アリアドネの紅い糸 / 2 プリントアウトされた地図に記されているのは山間の平地に作られた農村の一つの、更に一部分。 それもかなりアバウトなもので、一応は車輌が通行出来る道路や、幾つか密集した家屋とその存在を示す番地以外のほぼ全てのスペースは空白で、大雑把に農業用地らしい区画割りが記されている程度の代物でしかない。 手元にある唯一の『地図』と呼べる代物がそんな程度のものだから、ほぼ何の手がかりも無しに、土地鑑の全く無い郊外の農村をただぶらぶらと歩き回るほか無い銀時は、絵に描いた様な田舎としか言い様のない有り様を視界の続く限りに拡げている風景をぼんやりと見回しながら当て所無く彷徨っていた。 物見と言う程のものは無く、観光と言える様なものは一切見当たらない。少なくとも目で見て解る範囲には。 ガス欠対策に原付を手で押しながら頭をぐるりと巡らせてみた所で、見渡す限りの農村はそれ以上の視覚情報を与えてはくれない。典型的な一次産業の盛んな地域の風景である。当然だが観光など以ての外だろう。 田畑の中で村人たちが何か作業をしている姿がちらほらと見受けられるが、大がかりな収穫や植え付けの時期では無いらしく、農業用の機械は出番もなく家の横で静かに佇んでいるし、全体的にのんびりとした日常と言った風情を漂わせている。 原付を押して歩く『余所者』である銀時の姿へ、時折ちらりと視線を寄越す者もいたが、大体は余り気にせずに己の作業に従事している様だった。 まあどうせ田舎は噂の拡散速度が速いのだとは先頃も知れた通りだ。江戸の方から暇な配達人が来ているらしい、程度の事では今日日然して興を惹かれる対象にも至らないのだろう。 都会と呼ばれ急発展と変化とを遂げた江戸を少しでも離れれば、郊外は急速に未発達の地域になる。車輌で高速道路を一時間も走れば、あっと言う間に地平にはビル群の代わりに山が現れ風景は様変わりする。無論暮らしもだ。そんな風景の激変の物語る通りに、まだまだ発展の全ては地方には行き渡らないのだが、それでも西の天領は一昔前に比べれば随分と時代は進んでいる方と言えた。 農業用の機械は勿論、ビニールハウスや温室や制御された用水路、移動や荷運びを楽にする車輌、電気を送る送電線に果てはアンテナなど、文明の利器はあちらこちらに見受けられるし、家屋や人の服装もしっかりとしたものだ。矢張り江戸を囲う天領なだけあってか、農村と一言で言っても、江戸を遠く離れたその他の地域よりは大分発展していると言えよう。 その様をして見れば、外見だけは立派な筺で整え、然し中身は歪んだり傷んだりしている農作物か何かに似ているのかも知れないと、銀時はそんな事を思う。江戸に──この国に起きた急激な文明の流入に因る変化は、余りに圧倒的に且つ迅速過ぎる程に、社会も人々の在り方も変えた。 幕府と言う大きな力の支配の元で無ければ到底難しかっただろう、強引過ぎる程の変化に、実のところ末端の人々は保守的な感情よりも目前の利便に頼らざるを得なかったのかも知れない。それを柔軟な変化と言うか支配的な改革と言うかは、まあ取り方次第なのだろうが。 くあ、と欠伸を噛み殺した銀時は、ひたすらに拡がる農村の風景に、取り敢えず抱いた一般的な感想や益体もない思考を呑み込んだ。気付けば農村の外れの、ゆったりと拡がる山の裾野まで来ていた。 田畑の隙間を抜ける道路は殆ど舗装もされていない有り様ではあったが、道の体裁をなしている以上は人の行き来があると言う事だ。思って見回せば、どうやら山向こうの隣村へと道は続いているらしく、小振りな山の外周をゆったりと登って行く道が、拓かれた森の合間に消えていた。夏の間に繁った草に殆ど呑み込まれていたが、一応判別の可能な道路標識があるのを見れば、どうやら少なくとも地元民が車で往来するのだろうとは知れる。 流石に原付を押して山越えをする気にはなれない。と、なると大人しく戻るか、何も無い農村へ戻る為に回り道をして時間を潰すぐらいしか無い。 だが、確か地図上では山間を谷川が通っていたのを思い出せば、下手に進むと戻るのに苦労させられるかも知れないと、額を揉んだ銀時は溜息をつきつつ原付を反転させた。散歩すら侭ならないこの田舎では、 (果たして夕方まで以下略…) 再度の、余りに空きすぎた空白を思考の中ですら持て余す。 この際歩き回ると言う無駄な労力は費やさないで、どこか適当な場所で昼寝でも決め込んだ方が良いかも知れないと考えながら辺りをぐるりと見回してみれば、車の走る道路に途中まで並行する様にして細い隘路が山の方へと続いているのが目に入った。 徒歩で山越えをする為の旧道か何かかと思って目を細めてみれば、木々の合間に古びた、石造りの人工的な線が見えて思わず瞬きをする。 「…鳥居」 まじまじと見直してみれば、口をついて出たのはそれの正式名称。誰もが知っている、神域と俗界とを隔てる役割を持った門だ。何か建造物の類かと言う予想は裏切られたが、まぁ似た様なものだ。ふむ、と小さく口中で呟いた銀時は、小さなその鳥居の方へと近づいていった。 真正面に立って見れば、山道を拓いて小さな石段が山の上へと結構な傾斜角で続いているのが見上げられた。注連縄と紙垂はかなり古くから放置されているのか、ゴミのついた藁紐の様な有り様に成り果ててだらりと下がっている。 (こう言った農村だと、氏神サマとして結構大事にされてる事が多いもんだが) 石段も左右が苔生しているし、枯れ葉も散らかっている。それこそ文明の流入で、昔は神頼みだった農作業の出来不出来でさえも人為で何とかなる様になった事で、信仰や霊験を失って参拝客を減らしたのかも知れない。 境内は基本的に下乗である。まあそうで無かったとしても乗り物と登る訳にはいくまい。銀時は原付を山道の近くに停めると、足の軽く痛くなりそうな石段を見上げた。正直昇るのは億劫だが、神社ならばひょっとしたら昼寝を決め込める様な軒ぐらいあるかも知れない。 こんな村外れまで来て何もせずに、また留守中らしい仏師の家まで戻って夕方まで座っているのは癪であったし、暇に飽かして歩いて来たから少しぐらい座って休むのも悪くはない。とは言え農村の直中だと目立つから、こう言った静かな場所は願ったりの環境の様に思えた。 思いつき以下の一応のプランに、よし、と頷く。境内で一休みと言う方針を決めた銀時は、石段をゆっくりと登り始めた。 石段には申し訳程度の手すりすらついておらず、水はけを良くする為の側溝には枯れ葉や枯れ枝が堆積していた。長らく手入れは入っていなさそうだが、左右に植えられた南天の枝は道を遮る程には野放図と言った風でも無い。 道を遮る土を削った後で敷石を詰めたのだろう階段の両端は苔生していたが、中央は嘗ては多くの参拝者を通したのか、綺麗に削れて角が取れており、ここ数年まるきり人が歩いていないと言う訳では無さそうだった。参拝者は居るが、手入れをする者までは居ない、と言った所だろうか。 何せ年寄りには少々厳しい参道だ、若い人間の少ない農村地帯ではこう言った辺鄙な場所にある寺社や墓地は段々と廃れるものなのかも知れない。 ふう、と溜息とほぼ同時の息継ぎを伴って、やがて銀時は石段を登り終えた。地上からは窺い難かった角度のそこを少し進めば、こちらも大分古そうな、石の灰色その侭の、こぢんまりとした鳥居が堂々たる佇まいで見下ろして来ているのに出会う。 「……」 きょろきょろと辺りを見回してみるが、見る限り境内には神社の名や謂われを記した碑の様なものは見当たらない。よくある土地神の類かも知れないと頬を掻きつつ、適当な所に思考を着地させた銀時は、人や動物の気配のしない境内へと踏み入った。 石畳は正面にある社に続いており、社の閉ざされた戸の前には、如何にも安っぽい小さな賽銭箱が置かれている。逆さにしてひっくり返せば簡単に賽銭泥棒が出来そうだなと思いながらも、勿論実際そんな事をする程に銀時は落ちぶれてもいない。少なくとも自分ではそのつもりである。 社はかなり古くぼろぼろの佇まいではあったが、横に回れば屋根ぐらい借りられそうだった。借りても問題無さそうだった。基礎は石造りで、土の地面に直接座る不快感ぐらいは凌げるだろう。 屋根お借りしますよ、とお座なりな仕草で柏手をぱんぱんと打つと、銀時は社の横へと回り込んだ。社の正面の空は開けているが、横になると途端に山の樹木が迫っていて、玉垣の類が無い為に周囲は直ぐに山と森との様相と化している。日当たりも宜しくは無い。 少々湿っぽそうだがまあ良いかと、銀時は背伸びをしながら欠伸をした。肩をとんとんと拳で叩いて、思いの外に早朝からの、原付を走らせる長旅に疲れている事を実感しながら、社に背を向け座ろうとして──、 「!」 がさ、と茂みを鳴らす音に、降ろしかかっていた腰を思わず浮かせれば、丁度目の前の茂みの中に小さなふたつの黄色い光がある事に気付く。 「……なんだ、猫か」 茂みから、つい、と頭を覗かせたものは、二つの光──光彩の細い眼を真っ黒な毛並みの中に持った猫であった。野生動物──狸や猪ぐらい居てもおかしくない様な山から、それどころか逆に人間に近しい生き物が出て来た事に、銀時は思わず大袈裟に驚いて仕舞った己を羞じつつ頭を掻いた。別に物の怪が出たとか思った訳では無いのだが、何も居ないと思っていただけに不意をつかれた様なものだ。 真っ黒な猫は長い尾を揺らしながら銀時の前を態とらしく横切る様に歩くと、ぐるりと反転してまた茂みの方へと向いた。輪でも描く様な調子でそこに立ち止まると振り返り、恐らくは「にゃあ」とでも鳴きたかったのか、口だけを上下させる。 「ンな見ても、オメーにやるような餌は持ってねェよ」 ひょっとしたら、この神社付近に住み着いている猫に餌をやる奇特な人間が居て、その人間がこの神社を度々訪れていたのかも知れない。そうでもなければ、人間がやって来た所でわざわざ姿を見せる野良猫が居るとも思えない。 腰に手を当てた銀時は、こちらを振り返った侭の姿勢でじっと見上げている黒猫に言ってやるが、猫は相も変わらず口をぱくりと上下するのみ。本人は──猫は──鳴いているつもりなのかも知れない。 「言っとくけどな、俺のがオメーより多分余程に腹減ってんだよ。朝から碌なもん食ってねェんだ」 道中立ち寄ったコンビニの駐車場で、おにぎりとお茶を流し込んだきりの腹はそろそろエネルギー補給を要求している頃だ。音までは鳴っていないが、叩けば軽い音ぐらいはしそうな腹の辺りを掌で軽く撫でると、銀時はこちらをじっと見ている猫を追い払う様な仕草で手を振った。 すれば黒猫はまた一歩二歩、銀時の方を振り向きながら進んで、掠れて聞こえない「にゃあ」の形に口を動かしてみせる。 「………」 眉を寄せた銀時が一歩、猫の方へと近づくと、猫は顔を茂みの方へと向けて歩き出した。まるで、ついてこい、と言う様なその仕草に思わず口がへの字を形作る。 野放図に雑草の混じった梔の、今は花ひとつ残っていない茂みを掻き分けてみれば、そこには辛うじて道と解る程度の山道があった。神社の横手と言う、余り人の往来する様な場所では無いからか、道は雑草を茂らせ放題に、枯れ枝や葉っぱを地面に散らかし放題にしている。 そんな道──もとい、「元」道とでも言う様な、山の斜面に出来た平らな部分を、黒猫の背中が駆けて行く。 「……何だよ、仔猫でもいるから面倒見て下さいってか?」 人間に懐いている猫ならよくある事だとお登勢が以前言っていた事を何となく思い出す。仔猫が生まれた時や腹を空かせた仲間が居る時などに、滅多に見せない媚びを売ってでも人間を頼るのだとか。 振り返れば目につく荒れた社、そこから続くのかそれともそこに続くのか、古そうな山道。 その光景に何か興を惹くものが何かあった訳では無い上に、向かって意味があるとも思えなかったし、何より肝心の猫の姿はもう無い。仔猫が居るかどうかも解らない。 (…まあどうせ暇だしな) だが、僅かの逡巡と溜息だけで、銀時は何かに白旗を揚げる様な心地を抱えつつも、古びた山道へと足を向けた。枯れ枝や倒木が至る所で邪魔をしているそこを歩いて、山を回り込む様に登って行く。先頃山の下で見た車道とは恐らく逆方向、どちらかと言えば農村の方角へ近付く形だ。 この侭軽く登山になったら堪ったもんじゃないな、と銀時が呻いた丁度その時、道の先に不意に開けた場所が見えて来た。額の上に庇を作りながらじっと見れば、それが明らかな人工物──こぢんまりとした家屋である事に気付かされる。 「……家」 思わずぽかんと呟きを落として進んだ銀時の眼前には、年季の結構に入っていそうな、小屋の様な家がぽつりと佇んでいた。 山中の森の中にぽつんと、まるで何かに忘れられて取り残された様な印象を与える、家だった。 。 ← : → |