天より堕ちて災厄と為す / 5



 青と赤の鎖で囲われた、世界の──封印の端を、前を往くマサオミが通り抜けた。彼の身に触れず透けて通ったこの鎖は実体では無い。飽くまで『封印』である事を知らしめる界を示す標と言うだけのものだ。
 そうして張られた結界は両宗家に因る強固な封印だ。完全にその裡を鎖して一つの世界をそこに固着し続ける効力を、永劫の刻に渡って保ち続ける様に創られている。天の者には赤の鎖が、地の者には青の鎖が、複雑に絡まり混じり合ってそれぞれを妨げる様に出来ているのだ。
 故にそれは神流であるマサオミの足も、抜けようとする意志も、何一つ遮らない。だが、その封印の裡へと在る事を定められたヤクモは別だ。
 「………」
 ここまでマサオミに腕をただ引かれる侭に歩いて来たヤクモの足が止まる。目前に在るのはただの草原の風景だ。ただその足下をまるで蛇の様にのたうって囲う青と赤の半透明の鎖だけが異質に、不気味に其処に在る。
 この場所まで今まで一度も来た事が無い訳ではない。越えてみようと思った事こそ無いが、封印の有り様を見つめて、己の置かれた現状を確認した事ならば、幾度か憶えがある。
 竦んだ様に足を止めるヤクモの手を、マサオミが引いた。
 「………」
 引かれる腕の強さに、ヤクモはかぶりを振る。これは封印の隔であって界の端であって、元天流の闘神士であったヤクモをこそ封印し閉じ込め──否、綴じ込めた結界だ。そこを越えると言う事は、封じられたものが裡からその結界を、鎖を、断ち切って逃れようとする行為にほかならない。
 それはこの封印結界を張ったリクやユーマに対する裏切りだ。望まぬ彼らを無理矢理に説き伏せてまで、この選択を取った己の否定だ。
 「ヤクモ」
 躊躇う様に、拒絶する様に足を止めるヤクモの姿を、引く腕一本の距離を保ったマサオミが呼んだ。その声色は悲しそうにも苦しそうにも苛立っている様にも聞こえて、ヤクモは一時困惑した。
 「……マサオミ、どうしてお前は、」
 以前にも、マサオミはヤクモに逃げる事を言って寄越した事がある。だが、その時はヤクモからの明確な拒絶を受けた事で彼は己の意見を退けてくれた。
 到底納得はいかない様子ではあったが、それから幾度となくこの封印空間を彼が手土産など抱えて訪れて呉れていた事を思えば、妥協はしていたのだと思う。
 「どうして、今になって」
 こちらをじっと見つめるマサオミの姿は、ヤクモの最後に憶えのある姿よりも大分歳を経ていた。だからヤクモが先日『気付い』た、マサオミが最後に訪れた時、と言う時間軸からは既に現世の時が幾年も経過しているのは間違いは無いのだろう。
 あれから沢山増えた花たちだけが、時の感覚の曖昧になったヤクモにその事実を突きつけている。
 だからこそ思うのだ。どうして、『今』なのだと。
 マサオミの恐らく過ごした、現世での十年ばかりの空白の正体がヤクモには解らない。
 忘れられた、見捨てられた、厭になった、そんなネガティブな感情も想像には浮かぶ程に、彼の不在はヤクモにとって恐らくは酷く永い時間だった筈だ。
 ただ、それを感じる事が出来なかった事に関しては、幸いであったとさえ思うのだが。
 震える声のヤクモの問いに、マサオミは立ち尽くした侭、明らかに笑むのに失敗した様に表情を歪めて叫ぶ様に、
 「『今』だからだ。多分もう、機会は多くない。いや、明日にももう叶わなくなるかも知れない。『今』しか、アンタを救おうとする事が出来る奴は居ない──だから、」
 言って、ヤクモの腕を思い切り引いた。
 つんのめる様にしてヤクモの足は鎖の垣根を越えて封印から抜け出して、蹌踉めく侭にマサオミの胸に抱き留められる。地面に引っかかった草履が脱げて落ちて、あっと思う暇も無く、空気感の変化にヤクモは思わず目を眇めた。
 鎖のその先は『何』もない灰色の空間だった。ただ広く、壁も風景も何一つ無く、地平と空との境界でさえ見ては取れない様な、無としか言い様のない世界。
 「行こう」
 かけられるマサオミの声は、いっそ驚く程に真摯であった。手前勝手な行動の癖に、そこには希う様な想いしか宿っておらず、その心を真っ向から与えられた形になったヤクモは、息苦しい程に痛む胸に顔を僅かに顰める。
 足下を見れば、素足になったその足首に赤と青の鎖がじゃらりと重たくぶら下がっている。無程に広く何もない空間の何処かに根ざしたそれは、紛れもなくヤクモと言う存在をこの封印空間へと縛り付けている術式そのものであった。
 「矢張り、無理だ。封印(これ)が縛るのは俺そのものだから──、」
 「大丈夫だ。俺ならきっと封印を壊せる様に『出来て』いる。リクやユーマが、そう出来る様にしてくれた筈だ」
 「………」
 天地宗家の創り上げた結界には、天地の者は宗家であっても例外なく通さぬ強固さを持ったものであったが、神流と言う存在に対しては全くの無力だった。だからこそマサオミは幾度となくこの封印空間へ軽々と出入りを繰り返していたのだから。
 それはリクやユーマが辛うじて残した抜け道。もしもいつか、ヤクモが自主的にこの封印から逃れたいと、ごく当たり前の人間の様に理不尽を厭った時に。或いは、マサオミが密かにヤクモを連れ出せる様に。
 故にこの鎖は、きっとマサオミの向ける破壊の意志を防ぎはしない。
 然しヤクモはマサオミの胸を押して一歩、後ずさった。
 封印を、と望んだ者が。世界に無用な争いを招くだけならば、この力は世界に要らないのだと厭世的に感じた者が。あれから幾年が経ったのか、再び現世へと戻るなどと言う事が、矢張り有り得て良いとは思えなかった。
 「なぁヤクモ、俺は見たんだ。アンタが──、」
 拒絶を見せるヤクモの姿へと、少し苛立った様にマサオミはそう言い募りかけて──、然しそこで時を止めた。懐から符を振り抜きながら振り返る、彼の視線のその先を追って、ヤクモは瞠目する。
 灰色の世界の中に置かれた二人の人間。それをぐるりと囲う様に、五体の真っ黒な人影が地から湧き出しそこに顕現していた。
 マネキンの様につるりと、何の特徴もないただの人型をしたそれは、言うなればまるで影の様なものに見えた。恐らくただ一つ慥かなのは、マサオミとヤクモとを中心に見つめるその五つの影たちは、封印から出ようとするものと出そうとするものを明らかに敵視していると言う事だ。
 「…こいつらが、封印のセキュリティか。厄介なものが追加されてる様だな」
 五つの影をぐるりと油断無く見つめて、マサオミは乾いた声で呻く。「セキュリティ?」ヤクモの問いに彼は小さく頷くと、
 「後から追加されたんだ。こいつらはリクやユーマの残したものじゃない。もっと別の、アンタを──ヤクモをここから出すまいとする、意志たちの仕業だ」
 そう、忌々しさを隠さぬ調子で吐き捨て、マサオミはそっと青い神操機を懐から取り出した。
 「ヤクモ、俺から絶対に離れるな」
 封印空間の内側ではヤクモは闘神士としての力を何一つ扱う事が出来ない。式神も、符も。だからそんなヤクモの代わりに己が戦おうと言うのだろう、マサオミの真剣な横顔を見上げて、ヤクモは息を呑んだ。
 それは嘗て見上げた父の様に、大事なものを護って戦おうとする闘神士の顔をしていた。






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