天より堕ちて災厄と為す / 8



 (ああ、そうか…)
 喉奥に湧き上がった熱い塊を吐き出して、途端に感じた激しい眩暈に、然しマサオミは膝に力を込めて倒れず留まった。
 「マサオミ!」
 悲鳴の様な声はヤクモからのものだ。普段余り物事に動じない彼にも、こんな声が出る事があるんだなとどうでも良い様な事を考えて、マサオミは眼前で、キバチヨの真っ直ぐに投じた槍に腹部辺りを貫かれて佇む守護者の姿を見た。
 ぎしぎしと、軋む様な動きで猶も活動しようとするそれを、舞い戻ったキバチヨの技が今度こそ完全に滅する。
 砂の様に崩れ消えて行く黒い人影の消滅した跡には、今し方苛烈な戦いを終えたばかりとは到底思えない様な、優しい表情で佇む、傷だらけの式神の姿が在った。
 「……ありがとうな、キバチヨ」
 「君の願いを──今度こそ君だけの求めた純粋な願いを、叶えただけさ」
 マサオミも、キバチヨも、互いに傷だらけでぼろぼろの体だ。だが二人して小さく笑い合えば、遠い記憶の頃の穏やかな時間を思い出す。
 過去から時間を越えて、共に願いを叶えようと戦った戦友。相棒。そうして今も、こうして共に在って呉れた、幸運を越えた必然で以て願った、式神の力添えに、絆を思う心に感謝をしながら、マサオミはゆっくりと神操機をキバチヨへと向ける。
 そんなマサオミの背に触れる、震えるてのひら。寄り添ってくれようとでも言うのか、ヤクモのその手の温度や気遣いに穏やかに微笑むと、マサオミは目の前の式神へと、自らの願いの叶った事を告げる。
 「今此処に、青龍のキバチヨとの契約を、満了する」
 穏やかに、満足そうに微笑んだ青龍の身が、闘神士の宣誓を受けて目映い光に包まれて行く。その中で、青龍が戯けた仕草で手を振った。
 「慌ただしくて悪いね、ヤクモ。マサオミの気持ちだけは、願った事だけは、叶えてやれなくても、どうか解ってあげて欲しい」
 真摯な表情でそう言ってから、これはフェアじゃないかな、と柔く笑ったキバチヨは、最期に自らの契約闘神士の事を見た。
 「じゃあな、ガシン。マサオミ。二度も僕を選んでくれてありがとう」
 「俺と共に在ってくれて、共に願いを叶えてくれて、ありがとう。キバチヨ」
 マサオミにとって、姉の名付けた青龍は幼い頃から当たり前の様に傍に居る存在であって、きょうだいの様なものでもあった。
 ウスベニが契約を満了した時にも、これが今生の別れだろうと思って散々泣いた記憶がある。あれから時も過ぎて覚悟も出来て居たからか、今度は涙は出ずに、ただ心底に穏やかな心地で自然と微笑む事が出来た。惜しむのではなく、そこに到達出来た事にこそ純粋な喜びを憶える。
 光と共に式神界への界門が閉ざされ、ささやかな心の余韻を残して消失すると、そこでマサオミの膝ががくりと崩れた。釣られる様に共に座り込んだヤクモの腕が、マサオミの肩を掴んだ腕が、まるで戦慄く様に震えている。
 「…間に合って良かった。また、姉上の時みたいに、キバチヨを名落宮に堕とす訳には行かなかったからな」
 独り言の様にそうこぼして、マサオミは自らの腹部を濡らす真っ赤な染みにそっと手を当てた。鮮やかな色の血は出血の多さを物語ってはいたが、痛覚はもう働くのを止めたのか痛みは遠い。危機感でさえも。
 符の障壁で防げたと思った守護者の攻撃は、砕けた障壁と共に砕けた鋭い破片となってマサオミの身を穿っていたのだ。
 見立ては、残念ながら致命。血が流れ過ぎたし、気力も足りていない。だからこそ、この願いを──ヤクモを封印から救い出すと言うこの願いを叶えて、キバチヨとの契約満了を急いだ。三度も、姉と弟と共に戦って、傍に居てくれた彼の式神に対する、それがマサオミに出来る最期の恩返しだった。
 「ヤクモ」
 寒さにぶるりと震えて、マサオミはヤクモの身体を抱きしめた。滲む血が白い単衣に斑の模様を作るのを見つめて、こちらも矢張り時間がない事を悟る。
 伸ばした手でヤクモの足を戒める鎖に触れる。赤いそれはマサオミの手の力に抗う事なく大地から断ち切られ、青いそれは触れただけでぼろぼろと崩れて消えた。
 「これでもう、アンタは自由だ。だが、これは何度も言うがただの俺のエゴだ。アンタを無理矢理此処から、アンタが諦めて仕舞うより先に連れ出す事の出来なかった、情けない過去の自分に対する身勝手な贖罪だ」
 「………」
 滴る血をその身に受けながら、ヤクモの震えて強張った手がマサオミの背をこわごわと抱き返して来る。腕の中の身体は封印と言う措置を受けたあの時から、あの瞬間から、きっと殆ど変わっていないのだろう。まだ成人を迎えてすらいない、未発達な、子供と大人の中間の様な危うさを保ち続けている。
 時を刻まず、時にも刻まれず、式神の情だけをその身に受けて、ただ世界の理不尽をその身一つで受け入れた。そんな彼の選択もエゴだらけで、身勝手で、独善的だった。
 厭世感を抱いたその目に、いつか人への失望が生じる様な事は決して無いのだろうけれど。
 或いは、──だからこそ。
 「……アンタには、怒る権利も嘆く権利もある。奴らを憎む資格もある」
 たとえそうしなくとも。それだけは知るべきだと思った。
 いつか彼がもしも、全てに絶望し壊れて仕舞う様な事があれば、きっとその時に思い出す事の赦せるよう。
 (まるで、悪魔の囁きだな)
 仮託したかったのが何の望みなのか、誰の願いなのか。それすらも判然としない侭に、マサオミはヤクモの肩上にそっと額をもたせかけて目を閉じた。
 「アンタの事が、好きだよ。ヤクモ。だから、どうか笑っていてくれ」
 あの頃の様に、彼がただ普通の人間の様に心安く在って呉れれば、本当はそれだけで良い。
 そう望む事が赦されているのであれば、それだけで良い。
 きっと諫言にも甘言にも心なぞ向けぬ彼であれば、そうし続けてくれるだろう。残酷だが、そう思う。確信はある。
 (そうして生きようとし続けてくれる限りは、きっと変わる事は無い)
 自らの運命を余りに簡単に受け入れて仕舞った勁く哀れな人に、どうすればこの想いを、言葉を、尽くせるのかが解らないと諦めた日々に、きっとこれこそが答えだったのだろうと静かに、思う。
 「マサオミ、」
 呼ばれて、薄く目を開く。然し瞼は酷く重く、頑張って開いていようとしても視界は段々と薄暗くなって行く。背中に感じる両の腕の頼りなさと、肩口に押しつけられた人の、喘ぐ様にか細い吐息の存在だけが、闇の中で己の抱えている大切なものの存在を思い出させてくれていた。
 耳鳴りに似た音が遠くでしている。寄り添った体温と心以外の存在が徐々に希薄になって行き、まるで世界に溶けて消えて行く様な、孤独や恐怖感が身を震わせる。
 ヤクモ、と呼んだつもりの声は喉から出ていかなかったが、背を掻き抱く手に、その瞬間に必死なほどの力が込められて、届いたのかな、と思って少し安心した。
 
 *
 
 「………マサオミ?」
 湿った声は震えて頼りなく吐き出されて、それを受け取る者がもうこの世界から消えて仕舞った事を、自らに雄弁に突きつけて来た。その理解を己に促していた。
 重たく、まだ温かい体温を保った背をがむしゃらに掻き抱いて、ヤクモはとうに流す事を忘れていた筈の涙を、嗚咽を、目の前のそれにただ吸わせた。
 ガシン。マサオミ。大神マサオミ。彼の存在を表す名前を幾つも紡いでは、その届く先が最早喪われたのだと言う事実に、ただ恐怖を憶えて声を震わせた。
 多分、血の繋がりも無い他者としてヤクモの事を愛してくれた、この世界に在った唯一の存在だった。
 千二百年の刻と封印の鎖を越えてまで、手を伸べようとしてくれた、唯一の人だった。
 ヤクモに、孤独と言う人間らしい感情を憶えさせるに足りた、唯一の者だった。
 しゃくり上げる呼気の侭に天を仰げば、灰色の空間が徐々にひび割れ消えて行く光景が見えた。封印を護っていた守護者は全て倒され、裡に封印し続けていた者を縛っていた鎖も断たれた。
 封印空間と現世との接点でもあるこの淵は、静かにその扉を開こうとしている。
 「──ッ、、」
 『外』に再び出る事を切望しなかった訳ではない。だが、己の存在こそが太極を、或いは人の穏やかな世界を脅かすと言うのであれば、それを諦めるより他にどんな手段が取れたと言うのか。
 理不尽と、マサオミの繰り返した言葉の意味が重たくのし掛かる。
 それは紛れもなく、ひとりの人間にとってはただの理不尽であって、抗うべき望みぐらいは本来ならばきっと、抱いても良かったのだろう。
 ヤクモはそれを選ばなかった。その選択肢を捨てて、諦める事を選んだ。
 世界の為と、太極の在るべき形の為にと言い聞かせて、自らその自由を断った。
 それが誤っていたと言うつもりはない。だが、ヤクモが物解りよく全てを諦めて仕舞った事は、きっと己を慈しんでくれたあらゆる人たちを傷つけたし苦しめた事だろう。
 選択は変えられない。後悔は無い。それでも、己の為に泣いてくれた人たち、憤ってくれた人たち、手をこうして伸べてくれた者を思ってヤクモは、何処にもやれぬその感情をただ、泣き声に変えた。
 呪うべきはきっと、与えられた理不尽に対してだったのだろう。決せられた運命に対してだったのだろう。課せられる迄もなく課した、自らの処遇に対してだったのだろう。
 ならば、これは悔いではなく呪いなのか。
 ざう、と風が吹き抜け、涙に濡れた頬を冷たく流れて行く。
 木々の天蓋に周囲を囲われた、そこは懐かしい気配に満ちていた地。彼が生まれ、生きて来た土地。望まれて、願って、ずっと在った場所。
 太白神社の在った嘗ての地で、満天の星々だけがヤクモの慟哭を聞いていた。




事後報告で申し訳ないことに、死にネタ嫌いな人にはすいませんとしか…。

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