零と壱 / 1 一時間ばかり前に意を決して潜った自動扉を、悄然と肩を落として通り抜ける。 硝子の扉がぱたりと隙間を埋めて仕舞えば、じゃらじゃらと耳に喧しかった騒音の一切が遮断されて、代わりに飛び込んで来るのは雑踏のざわめき。 「あー……何コレ、おかしくね……?こんな筈じゃなくね…?」 肩にのし掛かる重たい喪失感と、現実的な意味での懐の寒さと軽さとに溜息をこぼして、銀時はかぶりを振った。 言うまでもない、玉転がしにちょっとばかり失敗したのである。 それ自体は概ねよくある事だ。余りあってはいけない事なのだろうとは思うが。 今朝は結野アナのブラック星座占いで 《以上が二位から十一位までの運勢です。さて、今日一番運が悪いのは、ごめんなさい、おうし座のアナタです。不運を和らげる気休めアイテムは、銀色っぽい物です。 そして今日一番幸運なのは、今そこで卵かけご飯を食べている、天秤座のアナタでーす!今日は思いも掛けぬ幸運に恵まれるでしょう。この幸運を更にアップさせるラッキーアイテムは銀色の物です》 ……などと、お天道様の様に眩しい笑顔で言われ、これはもうアレしかあるまいと勢い込んで飛び込んだのである。 何処にかって?銀色の玉を転がす遊びに興じれるアレ以外には有り得まい。 月初めだと言うのに少々懐具合に危機感もあった為、最初は様子見でちまちまと挑んだのだが、負けは込まないがどうにも調子が良くない。幸運は占いと結野アナの笑顔とで保証されているのだから、ここはみみっちい真似は良くないのかと思い、一気に注ぎ込んだ、のだが。 隣で同じ様に玉転がしに興じていたサングラスもといまるで駄目なオッさんが「銀さん、そんなに落ち込まなくても…」と恐る恐る声を掛けて来るまで、銀時は空っぽになった箱を信じられないものを見る様な目で凝視していた。 おかしい。今日は幸運に恵まれた日では無かったのか。 ちまちまと転がす程度で止めておくべきだったのか。確かめたくとも、もう既に元手が無いから確かめようもない。 財布なぞ覗くまでもない。この軽すぎる手応え。手元に残っているのは僅かな小銭だけだ。 「ひょっとしてアレか、卵かけご飯じゃなくて卵かけられご飯だったのがいけなかったのか?」 ぶつぶつと呻きながら銀時は数歩歩いて、いや待てよと急停止した。時刻はそろそろ昼時だが、今万事屋(家)に戻れば神楽と新八に、生活費まで銀の玉に変えた挙げ句スッて来たと知られて仕舞う。何しろ家を出る時得意気に、今日は大勝ちだなどと浮かれていたのだから、二人は当然の様に結果がどうなったのかを問い詰めて来る筈である。 「………」 いや、一旦を逃れた所で根本的に何がどう解決する訳でもないのだが、お腹を空かせた神楽に人間杭打ち機と言う大技を掛けられるのは極力避けたい。いや全力で避けたい。 この間行った古書整理の仕事の際に、漫画の筋肉マンを夢中で読破していた神楽の姿が脳裏に過ぎって、銀時は背筋を震わせた。 (いや待てよ、幸運デーは偶ッ々、パチ屋では発動しなかっただけで、まだ一日が終わった訳じゃねぇだろ…?銀色のラッキーアイテムも、玉じゃなくて他の何かかもしんねーし!) そうだ、そうに違いないと、半ば逃避に似た発想を転がしながら、銀時は踵を返した。家に戻る前にもっと色々試してみる価値はある。何しろ結野アナの占いなのだから。 (銀色のラッキーアイテム、ねぇ…?) そう言って真っ先に浮かんだ玉っころは失敗に終わった。…と、なると次は何だろうか? 刃物。硬貨。工具。 手錠…は御免願いたい。と言うか最早その状況はラッキーでも何でもない。 (手錠、ねぇ。ちょっとしたSMプレイに興じるとイイコトあるとか?いやイイコトはするけどねその場合。……ツーか違ェだろ、風俗行く金も無ぇんだってばそもそも) つい浮かんだ不埒な考えを頭を左右に振って振り払う。別に盛っている訳でも無ければ、適度に処理してるので溜めている訳でもないのだし、それ以前に昼間っから金の捻出を考える人間の大凡耽る思考ではない。 (まあ、取り敢えず適当にブラついてみっか…。昼飯はオバちゃんとこでツケて貰お) 楽観的な思考回路は、取り敢えず『幸運』などと言う事象に対して曖昧な結論をそう寄越して来た。そもそも運などややこしく計画立てて待つものではないのだから。 そんな訳で、銀時は半ば能動的な思考を放棄しながらふらりと歩き出した。 * アテにしていた食堂は本日臨時休業だった。 腹も減っているし困っていたら桂に遭遇したので、これ幸いと飯を奢らせようとしたら、長々と攘夷志士が云々エリザベスが云々と話に付き合わされた挙げ句、その桂を狙った真選組の某ドS王子のバズーカの直撃を食らった。 通りすがりの車を避けたら、側溝の板が突然割れて溝に片足を突っ込まされた。 足を乾かすついでに団子屋でツケて貰おうとしたら、忘れていたツケまで思い出されて逆に請求された。勿論逃げた。 更にはその時木刀を店先に忘れて来て仕舞った。逃げたので取りに戻る事も出来ない。まあ質に入れられた所で大した金額にはならないだろうから、その侭預かってくれているとは思うが。 挙げ句の果てには、歩いていたらアイスを持った子供に正面衝突され、アイスで服の膝辺りが汚れた挙げ句、人混みの中で泣き出されて仕舞った為、なけなしの小銭で新しいアイスを買ってやる羽目になった。 「……おかしい。コレ絶対ェおかしいよ。幸運どころか不運のオンパレードじゃん?アレ?寧ろ逆に滅多に起きそうもない事ばっか起きてるから寧ろ幸運なの?え、なにそう言う話なの?ソッチ系のどんでん返しオチ??」 呪詛の様に呻きながら、銀時は、もう動かない方が良さそうだと諦めて公園のベンチで寝そべっていた。 なお、寝ていた所にも容赦ない不運だか幸運だかは勤勉に襲って来るらしく、親子のキャッチボールの軟球が不意打ち気味に飛んで来た。横になっていた銀時の腹に向かって吸い込まれたデッドボールは空腹の腹にかなり効いたが、息子さん甲子園に行けそうな剛速球だねと、怒る気も最早失せて虚ろに返しておいた。誉められた子供は何故か大喜びしていたが。 幸運、などと言う不確かなものに全ての責任を丸投げする心算はないが、期待の様なものがあったのは確かである。 (あーあ…) いいことがある、などと期待してかかるから、些細な不運がより大きく感じる、と言う事もあるやも知れない。まあ、連続して起きたこれらの出来事が『些細な』ものであるかと言われると首を捻りたい所ではあったが。 寝そべったベンチからはみ出した足を組んで、空を見上げる。こうすれば溜息もつく気が起きなくなる。天に向かって吐いた唾がなんとやら、だ。 そうして見遣った空は暮色にすっかり染められていた。人々が家路を急ぐこの時間、公園には子供らのキンキンとよく響く声もしない。時間通りに点灯を始める街灯には季節が季節だから、蛾の一匹も集まって来はしない。 日没を迎えて俄然寒さの増した気のする風に軽く肩を震わせて、銀時はよっこらせと身を起こした。けーるか。誰にともなく呟いて歩き出す。流石にこれだけ時間が経っていれば、神楽も新八もなんとなく察してくれるだろう。無論それで彼らの叱責を回避出来るとは思っていないが、まあなんとかなるだろう。 今日が幸運だか不運だかの日だとして、明日は明日の風が吹く。なるが侭にあるが侭に。 寒さに洟を軽くすすりながら公園を後にした銀時は、かぶき町方面に向かってのんびりと歩き出した。この時間、町は飲み屋の暖簾をくぐったり家路についたり食事をしたりと言った人々の動きやざわめきで一際賑わう。その隙間をするすると摺り抜けて進んで行く。 こう言う賑やかで無関心で無関係な空気を銀時は嫌いではない。己に纏わるものではないから、声のひとつひとつは只の雑音となって耳に飛び込まず消え行くばかりで、決して邪魔にはならない。 煩くて喧しいが、それだけだ。感慨は特にない。ただ、平和で逞しくて勁いと思う。 そんな中、ふと、鼻孔を擽った甘く香ばしい匂いに銀時は思わず足を止めた。それは立ち食い用や土産用に販売している鯛焼き売りの出店だった。小さなショーケースの中に置いてあるタッパには、小倉餡の鯛焼きが二枚だけ残っている。 空腹も手伝って、なんとなく観察して仕舞う銀時の注視に気付いた年嵩のオッさん店員が、にっと豪快そうな笑顔を浮かべた。客発見。そんな表情だ。そんなに物欲しげに見えたのだろうか。確かに腹は非常に減ってはいるが、と銀時は口の端を下げる。 「どうだい兄ちゃん、コレ売り切ったらもう店閉められるんだよ。おっちゃんも寒いしさ、どう?買って行かねぇかい?売れ残りと言うなィ、美味ぇよ!」 人当たりの良さそうなオッさんの笑顔と正直さに、銀時はふらりとそちらに足を向けた。値札には一尾90円と書いてある。先程子供にアイスを買ってやった時に見た財布の残金は50円玉が1枚と10円玉が6枚、1円玉が3枚、計113円だった。三十近い男として些か情けないが、それが正真正銘手持ちのなけなしの残額である。 一枚は買える。一つでも、朝食以来真っ当にものを食べていない身からすれば非常に魅力的なごちそうで糖分だ。 家に戻れば、今日の夕食当番の新八が何か冷蔵庫の残り物を総動員して、何かしら食事を用意してくれているだろう。冷蔵庫に潜む残骸と、それで作り得るメニューは卵焼き程度だろうか。少なくとも神楽の様に、残った貴重な卵を白米に掛けて寄越す様な真似はすまい。 そもそも米残ってたっけ?そんな事を考えれば考えるだけ、目の前の鯛焼き一つが実に美味しそうに見えて来る。が。 (……俺が一人で腹膨らますより、神楽と新八の土産にすりゃァ怒りも鎮められて良いんじゃね?) 申し訳程度だが、正に申し訳の無い心地が少しでもあるのだし。 そうしよう、と思った銀時はひとつ頷くと、目の前のオッさん店員に向き合った。 「んー、残り二枚とも買ってってやるから、一つ半額にまかんねぇか?」 「ええ?半額ぅ?兄ちゃん覇気の無ェ顔して結構大胆に来るねぇ」 「売れねーと終わらねーんだろ?寒空の下、鯛焼き二枚の為に一体あと何時間ここで突っ立ってりゃ良いと思うよ?」 にやにやと銀時が持ちかけるのに、オッさんは「うーん」と唸ってはいるが、その表情は笑っている。負けてやっても良いが、何となく癪に障るのと、出来るだけ利が欲しいのもあって、妥協が出易い様にしている素振りだ。 「せめて一枚60円はしねぇと、カミさんに叱られちまわぁ」 「いやいや大丈夫だから。きっとカミさんも解ってくれるよ。50円」 「兄ちゃんウチのカミさん知らねぇだろうが。55」 「53…仕方ねぇ、やっぱ50でいいわ」 「何ちゃっかり値段戻してんだよ。うん、いいよ解ったよ。大盤振る舞いだ、一枚50円で二枚100円な!ハイ決定!」 みみっちい話が面倒になったのか、はたまた偶々吹き抜けた北風が冷たかったからか、オッさん店員はぱんぱんと手を叩くと折れた。銀時の気が変わる前にと、そそくさとタッパから持ち帰り用の紙包みへと鯛焼き二枚を移して仕舞う。 「話解るねー大将。カミさん大事にな。まぁいいやなんでも。えーっと100円…」 ここに来て漸くささやかな幸運到来か。いや己で勝ち取ったのだ、と、銀時が財布を懐から取り出した丁度その時。 「おっと、ごめんよ!」 「あ」 運送屋らしき、急いで駈けて来た男が銀時の肩にぶつかって走り去る。押された勢いで、開きかけていた財布から小銭が何枚か飛び出して、それが地面で跳ねる。甲高い音。 咄嗟に、目についた10円硬貨数枚をまとめて足で踏んで、ひときわ輝きながら跳ねて行く銀色の50円硬貨を必死になって目で追い掛ける。 繁華街の、割と整備されていた道だったのが仇になった。固い、舗装されたアスファルトの上で50円硬貨は一度バウンドし、着地時には奇跡の様な横倒しのバランスを保ちながら道を転がり── 「ええェェェェェ?!!」 追い掛けかかった銀時の願い空しくも、隣の店の軒先にあった煙草の自販機の下へと消えて行った。 ジーザス。 何の叫びだっけコレ、とか脳内検索するより先に絶叫していた銀時は、ばっと冷たい地面に四つん這いになって自販機の下を覗き込んだ。地面との隙間は僅か五糎程度。指を突っ込む事は出来ても手は入らない。 そして50円硬貨は四方の何処からも届き辛い真ん中辺りに鎮座しており、しかも何故か銀時を嘲笑うかの様に立った侭でいる。何か長い物でも、と思っても、生憎付近には枝っきれ一本落ちていないし、木刀は団子屋に忘れて来て仕舞っている。 こちらを向いている丸い穴の向こうに、本日の不運を招き寄せた悪魔の様なものが笑っている幻を見て仕舞い、銀時は思い切り自販機に額を打ち付けた。 夢なら醒めてくれ。いっそ朝から。結野アナの占いは幸運ではなく不運だと言っていたんだ。そうに違いない。 「……オイ、もうソレは諦めてこっち支払ってくんねぇかな?500円玉とか、ギザ10とか貴重な硬貨って訳でもねぇんだろ別に?」 額からだらりと血を流しながらその場でがくりと頭を垂らす銀時に、鯛焼き屋のオッさんがうんざりした様子で声を掛けてくる。 散らばった硬貨は所持金113円から50円硬貨をマイナスした分しか当然、無い。63円では値引きした一枚だけなら買えるが、そもそも値引き後の一つ50円とは二枚共買う事を前提にした金額なのだ。 「………」 どうしようも無い顔をした銀時の様子から、懐事情でも察したのか。オっさん店員は微妙な表情を作ったものの、無償の人情なぞを与えてくれそうな気配は見受けられない。値切り交渉に応じた辺りから商売人気質は察していたが。 なんか、すんません。と仕草で訴える銀時に、オっさん店員はビニール袋に入れかけていた紙包みを取り出した。その侭店先に置いて次の客を待つ心算なのだろう。自販機の前に力無く座り込んだ銀時は、不運をどうとか思う以上の、どうしようもなく抗えない無惨な心地を憶えて項垂れる。 と、その時。喜劇の様な不運劇になぞ拘わらず通り過ぎる雑踏から、涼やかな声が割って入って来た。 「オイ親父。それ二枚で100円ってたな?貰おうか」 まだ、なんとか50円硬貨さえ取り戻せれば良かったのに。売れて仕舞ったとなればそれすらも叶わない。 神楽や新八への申し訳程度の気持ちさえ、この怒濤の様な不運フルコースの前には無力なのか、と。売れ行き閉じる店先に重たい視線を投じた銀時の前に、黒い影が立ちはだかった。 「………うっわぁ」 闇に潜む様な、濡れ羽色の黒髪に白襟の黒い着流し。嫌味なぐらいに整った顔に標準搭載されている、物騒に吊り上がった眼差しを前に、銀時は思わずそう呻いていた。 「うっわぁ、たァ随分ご挨拶だな、不審者。這い蹲って何やってんだ」 濃い藍色の羽織に同系色のマフラーを緩く巻き付けているくせ、その足下は裸足に草履と言う無造作な格好。言われた通り這い蹲っている様な姿勢なのでよく見える。 銀時は取り敢えず自販機に寄り掛かって地面に座り直して、呆れ顔で煙草を燻らせている土方の姿を見上げた。 「本日の不運の総締め、みてェな?最後の最後でコレと来たもんだよ、堪ったもんじゃねーわ」 半ば投げ遣りになってそう言う銀時に向けて、「アァ?」と土方は眉を吊り上げた。何を言われているかは解らずとも、不本意な悪い物言いをされている事ぐらいは察したらしい。喧嘩モードになりつつある。 そう。銀時はこの男、土方十四郎といつも何かと折り合いが良くなかった。食堂で出会えば互いの食事に難癖を付け合い、道で遭遇すれば挨拶代わりの暴言を投げ合い、飲み屋でかち合って仕舞った時には酔っ払いの喧嘩にまで発展したりする事も少なくない。 頑固で負けず嫌いの似た者同士だと周りの人間にはよく言われるのだが、銀時自身は土方に己が似ているとはこれっぽっちも思っていない。寧ろ決して真似したくはない様な面倒なタイプだと思っているし、それは日頃銀時の事を無職だのニートだのと馬鹿にする土方の方とて同様だろう。 敢えて似ていると表するならば、思考の段階はまるで似ていないが、結論が同じ箇所に着地する事が多い、と言った所でだろうか。 互いに憎んだり嫌いだと言い切る程には親しくはない、腐れ縁。ただ遭遇の度にどうでも良い事を発端に何かしら喧嘩や諍いになって、結果的に不快な心地になる事が多い。仲が悪いから、と言う原因で争っている訳ではないのだから、結局の所やはり、折り合いが宜しくないと言う事だ。 そんな相手にこんな所でこんな様で出会うなど、これでもういい加減最後にして貰いたい不運の極みだとしか言い様がない。 いっそつかみ合いの喧嘩にでもなった方がスッキリするだろうか。否、どうせまた碌でもない事が起きるに違いないのだ。例えば、土方の拳を避けたら足を滑らせて川に転落するとか。きっとそう言ったオチがあるに決まっている。思えば何だか色々と面倒になり、銀時は不機嫌顔を作った土方から視線を逸らして肩を竦めてみせた。 「……」 そんな銀時の態度から、喧嘩も言い合いも発展させる気はないと察したのか。寸時鼻白んだ様な表情を作った土方だったが、やがて袂から財布を取り出した。 座り込んでいる銀時をあからさまに避ける様な足取りで、土方は自販機の前に立つ。そう言えば煙草だったかコレ、と益々忌々しく自販機を見上げる。 「俺ァ煙草が買いてぇんだよ。オラ、退け。ンな所に座ってたら邪魔だろーが」 反射的に、何だその言い方は、と苛立ちかけたが、それ以上の感情が上手く持続させられそうもなく、銀時は渋々着流しを叩いて立ち上がった。無言で一歩横に退ける。 タスポカードをセンサー部に当ててから、土方は紙幣を自販機に吸い込ませた。慣れた動作で目当ての銘柄のボタンを押して、転がり出て来た箱を袂に仕舞ってから、落ちて来た釣り銭をじゃらりと掴み上げる。 と、その手から小銭が一枚転がり落ちた。銀色の軌跡を描いて二人の足下辺りに跳ねた硬貨は、その侭ころころと、先頃見た光景の様に自販機の下へと消えて行く。 チ、と土方はあからさまに舌を打つと、その場に膝をついた。同じ様な光景にぱちくりと目を瞠る銀時の前で、溜息混じりに帯から木刀を抜く。 「ってオイィィ?!ソレ俺の木刀じゃねーか!!」 「あ?そうだな。良く似てるな。遺失物として団子屋の親父に預けられたんだが、自販機の下に突っ込むには長さも丁度良さそうだなと」 「似てるな。じゃねーだろォォ?!誓っても良いわ、江戸広しって言っても、洞爺湖なんて銘刻んだ木刀を団子屋に今日忘れたのなんて俺しかいねーよバカヤロー!!」 見覚えも何もどこからどう見ても、拾得者を見ても、それは銀時の木刀でしかない。 これさえあれば50円玉も拾えただろうに、と先頃思ったばかりだ。思って銀時が泡を飛ばして言うのに、しれっと答えた土方は「まあ確かにそうだな」と軽く頷くと、木刀の柄をくるりと銀時の方へ向けて寄越した。 「こんな珍妙な木刀なんざ一銭の価値にもなりゃしねぇからと団子屋の親父も権利放棄してたし、手続きも面倒だしな」 「お、おう」 返してくれると言う事だろう。厭にあっさりと退いた土方から、銀時は木刀を受け取った。柄の文字も手の馴染みも、紛れもなく己のものだと言う感覚に、我知らずそっと息を吐く。 そんな銀時の様子を見てから、土方は自販機の下を指さした。 「つー訳で、とっととソレ使って拾え。ついでに俺の落とした100円も一緒に出て来るかも知れねぇし」 おう、と再び頷いてその場にしゃがみ込んだ銀時だったが。 「……………てめー、自分で這い蹲るのが御免だからって」 だから素直に木刀を返却したのか、と引きつった顔で見上げれば、土方は溜息にも似た息遣いで煙草から煙を吐き出した。「さてな?」言ってくつくつと笑う顔に、確かに『得たり』と言う色が乗っているのを見て取って仕舞った銀時は、畜生、と悪態をつきつつも、手をついて自販機の下を再び覗き込んでみる。 立っていた50円玉は土方の落とした100円硬貨に衝突されたらしく、二枚とも折り重なる様に転がっていた。横倒しになって仕舞った為に少々引き寄せ辛そうだ。そう思いながらも木刀を地面と自販機との隙間に差し入れて、引っ掻き寄せる様に動かす。 大の男二人が、煙草の自販機を前に座り込んだり這い蹲ったりしている様子へと、雑踏からヒソヒソと笑う様な気配が漂って来る。足を止めて見る程ではないが、通り過ぎ様に交わし合う、何事だろうと言う声や、小銭を拾おうとしている姿に対する嘲りの声だ。 片方は木刀を自販機の下に突っ込む浪人風の男。もう片方は佩刀した幕臣かはたまた法を無視する攘夷志士かと言った風情である。さぞや奇異な有り様に見えるのだろうと思いつつも、土方がそこから立ち上がる気配はない。銀時が侭ならない手つきや視界の中、薄べったい硬貨たちと格闘するのを、傍でじっと待っている。 (コイツにとっちゃ、100円なんてンな必死で拾う様なもんじゃねぇ、小銭だろ?俺みてーに食い詰めてる訳でもねぇんだし……、) そもそも、と思う。タイミング良く取り出した木刀や、それを素直に返した態度から見ても、恐らく土方は態と硬貨を転がしたのだ。煙草だって今吹かしているし、直ぐに必要と言う訳でも無さそうだと言うのに。 (まるで、俺が小銭を拾い易くするみてぇに?付き合って自分も膝つける様に??……ンな馬鹿な訳ねーだろ。そんなの、コイツに何のメリットがある訳でもねーし…) 木刀は団子屋の親父から、巡回中にでも任されたとして。今の土方は私服だから仕事は明けている筈だ。一度屯所に戻ったのであれば木刀はそれこそ遺失物係にでも置いて来て良いだろうに。 万事屋に届けに来てくれようとしていたのだろうか。まさかとは思うが。或いは、飲み屋で遭遇するだろう目算でも描いていたのだろうか。それもまたまさかとは思うが。 考える内、ちゃりん、と音を立てて50円と100円の硬貨が仲良く自販機の下から転がり出て来た。ふー、と疲労感に盛大な溜息をつきながら、銀時は役目を見事果たしてくれた木刀を腰の定位置へと戻した。やはりこれがあるのとないのとでは断然落ち着きが違う。 すると、「ご苦労さん」とお座なりな言葉と共に伸びて来た土方の指が、二枚の硬貨を摘み上げた。思わず目で追うと、土方はそれを己の財布の中へと無造作に放り込む。 「って待て待て待て待てェェェェ!!!何ちゃっかりネコババしてんだ警察だろテメー!!」 「声がデケェ。50円は代金。100円はそもそも俺のだ」 「は?」 財布をぱちりと閉めると、土方はしゃがみ込んでいた自らの傍らから、ビニール袋を取り上げた。銀時の目前にずいと突き出してくる。 ほんのりと香ばしさに混じる餡の匂い。中身は紙包みにされた二枚の鯛焼きだ。言うまでもなく、先頃銀時がそこの鯛焼き屋で買おうとしていたものである。 先頃聞こえた、コレを買っていった声は、そう言えばこの男の声だった、様な気はしていたのだが。 「残り50円だったか?」 さらりと言うと、まだぽかんとしている銀時の手に袋を押しつけ、土方は膝の汚れを払って立ち上がり、もう店じまいをし終えた鯛焼き屋の軒先に散らばっていた硬貨を拾い上げた。踵を返して戻って来ると、10円玉を五枚抜き取って、残りを突き出して──銀時に動く気配が無いと見るや、面倒そうにビニール袋の中に押し込んで仕舞う。 (え。何コレ。ナニ??) 土方の行動も訳が解らないが、それをどう受け取って良いのかも解らない。 困惑顔の銀時を置き去りに、土方は溜息の様な一息を挟むと、「それじゃあな」といつものすれ違いの時の様にするりと踵を返そうとした。 「ま……ちょ、待てって!」 その腕を思わず掴めば、土方は途端、先頃までの訳の解らない行動に潜んでいた表情ではなく、銀時もよく見慣れた不機嫌そうな顔になった。何だよ、と言いたげに、掴まれた腕と、その先にある銀時の顔とを睨み見て来る。 「…〜ッと……、あの、ホラ、アレだ、」 お礼に奢る、とか言いかかったがなんとか留まる。お礼と言っても何にかかる『礼』なのかが解らないし、そもそも奢る様な金銭も持ち合わせていない。 アレ、じゃあなんで俺コイツを引き留めたんだ?とは思うのだが、何だか良く解らない。発作的、と言うか。衝動的、と言うか。反射的、と言うか。勿体ない、と言うか。 脳をぐるりと回転させた銀時は、業を煮やした土方が遂に腕を振り解くその寸前に、思いついた糸口を無理矢理に引っ張り出した。 「実は今日な、お宅のドS王子に巻き添えバズーカとか食らわせられちまったんだけど…、」 そう紡いだ瞬間、土方の瞳孔全開の瞳に剣呑な色が宿るのが見えた。気圧されはしないがぞっとしない空気に、肩を竦めて誤魔化す。 「いいのかな〜?善良な一般市民を巻き添えにしちゃってェ」 にやりと人が悪く口の端を持ち上げて殊更にゆっくりとした調子でそう小声で続けると、土方は暫くの間銀時の事を忌々しげに睨んでいたが、やがて、短くなった煙草を自販機の横の街頭灰皿で揉み消した。溜息未満の、呆れた風な吐息をひとつ。 「………で?何をたかる気だ」 先頃鯛焼きの件で恩を着せる様な真似をしたくせ、その事には僅かも触れぬ侭、土方は珍しい白旗を揚げて寄越した。 「…まぁ……ちょっと一杯奢って貰おうかナー、なんて」 お礼代わりに、とは死んでも言えそうもない、恩を着せられながらも悪びれず集る様な真似をした銀時に対して、然し土方は特に何の指摘も悪態も寄越さなかった。短く「解った」とだけ答えて、「店は俺の行きたい所に行くぞ」とさっさと歩き出して仕舞う。 先頃の一件と言い、これはまた、珍しい事もあったものである。 珍しい事、と言えば、土方の行動や言動もだが、銀時の方も大概ではある。 この奇妙な空気の様なものを、何となく最後まで追い掛けてみたくなったのだ。深い意味も考えも無い。そう思って銀時は土方の後に続いた。 そこでふと、前を行く土方の、腰から下がる刀を見て。 (……そう言や、刀も『銀色のもの』だな……) 不運の連続の中に投じられたラッキーアイテムなぞ、どんな御利益があるかなぞ知れないが。 何となく、掴んでも良かった理由をそこに見出した気がして、銀時は少し歩調を早めた。 。 → /2 |