アリアドネの紅い糸 / 1 古びた家屋の玄関戸には呼び鈴らしいものの一切が見当たらなかった。 拳を作って銀時は暫し考える。この斜めに傾いた木材の様に見えなくもない門戸は、果たして己のノックの力に耐えてくれるだろうか。 「………」 無理では無いだろうが、無駄ではありそうだった。この玄関戸に様に見える木材を遠慮がちに叩いてみた所で、この戸の向こうから誰かが物音を聞きつけて出て来てくれそうな気がしない。何しろそもそもにして、家の中から人の気配や物音と言ったものの一切が感じられないのだ。 溜息と共に両肩を落とすと、銀時は無駄と解っていながらも手元の地図を今一度見下ろした。何分田舎だから、と依頼人がネットで調べてプリントアウトしてくれた地図なのだが、この辺り一帯の地形は概ね畑か田んぼの二色で、この掘っ立て小屋じみた建造物は地図に記されてすらいなかった。 住所ではここになるんだけど、と言う注釈と共に赤いマーカーでぽちりと打たれた点。紙に少し滲んだその指す大体の地点にあったのが、目の前に佇む小屋だったのだ。 旧い家屋のあった跡地か何かに建てたのだろう、足下を見れば一応建物の基礎らしきものはあるのだが、肝心の建物は真っ直ぐ頑丈に建っているとは言い難い。嵐でも来た日にはあっと言う間に倒壊して仕舞いそうな風情ですらある。 小さな、木材やトタンと言った安い建材を用いて作ったらしい小屋が一つと、少し離れた場所には同じ様な小屋が、但しこちらは目の前のそれより少しばかり大きく、地面を直接床にして並び立っている。物置に使っているのか、それとも家畜でも飼っているのか。 土地の、庭とでも言うべき周囲の空間には、山から切り出して来たのか、まだ加工すらしていない切り立てで枝だけを落とした樹木がごろんと幾つかまとまって転がっており、傾ぎそうな四本の柱で支えた小さな屋根がその上に覆いの様に建てられていた。 (大工…、にしちゃ家が適当過ぎるよなぁ) 余り役に立たない地図を折りたたみながら辺りを見回した銀時は、取り敢えずこの小屋の家主についてを想像する事をやめた。時間潰しにしても余りに実が無い。 さて、と振り返ると、少し離れた道に停めてある原付を見やって頭を軽く掻く。どうしたものか。億劫な思考を寄せ集めてはみるが、概ねそれは「諦める」「粘る」の二種類の解答にしか行き着きそうもない。 見上げた空は、未だ日の高い時刻を示して、青く澄んだ色を一面に拡げている。そっと深呼吸をすれば、江戸では昨今感じる事のとんと無くなった、田舎ののどかな空気が肺に穏やかに満ちた。 依頼で無ければ保養の気分ぐらいは味わえたかも知れない。田舎でのんびりと過ごすなど、余り己の性に合っているとも思えないが。冗談交じりに考えながら、銀時は原付を跨いだ。座面に腰を下ろして、その足下に括り付けてある小振りな木箱を見下ろす。 その依頼は突然に入って来た。地方でそれなり有名な鍛冶の工房で、江戸にその出張販売店がある、銘だけならば誰でも耳にした事がある様な所からの依頼だった。 曰く、発注された商品を配送する予定だった者が交通事故に遭って暫く動けず、代わりに配達を頼みたい、と言う話だ。 江戸の販売店は人手不足で、普段ならば商品を個別に配達などしないのだが、本店に直接足を運んだと言うその客と懇意になったとか何とか──、兎に角、特別に配達しなければならないらしいとの事であった。 配達先は江戸の中心からは遠い郊外の天領。要するに都会から外れた田舎の事である。配達する荷物も、弁当箱程度の大きさでそう重たくは無いし、距離は原付を走らせれば一日で往復も充分に適う程度。それらに加えて依頼料がそう安く無かったので、仕事が無くて暇を持て余していた銀時は特に深くは考えずにこの依頼を請け負う事にしたのだった。 お土産を宜しくと暢気に言って寄越した新八と神楽に、遊びに行く訳じゃねぇんだぞと釘を刺しはしたものの、足が足なので銀時一人でこなさなければならない仕事だ。ガキどもやメスゴリラや変態ストーカーの居ない田舎でちょっと羽を伸ばすのも悪くないかも知れないと、この時点でそんな事を密かに考えていたのは事実である。 そうして、夜明けも前から原付を飛ばして辿り着いた田舎の農村。田畑の隙間を縫って走って迷って彷徨って、漸くの思いで肝心の荷物の配達先を何とか発見したものの、肝心の家主は留守らしいと来たものだ。途方に暮れる以外にどうしろと言うのか。 (つーか、今日荷物届けにいきます、ぐらいの連絡はしとけってんだよ。不在票入れて帰るって訳にもいかねェ遠方だし、そもそもそんなガキの遣いじゃ仕様がねェし、どうしろってんだ) ハンドルに肘をついて、銀時は無人の──留守中らしい掘っ立て小屋めいた家屋を睨め付けた。もういっそ荷物を置いて帰ってやろうかと言う考えも過ぎったが、ちゃんと受領表にサインを貰って来いと念を押されているのでそうする訳にもいかない。 「あら。どちら様ですかね?」 「!」 肩を落としながら目を閉じかけていた銀時は──朝が早かった所為で眠いのだ──かけられた声に思わずびくりと背筋を正して、背後を振り返った。一応人の家の敷地だと思ったので、原付は件の掘っ立て小屋に通じている短い細い道と、村の道路との境付近に置いてある。つまり人が通ってもおかしくない道ではあったのだが、村の中で余りに人の姿を見かけなかったので油断していた。 銀時に声を掛けて寄越したのは、その道を歩いて来ていた一人の老婆であった。乾いた土に汚れた、如何にも農作業を生業としていると言った風の格好をして、頭に巻いた手ぬぐいで斑な白髪頭を覆っている。 「この辺りの方じゃないね?一体全体こんな田舎に、どちらからいらしたの」 老婆は農具の入った手押し車を押しており、銀時はひょっとしたら道を塞いでいたかと、慌てて原付から飛び降りた。スタンドは立てた侭で車体を斜めにして少し位置を動かして進路を拡げてやる。 「邪魔したんなら悪ィね、別に怪しい者じゃねェよ。ただの郵便屋みてーなもんさ。そこの家に届けもんでね」 老婆の言葉やそれを紡ぐ調子は柔らかかったが、余所者を不審に思う気配は否応無しに感じ取れた。だから銀時は愛想笑いと戯けた様な仕草で言って、背後の家を指で軽く指す。 すれば何か得心が言ったのか、老婆は「あぁ、そこの家の」と言って頷いた。銀時の態度や様子から、少なくとも不審者の類では無いと判断したのかも知れない。僅かに潜む険は頷いた時には消えていた。 「確か、町に行くって言っていたと聞いたから、夕方ぐらいまで戻らないんじゃないかねぇ」 「え……」 老婆の言い回しからすると、直接その事実を知っていると言う訳では無い様だが、又聞きの話が、信憑性や共有情報と言う効力を普通に持っているのは如何にも田舎の農村らしい。その正確さも多分にお墨付きなのだろう。 それ正しい情報?と問い返すも馬鹿馬鹿しそうな事実を前に、口端を下げて呻いた銀時は、足下の小さな箱を再び見下ろした。 仮に届け先の人物の帰還を、言われた通りに夕方まで待ったとして、帰りは確実にどこか付近の町で宿を見つける必要がありそうだ。夜通し走って江戸に戻る気力など涌く筈もない。 「荷物、この家の人に渡しといたりしてくんない?」 夕方まで待つのは出来れば避けたい。その意を隠さず、荷物を軽く指さして言う銀時であったが、老婆はぱたぱたと手を左右に振って肩を竦めてみせた。 「だめだめ、気難しい人だから。その荷物に何か問題があったりして、私らが疑われるのは御免だからね」 夕方までの待ちぼうけが確定して、ますますうんざりとした表情を形作る銀時に、老婆は若干の同情を寄せる様な視線を投げはしてくれたものの、具体的に何か手を貸してくれたりする気はないらしい。一旦下げた手押し車の持ち手をもう一度よいしょと持ち上げると歩き出す。 「ここに住んでんのって、そんな面倒な御仁な訳?」 荷物はちゃんと固定していたから大丈夫だとは思うが、気鬱さを更に後押ししてくれそうなそんな可能性に、気分は最早最悪以下の何かに落ち込んでいる。 「仏師の人なんだけどね、まあ…、あんまり人付き合いをしないし、年の割に連れ合いも子供もいない一人暮らしだからか偏屈な所もあるねぇ。……悪い人じゃあ無いんだけど」 最後に、噂話を勝手にする事が後ろめたかったのか、強調する様に付け足してそう言うと、老婆はその侭手押し車を押して歩いて行って仕舞った。家に向かうか畑に向かうのかは知らないが、無駄話に花を咲かせていられる程に暇では無いのだろう。 足止めをして仕舞った事を、遠ざかって仕舞った背中に向けて小さく謝罪すると、銀時は原付の横にしゃがみ込んで呻いた。 (夕方、だァ…?) 今一度見上げた空は、まだ昼も前の時間帯だ。相手がいつ帰って来るとも具体的には知れないから、最長でも夕方、最短でも夕方、程度の判断基準にしかなりそうもない。 「………」 ちょっと日帰り旅行程度の予定だった筈が、この分だと帰りは明日になるやも知れない。村の一番近くにある町は嘗て宿場町だった名残でか、今でも旅籠が何軒も軒を連ねているのを行く道すがらに銀時は見て来ている。そこを頼れば屋根の心配は無いかも知れないが、余計な出費は実に痛いから出来れば避けたい所だ。 (まぁ、まるきり損って訳じゃねぇけど…) だが、一泊程度なら依頼料から差し引いてもまだ充分に儲けにはなるし、交渉次第では経費として依頼人が払ってくれるかも知れない。そうなれば金銭の問題はそれ程に大きくは無くない。 (問題は、時間の過ごし方──もとい、潰し方の方だなこりゃ) 思い直して、銀時は検めて辺りをぐるりと見回した。 田畑の連なる風景。青々とした森に埋もれた丘陵。平たい大地の上には同じ様に平らかな空。舗装されていない土剥きだしの道はあぜ道と大差ない。そんな風景の中で農作業に励む人々。 見事なまでの田舎の田園風景──牧歌的としか言い様の無さそうなそんな中で、銀時は矢張り途方に暮れる事しか出来そうも無い事実を前に無言でただ項垂れた。 酒もギャンブルもジャンプも娯楽も知り合いも何も無さそうなこんな所で、果たして夕方までと言う途方もなく長い時間をどう潰せば良いと言うのだろうか。 。 ↑ : → |