天より堕ちて災厄と為す / 4



 見上げた頭上は永劫変化のない青灰色。凝った風に撹拌される空気は、それでも流れる清流の傍で涼やかで心地がよい。木々は朽ちては新たに芽吹くサイクルを自然と繰り返し、鎖された世界は常の安定を今日も保ち続けながらただただ存続していた。
 太白神社を見下ろせる高台だ。家の近くには、ここで暮らし始めた当初に皆と協力して拵えたささやかな畑があり、少し離れた水場の方面には水田まである。どちらもヤクモにとっては無聊を紛らわす程度の思いつきで作ろうと言い出したものだが、彼に人間らしい暮らしをさせたいと願う式神たちは全面の同意を以て手伝ってくれた。
 この封印空間の環境が安定しているのと、節季を司る式神たちの助力もあってか、日々手間はかかるがその代わりに一度収穫を迎えればそれからはほぼ不自由なく食物の自給が出来ている。
 果樹は元々この地に植わっていた小さな森があったのでそこから頂戴している。桃や林檎(に似た)果実は、この世界に於ける貴重な甘味でもあるのだ。
 家の裏手には花も鮮やかな庭が拡がり、渺茫に過ぎる風景を彩っている。人間の生活の痕跡は家の周囲が殆どで、後は少し離れた湖に魚を捕る為の罠が仕掛けてあるぐらいだ。
 好き勝手に手を入れれば、空間の内部で保たれているこの自然は易々破壊されるやも知れないが、ここに住まうヤクモにも式神たちにもそうする意志は当然だが、無い。それに、樹を採ったり増え過ぎた樹木を間引く程度の、多少の破壊ならば時が知らぬ内に治してくれている。
 鎖された世界は閉ざされて歪んでいるなりに、何とかサイクルが保たれている。草花、樹木、虫や魚と言ったものに、恐らくはヤクモと言う人間を加えても成り立つ様に出来ているのだろう。
 野生動物の類はおらず、ヤクモと彼の式神たち以外には大人しい妖怪程度しか存在していない世界。空を囲う青と赤の鎖さえ見なければ、そこは正しく箱庭と言えた。
 高台のある場所は封印空間の『端』に当たる。或いは『淵』。こんな所まで来たのは久しぶりで、ヤクモは少し弾んだ息を整えて、薄らと額を湿らせる汗を拭った。
 自分たちの快適に整えた世界を──我が家を遠目に見下ろして、吹く風を受けながら暫くの間ぼんやりと物思いに耽る。
 あれから暫く式神たちは、知らぬ間に参っていたらしいヤクモの心を気遣って、なんやかんやと理由をつけて常に傍に居てくれたり、明るく振る舞ったりしてくれた。それをしてヤクモは、皆に心配をかけた、と謝り、己が未だ『外』への──現世への、人間らしい未練を残した侭で居た事を反省させられる事になった。
 『こう』なる事は覚悟で選んだ途に後悔は無い。闘神士たちが無益に争う火種を燻らせたり、自分の周囲の人々や式神たちを危険に晒すぐらいであれば、この方が余程マシだと思った事にも変わりは無い。
 その結果が、この世界の有り様だ。式神たちと拵えた小さな箱庭での、幸せな生活だ。
 (……思った程に、俺は強くなれなかったと言う事か)
 時の流れで人は成長するが、時の停滞した世界では果たして成長出来ないのだろうか。それとも、これ以上を克服しようが無いのだろうか。人はどうしたって、どれだけの優しさに囲まれていても、得体の知れない孤独感に時々身を焦がすものだろうか。
 遠目に、畑を見て回っているブリュネの姿が小さく見える。それだけではなく、家にはサネマロが居て洗濯物を干しているし、リクドウとタカマルは薪を採りに出ている。湖ではタンカムイが罠の具合を見ているだろう。
 普通に闘神士として生きていた頃は意識せずとも彼らの動きや戦いを、己が視点の様に見たりその気配を探ったりする事が出来た。だが、それが出来なくなったこの封印空間の中でも、不自由や不便と感じた事は無い。
 家族と同じだ。逐一窺わなくとも、見て確かめずとも、彼らがここに居て呉れる事をヤクモは知っている。封印と言う決断の前に、式神たちには契約の満了を申し出てみたが、彼らはそれを断って自らの意志でヤクモと共に在る事を選んで呉れた。
 結果的に、式神の存在はヤクモがこの世界に在り続ける上での救いとなった事を思えば、ウツホの悲劇が胸に痛みとして去来する。彼は四大天の力も式神たちとの絆も奪われ、ずっと身動き一つ取れぬ地の底に在ったのだから。
 天地宗家の封印は慥かにそれと同じ強固さを保って存在している。だが、それでもこの空間はヤクモに優しく出来ている。人としての生活と言う道楽を許してくれている。そればかりか、天にも地にも属さぬ者の素通しも許してくれた。その事にヤクモは、リクとユーマの思い遣りを感じる。
 彼らは嘗て封印と言う途を選んだヤクモに、何度も反対し、何度も言い争い、何度も説き伏せ、そうして最後には不本意な所行に涙をこぼしながらも、年上の闘神士の頑固な決断を尊重してくれたのだ。
 リクもユーマもきっと、最後まで人としては納得がいっていなかった様だったから、当分はヤクモの決断に憤りを憶え続けるだろう。
 「後味の悪い事をさせてすまない」
 そう言ったヤクモに、「そんな事じゃないでしょう」と声を震わせて言ったリクの表情は、俯いていたから見る事は出来なかった。だがきっと、酷く怒っていたのだと思う。
 (そう言えば、リクはもう幾つになったのだろうか。ユーマは飛鳥神社を継いで立派にやっているだろうか。ソーマは…、)
 ずっと考えない様にしてきた『外』の事は、懸念は、興味は、一度思い出して仕舞ったが最後、次から次へと溢れてヤクモの心を息苦しさに似た感覚で満たした。
 たったひとりの肉親であった父や、家族の様に共に居てくれた巫女たちや、幼馴染み。彼らは今どんな暮らしをしているのか。変わりが無ければ良いのだが。
 先日ヤクモの心を甘く苛んでいった思い出や記憶たちは、然し今日はただ大人しく寄り添ってくれそうだった。孤独を思い出した息苦しさは、今は少し遠い。
 (……こんなんじゃ、また皆に心配をかけるな)
 静かなだけの風にそっと目を細めると、ヤクモは少し時間をかけながらも記憶や感傷と言った感情を元通りに胸の裡へと仕舞い直した。大丈夫だ、と慣れきった響きでそこに蓋をして、家に戻るべく踵を返す。
 と──、
 「、」
 ふわ、と空気が揺すられる気配を感じてヤクモは思わず足を止めた。風の仕業ではない、清涼に凝った空気を押しのけて、それは唐突に空間を裂いてそこに出て来ていた。
 漂う、花めいた懐かしい香り。俗世の気配。ヤクモにとって酷く憶え深いそれらを纏った彼は、いつもの様に──今まで在った事と同じ様にして、封印の空間へと静かに侵入して来た。
 項で結った髪は記憶にあるそれよりも少し長く、体つきはしっかりとしていて、身の丈もヤクモより矢張り少し大きい。
 「ヤクモ、」
 目を開いた彼は、酷く狼狽した様子でそう呻く様に呼ぶと、足音も荒く、殆ど駆ける様にして近づいて来る。
 「……マサオミ、か?」
 解ってはいた筈なのに、思わず問う調子になった。目の前までやって来た彼の面差しは、記憶にあるものよりも幾分か齢を重ねており、ヤクモにとってはまるで憶え知らぬ大人の様にも見えたのだ。
 「暫く見ないと思ったら…、随分と老けたな…?」
 思わずそんな悪態めいた苦笑が漏れて、ヤクモは、嘗ての甘さを残しつつも随分と精悍な顔つきになった風にも見える大神マサオミの顔を見上げた。
 懐かしさとも寂しさともつかぬ感情に浸され、多分上手く笑えてはいないヤクモの姿は、表情は、きっと恐らくはマサオミの記憶にあるそれと何一つ変わっていない。
 果たしてそれが原因だったのか。マサオミはヤクモの下手くそな笑顔にぐしゃりと顔を歪めると、手を伸ばしてヤクモの手首を掴んだ。その侭歩き出す。
 「マサオミ?!」
 引っ張って歩かれる力は思いの外に強く、踏みとどまる事も出来ずにその後に続きながら、ヤクモは誰何の声を上げた。然しそれでもマサオミの歩調は、手の力は、全く弛もうとしない。
 「ま、」
 「やっぱり、駄目だ」
 制止を紡ぎかけたヤクモを、まるで払い除けでもする様に強い言葉が、調子が、呆然とした侭の耳朶を打つ。
 「これじゃ駄目なんだ。行こう、ヤクモ」
 促す様な言葉は、然しヤクモに一切の反論をも許さぬ様な強さを以て放たれて、ヤクモはそんなマサオミに引き摺られる様にして歩きながら、ただ「どこへ」と呟いた。
 呟きながらも答えは多分に解っていた。何故ならば、マサオミの向かう先はこの封印空間の端。天と地の鎖に因って鎖された檻の、最も『外』に近い地点。
 「外に出よう、ヤクモ。アンタは俺と一緒に逃げなきゃ駄目なんだ」
 そこで初めて振り返ったマサオミの顔は、泣きそうに、怒りに満ちて苦しそうな表情と感情とに彩られていて、ヤクモはぼんやりと、きっとあの時のリクはこんな表情をしていたのではないか、とそんな事を思った。




久々マサオミさんは二十代後半ぐらいの設定で。

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