私の罪は千二百年 / 8



 一体いつ頃、その『声』に応じたのか。今ではその意味さえもがそもそも曖昧だ。
 記憶の保持はとっくの昔に失われた機能だ。永き刻を一つの命題へと遵守する『神』の役割を負うものとして、事象は全てひとつの概念へと変容した。
 記憶と云うよりもそれは蓄積される記録。人の身の様に意識して思い起こす様な事も無ければ、それに感情を左右される事も一切無い。ただ必要な時に必要な形で取り出す事の出来る、情報の集積。
 だからこそ、その『記録』で『思い出』す。

 "どうかこの地と、ここに棲まう人々を守護してくれ"

 名の代わりに命を置かれた、それが契約だった。
 
 

 山歩きに適しているとは云えない。今日のこの数時間の間だけで何度同じ事を思っただろうか。だが今回のそれは少々今までよりも深刻だった。悪い足場を苦労して進むその度、傷が思い出した様に痛む。一応鎮痛の為に符を用いていると云うのに、矢張り神域に因る掻き消し効果がある所為か、僅かでも気を抜くと洒落にならない様な激痛に苛まれる羽目になっている。
 そんな現状にマサオミは、然し寧ろ楽観的な感さえ漂う苦笑すら浮かべていられた。
 (まぁそもそも俺が自分で言い出した事だしなぁ…)
 ヤクモの考えが仮令合っていなかったとしても、マサオミはよりリスクを伴うだろうこの役割を負う心算ではいた。が、他に打つ手もそう無いとは云え、全面的に賛成などは到底向けてくれそうになかったヤクモを説得し──と云うより云いくるめ──て此処に至っているのだから、弱音など吐き様もない。
 意地とでも何とでも云え。多分これは頑なにならざるを得ない程の、義務感でもあるのだから。
 「…………さて?もうそろそろだがね…」
 警戒の為に符を探りたくなるのを堪える為に空手を腰と傷口の付近とに当てて、マサオミは不敵に前方を見遣った。
 少し先には、この山中にあって不自然に拓かれた広場が見受けられる。
 
 

 その頃この辺りは断続的な天災や人の戦に因る被害で、環境と共に人心も荒廃していた。
 戦の進軍に巻き込まれ受ける略奪。便乗して起こる犯罪。天候の乱れで引き起こされる土砂災害。それに因る疫病の発生。飢饉。
 これでもかと云う程に、その時代に一斉に起こったそれらの悲劇を何とかすべく、その闘神士は密やかに立ち上がった。
 そして鬼門より連結された伏魔殿を介し、『彼』と契約を結ぶ事でこの地に『神』を勧請したのだ。
 『神』の棲まう域とされた鬼門の付近には、『神』を祀る為の社が置かれ、人々はそこへ信仰を寄せた。実際『彼』の与えた加護のお陰で、土砂災害を誘発する降り続いていた雨は止み、逆に略奪を狙う悪人達の通る道にのみ土砂崩れが起こったりと云った『奇蹟』が発現しつつあった。大地は潤い作物も再び育ち始め、飢餓の怖れからも人は解放された。
 人は社の『神』に感謝し、崇め、時に祭りを行い時に『神』の奇蹟の言い伝えを遺し、それに因って更に『彼』の元へ信心が集められた。
 それから幾年。人の子の単位で一体どの程度になるのやら知れないが、ずっと『彼』はこの地を、其処に棲まう人の子ら──正確にはその子孫達──を守り続けていた。
 契約を、守り続けていた。


 
 先頃近付いた時に襲撃を受けていた距離よりも既に迫っているが、マサオミが無造作に歩を進めるその後にも先にも、妨害の気配や殺気の類は感じられない。
 ただ昨晩、この土地に入り込む際に感じたものと同じ、窺う様な探る様な視線──或いは気配──だけはぴりぴりと、全方位から容赦なく注がれて来ているのを感じる。
 一旦立ち止まり、何の気無しに空を見上げてみる。相変わらず深い霧に包まれた森の木々は、歩き辛い山の地形同様に鬱蒼と枝葉を茂らせ天を覆っており、少々拓かれているとは云え周囲と光量がさほど変わる訳でもない。
 その、一種侵し難い薄暗さと張り詰めた様な空気を纏った広場は、ぐるりと周囲の木々に張った注連縄で囲われており、その丁度中央には磐座を表す様に積み石がされていた。
 傍目には鎮守の岩だとか神の宿る霊石塚とでも云われていそうな有り様だが──
 「此処が鬼門だって云うのは間違い無い、か。神社からその侭艮なのは親切の部類に入るのかねぇ……」
 さきほど、鬼門へ辿り着く事、のみを目的としたヤクモがブリュネに恃み土行の属性力より割り出した地点である。あの時は襲撃から逃れた直中であったし、鬼門がどう云う形状で在るのかすら判明していなかった。社があるのか、術で隠されているのか。それどころかそもそも艮に在るのかどうかすら曖昧だった故に調査を行うのはやむない判断だったのだが、それが原因で此度の重傷を負う事となったマサオミとしては少々複雑なものがある。
 「これだけ拓けてれば見遁す無様も冒さなかっただろうしな」
 呟きながら、まだ五、六メートル程の距離を保って鬼門を見据える。
 注連縄で囲われた裡には紙垂の飾られた積み石。大の大人で一抱え程のサイズのものが、三段。相当古いものなのか、岩は苔生しており、注連縄などにも経年の劣化が見て取れる。それでも一応神社の宮司が嘗ては定期的に替えていたのだろうか、神社の建立の予想年代から見れば比較的新しい。
 恐らく。そうやって此処に、この域に手を入れていた者らには、この光景は見えていなかったに相違ない。『見えて』いたとしたらそれは悲劇なのか、それともこうなる前に救われるべき光明となったのか。
 思考は仮定でしか終われないが目の前の光景は現実だ。そう思ってマサオミは眼を細めた。その網膜には不可視の光が焼き付けられ映し出されている。
 鬼門を示す八卦太極と印とが、恰も磐座の様なその真下に淡く光を放ちながら存在し、そこからは鬼門の開放の時と同じ光と印とが明滅していた。
 見慣れた、鬼門の開封の際と同じ現象。ただマサオミの知るそれと明確に異なるのは、其処より妖怪の類が一切溢れ出してはいない事と、もう一つ。
 (………来たな)
 気取られぬ様に喉を鳴らすとマサオミは、眼前の風景を揺らめかせ、境内で『会った』時と同じ様にそこに顕現していた大蛇の威容へと、挨拶の心算で片手を持ち上げてやった。
 それに呼応するかの様に蛇の金色の瞳が鋭く輝き、マサオミの周囲に先程襲いかかって来たあの尖った岩塊が大地を蠢動させながら幾本も生えて来る。
 本体が蛇である事から岩蛇とでも云うべきか。それらはただじっと空手の侭立ち尽くすマサオミへと一斉に襲いかかって来た。
 
 

 仮令時代が移ろい、人の信心が薄れても。
 土地が拓かれ、徐々に神の域が人の手で侵されようとも。
 それでも『彼』は契約に従い、その地を、人を、ずっと守り続けてきた。
 契約など或いは無くとも、そう望む事が出来たかも知れない。
 何故ならば『彼』らは人と云う存在を、生命と云う存在を、そもそも愛し慈しむ様に出来ているのだから。
 
 

 空気を切り裂く音を聴覚が捉えたのは、岩蛇の一撃が顔の直ぐ横を通り過ぎた後だった。遅れて、結わずに垂らしてあるマサオミの前髪がかなりの勢いで風圧に揺すられる。普通の人間であったら先ず間違い無く回避不能な速度の攻撃に、然しマサオミはヤクモの仮説の正しさを寧ろ確信した。出来なかったらそもそも疾うに死んでいただろうが。
 同時に、先頃の襲撃の攻撃は態と闘神士達に『避けさせる』為のものであったと云う部分にも得心し、だが表面上には出さずマサオミは寧ろ傲岸とさえ取れるだろう態度で、小山の様な高さより小さな人を見下ろしている大蛇を黙って見上げた。
 『……………』
 大蛇自身も或いは、マサオミのその表情の意味に気付いたのかも知れない。
 それでも、重傷の元にあって今先程の様に回避行動を真っ当に取れないだろうマサオミを相手にするのであれば、恰も『脅す』様な一撃を──『当てる事の出来ない』攻撃を繰り出す事しか出来ないのだ。
 ヤクモの仮説に従えば、大蛇は人間(マサオミ)へは危害を一切加える事が出来ない。故にマサオミが大蛇の必死で守るだろう鬼門へと自ら現れ、しかも脅しに全く応じない事は、鬼門こそが自らの存在の要となっている大蛇にとっては相当の危機感となっている筈だった。
 そう云う意味では鬼門へ向かう事は最大級の危険行為であり、同時に安全が保証されている事でもある。
 とは云え、目の前で今も猶平然と開封されている鬼門の存在は、裡から何も吐き出してはいないとは云え充分驚異だ。
 マサオミの知る開封時の鬼門と大きく異なるもう一つの要因。それは、この鬼門が内側へ向かって途方もない吸引力を見せている事である。
 (矢張りこの程度の距離が無難、かね)
 鬼門の前へと置いた五、六メートル程度の猶予。この距離だけが、行方不明になった闘神士達と、今実相世界に健在のマサオミとを隔てるものだ。
 無論物理的に周囲のあらゆるものを吸って行く訳ではないが、迂闊に近づけば鏡合わせの印の様にあっさりとその裡へと囚われて仕舞うだろう事ぐらいは想像がつく。それぐらいに途方もなく鬼門は開いており、容赦無く伏魔殿へ墜ちる孔となっている。
 「…………その伏魔殿(なか)にいるんだろ?行方不明になった七名とプラスその他」
 『………』
 大蛇の眼差しから視線を鬼門の方へと戻して問いかけたマサオミに、然し大蛇は相変わらずの無言で応えた。言葉を発したくないのか、事実を伝えたくないのか、それとも単純に無口なだけなのかは知れないが、問いは既に確信ではあった為、答えそのものは実のところ必要はなかった。
 或いはそれを理解して大蛇は無言を通したのか。──それこそが無言の是として。
 どちらでも同じ事だ。一瞬真剣に考えそうになったのは傷の痛みからの逃避だろうと苦々しく認め、痛みを振り切る様にマサオミは続けた。
 「考えれば至極当然の事だよな。このお山と云う神域ごと丸呑みにした御大の、その勧請された胴体(からだ)が通っているのは鬼門で、伏魔殿だ。実相世界(こっち)の何処にも姿の見当たらなくなり連絡も不能になった闘神士達が居なくなったとすれば、件の神域か、域の──御大の身からの唯一の出口でもある伏魔殿でしか有り得ない」
 皮肉にも大蛇がお山を呑み込みその裡を閉ざされた神域とした事で、唯一の『外』への接点が、大蛇そのものが『生えて』いる鬼門にしかなくなり、本来外部のものを強制的に吸引する様な物理的圧力を持たない筈の鬼門が、更に大蛇の腹の裡へと引き込む力を得て仕舞う事となった。行方不明になった闘神士らは、この凶悪な状態となった鬼門へと近付き、そして裡へと『吸われ』たのだ。
 彼らが不注意だった、とは到底云えまい。開かれた鬼門が周囲五メートル程度の範囲に入った所で人であろうが式神であろうが、引き込むなどと云う事は本来有り得ない現象だからだ。
 「或いは、御大が自ら闘神士達を追い掛けるなりさっき俺達にした様に断続的な攻撃を仕掛ける事で伏魔殿へと追い込んだんじゃないか、と云う考えもあるんだけどな」
 『………』
 相変わらず沈黙を貫く大蛇を前に、少し現実的な思考を掘り出して見る。ヤクモは『そう』とは断じていなかったが、マサオミとしては闘神士達が勝手に鬼門へ向かい吸い込まれたと云うよりも、大蛇のあの『態と躱せる』襲撃を受けて結果的に鬼門へ誘い込まれたのではないかと云う考えの方が寧ろ有り得ると思っていた。
 曩に行方を眩ませた一般人とは恐らく、この土地に古くから棲んではいない──つまり大蛇の加護のない──者であるか、或いは偶然にも常人より知覚能力に長けていた為に蛇の腹の裡たる『神域』へと迷い込んで仕舞ったのかも知れない。そこに大蛇──『神』から人間への明確な害意は存在しないだろうと云う点では、マサオミもヤクモに同意している。
 「まあ、仕方ないよな。正当防衛とは云えるかも知れない。迷い込んだ一般人なら兎も角、御大にとって闘神士ってのは最も恐ろしい敵になる可能性があるんだし、な」
 皮肉の乗った表情になっている事は自覚して、悠揚とした態度でマサオミは口元を歪めた。
 微笑んだ心算だったのだが、どうにも上手くいかない。これは皮肉でも笑い事でも数奇でもなく、ただの罪だと知るからだ。
 『……人の子よ』
 だから、と云う訳では無論無いだろうが、そこに来て漸く大蛇がその口を開いた。と云うよりは声を放った。実際口は一切動いていない。
 『我は契約を果たさなければならない存在だ。故にそれを妨害する可能性のある者らは少なからず『此処』よりは排さねばならない。
 汝の思う様な敵対意思や、己の存在を揺るがす者への恐怖から為る防衛本能とは少々違う。契約の履行の為に必要な行為であると我は認識する』
 「そうやって放っておいて欲しかったから、嘗て地流の闘神士が鬼門を調査に来た折にも、この鬼門の異常性を報告させまいと認識操作したり必死だった訳ね」
 地流組織の調査で訪れた闘神士に因れば、普通の鬼門であったとされているが、幾ら末端の闘神士とは云え、鬼門がこれだけ開放されっ放しで気付かない道理はない。
 当時は未だ大蛇も域を『呑み込んで』いなかった為に、今の様な吸引力を持った鬼門では無かったのだろうが、闘神士を伏魔殿へと『喰ら』う事が適ったとして、その後闘神士が戻らぬ異常が伝われば結果的に己の不利益になると悟ったのだろう。結果的に大蛇はその闘神士の認識を違わせ、此処は単なる普通の鬼門である、とさせたのだ。
 これもまたある意味でヤクモの予想通りだった訳だ。勘が良いのか頭の回転が速いのか。重傷を負う寸前まで大蛇の正体についての推論すら立てるに至らなかった我が事を思えば、マサオミ的には少々複雑である。
 『………』
 ともあれ、マサオミの指摘に大蛇は再び黙り込んで仕舞った。沈黙が肯定のつもりなのかもな、と下らない事にばかり推論が生まれるが、それもまた矢張りどうでも良い事だ。痛みと、溜息を隠して続ける。
 「兎に角。御大にとって闘神士と云うのは『契約の履行』とやらに於いて最悪の相手だった訳だ。退治されるかも知れない、看破されるかも知れない、自分にばかり危機はあるその癖に、自分から相手を害する事は許されない。それこそ契約の不履行に直接繋がっちまうからな」
 『──……汝ら闘神士なれば、我らにとって契約と云うものがどれ程に重要かとは、知っておろう。履行の為に我らを戦わせ何れかを排除する事も珍しくあるまい?』
 滔々とした大蛇の云い種は、正しく己の所行を解しており、それを当然の事と判断しているのだと云う事実を改めてマサオミへと突きつけて来た。今更ではあるのだが、その有り様に少しだけ悲しくなる。いい加減俺もヤクモに感化されてるのかもな、と適当にそんな事を思いながら肩を竦める。
 「……まあ、その点に関しては耳に痛いんでね。敢えて追求はしませんが……──
 だが、闘神士どころか今後一般人も巻き込む可能性そのものを看過する訳にも生憎行かないんだよな。そもそもが人間の罪だったとしても」
 ウツホの消失で変容した伏魔殿の理。それに因って狂わされたこの『神』も、己ですら自覚など出来ていないだろうが、被害者なのだ。
 本来大蛇の在った空間域からではなく、均衡を崩した伏魔殿のフィールドから与えられた様々な力に因って、大蛇の力はどんどん肥大し自らと親和性の高い大地を侵していった。そして気付けば神域を『丸呑み』にせざるを得なくなっていた。
 今までは『神域』とは云え、普通の神社に在る程度の規模だった筈だ。それを『呑み込んで』仕舞った以上、生まれながらにこの『神』の加護を得ている土地の人間以外の者は例外無く、域に立ち入る事で大蛇の腹へと呑まれて仕舞う。此処に来た時のマサオミとヤクモの様に。
 幸い此処に立ち入る者が少なくなっていた現代だったからこそ、今までその被害は殆ど無かったが、これからもそうだと云う保証は無いのだし、大蛇自体が未だ肥大を続けて仕舞う可能性も否定出来ない。
 「御大はこれだけの永い実時間を契約の履行の為だけにやってくれた。その事に対する敬意は確かに抱く。だが御大を勧請した闘神士はもう既に存在していないし、時代も変わった。もう土地の者でさえ『神』である御大を昔ほど信奉してはくれていない」
 それに何より。開発の手が入り土地の者ではない人間が増えれば、いつかは再び大蛇の腹へと知らず迷い込んで仕舞う人間も出るだろう。
 それらの人間が、鬼門へ抜けず大蛇の腹の裡にて脱出出来ずにいつか死したら、それは。
 「……何より、いつか御大自身が意図せず人間を殺める事で名落宮に堕ちかねないと。俺の連れが特にその点を心配しているんでね」
 真実の仮定をマサオミへと告げた時の、非道く歪んだヤクモの表情を思い出す。普段は誰の前でも恐らくは出ない、泣きそうな、無為に耐える事を苦く選ぶ様な。
 そんな表情で、彼は云ったのだ。
 ──あれは神や妖怪などではなく、式神だ、と。





式神なめんなー闘神士なめんなー陰陽大戦記なめんなー。
ヤクモの目の届かない所では悪オミ気味に皮肉も嫌味もだだ漏れな本性がぽろっと出ると良いなとか妄想してたんだけどね…。

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