私の罪は千二百年 / 7



 山は広大だった。当初の予定、否、予想通りに。大蛇(うわばみ)曰くの通りにどうやら、お山そのものが神社の祀る域だったらしい。探せば山の何処かなりに玉垣の役割を果たす柵や壁があるのかも知れないが、実際そんな隅々まで歩きたいものでも無い。
 境内を離れ山中に出て小一時間程度。当て所なく歩く訳ではなく、一応此処に乗り込む以前に地図で確認していた通りの北東を目指している(つもりではある)。定石通りならば鬼門は艮の方角にある筈だからだ。
 然しそんな幾分かの気休めに近い標があるからと云って、山歩きの悪さが変わるものでもない。霧は相変わらず不気味に深い侭だし、湿気を含んだ空気は衣服にまとわりついて歩き辛さを増す。これで暑かったらダウンしている所だが、幸いにも季節は夏には未だ早く、山の気温は低かった。そうでなかったとしても神域の内部、しかも『神』の腹の裡ともなれば俗世の気候など関係無いのやも知れないが。
 一応知らぬ者らにも神域として定められていた為か、山の特に深くは人の手が加えられている様子が殆ど無い。ほぼ原生林とも呼べそうな光景は落ち着いてハイキングでもしている時ならばなかなか見応えがありそうだったが、千年以上前の光景を体験し知っているマサオミから見ればそう感慨があるものでもない。
 然しそんな名勝地めいた風景や空気を堪能した所で、矢張り山歩きの悪さが変わるものでもないのだ。大地が活発に隆起しており地盤も脆いと前情報にもあったが、あちこちで軽微な土砂崩れや地滑りが頻繁に起きているらしく、倒木や土や岩、木の根などが道無き道を更に遮って歩きにくい事この上ない。恐らくはそれも伏魔殿の変容を受けた『神』の影響に因るものだろう。
 幸いなのは域の裡と云う特異性に放り込まれた事で通常の認識に適わなくなったからなのか、本来生息している筈の動植物や虫の被害に遭わずに済んだ点ぐらいだろうか。
 「なぁ、もっと山歩きに備えた格好をしてくるべきだったんじゃないか?」
 ぬかるみに片足を取られながら、少々愚痴めいてマサオミはこぼした。云う迄も無く両者の格好は山歩きに適した装備どころか全くの平服である。
 「…そうだな。少々困っても符で何とか出来ると云う甘い考えが職業柄矢張り抜けない様だ」
 対するは、肩を竦めながらも余り悪びれてもいなさそうに応じるヤクモ。彼の云う通り確かに、符の一枚があれば効果は限定的とは云え、環境作用を取り払う事だって容易であるし、そもそも目的地の鬼門そのものを検索出来る為、こんな風に方位以外の当て所なく歩かされる必要も無い。
 ちなみにその方位も人の感覚では違える可能性がある為、姿は見せていないもののヤクモの、しっかりと携えられた神操機の裡より式神達がその都度補正してくれている。
 「先に誰かが行ったかどうかも、この広さとこの状況じゃ判然ともしないな」
 沈黙の侭歩き続けるのは体力的には宜しいかも知れないが精神的には余り宜しくもない。故に、今更行方不明になった闘神士達は鬼門へ向かってはいないのではないか等とは思ってもいないが、何となく間を保たせる為にそんな事をぼやいて仕舞う。
 案の定かヤクモはマサオミの無駄口には余り付き合う気が無いらしく、「真偽は辿り着いてから知れば良い」と素っ気なく答えを投げて来たのみだった。
 『ヤクモ様、少々北に逸れて来ているであります』
 「ん、そうか…。矢張り人間の感覚なんて宛にならないものだな。ありがとう、ブリュネ」
 こちらは無駄口とカウントしないのか、軌道修正を進言する式神への返答の方が文字数としては余程多いのはマサオミ的に如何んともし難い。
 と、頑健な木の根を掴んで段差上に身を昇らせかけたヤクモが、唐突にその動きを止めた。振り返りもせず、少し口早に問いを投げて来る。
 「……マサオミ。今日は何だか質問ばかりしている様で済まないが、例えばお前ならこう云う場合はどうする?」
 停止した動き同様に唐突なヤクモの問いに、マサオミは目と口とを丸く開いた。問いの意味を探るべく考え込むが、それでもよく解らず問い返す。
 「悪いが、『こう云う場合』、と、『どうする』、の意味が解らん」
 願わくば主語を、と思う。
 「だから。お前があの大蛇だとして、己の神籬である鬼門へ何者かが接近して来ていたら、だ」
 謂われは無い筈だが少し苛立ちを込めて続けられ、む、とマサオミは不満に顔を顰めるものの、ヤクモが振り返って来るのと同時に思わずそんな反論は表情ごと引っ込んだ。
 別段マサオミが思わず反論を止めて仕舞う程にヤクモが妙な表情をしていた訳ではない。同時に起こった、地鳴りの様な音と振動にである。
 「…………地震、か?」
 思わず手近にある木の幹を掴んで身構える。この足場でもしも大きな揺れが来たら、軽い地滑りを起こしかねない。警戒したマサオミは思わずヤクモの方を振り仰ぐが、然し彼の方は木の根を掴んだ姿勢の侭、何故か困った様に呻いた。
 「時間切れだ、マサオミ」
 「? 何の」
 思わず反射的に問い返してみれば、丁度ヤクモが木の根を手から離した瞬間だった。ざざ、と僅かの距離を滑り降り、彼は闘神符を指の間へと滑らせる。
 「アンケートの。お前ならどうする?と。だがその前に当人からの答えが出た様だ」
 そうする内にも振動は──既に地震の類ではあるまいとマサオミも気付いていた──収まる気配も特別強くなる気配も見せず、二人の佇む不安定な足場ごと大地をめりめりと捲り上がらせていた。
 「──つまり、己の命綱みたいな状態の鬼門に濫りに近付く者が居ると、危機的意識が働いて、妨害するって事か?!」
 声を上げたマサオミが己の叫びの内容に血の気を引かせるのとほぼ同時に、ぬかるんだ大地から木の根っこ──否、それによく似た岩塊が飛び出した。それは岩と云う組成の癖に術の作用でか、それなり柔軟な動きを見せてマサオミとヤクモとを目掛けて襲いかかって来る。
 岩の、凶悪に尖った先端が妙に目に焼き付いた。
 「く……──、ッえ?」
 符を投擲しかけるヤクモの腕を乱暴に引っ張って、マサオミは昇って来た道を反転した。
 「マサオミ?!」
 「今の俺達の符でどうにか出来るもんでもないだろうが!ひとまず退散!!」
 ざ、と引っ掛かった木の根に合わせ止まり、複雑に入り組んだ木々の隙間を到底急いでいるとも云えない速度で乗り越えていく。マサオミに引っ張られた形になっているヤクモが躓きそうになりながらも何とかそれに続き、そこで思い出した様に手を振り解いた。足は止めない侭声をあげる。
 「攻撃を仕掛けて来たと云う事は目的地が──鬼門が近いと云う事だ。なんとか切り抜ける事が出来れば、」
 「その前に俺達がくたばる方が早いと思いますが、っね!」
 短い遣り取りの間に、二度、三度と迫る岩塊を悪い足場の元なんとか回避する。
 「鬼門へ走り込むだけでも構わない!せめて行方不明者達の安否だけでも確認、」
 「だから!その肝心の鬼門が、『あの先』って云う曖昧さ以上には解らないんだから無理だろうがッ!」
 回数を経る毎にシャープになっていく気のする狙いに冷や汗を散らしながら、マサオミは一旦木陰へと逃れる。最早どの方角に進んでいるかも判然としていないのだが、ヤクモの方はそうでも無いらしい。軽い身のこなしで岩の一撃を回避しつつも、その眼は一定の方角を、思う様に進めてはいない様だが見据えている。
 「大体これはあの『カミサマ』とやらの攻撃なんだろうが!今は警告みたいなもんでも鬼門に近付けば近付くだけ苛烈になるんだとしたら、迂闊に飛び込むだけじゃ連中の二の舞になるだけだ!」
 「…………、」
 久方振りに目の当たりにした、ヤクモの焦燥に満ちた横顔にマサオミも同じ様に焦りを掻き立てられはしたが、だからこそ冷静になる必要があるのだとも判じている。
 悄然とした表情を浮かべかけていたヤクモが、やがてそれを振り切る様に見ていた方角とは逆方向に走り出す。その後を追いながらマサオミは思考を噛み潰していた。
 あの『カミサマ』がお山の主であり、本当にマサオミ達を害する(鬼門に近づけぬ様に妨害をする)心算であれば、あんなまどろっこしい攻撃ではなく、もっと簡単に出来る筈なのだ。
 何せ相手は山そのもの、この地そのものと云っても良い。
 単純に上手く力を使う事が出来ないのであれば問題は無いが、人を脅し立てる様な真似しか出来ないとは少々考え辛い。
 (……まぁ考えても仕方ないがな)
 そんな横筋の思考を流せる程余裕が出たと云う事だ。そう思う間も無く、少し先を行くヤクモが足を止めた。さほど逃げてはいなかった筈なのに、気付けば既に岩の塊は両者を追っては来ていない。本当に襲撃範囲は限定的だった様だ。
 唇を引き結んだ表情で振り返って来ているヤクモの頬をちょいちょいと示してやれば、頬にこびりついた泥を彼は無言で拭った。改めて見る迄もなく自分もかなり酷い状態である。ヤクモに倣って手袋ぐらい装着すべきだったかなと思いながら、泥だらけの手を軽く叩く。
 「せめて、行方不明者達の状況だけでも確認しておきたいのに…」
 襲撃の気配はもう無かったが、それでも警戒の為に木陰に引っ込みつつヤクモがそう唇を噛んで俯くのに、泥を叩くのを止め同じ様に後に続きながら、一応は同意を示して頷く。
 「まあ埒があかないのは確かだが、だからと云って鬼門の正確な座標も解らない状態で突っ込むのはお勧めしないね」
 「……………」
 少々当てこすりめいたものを感じたのか、む、と眉を寄せて苦い表情を作るヤクモに、マサオミは肩を竦めた。
 「焦るのは解るが、危険以上の危険を冒しても仕方無いだろうが」
 マサオミの云う事が尤もである自覚はあるのだろう、ヤクモは暫くの間苦々しく俯いていたが、やがて走り通しで乱れていた髪の毛を軽く顔から払って、手の中に握り込んでいる紅い神操機に視線を落とす。
 「…………済まなかった」
 マサオミにか、それとも式神達になのか、どちらともつかない立ち位置でそう、珍しくも素直に謝ると、ヤクモは顔を起こした。
 「マサオミ。俺はこれから鬼門の詳細な地点を調べてみようと思う」
 警戒していてくれ、と続けると、ヤクモはずっと大事そうに携えた侭でいた紅い神操機を軽く持ち上げてみせた。
 「降神する気か?!」
 「気は進まないが、それが一番手っ取り早い。……と云いたい所だが降神では少々懸念があるからな。探って貰う程度にする」
 『お任せ下さい、ヤクモ様』
 既に意気込み満々と云ったブリュネの声に、少しだけ余裕を取り戻した微笑みを向けてから、ヤクモはマサオミの方へと少し近づいた。紅い神操機を胸の前へと守る様に抱え持つ。
 「まあ、もう襲撃範囲からは逃れたみたいだし…。あのカミサマとやらに俺達を害する気が無いのであれば、大丈夫だと思うが……」
 「…………そうだな」
 式神を用いて鬼門を探ると云う積極的な手段を決意した割には、ヤクモの表情には今ひとつ覇気が無い。その事をマサオミは訝しんだが、疑問を口にする前にヤクモは神操機を構えて眼を閉じていた。
 「頼む、ブリュネ」
 土行に因る探索だろう。神操機が土行を示す紫の光を薄らと放ち始めるのを見て、マサオミは一応周囲を見回してみた。ヤクモは今気力を注ぎ込んで更に式神へと意識を乗せている最中である為、無防備な状態と云える。襲われればひとたまりも無いが、矢張り攻撃を行うと判断されている範囲から逃れている為にか、辺りはごく静かなものだった。
 此処に来てから既に結構な時間を浪費している。神の概念として『呑まれ』た以上外界との時間経過の差異など解らないが、恐らくそう違う事も無いだろう。 
 行方不明となった連中が現状どうなっているかは知れないが、時は無為に経過すればするだけ焦燥を生む。神の腹の裡に閉ざされたと云う異様な現状もそれを煽っていると云えよう。
 無論マサオミとて人命は尊ぶべきものだとは思っている。だがヤクモに比べて落ち着いていられるのは、幾分の『割り切り』があるからだ。
 ヤクモは優しさや畏れで死や、人の害される事を忌避している。だが幼い頃より死は生の為の必然であると理解し見て育って来たマサオミからすればそれはどちらかと云うと弱さに近い甘さと思える。訳も解らず道理にも沿わず現象そのものを拒絶する。理解はしていても本能の様に。
 感情としては同意出来る。だが焦るばかりでは意味が無いのも事実である。だからマサオミは極力落ち着いていようと努める様にしている。特に今の様に、ヤクモが些かの冷静さを欠きそうな時こそ、だ。
 「俺も。思ったよりお人好しなのかもなぁ」
 限定的ではあるが、とそんな事を暢気に謳った矢先、マサオミの視界の端を何かが掠めた。然しそちらに注意を払うよりも早く、突如二人の佇む足下が円状に一気に陥没する。
 「  ──、!」
 人は注意していなければほんの僅かの段差にも転ばされる。二足歩行で得た文明の進化は然し、苛烈な環境を生き抜く為の生物としての能力を失ったとも云える。
 そう。陥没したのはほんの数十センチ程度の高低だが、それでも人がバランスを崩し絶対の隙を晒け出すにそれは充分過ぎた。
 蹌踉めいたヤクモ目掛けて、先程マサオミが僅かに視界に捉えた石礫が一直線に飛来する。正確にはその右手に掲げられた紅い神操機へと。
 理解と云うより勘だった。死の絶対さや生のあやふやさの定義などどうでも良い。ただそれが取り戻せない喪失になるだろうと──この攻撃は正しくそれを狙っているのだと──何処かで、知っていた。
 「ヤクモ!!」
 今更注意を引く心算など無かった。ヤクモもまた己に今迫る驚異には気付いており、だが転倒しかかっている状況に為す術もなく眼を見開いていたからだ。
 だから思わず漏れた声はただ、呼びたかっただけの様な気がする。
 縁起でも無い、と、存外他愛もない思考を流す余裕のある自分に驚きながらも、マサオミは足場の陥没で傾いだ身が丁度そちらを向いている事に感謝した。慣性その侭に大地を蹴って、ヤクモの身体へと思い切り体当たりして抱え込む様に転がる。
 衝撃は想像よりも少なかった。
 「──、ッさおみ!」
 何が起こったのかを一瞬で理解したのだろう。狼狽しきって色を失ったヤクモの声に、マサオミは一瞬だけ痛みを忘れた。
 もんどり打って倒れた為に半分圧し掛かられた形になったヤクモが、マサオミの身体を押し退けようと藻掻き、支える様に無理矢理上体を起こされる。
 「、マサオミ!!」
 一瞬息を呑む『間』があって、その不吉さに顔を顰めた途端、思い出した様に痛覚が蘇った。苦悶かそれとももっと現実的ではない叫びか。何かを紡ごうと唇が戦慄くのだが、喉奥に何かが詰まって仕舞ったかの様に呼吸が上手く出来ない。息を継ごうと喉を動かせば嘔吐感が湧き起こり、胃酸が喉を灼く感触に顔を顰めるしかない。
 (あ、マズいなこれ)
 妙に冷静にそんな事を思い、ともあれ不快だしとんでも無く痛いが、目の前で顔面を蒼白にしたヤクモに向かって気休めなり告白なりでも云っておくかと口を開く。が、急激な失血感に因り起こされた眩暈と、脳に満足に血の行き渡らない貧血とで、喋りかけるどころか思考が急速に散漫になっていって仕舞う。
 (焦って、下手を打たなきゃ良いんだがなぁ……)
 落ちる寸前そうぼやいて、然し全く心配などしていない自分に気付いて、マサオミは──出来たかは解らないが──苦笑を浮かべて意識を手放した。
 
 
 「──、ッさおみ!」
 庇われた、と理解した途端、ヤクモは素早く身を起こそうとするが、どさりと上に圧し掛かる様に倒れ込んで来たマサオミの身体の、その重さにぞっと肝を冷やした。一瞬動きを止める。
 転倒ついでに突き飛ばしてくれただけならば、直ぐに警戒を続けるべく起き上がっても良い筈だ。先程ヤクモに向かって飛来した凶悪に尖った石礫は既に見当たらない。
 ヤクモ目掛けて飛来した凶器の射線へと、マサオミは飛び込んだのだ。
 その事実を思い出せば、今彼がどうなっているかは想像に易く、ヤクモは異様に重さすら感じられる気のするマサオミの身を無理矢理に引き剥がした。座らせる様に上体を押して起こせば、その腹部がじわじわと赤く染まって行く様子が目の当たりになる。
 出血量が多い。そして早い。
 「、マサオミ!!」
 呑んだのが呼吸だったのか悲鳴だったのかは解らない。動かした事で傷に障ったのか、マサオミが声にならず呻き、そしてちいさく喉を鳴らした。鳴らした、と云うよりは鳴って仕舞ったのかも知れない。それは息が漏れる様な音だった。
 (傷が、)
 深い、と云う冷静な思考に血の気が引いた。沸き立つ血の匂いにいつもの眩暈を引き起こしそうになる意識を必死で掴んで、失血で意識を失ったのか、ショック症状を起こしかけているのか、妙に苦そうな表情で目蓋を閉ざすマサオミを抱えた侭、ヤクモは符を一枚引き抜いた。思い切り気力を叩き込み障壁を展開する。
 それに呼応する様に、きん、と、追撃に飛んで来た新たな礫が障壁に弾かれ落ちる。その反動で、やはり符では長持ちはしないと悟ったヤクモは、ちらりとマサオミの様子を見下ろした。完全に意識が無いらしい、血の気の一気に失せて行く白い顔。閉じた目蓋。
 「──ブリュネ。三分……いや、二分で良い。何とか持ち堪えて欲しい」
 符の障壁ではとても保たない時間だ。この、式神の力を大きく削いでいる神域内で、しかも闘神士の全力の援護も無い状況下に、自らの恃む式神を降神させる事は危険そのものに晒す事と同義だ。
 それに何よりも、あの大蛇にとっての狙いを自ら定めてやる事にもなりかねない。
 然しこの侭ではマサオミを深刻な状況に追い遣るばかりになる。苦いヤクモの決断に、然し神操機の裡からは凛とした式神の矜持が返る。
 『信じてお任せを、ヤクモ様』
 『そうそ。ブリュネじゃなくったってこんなの相手に僕らは負けないよ』
 いつも通り──或いはいつも以上に、状況の悪さとは相容れない程に頼もしく応える式神達へと、ほんの少しだけ表情を緩めてから、ヤクモは零神操機を構えた。
 「──……頼む。式神降神!」
 開かれた界門より飛び出したブリュネが、早速苛烈さを増した石礫や先程の尖る先端を持った岩塊を弾き、ヤクモの展開した障壁を守る。
 それをのんびり見届ける心算は無い。ヤクモは零神操機を抱えた侭、マサオミの身体を仰向けに転がした。乱暴に手袋を脱ぎ捨てると符で手を浄化し、シャツを捲り上げて血の海と化している皮膚に触れ傷口を探る。
 腹部よりやや上。主要臓器を何処か掠めている事は明かな患部を更に探り、マサオミのこの傷を穿った原因たる、小さな石礫を見つけるとひといきに摘出した。
 「、」
 悲鳴もなくただの反射でマサオミの身が僅かに痙攣した。ヤクモは血塗れの石礫を投げ捨てると、改めて見た患部の出血の鮮やかな赤さにぞっとする。動脈血が出ていると云う事は云うまでもなく、動脈が傷ついている証拠だ。
 最早病院へ連れて行く事は決定的だが、その為には様々な前段階を踏まなければならない。この神域から出る事もそのひとつだ。なればそれまでの間を保たせる必要がある。
 余り保たない気はしたが、符を再び発動させ傷口に流れる時間を止めようとヤクモは試みた。流石に万全の発動では無い為、完全停止とまではいかなかった。が、緩やかにはなった様だ。同じ様に出血も酷く緩やかになる。
 (取り敢えず止血をしないと)
 ここで手術など出来ないし知識もない。符で応急処置をしたくとも、今の気力出力ではこれだけの傷は塞げない。何とか塞いだとしても腹圧程度であっさり開く程頼り無い措置にしかならないだろう。それでは意味はない。寧ろ更に深刻になりかねない。
 障壁の外にはブリュネが必死で守ってくれている気配。当然だが闘神士が真っ当に戦いの方へ向いていない為に、神域であると云う環境以上にブリュネは己の力を発揮出来ていない。
 猶予は無い。悩んでいる時間も無い。
 決断するとヤクモは自らの左腕を、薄く開かれたマサオミの口蓋へと押し込んだ。三度取り出した符を患部の上へと翳すと、上手く気力と出力とを調整し、一気に発動させる。
 「こんな所で死ぬな、マサオミっ!!」
 「っが?!!!」
 ごッ、と焔と云うよりは熱程度の効果が限定的に発現し、マサオミの身体が先程よりも大きく跳ねた。同時にヤクモの左腕に激痛が走るが、彼の今感じている痛苦に比べればマシだろうと思い、唇を噛んで堪える。
 「──、」
 冷や汗すら垂らして見上げて来るマサオミの、確実な意識回復を確認したヤクモはまず左腕をそっと口内から引き抜いてやった。意識の無い人間に思い切り噛まれた為に、腕には歯形とか云う可愛いものではない傷痕が刻まれている。舌を噛ませない為の咄嗟の措置だったのだが、左腕にしておいて良かったと思った。
 「ッ、もっと優しく起こし、てくれると、嬉しかった、んですがねっ…!」
 肉や脂の焦げる臭い、傷口に新たに生まれた激痛に顔を盛大に顰めつつ、然しお陰様でか意識を取り戻したマサオミが抗議を寄越して来る。
 「失血死するよりはマシだろう。火傷は帰ったらイヅナさんにでも頼んで消して貰うなりなんなり自由にすると良い。現状、宛にならない符で塞ぐよりも効果的な措置だと思うが…」
 雑菌で感染症を起こすのも御免なので、云いながらヤクモは新たな符で軽く、血塗れになっている左腕を浄化した。こちらは傷まで塞いでいる余裕は無い。立て続けの符の発動で気力が大きく減少しているのを感じる。
 「いやほら、お目覚めって云えば、口接けって、云うのが、お約束かなー。なんて」
 座り込んだ侭笑ってそんな事を云うマサオミの顔色は未だ悪い。傷が相当痛むのか、汗ばんだ額を拭おうともせずに切れ切れに呻いているが、取り敢えずヤクモは安堵にほど近い溜息をつく事が出来た。
 「下らない冗談を云う元気がある様で安心した。それよりも、歩けるか?ブリュネにもこれ以上無理をさせる訳には行かないんだ」
 零神操機と同時に集中を向ける事で、ブリュネの動きが幾分シャープになる。然し降神を行っているだけで凄まじい迄にヤクモの気力は浪費されていっているし、ブリュネの方も力を出し切れない所為か徐々に押されて行っている。
 マサオミも辛そうな──大凡健康とは云えない──表情ではあったが、そんな闘神士と式神との様子を見遣り、己にどの様な答えが今求められているかを察したのだろう。木を背にしながらずるずると立ち上がった。
 「……動けない、とは云わせちゃくれなさそうですね。何とか善処してみますがね、問題は何処に逃れるか、なんだが」
 患部を火で焼く事で無理矢理傷を塞いだのだが、当然これは応急処置である。何れにせよ事が終わったら病院へ担ぎ込む必要はあるだろう。これ以上の失血は少なからず表面上では起きていないが、内側はそうも行くまい。当然マサオミにも無理を云っている自覚はあったが、ヤクモは立ち上がった彼の意気を汲んで小さく頷いた。
 「俺がブリュネを引けば取り敢えず収まるとは思う、が、念の為にもう少し予測鬼門地点から離れておきたい。また今し方みたいな狙われ方をするのは御免だからな」
 小声でそう云うと、ヤクモはマサオミの肩を支える様にしてやりながら、じっと斜面を見据える。
 「アンタの事だ。何か考えがあるんだな?」
 「……………………合っていれば、片は付く筈だ」
 「オーケー。ならそれだけで、充分だ」
 土気色にも近い顔を決然と頷かせ、マサオミは無理に微笑んでみせてきた。「有り難う」と小さくそれに返すと、ヤクモは障壁を解除し、叫ぶ。
 「ブリュネ、戻れ!」
 同時にマサオミを支えた侭地面を蹴って、今まで登って来た斜面を一気に滑り降りる。最後まで追撃を槍で捌いていたブリュネが神操機へと無事に戻るのを確認してから、ヤクモはそれを守る様に胸の前に抱える。
 途端、追撃の手が緩くなるのを感じながら──先頃よりずっと考えていた思考へと、ヤクモはほぼ確実であろう一つの結論を置いた。





あらやだ軽い。段々整頓が面倒になってきたなんて云えないんですが兎も角外科なめんな。神道なめんな。こんなんばっか…。
話の思いつきと云うか書きたかった部分と云うかネタ振りのひとつが「ヤクモを庇ってマサオミ負傷」だったもので…。

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