天より堕ちて災厄と為す / 3



 鎖された空間の中には昼夜と言う概念がない。故にヤクモは自分の大体の感覚で時を過ごす他なく、それが『外』との時間にどれだけの差異を生んでいるかと言う事は余り考えない様にしていた。考えていた所で無駄だろうと思ったと言うのもある。もう『外』に出る事が叶わないのであれば、時間の感覚など何処を基準に合わせようが知った話ではないだろう。
 ただ、これはヤクモの性分で、基本的には規則正しく睡眠はとりたい。寝過ぎると体調に影響を及ぼすし、逆に睡眠不足も同様だ。
 何しろ、健全な肉体と精神は健全な生活で培われると、そんな教えで今までを生きて来ていたのだ。時間の感覚の曖昧な伏魔殿を旅していた時でさえ、出来るだけ『外』との時間の差異は少なくなる様に尽力していたヤクモである、今更時計の針や日の動きの無い世界に放り込まれた所で、極力自分で守れる範囲での時間感覚は守りたい。
 故に、『外』の時間を気にしなくなったとは言え、ヤクモは基本的に規則正しい時間感覚で過ごして来ていたし、式神たちにもそうする様に頼んでいる。
 少なからずマサオミの来訪がヤクモの就寝中、と言う事態は今まで起きていないので、大体は正しく過ごせているのではないかと思っている。
 そうして今日も大体の時間通りに目が開く。朝、と定めた時間帯だ。
 「お早うございます、ヤクモ様」
 「お早うブリュネ」
 布団に上体を起こしたヤクモが「ん、」と伸びをする横で、ブリュネが縁側の窓を開けて新鮮な空気を入れてくれるのに目を細める。就寝中の凝った空気が爽やかなそれに攪拌されて行くのが心地よい。
 部屋の内よりは少し冷えた空気を受けてか、同じ部屋の中に居て無理の無いサイズだからと、大体の場合一緒の布団に入り込んだりヤクモの隣で眠ったりしているタンカムイがもごもごと布団の中から這い出して来る。
 「う〜ん、おはようヤクモ」
 眠そうな目を擦るタンカムイの頭にそっと手の甲で触れてやりながら、ヤクモは穏やかな『一日』の始まりに向けて微笑んだ。
 「タンカムイも、お早う」
 式神には本来睡眠も食事も、人間のするあらゆる生命維持活動の全てが不要だ。然し式神が生物の姿を模している以上、しようと思えば出来ない事は無い。が、通常ならばわざわざする様な事でもない。それは、式神が人間の様な新陳代謝を持たない存在だからなのだが、ヤクモと共に居る五体の式神たちは、この空間でヤクモと共に過ごす様になってからと言うものの、人間の様な──言って仕舞えば真似事の生活をしてくれている。
 必要がないと言うだけで、出来ない事を無理にしてみせている『演技』と言う訳では無いので、ヤクモは彼らのそれを純然たる好意と思って甘んじさせて貰っている。
 封印の場にヤクモの実家である太白神社の形を持ち込む事が出来た事は勿論だが、式神たちのそんな気遣いもあって、ヤクモは『外』で家族と暮らしていた時と然程に変わらぬ心地で、此処での日々を過ごせている。
 実の所ヤクモが健全な心持ちで日々を過ごせているのは、式神たちのお陰と言う所が大きい。もしも彼らと引き剥がされて仕舞っていたらと思うと、それだけで恐ろしくて堪らない。
 闘神士として独りで行動する事には慣れていたつもりでいたヤクモだったが、厳密にはいつでも『ひとり』では無かったのだと、今更の様に思い知らされた気がした。
 「花、良い匂いがするね」
 少しぼうっとしかかっていたヤクモの耳に、タンカムイのそんな声が届く。誘われて縁側の方を見遣れば、庭に幾つも開いた小さな青と白の花たちが満開になっている光景が目に入る。
 「…そうだな」
 嗅ごうとせずとも鼻孔を甘く香しい芳香が擽るのに、ヤクモはゆっくりと布団から立ち上がった。縁側の窓辺まで向かえば、窓を開いたついでに草花に水をやっているブリュネが振り向く。
 当初よりも幾つか増えた庭木の狭間に、最初にマサオミの持って来てくれた花が、庭一杯に増えて咲き誇っている。
 今ではそればかりか、ささやかな庭は季節毎に様々な花で目を楽しませてくれる様になった。良い庭だと誰に対しても胸を張って言えそうな、見事な有り様だ。
 「よく増えてくれたものであります」
 「ブリュネやサネマロがきちんと丹精してくれているからな」
 目を細めて甘い芳香を胸一杯に吸い込むヤクモの様子に、褒められたブリュネも満更ではない様子で居る。節季の具現である式神にとって、やはり自然のものは身体の一部の様に近しいのだろう。
 当初は、本来戦う事が役割である式神たちに人間の些事や戯れをさせる事を時折申し訳なく思う事もあったヤクモだったが、彼らが決して嫌々ではなく、ごく自然にヤクモに寄り添う為に行ってくれているのだと解っているから、ただ静かに本心からの感謝の意を示してそれに応える。
 「ねぇヤクモ、そろそろ行かないと、朝ご飯が冷めるってリクドウに叱られるよ?」
 タンカムイに袖を引かれ、ヤクモは寝間着代わりの藍色の浴衣を脱ぐと、普段着にしている白い着物に手早く着替えた。洋服も何着か持ち込んではあるのだが、洗濯の手間や管理のし易さ、それに神社と言う家にあって馴染みのあった和服の方が楽だったのでほぼそちらを選んでいる。
 そうしてから未だ庭にいるブリュネの方を見遣れば、
 「どうぞ自分には構わず先に行って欲しいであります。終わり次第直ぐに向かいますので」
 と如雨露を片手に言われて、ヤクモは頷いた。
 「あぁ。じゃあ先に行っている。ブリュネも、ご飯が冷めない内に来るんだぞ」
 「了解であります」
 襖を閉ざせば、甘い香りは忽ちに遠ざかり、鼻孔の奥底に甘い痛痒を残して僅かに残るのみとなる。まずは顔を洗おうと、水場に向かって歩きながら、ヤクモは殆ど無意識に指を幾つか折りかけ、然し途中で我に返って止めた。
 あれから幾度か樹木や花を持ってきて貰って、庭は少しづつ拡がって、味気のない寂しかった封印の空間に僅かずつ彩りを呉れた。
 最初にあの甘い香りの花を持って来て貰ったのは果たしていつの事だっただろうか。あの香りを嗅ぐのはこれで幾度目だっただろうか。
 いつしか沢山に増えて、株分けをして、庭に甘い香りをもたらす様になったあの花を、マサオミと一緒に植えたのはいつの事だったのだろうか。
 「……」
 日々の時間感覚の曖昧さは、大体の自分の体内時計や生活習慣で判断が出来る。だが、封印された空間での副作用の様なものなのか、一日一日を刻む感覚がどれほど確かであったとしても、その堆積した結果の刻の流れには、ヤクモは酷く鈍くなっていた。
 一日一日の記憶は薄れる事も無く確かなものなのだが、永く連続した時間の感覚としては曖昧に過ぎて正直よく解らない。昨日の事も一年前の事も等価に思い出せるのに、それが『今』とどれだけ隔たっているのか、と言う感覚を識る事は出来ないのだ。
 (マサオミが、最後に来てからどれだけ経ったのだろう?)
 胸を刺す様な感覚と共に息苦しさを憶えて、ヤクモはそっと己の肩を抱いた。つい昨日の事だった様な気がするし、もうあれから何十年も経過して仕舞った様な気さえする。
 「ヤクモ?寒いの?大丈夫?」
 後ろをついて歩いていたタンカムイが、一時背筋を震わせたヤクモの事を労る様に寄り添って来るのに、「大丈夫だ」と頷きながらもヤクモはその場に膝をついた。タンカムイの手がすかさず背を撫でてくれるのに、「大丈夫、」と今一度繰り返して、ヤクモはつんと痛んだ目の奥を誤魔化す様にかぶりを振った。
 マサオミは千二百年の刻を越えて来ている存在だ。もしも刻の理に支障が生じれば、彼が刻渡りを出来なくなる可能性は十二分にある事なのだ。
 そうでなくとも、彼の暮らす時代は現代のそれとは大きく異なっているし、ヤクモの居るこの封印空間とも、生活の雰囲気こそ似れども、危険性と言う意味では比べものにならないのだ。向こうで何かが起きれば易々刻などのんびり渡ってこれる筈も無い。
 或いは単純にマサオミ自体が此処を訪う事に飽いたと言う事もあるだろう。
 あらゆる浮かぶ可能性は、マサオミが此処にいつかは来なくなる日も起こり得るのだと、予めヤクモにそう突きつけていた筈だった。
 (それで一体、何年なのか──、)
 ここの所すっかりと忘れていた気のする、『外』と隔てられた空虚の気配に、ヤクモは優しく撫でられる背を丸めてその場に縮こまった。まるで怯えている様なその様子に、ただごとではないと感じたのか、他の式神たちも集まって来る。
 「大丈夫かヤクモ、しっかりするのだ」
 「取り敢えず布団にお運びするでおじゃるよ」
 次々かけられる優しい声たちに、然しヤクモはかぶりを振った。こぼれる事を忘れた涙の代わりに、沸き起こる息苦しさに喘いで「大丈夫だ」と呪文の様にただ繰り返す。
 恐らく式神たちに問えば、彼らは正しく『外』との時間の経過を答えてくれるだろうとは思う。節季の具現である彼らには、隔てられた空間と言えど世界の刻の流れは理解出来ている。
 但し式神の刻の感覚とはそれこそ迂遠であって、人間の感じているそれとは全く異なると言う。彼らがヤクモに敢えて日々を数え知らせず、然し日々を共に人間の様に生活をしてくれているのは、『人間』であるヤクモの心を不用意に傷つけない様にする故の事だ。
 それでも共に在って呉れる彼らの心は、精一杯にヤクモの元に寄り添おうとしてくれている。それ以上の喜びは無い筈だと言うのに、それでもヤクモは一時『人間』としての痛痒を思い出して仕舞った自らに失望を憶えた。
 孤独などと言う人並みの感情など、封印される事を決意した時には、もう棄てられたと思っていた筈だったのに。
 (苦しい。取り残されるのも、忘れられていくのも、)
 此処でのヤクモと言う存在は、五体の式神たちと、それだけで全てが帰結している。どれだけ日々を人間の様に暮らせど、それは其処だけに堆積して行く時間であって事象でしかない。
 青と赤。天と地の封印でに鎖された隔世は、停滞した『それだけ』の、或いはその為の空間だ。
 そこに投じられた花たちは、本来無かった筈の彩りを以てヤクモの過ごす時間をきっと慰めてくれていた筈だった。
 大体決まった通りに育てられる田畑や、常に実をつける果樹や、生まれて育つ魚と言った食餌とは異なり、愛でるだけの美しく香しい花たちは、節季と『刻』とを感じさせる唯一の変化でもあったのだ。
 花は増え、節季毎に異なった彩りを見せて呉れる。嘗てそれを残していった者の望んだ様に、そこに取り残されたヤクモの時間など置き去りにして、花はただその役割を果たし続けていた。




ヤクモ様は人間離れしてても人間。

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