天より堕ちて災厄と為す / 7



 どう言う事だ、と。現出した世界に佇んでマサオミは力の抜ける侭に愕然とその場に膝をついた。
 「キバチヨ、」
 掠れた声で紡いだ名に、応える様に式神の霊体(すがた)が顕れるが、彼はマサオミが問いを発するより先に静かにかぶりを振った。
 『…解らない。ただ、此処がもう君の知るあの場所そのものじゃ無いって事は間違いない様だ』
 「………」
 しらない場所。知り得る事の本来叶わなかった場所。口中で咀嚼した言葉は飲み下すに酷く苦を労するだけのもので、納得するよりはいっそ拒絶した方が早い様にすら思えた。
 振り向いた背後には刻渡りの鏡。どう言う訳かそれまですんなりと刻を渡らせてくれていたそれが、突然マサオミを拒絶したのは、幾年にも及ぶ長い出来事だった。
 突如うんともすんとも言わなくなった鏡の不調。理由が知れず、思い当たりも無く、姉や他の仲間の術者にも訊いてみたがその原因も解決方法も全く知れない侭、ただ日々だけが無為に過ぎて行った。
 もうひょっとしたら千二百年後の未来へと刻を渡る事は出来ないのではないかと、毎日の様に、最早習慣として鏡の前に立ちながら、マサオミはその鏡面に様々な想像を描き続けていた。
 考えられる事はただ一つ。世界が、刻の調整力が、マサオミと言う存在を千二百年後の未来には不要な、歪みとして捉えたと言う可能性。
 何故、今になってなんだ。
 幾度もそう吼えて、マサオミは何の反応も見せない鏡を前に苦悩した。あの時──最初に千二百年前の時へと姉たちと共に戻った時。直ぐに探し出した刻渡りの鏡は、その時にはマサオミの賭けに勝ってくれた。あの未来へ戻ると言う、願いを叶えてくれた。
 それからは何度も、軽々しく、と言わしめる程に刻を行き来していた。それがなまじ許されていたから、マサオミにとって刻渡りは余りに当たり前の事の様になっていったし、刻を渡れなくなるなどと言う事は全く想像にもしていなかったのだ。
 出来なくなるなら、最初から叶わなければ良かったのに。
 そう嘆く程度には、千二百年後の未来には未練があった。未練を作って仕舞った。
 天地の封印に鎖され、人を厭う様に自ら『人』の当たり前の自由や生き方を放棄した、ヤクモの決意を知って仕舞った。
 何度も呆れられたが、懲りずにマサオミは幾度も刻を越え、封印を越えて、会いに行った。そう出来るのが己だけだと知って、余計に放っておく訳にはいかないと思った。寧ろ使命感の様に己に課しもした。
 そうして、特大に膨れ上がった未練を残した侭、ある時突然鏡は沈黙したのだ。
 梯子を外される様な暴挙に、然しマサオミには苦悩や想像程度の事しか許されていなかった。過去が未来に触れる事はそもそもの禁忌であって、本来あってはならない、一種の歪みだ。だから必然と刻を渡れなくなったのだ、と理屈で幾ら言い聞かされようとも、今までは叶っていたそれが突然奪われた事に納得など出来る筈も無く。
 ヤクモは、マサオミが訪れさえしなければ何の変化も、時の流れさえも断たれたあの封印空間で、果たして何をどう思って生きているのか。
 突然訪れなくなった者を案じるだろうか。それとも意識などしないのだろうか。或いは孤独に気付いて嘆いてくれるのだろうか。
 ──どれもこれも、御免だった。
 諦めの悪いマサオミはそれから幾年もの時をただ過ごして、待った。もう二度と刻など渡れはすまいと言う、他者の言葉には耳を貸さず、想いを断たずに、いつか再びあの時代へと戻れはしないかと、淡い希望を棄てずに、ひたすらに待ち続けた。
 
 そうして、漸く叶ったと思えば、この有り様だ。
 
 「………」
 大凡、己の記憶にある風景とは似ても似つかない光景を見つめて、マサオミは漸く腹をくくって歩き出した。
 現出したこの世界がどうあれ、いつの事であれ、あれから幾度も望んだ未来と言う時間軸である事に変わりはない。それならば、辿り着けた事をこそ僥倖と思う他無い。刻渡りの鏡の──世界の気紛れで、この『刻』を逃したら、もう本当に二度と、千と二百年、或いはそれ以上の理を越える事は不可能になって仕舞うかも知れないのだ。
 自分の過ごした時間『だけ』に限定しても、最後の訪いよりは十年近くか或いはそれ以上が経過している筈だ。それに因って移動する未来の時間軸にも変化を来していると言う事なのだろうと、無理矢理に納得まで漕ぎ着けると、マサオミは物言わず沈黙した鏡を寸時振り返る。
 「…取り敢えず、封印のある場所まで行ってみよう。此処が──鏡があるのが、今までと変わらずに新太白神社であるなら、封印のある太白神社跡地はそう遠くない」
 それは己に言い聞かせる独り言である側面が強いものだったが、キバチヨは頷くとマサオミの後に続いた。
 
 *
 
 残り、二体。
 黒い人影の形をしたものが、断末魔の叫びも余韻も残さず崩れて消え、キバチヨは肩で息をしながらも得物を構え直す。
 視線の先には残る二体。ヤクモの見立てが確かならば木と土の行となる二体だ。
 手傷を負って戦うキバチヨ同様に、マサオミもまた気力と体力とを大きく失い、切れ切れの息の合間でやっと立って戦いに向かっている様な状況にあった。
 「マサオミ!」
 背後からヤクモの声。彼の身は今、マサオミの張った簡易的な障壁の内側に閉じ込められた状態にある。と言うのも、封印の守護者たちが、敵対するマサオミを易々御せはしないと判断したのか、本来の彼らの目的である、封印対象を無力化する、と言う行動にシフトしたからだ。
 式神を戦わせ、なおかつ戦闘能力を持たず、足に至っては戒められている様な人ひとりを庇って戦う様な余裕は、今のマサオミには流石に無かった為、取り敢えずヤクモの身の安全を確保しようと言う策だ。
 然し案の定か、望まず遠ざけられ、護られる形になったヤクモは、激しい憤慨を見せて障壁を叩いて猛抗議を寄越して来た。障壁を解除した時には一発二発は殴られるかも知れない、と思いはしたものの、マサオミに後悔は無いし、己の判断を誤ったものとも思っていなかった。
 キバチヨの正直に分析した通り、この戦いは生きるか死ぬかの狭間と言って良い程に苛烈で苦しいものだったのだ。
 「マサオミ、頼む、もう止めてくれ!」
 段々と時を経る内に、強い抗議から悲鳴めいた言葉に転じて来たヤクモの言葉には、その向いた先には、己の唯一無二の式神を信じて戦う事を選んだマサオミが居る。
 残りは二体。
 だが、既にマサオミもキバチヨも満身創痍に程近い。
 「俺が封印の裡へ戻れば、こいつらは消える!だから、この障壁を解け!」
 闘神士ですらない守護者たちは、闘神士にも式神にも、その命を絶つ程の攻撃の手を弛める事は決して無い。彼らの向ける攻撃は幾度もマサオミとキバチヨに傷を穿ったし、その生命を脅かしもしている。
 故に叫ぶヤクモの、懇願の声。無力な己の目の前で疵を負って戦う者へ叫ぶ、その気持ちはマサオミとて知ってはいる。だが、譲れはしない。諦める訳にも、諦めさせる訳にも行かないのだ。
 悲鳴の様なヤクモの声を背に受けて、マサオミは神操機を構え直し、印を切る。
 「言ったろ、ヤクモ。これは、俺のエゴだって」
 印を受けたキバチヨの必殺技が人影の片方を撃つ。然し浅い。致命にはならないダメージに、身の一部を欠損させたそれは何一つ躊躇う事も、痛みを感じる様な素振りを見せる事も無く、ぎくしゃくとした動きで攻撃行動を続けて来る。
 「くそっ!」
 二体からの攻撃を槍で捌きながら、キバチヨは大きく後退する。その辿る跡を示す様な負傷に、ヤクモの拳が障壁を幾度も叩く。もう止めてくれと、願って叫ぶ。
 「……刻を渡れなくなった時、俺は自分に対する失望しか湧かなかった。俺が、俺だけがアンタを救える様にと調えられた筈のお膳立てに、結局俺は何もする事が出来ない侭で終わって仕舞ったんだと、そう思って後悔した」
 追撃を迫る一体へとすかさず印を切って、マサオミはそっと天を仰いだ。そこには蛇の様に絡まり鎖した青と赤の鎖。裡に封じた者の自由を束縛するそれこそが、リクとユーマの生み出した苦肉の策であって、マサオミに懸けた恐らくは期待或いは希望であったのだと、今改めて思い知る。今更の様に、理解する。
 ヤクモの意志を尊重すると言って、傍観を消極的に選んだ。鎖された箱庭で生きて、ただ式神と共に在ると言う当たり前の様な現象にさえ喜びを口にして、手向けた花を抱いて笑って呉れていた、そのひとに与えられた理不尽な幸福を、諦めさえ感じて見つめていた日々。通い続ければ、寄り添う事を止めなければそれで良いと自分勝手に言い聞かせて、徒に浪費しただけの時間。
 あれからどれだけ刻が経っても、彼の有り様はあの頃のそれと何一つ違えることは無い。
 封じられて全てを諦めて、刻を停滞させた彼に、彼自身の生殺与奪を問いた事さえきっと誤りだったのだ。
 最初から、反論などさせずに連れ出して仕舞うべきだった。そうしていれば何がどう変わったとは言えないが、少なくとも『今』は変化していた。『こう』なるべき途は無かった。
 だが、それを悔いるにはもう遅すぎる。だから。
 「アンタに知って欲しかったと思った、俺の身勝手を許してくれとは言わない」
 大きく肉薄したキバチヨの槍が、損耗していた守護者の一体を切り裂くが、その瞬間に至近距離の反撃を受けた身は大きく弾んで地面を転がる。
 残り、一体。封印を護る最後の一体となったそれは、いよいよ式神から闘神士へと──否、封印し続ける対象へと標的を切り替えた。
 「っキバチヨ、」
 意識を向けた先で、然しキバチヨはまだ動ける状態にない。マサオミの声に応えて必死に藻掻きはするが、まだ直ぐには無理だ。──間に合わない。
 咄嗟に身を反らすヤクモの頬の直ぐ横を、障壁を貫いた守護者の放った攻撃が通り過ぎる。やはり符での急拵えの障壁など時間稼ぎにさえもなりそうにない。
 転がりながらも何とか身を起こすヤクモの傍に駆け寄り、マサオミは符を構えた。キバチヨが戻るまでの間だけでも凌ぐほかに選択肢は無い。
 「ま、」
 マサオミ、と再度怒鳴ろうとしたのだろうヤクモの手を引いてその場に立たせると、寸時の口接けで抗議を塞ぐ。
 「俺が勝手に望んだだけだ。だからアンタが気に病む必要は無い。アンタの選択までを強制するつもりだって勿論無いし、そう出来るとも思い上がっていない」
 こんな状況だと言うのに、相当驚いたのか呆然と目を瞠るヤクモにそう言い聞かせる様に紡ぎ、ただ、とそこで言葉を切ると、マサオミは符を投じた。向かって来る、害意しかない守護者の攻撃は符に因って張られた障壁に真正面から衝突した。
 雷でも落ちた様な大きな衝撃に、思わず後ずさりながらもマサオミは、粉々になって砕け散るばかりの緑の色をした障壁を、その向こうを睨み据えて神操機を振るう。
 (罪滅ぼしって訳じゃない。そう言い切るには余りに遅すぎる)
 目の前には己と、ヤクモとを仕留めようとする力の具現が居ると言うのに、マサオミは酷く穏やかな心地で印を刻んで行く。キバチヨがその意志を受けて、挑戦的に笑んでみせる姿が見えた気さえしていた。
 「ただ──、」
 その先は明確な言葉にはならなかった。伝えたい言葉も紡がなければならない意思も沢山、瞬間的に溢れて上手く形にならない。感情だけが訴える焦燥感に息をつく間もなく、ぐらりと視界と思考とが揺れた。
 それが果たして何の空隙なのかと悟るより先に、印を受けたキバチヨの投じた槍が、黒い守護者の身を貫いていた。






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