遠い、幾年続いているかも知れぬ微睡みの中、おなじ夢をみる。
 「どうか   と、        を  してくれ。それが  に与える ──いや、   」
 向けられる言葉は酷く不満なものだと云うのに、その真摯な願いだけははっきりと感じる事が出来た。
 故に、是とこたえた。

 あの瞬間からいままで、微睡みの中、おなじ夢を見続けている気がしていた。



  私の罪は千二百年 / 1



 山をひとつ越える有料道路は思いの外空いていた。
 周囲の車に気を遣う必要もなく道幅もゆったりとしており、その上更に殆ど平坦な道が延々と続いていた為、単独であったら危うく居眠り運転に陥っていたかも知れない。
 緩やかなカーブを描いているだけの単調な道路は、細かなカーブが多く手強い山道を回避する為だけのバイパスの様な存在らしい。山道に慣れている地元民にはわざわざ料金を払って迄通る者は殆どおらず、急ぎの場合や観光客が主に通るだけだと云う。通行料金はかなり取られたが、慣れない山道を二人乗りで行く無謀さに比べれば安いものである。
 それに何より、痛むのは自分の財布では無いと云うのが、この有料道路を選んだ最大の要因だったと云っていいだろう。
 バックミラーで後方を軽く確認してから、マサオミはバイクの速度を心持ち緩めた。後ろに向かって風圧に消されない程度の声を張り上げる。
 「で、概要は?そろそろ解ったか?」
 「まだ斜め読み程度だが大体は。資料の多さの割には少々事例が厄介そうだ」
 返事は誰も乗っていない様に見える後部座席から返って来た。バックミラーには映らないその正体は、符で姿を隠したヤクモである。誤魔化し程度のものとは云え、マサオミも集中して見ないとその姿を確認する事は出来ない。いつもながら鮮やかな手腕である。
 シートに横向きに腰掛けたヤクモの手には、何十枚か束ねられたA4サイズの書類が握られており、膝の上にはそれが入っていた事務用封筒と手荷物の入った鞄とが鎮座している。
 幾ら速度を緩めたとは云え風圧は少なくともマサオミの周囲には変わらず存在しているので、それは何となく妙な光景に見える。当然これも符の効能で、ヤクモが今自分の周囲の余計な環境影響を取り払っているからだ。理由としては「本来こう云う事をするのは余り気乗りはしないが、今回は時間が惜しい」だそうで、その言葉に違えず彼は移動中の時間も惜しむ様にずっと書類と睨めっこをしていた。
 ヤクモが姿を消している理由は当然、バイクの二人乗りに対する逃げ道である。ノーヘルの上正面を向いてもおらず更に熱心に読み物。無論道交法で云えば立派な違反だが、その姿が見えていなければ切符も切りようがない。
 一方マサオミの方はヘルメットにサングラス装備、法定速度遵守である。朝からずっと運転しっ放しな点は慣れているので余り気にはならないが、一人でもなく二人でもないと云う現状が微妙な緊張と退屈とを誘うのもあって、表情は少々不満顔に凝り固まりつつあった。
 「厄介って云うと?矢張りただの行方不明者の捜索じゃ済まなさそうなのか?」
 姿の映らないバックミラー越しにヤクモの顔を伺い見て問いを投げれば、ややあってから「ああ」と肯定の返事。
 「おかしい、と云うよりは『気持ちが悪い』。俺の杞憂ならば良いんだが……」
 「眠気醒ましに聞かせてくれ。予習とでも思って」
 不安と云うよりは慎重な物言いをするヤクモにそう、欠伸を噛み殺す様な仕草を付け加えてマサオミが要求すれば、やがて溜息と同時にぱらり、と書類をめくる音が妙にはっきりと聞こえた。
 「そもそも、最初に派遣された闘神士達の目的は単なる鬼門の調査だったんだが──」
 書類を──依頼の詳細な書き付けを読みながら解説を始めるヤクモの声に耳を傾けながら、マサオミは前方を真っ直ぐに見遣る。まだ退屈な道程は続きそうだったので、よく集中して聞けそうだ、と皮肉の様に思った。
 
 
 発端は、ソーマ経由でヤクモの元に舞い込んだ『依頼』だった。
 依頼の主はムツキ率いる新生MSS(余談ながら、ミカヅチセキュリティサービス、からムツキセキュリティサービス、に変わったのではないかと冗談の様に時折囁かれている)。無論彼らとて優秀な人材を揃えて各地で様々な活動を続けており、そうそう簡単に社の請け負った依頼を他者へ委託する事はない。
 故に今回のケースはその点から見ても『普通』の依頼(しごと)とは云えなかった。
 とある事件を担当したMSSの闘神士ないし術者達が次から次に渦中より戻らなくなったと云う異常事態が、未だ現役最高峰の闘神士として活躍を続けるヤクモへと依頼が『普通』にではなく回って来た原因である。
 不甲斐ないです、と、正直な所を告げて来たムツキの様子は、受話器越しながらも深い疲労を感じられるもので、それだけでヤクモもこの事件がただ事ではないとは察した。
 既に行方不明となった者の人数は三チーム七名に達しており、内三名は式神と契約している闘神士だった。立て続けに姿を消した彼らの行方は杳として知れず、事情が事情なだけに警察などの公的機関に協力を要請する訳にも行かない。現地に詳しい人員もおらず、MSSの隊員達はすっかり畏れ及び腰になって仕舞った為、ムツキはやむなくソーマに仲介を頼み、ヤクモへと事件調査の依頼を持ち込んだと云う訳だ。
 先に危険があろうと何だろうと、自らの力で負える限りならば尽力の一切を惜しまないのが、吉川ヤクモと云う闘神士だ。ヤクモは半ば反射的な二つ返事でそれを承り、翌日には運転手役とサポート役とを熱心に買って出たマサオミをいつもの様に伴い、こうして件の現地に向かっている。
 『鬼門の調査に派遣された者らが、その侭行方を眩ませた』──。
 言葉にしてみれば、実に不気味な感想が浮かぶのを禁じ得ない。しかもそれは一度きりの事では終わらず、注意を促され捜索の任をも帯びて追加派遣された者らにも及んだと云うのだから。最早事態を、陳腐な神隠し、などと一言で片付けるのは不謹慎で不適当だろう。
 忽然と、人と云う質量が消失する。現代科学では到底証明など出来ないその現象は、陰陽道に通ずる闘神士や術者の視点で判じれば強ち『有り得ない事』ではない。妖怪、式神、術、伏魔殿。彼らにとって恒常的に身近と云えるそれらの現象に頼れば、神隠しの一つぐらい簡単に実現出来るのだ。
 そうして起こされた所行は、警察には捜査出来ず、法的にも裁かれる事はない。故に『こちら』の世界に居る者らは自分達を、その持つ力を、厳しく律する。
 然し彼らも人間だ。時には世界より逸脱し、禁忌或いは犯罪とされる行為に身を浸して仕舞う者も皆無ではない。
 今回の事件は或いはそう云った手合いが関わっているやも知れません。と、依頼の最後にムツキがそう漏らしたのも自然な流れではあった。断定は出来ませんが、と付け足しはしたが、実の所蓋然性は高いと云える。
 そもそもウツホの消失後も、伏魔殿と呼ばれる位相空間は残されている。ただその明確な指向性を司る力が無くなった為にフィールドの形質やその生態系、環境のあらゆる影響全てが現在危険な迄に変容を遂げており、相変わらず鬼門口から裡には侵入出来るものの、内部は未知の危険区域とされており、幾ら闘神士とは云えど容易な立ち入りは戒められている。
 妖怪の存在や各界の平衡を比較的良く保つ為に、と云う考えもあってヤクモやマサオミは幾度か内部の調査に入っているのだが、その環境の苛烈たるや、嘗ての伏魔殿を遙かに凌ぐものである。伏魔殿の探索に慣れた両者でさえもそう判じたのだから、不慣れな闘神士が立ち入るなど、想像の上でもリスクが高すぎると云わざるを得ない。
 無論ムツキらもその程度の事は了承している。彼らは現在各地の妖怪祓いや異変調査(宣伝文句では、恋愛相談まで何でもござれ、だそうだが)を行っており、鬼門の調査もその範疇に含まれる訳だが、内部へと侵入する様な事はしていないと云う。飽く迄外部から、鬼門の蓋が弛んでいないかを調べたりするのみで留めている。
 今回行方不明となった闘神士達は、その『鬼門の調査』として派遣されて来た。当然彼らは鬼門を開く為の闘神石は所持しておらず、そもそも内部へは立ち入れる様でも立ち入らない様にと厳命されていた。因って考えられるのは何かトラブルに巻き込まれたのではないかと云う可能性。
 伏魔殿が変容して以降、その入り口である鬼門にも果たしてどの様な影響が及ぼされているかは判然としていない(そも、それを調べる為の『調査』なのだ)。
 最も有り得そうな可能性は、鬼門が何かの拍子に開き、調査に訪れた彼らを裡へと招き入れたと云うものだ。
 だが、最初の一団は兎も角、二度目から派遣されていた者らは当然その可能性を憂慮していた。鬼門が万が一開いていれば周囲には妖怪が溢れているだろうし、それらの異変を感じたら直ぐに戻る様にとも通達されていたと云うのに、三チーム七名の何れも帰還者ないし目撃者を残す事はなかったのだ。
 こうなって来ると、単なる鬼門の異変或いは現象の悪戯とは考え難い。
 彼らは行方不明になったのではなく、行方不明にさせられたのでは無いか──?
 その可能性に、ムツキならずとも行き着くのは当然だった。即ち、式神を連れた闘神士をも或いは御せる様な者の起こした人為。
 目的は解らない。だが、陰陽道を誤った方向へと使用するに慣れ、それ故に追われる『犯罪者』の力の誇示或いは高慢の為した事件である可能性は、他の偶発的可能性を潰せば潰すだけ実感を以て増す。
 現在逸脱者として、追われながらも逃げ延び、生死不明の状況にある者は七十余名。これは多いと取るか少ないと取るかは人それぞれだろうが、敢えて特記するならば、これらは陰陽道の黎明の時代からの数えである。
 何故ならば逸脱者の中には、妖怪と同化した者や逆式の様な手段に身を窶した者も居る為、彼らの寿命の定義が人間のそれとは既に比ぶるべくもないからだ。何百年が経過しようと、明確に遺体が発見され死亡が確認されない限りは『生死不明』の侭記録に残り続ける。
 彼らが現代も生きているのか、それとも疾うに潰えて居るのか、或いは人とも妖怪とも式神ともならぬイキモノとなって仕舞っているのかは解らない。
 力の故に人道を外れ、現代もなお逃げ延びているとされる七十余名。
 なお逆に、裁かれた者の数は一切が記録に残されていないので、七十余名の生き残り(暫定)とは果たして多いと云えるのか、少ないと云えるのか。歴史は残念ながら正確な所を語ってくれはしない。
 ともあれ──それらの者が此度の事件を引き起こしたのではないかと、断言は出来ないと言い置きながらもムツキは何処か可能性をそちらに置いている風ではあった。実際ヤクモに渡された資料の中には、彼ら『逸脱者』のリストも添付されている。
 余談ながらこのリストの最新末尾に加えられ、そして最も最近に除外されたのは、彼の天流闘神士マホロバであった。あの侭生き延びていたら彼もまた、このリストに永劫名を刻まれていたやも知れない。
 一度人としての道を違えたが最後、永劫に程近い迂遠を生き延び、時にこう云った不可解な事件が起こる度、死を確認される迄はその責任を押しつけられる。『悪』なる存在の代名詞として。
 然しそんなムツキの推論とは逆に、ヤクモの考えとしてそれは可能性半分以下と云った所にある。
 幾ら人間と云う存在から逸脱し外道として生きて居る(かも知れない)とは云え、所詮人は人だ。妖怪で腐敗する身体を補い仮初めの不死性を手に入れた所で。逆式を起こして絶大な力をその身に宿した所で。脆弱と云っても良い人の心が何処かに介入し生まれたそれらが、仮令太古より生き延びていたとしても、そう易々とそれを気取られる様な真似はすまいと思えるのだ。永く生き延びていれば猶更。己が追われる者であると自覚した上で、今まで何のアクションも起こさず潜んでいた者であれば更に猶更。
 偶然気まぐれを起こした。偶然封印めいたものが解けた。偶然タガが外れた。どうとでも可能性があるのは確かだが、人為であると断定するぐらいであれば、起こり得るかも知れない可能性を無限に模索出来る、自然現象や事故と考えた方が余程マシだからだ。
 因ってヤクモは可能性と蓋然性の高さはさておいて、今回の事件にも人為と云う可能性は極力排除して物事を考えていた。
 然し、そうなればなったで次には──『気持ちが悪い』と云う感想が先ず先立つ。
 不自然さや奇妙さではない。人為と見るにも軽い。それ以上に妙な事が、事件の舞台そのものにあったからである。
 
 
 陽も傾きつつある夕暮れ前。雑草を道の脇に好き放題に繁茂させた、一応は舗装されている道路の一角にバイクを停めたマサオミは直ぐ目の前の、煙草屋とも酒屋とも雑貨屋とも取り難い個人商店の間口に佇んでいるヤクモの背中を退屈混じりに見ていた。
 彼の前には店の主人らしき中年の女性がおり、ヤクモの手にした地図と辺りとを指さしてあれこれと話を続けている。余程話好きだったのか単に暇なだけなのか、道を尋ねに行っただけの割に既に十分以上は両者共に動く気配が見受けられない。
 田舎の山間にある集落に特有の、少々寂しげな気配が夕暮れ時のこの昏さに相俟って何とも云えない趣を醸し出している。付近にはこの商店以外の家は当面見当たらず、道にも標識や案内板の一つすら立っていなかった。
 頭の丁度上にある、時間で先程点灯した、昭和中期頃にありそうな(無論実物など知る由もないのだが)古めかしい街灯を見上げて、暇に任せてそこに集る蛾の数など数えて見るが、直ぐに飽きたので止めた。
 この辺りの名物丼を考え、今後の予定を想定し、事件の事を考え直し、神操機の無い軽さに溜息をつき、ムツキにガソリン代を少々多めに請求してやろうかと企み、山に囲まれた空を見上げ、夕陽の様子に明日の天気を思い、街灯に集る蛾を数えていたマサオミが、次にずっと運転しっ放しで少々凝っている肩をぐるりと回して伸びをした所で、ヤクモが女性に軽く会釈をしてこちらへと戻って来るのが目に入る。
 「どうだ? 随分遠回りそうな道は解ったか?」
 「この辺りは地元人で無いと迷い易いそうだ。だから迷い辛い経路の地図を書いて貰った」
 マサオミの嫌味をあっさりと躱したヤクモは、ムツキより送られて来た資料の内、地図としてまとめられていた一部分を軽く渡して来た。
 反射的に受け取って仕舞ったマサオミが一応中身を改めてみれば、MSS側で慌てて用意したのだろう、少々曲がったコピーのされた地図に先程の会話で教えて貰ったらしき幾つかの道や通りの名、ランドマーク(と云うより目印)が目立つ赤いボールペンで書き足されている。
 土地勘は無いが方向感覚には自信のあるマサオミは、地図を目的地に向けぐるりと回転させて、現在地からの大体のルートを把握しようと指で紙面を辿ってみる。書き足された道は確かに少々複雑そうだが大きな時間短縮にはなりそうだった。
 ふむ、と頷くマサオミの横をさっさと通り抜け、ヤクモが再びバイクの後部シートに腰を下ろす。まるで当然の様に横向きに。そうして、道を訊くだけでは申し訳無いと思ったのだろう、買って来たらしい新聞を半分に拡げて読み始める。
 まあここ迄来たら駐在所の前でも通り過ぎない限りは平気かなと思い、マサオミがキーに手をかけた所で、「ああそうだ」とヤクモが顔を起こした。厭な予感を覚えて振り返る。
 「この先は殆ど山道めいた道だそうだから、バイクで走って行くのは少々無謀みたいだぞ。諦めて押して行く方が良いとアドバイスを貰った」
 「…………それは解ったが、で、何でアンタは座ってるのかな」
 「押すのは一人で充分だろう?」
 あっさりと、立てた新聞の上から上目でそう云うと、ヤクモは再び紙面を目で追い始める。余り覚えの無い地方のテレビ欄越しにマサオミは暫時半眼でヤクモを睨め付けた。
 「バイク一台を押すのと、バイク一台プラス人間一人の重量を押すのとでは全然重さが違うんですがその辺りを如何お思いで?」
 睨みながらの笑顔で問い詰めにかかるマサオミへと、こちらはあからさまにお愛想としか云い様のない笑顔を返して、ヤクモは新聞を一頁捲った。裏返して折り、邪魔にならないサイズを維持する。
 「おや。サポートに足りなければ運転手でも荷物持ちでも何でも良いから手伝わせてくれ、と無理矢理ついて来たのはお前の方だと思ったが?マサオミ」
 飽く迄『運ばれ』る気を翻そうとはしないヤクモへと殊更に引きつった笑顔を向けて向かい合う事十秒足らず。結局マサオミは溜息と共に白旗を上げた。口をへの字に歪めた侭、バイクのスタンドを上げ、ヤクモを後部シートに乗せた侭押して歩き出す。
 当初電車で目的地へ向かおうとしていたヤクモに、半ば無理矢理について行く為の手段として(特に)運転手役を頼み込み買って出たのは確かにマサオミ自身である。幾ら方便混じりとは云え、それを了承した上で無茶な事を云われても反論はし難いのが現実だ。第一そうでもしていなければ、ヤクモは単独でさっさと此処に来ていたに違い無い。
 未だ彼に『頼られ』る迄には至っていない様だが、式神が不在だろうが何かしら協力はしたいし、何より放っておけば無茶でも無謀でも構わずに乗り込んで行くだろうヤクモの行動を看過してもいられない。
 別に懶な質でも無いし、山道を歩く事に不満がある様な人柄でも無い。だからこれは、マサオミの思惑を朧気にでも勘付いているからこその、ヤクモなりの反撃や意趣返しと云った所なのだろう。
 そう諦観めいて無理矢理断言し、マサオミはバイク(+ヤクモ一人)を押して、地図に記された山道へと入って行った。
 確かにヤクモの得て来た話通り、足下はお世辞にも舗装されたものとは言い難い砂利道続きで、街灯の類も殆ど見当たらない。地元の人間以外であれば怖じけて避けるどころか、存在にすら気付かず通り過ぎそうだ。
 車一台も通るのに苦労しそうな、狭い道の左右を繁茂した木々や雑草に囲まれ進む事暫し。段々と陽も落ちて辺りは不気味な程に暗く、茂みの中からは虫の大合唱がひっきりなしに続いている。
 道中をどの程度進んでいるかも判然とせず、足下に殊更に気を配りながら歩くマサオミがそっとヤクモの様子を伺えば、彼は丁度新聞を読み終えた所だったらしい。がさがさと紙面を丁寧に畳むと書類の詰まった封筒に一緒くたに押し込み、頬杖をついて一言、投げて来る。
 「お前はどう思う?マサオミ」
 「どう、って?」
 思わず足を止めかかるが、ヤクモの、軽く手を前に振る仕草を受けて、マサオミは疑問にもその行動にも疑問の表情を浮かべた。
 「お前の時代の視点で、だ。俺には少々『気持ちが悪い』としか云い様がないのは恐らく、余り前例の無い事に加えて、どう推測したものかとも迷っているから、だろうしな。もっとはっきりと云えば、少し──怖い」
 珍しい事と云えた。弱気とも取れる言葉を寄越したヤクモは、然し表情は真剣な侭にマサオミの事をじっと見つめて来ている。意見を待っているのだと云う事は直ぐに解ったのだが、どの答えでも迂闊なのではないかと云う不安に苛まれ、マサオミは曖昧に眉を寄せて、それから視線を前へと戻した。ごとん、と大きな石ころを踏んだバイクが跳ねるのを押さえて、吐息混じりに呟く。
 「まあ…確かにこっちの方が、そう云った荒唐無稽にも取れる状況を肯定してくれる材料が多いのは間違い無いだろうが、だからと云って昔の時代に同じ例がそうあった訳じゃないのも事実だぜ? 俺から見ても充分『気持ち悪い』ぞ。今回の事件は」
 意識せず、慰める様な云い種になって仕舞った事をマサオミは寸時後悔するが、ヤクモから返るのは憤慨ではなく、重さの込もった溜息だった。
 「………そうだな。事件が起こったのは間違い無く、神域の中で、だ。そして、人の信心はどうあれ『居る』処には慥かに、『居る』んだし──な」
 
 
 そもそも鬼門とは、陰陽道に於ける『鬼の出る門』、忌むべき方角の事である。
 もっと深く『こちら』側の意味として突き詰めるのであれば、鬼門とは実相世界の一定の範囲と、位相空間のそれが歪み連結した、一種の『点(ポイント)』を指す。もっと簡単に云って仕舞えば、特定の場から見て特定の方角へと配された『孔』と見ても良いだろう。
 陰陽道的に役割を冠された鬼門の多くは、その通りに位相空間への『途』だ。時に何かしらの封印の役割を負ったものもあるが、大概の場合は前者に類する。
 そして忌むべき方位、忌むべき点であるが故に、そこを神聖な場(或いは禁忌の類)と扱い、社や依代(神籬)を置く事で陰陽道に通ずる者達はその存在を隠して来た。また、鬼門の傍に居を構える者の中には、先祖代々それを守る様厳命されている家系も少なくない。
 然しそれは『鬼門』にあるが故に、真なる意味での『社』──神を奉じるものではない。基本的にこの意味(位相空間などを封じる目的)で忌まれた鬼門と、神の住まう地とは相容れないものなのだ。
 天神町にある鬼門口がそれを説明する良い例であると云えよう。恰も神社の様なお社の体裁を取ってはいても、そこにご神体の類は置かれていない。つまりは見かけだけのものである。また、天神町には北の方角に歴とした土地の大神社もある。
 そんな事情に持ってきて妙な事に、この地にある鬼門は辺りの神域であるお山の内側に存在していた。全国にも他に同例は確認されていません、と云ったムツキの言葉通りに、マサオミもヤクモも神域の内部に鬼門があるなどと云うのは初めて聞くものだった。
 件の鬼門の位置の詳細までは知れなかったが、神域の内側の所在である事は確からしい。
 お山のほぼ一つを神域と定めている事を思えばそれ自体が特に明言されておらずとも、それだけで一種の『結界』であると云える。玉垣の囲い、天然要素の構築、磐座、奉じられた御神体、神籬、人の信仰心、磁場。何れと呼んでも構わないが、神域とは一種の隔そのものだ。妖怪や低級な雑霊などでは到底立ち入りなど叶わないそれは、内部の安全を一応は(カミサマのご加護と云える程度には)保証してくれている筈である。
 そんな神域の内側に、有象無象の妖怪世界の入り口とも云える鬼門が存在すると云う事実は俄に信じ難いものがある。
 訊けば、件の神社は古来からこの辺りで信仰されてきた氏神の類──土地固有の神を奉じているものらしい。
 宗教とは大なり小なりあれど土地や民族に因って異なるものである。その土着の信仰では或いは、鬼門は神様が守っているとか、妖怪とも仲良くしましょうとか、そう云った教えである可能性も有り得ないとは言い切れない。残念ながらムツキの寄越した資料や先程の店の女性ではそこまでの事は判らなかった。
 然しそんな事よりも問題は、事件の直接原因が鬼門かどうかはさておいて、神域の内側でそれが起こったのだろうと云う推定事実に寧ろある。
 重ね重ね。それがどんなに小さな、土地の人間しか崇めない神であろうと基本的に、太古に然るべき在り方に則って奉じられたものであれば、神域の加護とは慥かなものの筈である。そして調べた限り、件の神社は霊験灼かなものの様だ。崇められて来た幾百年と云う年数もそれを物語っていると云えよう。
 つまり、事件が神域の裡にて起きた事であれば、妖怪の類の仕業では有り得ない。
 同時に。下法に身を窶したものの理は、神域を不得手としている。
 更に。偶然通りかかった俗世の犯罪者の仕業だとしたら、式神や闘神士の敵になど足り得ない。
 ………………と、なると後に残されるのは正に、ヤクモ曰くの『気持ち悪い』他の理由を想像するぐらいしか無くなるのだ。
 神のおわす域に於いての、然しその加護や抑止力の感じられない事件。
 基本的に式神は世界、節季そのものの具象である為、如何なる『神』と呼ばれる座のものにも親和性が高いと云うのに、それすらも気休めとして前提に置くには足りない。
 神域の内側で、果たしてそこにおわすもの以外の『何』が、この事件を引き起こしたと云うのだろうか。
 
 
 「………じゃ何か、アンタは本当にカミ様の仕業と考えている訳か?」
 重い息同様に重いヤクモの意見に、流石にマサオミは首を傾げた。
 「いや。だから、杞憂ならば良い、と前提に置いているんだ」
 「つまり杞憂ってのが『そっち』な訳ね。じゃあ本命としてはどうなんだ?予想」
 「さてな。人為でも難しいし在って欲しくも無い処では、安易な結論は避けた方が良い」
 肩を竦めるとヤクモはそう投げて、それから率爾に目を細めた。バックミラー越しにその表情を伺い見たマサオミは一瞬疑問符を浮かべかけ、然し直ぐに気付いて黙りこむ。
 『……ヤクモ』
 囁く様な、風に混ざった小声が両者の耳にだけ届く。出所は探る迄もない、ヤクモの神操機からだ。声音からして雷火のタカマルであろうとマサオミは見当付け、同じ様に密やかにヤクモの様子を伺った。
 「ああ」
 余り気の無さそうな頷きだけを顰めた声音で返すと、ヤクモはごく自然な動作で膝の上にかなりぶ厚い封筒を立てて乗せ直した。その上で両手を重ねて顔を影に沈める。
 「放っておこう。見ているだけならば害は無い」
 「何だと思う?」
 そんな彼の行動を、唇の動きを読まれない為か、と悟り、マサオミは当たり障りの無い様な云い種で問いを投げかけてみた。ヤクモは正しくその意味を察したらしく、口元を隠した侭で、矢張り何処か気がなく答えを寄越す。
 「感じるのは視線だけだし、使い魔と云うか『式』程度の術かもな。人型とか折り紙で作る類の」
 そのぐらいは俺も知っている、と反射的に返しそうになったマサオミは、何とか声を留めて代わりに「ふぅん」と相槌を打った。ヤクモの弁と同じ様に気の無いものになって仕舞ったのは仕方がない。
 符や紙に念を込めることで、己の『目』ないし『耳』或いは『声』になるものを作る、基本的な術だ。一般人の知識ではこういった類を寧ろ『式神』と認識しているらしいが、闘神士や術者から見ればそんなものは子供騙し程度でしかない。
 動物の姿を模して作られる事も少なくないそれは、与えられた役割通りに、主に斥候の為に用いる事が多い。自意識や知能も無く自衛や攻撃手段も持たない為に、発見さえすれば滅するのは容易だが、ヤクモの様子からして、今は未だ『相手』に気取られる事は好ましくないのだろう。
 マサオミは密かに周囲を伺ってはみるが、空を飛ぶ蝙蝠、枝葉の上で寝む鳥、茂みの中の虫や小動物。果たしてどれに類するのか、どれでも無いのか判然とせず、ただ全方位の何処からも『見られている』プレッシャーに薄気味の悪いものを覚えずにはいられない。
 「そんなに気にしてやるな、マサオミ。向こうに手出しをして来る明確な意志がない以上は、月が追い掛けて来る錯覚と何ら変わりないんだ」
 そんなマサオミの心地を察したのだろう、ヤクモの方は気負いもせずにあっさりと云うと、「よ」と小さい息を吐いてバイクから飛び降りた。資料の詰まった封筒をシートの上に置き去りにして、バイクの先をゆったりと歩き始める。
 それは、ヤクモにとって全く平時どころかそれよりも余裕すら伺える様子に見えたが、逆にこれ以上ひそひそ話を続けると最悪の答えを自ら提示しかねないと察して仕舞った故の答えの先送りであると、マサオミは気付いていた。
 先程より軽くなったバイクを、それよりも重い気持ちで押しながら、囁く。
 「何にしてもこれで、可能性は搾られちまったな」
 先を行くヤクモは返事を寄越してはくれなかったが、恐らくは彼もマサオミと同じ結論にあったに相違ない。
 こうして見張って──或いは見つめて──いる、何者かの『意』が行方不明になった者らと無関係とは到底云えまい。連絡を絶った闘神士達は、少なくとも単純に『行方不明』になった訳ではない。何者かに『行方不明』にさせられたのだと云う可能性が高くなったどころか、これで確定したと云っても良いのだから。





取り敢えず事情説明と云うかそんなかんじ。神道なめんなとか陰陽道なめんなとかそんな感じですあしからず。
えーそんな訳で設定趣味炸裂で行かせて頂く所存です。無駄に長そうな想定なんですがそれよりも説明している部分が長い気が…気が。
そもそもの問題はちゃんと書き続け…もとい終わらせられるのかと云う点。(…)

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