンタが久しぶりって言うんなら、寂しい思いをさせちゃったかな?」
 「生憎と、皆が居るから寂しい思いなんてする事は無いさ」
 「……そう言う所相変わらずつれないなぁ」
 ぽんと背を叩かれて、マサオミは大人しく腕を解いてヤクモを解放した。こう言った話をしていると、「呼んだ?」とばかりに絶対に『何か』が言葉通り飛んで来るのは間違い無いので、少々身構える。
 「ヤクモー、魚一杯釣れたよ〜!ってあれぇ、お前また来たの?」
 すれば、案の定か予想に違えず──寧ろ予想に応えてくれたと言うべきか──、地面の上をぴょんぴょんと軽快に飛び跳ねて現れたのは、イルカ似の式神。ヤクモの式神の一体である、消雪のタンカムイだ。
 「どうも。お邪魔してますよ」
 ヤクモに先頃した様にひらりと手を振って言えば、ふん、とわざわざそっぽを向く様な仕草を返された。ご丁寧な事である。
 また、と言う言葉から、流石式神は時間経過の正確な把握が可能なのだろう事が窺えた。一週間程度でまた来たの?それで図々しく寂しくてヤクモに抱きついてるの?とでも当て擦っているに違い無いと言う事も。
 「まぁ別に良いけどね。じゃあヤクモ、僕はこれ干して来ちゃうね!」
 「ああ。頼むぞ、タンカムイ」
 これ、と示した、式神の頭の上の盥には、言った通りの魚が入っていた。そこらの川か湖で獲って来たのだろうが、一日や二日では到底消費出来そうもない量だ。
 なるべく新鮮な内に食べるが、ある程度は干したり燻製にしたりして保存しているのだ、と以前ヤクモが口にしていた事を思い出したマサオミは、イルカ似の式神が魚を釣って、それで燻製や干物を作っていると言うなかなかにシュールな画を想像して小さく噴き出した。
 「何だいきなり。にやにやと」
 「いやいや何でも」
 当人──当式神か──にこんな想像がバレたら、水の中に放り込まれかねない。態とらしい咳払いを挟むと、マサオミは手にしていたビニール袋を持ち上げてみせた。
 「『いつもの』、買って来たんだが、どうする?」
 「お得意の牛丼か。流石に牛肉は久しぶりだからな、喜んで頂こう」
 ビニール袋に印刷されたロゴと、中に七つ詰んである容器を見たヤクモは手を打って笑った。ヤクモにとってのここでの時間感覚がどの程度のものなのかはマサオミには判断し難い事であったが、時折現代食が恋しくなる事は確からしく、マサオミが訪れる度の手土産は毎度こうして喜んで貰えている。
 そんなヤクモの変わらぬ笑顔に、マサオミはそっと胸中で胸を撫で下ろした。
 未だ、彼は自分の知る『人』であるのだと、こうした小さな積み重ねが教えてくれる。
 ヤクモはヤクモであって、きっとこの世界の何処へと行ったとしても、その性質は不変のものなのだろうと言いきる自信はある。確信もある。
 それでも──これからも永劫『そう』だとは、言い切れたとして思い切れはしない。隔世の裡はただでさえ神域の如く全てが澄んでいて、人の身には息苦しいのだから。
 「じゃあ、畑に行っているブリュネとリクドウにも声を掛けないとな…」
 「あ、ヤクモ」
 「?」
 そう言ってふらりと歩き出すヤクモを呼び止めると、マサオミは、牛丼を詰めた袋とは別に持っていた袋を差し出した。牛丼七杯より少しばかり控えめな大きさだ。
 「花、持って来た。前にほら、風景が寂しいと思う事があるって、言ってただろ?」
 「…あぁ!」
 頷くとヤクモは、マサオミの手から袋を受け取って、そっと中身を覗き込んだ。そこには鉢植えのささやかな花が入っている。それを見てヤクモは目元を弛めながら言う。
 「うん、土植えで増えてくれそうな花(もの)が良かったんだ。ありがとう、マサオミ」
 両手で大事そうに鉢植えを抱えると、早速ヤクモは何処に植えようかなと考える様な仕草をしながら、家のある方角へと歩き出す。
 「地味な贈り物だとは思ったけどね、花束じゃ駄目って言うからさぁ」
 「そう言えば以前、紅い薔薇なんて持って来たな、お前は」
 「〜やっぱ久々に逢うんだし、薔薇の花束の一つぐらい持って行きたいだろ、男心としては」
 あれは似合わなかった、と思い出し笑いをするヤクモに向けて口を尖らせて、マサオミ。
 「綺麗だったけどな。ただ、矢張り花束はここでは余り長保ちしないからな。可哀想な事をした」
 「………」
 思わず押し黙るマサオミに気付いていないのか、ヤクモはその侭、花についての話をしながら歩いて行くので、マサオミは黙ってその後に続いた。
 この地に根付くものや生きる、生きていたものであれば、ここの法則に沿って存在し続けられるのだが、花束の様に外の世界で生きて、摘まれたものはここの世界では永くその命や形質を保てない。
 ヤクモに言われるまでその事を失念していた当時のマサオミは、一日もせぬ内に、移した水盤の中でみるみる内に黒く朽ちて行く薔薇の花を見て、申し訳ない事をしたと心底に後悔した。
 薔薇にではなく、ヤクモに、だ。『ここ』がそう言う質のものなのだと、思い出させて仕舞った。実感させて仕舞った。その事実がどれだけヤクモの心を打ちのめしたかは解らない。そんな、悔いても遅い罪悪感。
 だからこそ、前回来た時にヤクモが「ここは風景が時々寂しい」、と口にしていたのを思い出して、鉢植えならば大丈夫だろうと確認をして持って来たのだが、それでもいざ渡すとなると矢張り少し緊張した。またヤクモの目の前で花を枯らす事になるのではないかと言う不安があったからだ。
 (取り敢えず、喜んで貰えた様で良かった、か)
 鉢植えを玄関の横に置いて「後でサネマロに植える場所の相談に乗って貰おう」と、楽しそうに言うヤクモの様子に、マサオミは密かに安堵しつつ、彼に続いて家へと上がった。
 「ヤクモ、戻ったか」
 「お帰りでおじゃるよ」
 「ただいま、タカマル、サネマロ。マサオミが牛丼を持って来てくれたから、少し早いけどご飯にしよう」
 ヤクモを迎える二つの声は、これもまた彼の式神たちのものだ。雷火のタカマルと榎のサネマロ。二体とも雑巾を手にしていて、どうやら掃除中だったらしい。
 「久々の『外』の食べ物でおじゃるね。然し炭水化物と蛋白質だけでは栄養が偏るでおじゃるから、漬け物を用意するですじゃ。丁度食べ頃に漬かってたでおじゃるよ…多分」
 マサオミが卓の上に置いた牛丼を見るなり、そう言ってサネマロは炊事場の方へと向かう。野菜の類は畑で栽培しており、いつでも何かしらの付け合わせは、マサオミが気を遣わずとも出て来るのだ。
 「では茶の支度をするとしよう」
 「あ、水は俺が汲んで来よう。タカマルは牛丼(それ)を温めておいてくれ。ブリュネたちにはさっき『声』をかけたから、直に戻って来るだろう。マサオミは適当に座っていてくれて良い」
 雑巾を盥へと放り込んだタカマルにそう指示を出すと、ヤクモは炊事場から手桶を両手に一つづつ持って戻って来た。
 「いやいや、ただ座ってるのも何だし、手伝いますよ」
 ここに来ていきなり『客』扱いと言うのも慣れないので、マサオミがそう言えばヤクモは、
 「そうか?助かる。じゃあ一緒に水汲みを頼む。二つ分な?」
 そう、素直にマサオミへと持って来た手桶二つを渡して言い、自分は別に新しい手桶二つを持って来る。
 「夜の分もあるからな。水は幾らあっても困らない」
 助かる、と言う言葉に嘘や世辞は無い様で、袂を濡らさぬ様に襷掛けをすると、ヤクモはマサオミに仕草で促しながら外へと出て行く。
 別に初めての事でもないので、マサオミはのんびりとその後に続いた。水は家の直ぐ側の岩場から湧き出している清水を一日に幾度か汲んで来て使っている。
 ちなみに同じ湧水は畑や田んぼの方にも流れが引かれていて、ここでのヤクモたちの生活には欠かせないものでもある。
 蛇口をひねればすぐに水の出て来る現代から見ると大分不便の様に思えるが、どちらかと言えばこの方がマサオミの元の生活に近い。つい何年か前までは蛇口をひねっていた側の人間だった筈のヤクモなのだが、今ではすっかりと古風で不便な暮らしの方に慣れ親しんでいる様だった。
 
 *
 
 時の停滞した空間は、外界の時間軸や文明の一切と切り離された隔世だ。伏魔殿の内部にも似た、幻想的に過ぎて現実的ではない世界。
 そこでヤクモは己の式神たちと穏やかに暮らしている。
 家畜を飼って、魚を獲って、畑を耕し、田を丹精し、果樹の恵みを頂きながら、余りに普通の事の様にして暮らしている。
 然し空を見上げればそこには、青と赤の鎖がまるで蛇の様にこの世界を覆っているのが目に入る。
 見えざる鎖は重量も無く、実体も無く、ヤクモの身に絡みついてその身を縛り、戦ったり、符を扱ったりする力をこの世界に吸わせ続けている。
 天と地の封印の裡で、彼はまるでその世界の一部の様にして、生きていた。
 当たり前の様にして、そこに居た。




暗めの話になりますが不定期で続きます。

:next → /2