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アリアドネの紅い糸 / 3 森を抜けたらぽつりと一軒家。家の中には悪い魔女が居て、迷子の子供をぱくりと食べて仕舞うのです。 そんな、童話辺りを由来にしていそうな言葉が思わず銀時の脳裏を過ぎる。それ程に、山中の森の中、突然現れた拓けた土地に、置き去りにされた様な家屋がぽつりと一軒だけ建っていると言うのは不気味であった。 家は、少なくともあの仏師の小屋よりはまともなつくりをしている。寧ろあの掘っ立て小屋とこの家屋と、立地を見れば逆の方が相応しい気さえする。あの小屋は外れの方とは言え一応は村の中に解り易く建てられていたが、山中に突如現れた家と言う意味ではそちらの方が違和感が無いだろう。 近づいてよく見れば、木造の、古びてはいるがきちんとした家屋だ。基礎も柱もしっかりとしたもので、風が吹いた程度で倒壊して仕舞う様な事はなさそうだ。 家の向かいにはこぢんまりとした家庭菜園程度の畑があり、芋や人参と言った根菜が植わっているほか、竹で作られた支柱にはやや小振りだが茄子や胡瓜らしい野菜も見える。 小さなスコップや手桶と言った道具が一緒くたに置いてある様子からしても、この小さな可愛い菜園はきちんと世話がされているものだ。それも多分に、趣味的なものではなく、どちらかと言えば実用的な意味で。 家の玄関には干し柿が下がっているし、その横では、蓆を貼り付け斜めに立てた板の上に一度茹でてから細く刻んだ芋が並んでいる。妙に生活感のあるそんな様子から見ても、ここに長い事普通に人間が住んでいると言うのは間違いないだろう。 (…って事はひょっとしなくとも、さっきの猫はここの飼い猫か何かか) 別に神がかり的な何かを期待していた訳ではないが、単に散歩をしに来た猫が帰って行くのを追いかけて仕舞っただけ、と言う顛末であるとしたら、少しばかり間抜けに過ぎるのではないか。 後ろ頭をがりがりと掻いた銀時は、小さく肩を竦めると小屋に背を向けた。こんな山中に、山から下りずに暮らせる様設えている住民など碌なものでは無い筈だ。隠れ住む犯罪者か、隠遁した偏屈な老人か、村八分にされた哀れな者か。何れにせよ余り関わりたいものではない。 そう決め込むとそそくさと山道の方へ戻ろうとした銀時であったが、然しその背中に何の前触れも無く、氷の様に冷えた声が突き刺さる。 「誰だ」 「──、」 ひやりとした感覚──或いは感触は、声音に宿らぬ温度の所為だけでは無かった。実際に項に触れている『冷えた物体』に、銀時の足は反射的にその場に停止させられる。 (オイオイ…) 真後ろには視線は向けられないが、その『冷えた物体』──金属製の鋭い物を突きつけられている首を不用意に動かす気にはなれず、銀時は背後にひたりと佇む、気配も足音も無く出て来た声の主を様子を慎重に窺った。 「物盗りか?生憎とうちには碌なもんはねェが」 声は飽く迄静かであったが、やっている事は間違いなく物騒の一言に尽きる。 男の声だ。老人では無いし子供でも無い。意識をそちらに向けるまでもなく、煙たいヤニの匂いがする。煙草を嗜んでいるらしい。そして少なくとも、家に近づく見慣れぬ輩を棄ておくつもりがない程度には、防犯だか警戒の意識は高い様だ。 畑の規模や家の大きさや様子を見ても、背後の声の主がこの家の主でもある事は間違い無いだろう。首を竦める銀時からの応えの無さに焦れたのか、とん、と『冷えた物体』の尖端で項を軽く突かれて、思わず口端が下がった。 「誤解だっつぅの、俺ァ偶々通っただけの善良な市民!下の境内に居た猫をつい追いかけて……、って何か間抜けな下手な嘘っぽいとか思ったかも知れねェが、そうとしか言い様がねェんだよ悪ィかバカヤロー」 畳みかける様な銀時の抗弁に、背後の男は「猫」と鸚鵡返しにきょとんと呟いて、それから、く、と笑いを噛み殺す様な音を発した。す、と項にぴたりと突きつけられていた冷えた刃物の気配が少し離れるのを感じて、銀時は両手を挙げてゆっくりと振り返った。 「てっきりこの家で飼われてたんだと思ったよ」 『猫』と言う単語に少なくとも思い当たりの無いらしい声に、銀時はいよいよ己の先頃の想像より碌でもない展開を確信せざるを得なかった。暇潰しの余りにただの野良猫を追い掛けて、この様と言う訳だ。 まだ冷たい感触の残る気のする項には、然し針先ほどの傷もついていないだろう確信はあるが、それでも抜き身の刃物を突きつけられるのなど、出来るだけ勘弁願いたいものである。 振り向いた銀時のそんな抗議を込めた視線の先では、玄関のほぼ内側に立っていた男が、何の予告も無しに突きつけて寄越した刃物を──刀を、実に慣れた所作で鞘へと納めている所だった。 ちらりとしか見えなかったが、少し長めの、実用性のありそうな業物であった。否、実際に実用として使われていたか、いるものに相違ない。刀の善し悪しや人の善し悪しはともかく、そう言った気配の様なものは何となくだが、解るのだ。 刀を納めた男は、伏し目がちにしていた顔をそっと起こすと目を僅かに細めて、 「…………!」 ──それからまるで、化け物でも見た時の様に目を瞠って唇を戦慄かせた。小さく上下した口元から煙草がぽとりと落ちる。 喪にでも服している様な真っ黒な着物に、額を開けた黒い髪。刀を携えた手は白く、銀時の姿を茫然と見つめているその顔色もまた、白い。 涼しげな美貌の男の、いきなり形作った表情に、態度に、銀時も思わずまじまじとその姿を見返した。自覚は無かったが相当に奇妙な顔をして仕舞ったのだろう、次の瞬間には男の表情からまるで波でも引く様に愕きの様相は消え失せ、後にはどこか冷めた様な質の顔が残される。 落とした煙草を草履で踏み消すと、身を屈めて吸い殻になり損ねた煙草を拾って、男はそっと肩を上下させた。気でも抜けた様にも、煙草を無駄にした事を惜しむ様にも見えた。 それが灰皿の代わりなのか、玄関の脇に無造作に置いてあった、蓋を全て取り除いてある空の缶詰へ煙草を放り込むと、着物の袂の中で腕を組んで「で、」と男は切り出した。声音は先頃の溜息にも似た質で矢張りどこか投げ遣りな響きを以て銀時の耳へと入り込む。 「……村じゃ見かけねぇ面だが」 それがどうやら問いかけであった事に気が付くのに若干の間を要した。己が男の姿を凝視した侭固まっていた事に今更の様に気付いた銀時は我に返って「いやその、」と手をひらひらと振った。いきなり刀など問答無用で突きつけられた事を思えば、相当に不審者と思われている事には間違い無さそうだ。矢張り田舎の村落では余所者に対して厳しいきらいが今もなお強く根付いているのだろう。 「江戸から来た配達屋みてーなもんだよ。村の外れにある掘っ立て小屋に住んでる爺さんだかオッさんだかに荷物を届けに来たんだが、生憎夕方まで留守だってんで時間潰しに散策してただけで」 銀時の説明を受けて、男は「ああ、」と細い顎に指の背を当てながら頷いてみせる。 「あの仏師の爺さんの所か。それで暇つぶしに猫だか狸だかを追いかけてました、と」 「……そこ一番胡散臭ぇポイントなのは俺も重々承知だけどね、一応本当だからね」 少し人の悪い笑みを浮かべる男の様子から、気易い言い種なのは解ったが、銀時は作った渋面を崩さない。あの野良猫にしてやられた様な形になっていると言うのはまあ結果論でしかない事だから良いとして、見ず知らずの男にからかわれる様な謂われは無いからだ。 (それに、こんな年頃でこんな所で暮らしてて、来客に敏感って、どう考えてもあんままともな話じゃねェだろ…?) 「然しそりゃ災難だったな」 「…災難?」 嫌味な程に整った顔の造作に、お愛想程度に笑みを残した侭の男はやがてぽつりとそう言うと、同情的な仕草でかぶりを振った。表情の語るところはともかく、どこか憐れむ様な調子である。 「あの爺さんが町へ行ったんなら、夕方どころか夜まで戻らねェ事も珍しくねェからな、材料や道具を目当てに町に行く時はいつもそうだ、──らしい」 「………」 同じ村の住人なら知り得ていても無理は無い。男の同情的な口調と、そっと見上げた空のまだ正午にすら早い時間帯の空とに挟まれて告げられた碌でもない『災難』に、銀時はそっと頭を抱えた。老婆の情報が見事に保証されて仕舞った。男の言う事が事実ならば、日帰りの散歩感覚で請けた筈の仕事が、本格的に一泊二日のプチ旅行になって仕舞う。 脳裏には咄嗟に、知り合いらしいこの男に荷物を任せて仕舞おうかと言う安易な考えが過ぎってはいたが、気むずかしい事で有名な老人相手では、矢張り関わり合いになりたくはないとどうせ断られそうだ。 それに何より、こんな神社の裏に隠れる様に──余り山を降りないで住む様に暮らしている若者と言うのは矢張り不審ではある。そんな輩に大事な荷物を託すのも問題だ。尤も、不審と言う言葉で括れば己の方が余程だとは思うが。 「良ければ茶でも飲んでくか」 いっそ町に探しに行ってみようか──否、すれ違ったりする可能性よりも訪ね人を見つける方が困難そうだ。 そんな事をぶつぶつと考えていた銀時は、男の投げて寄越した言葉を、その意味を上手い事受け取り損ねた。拾い直しと理解と咀嚼とにやや間があって、漸く脳に浸透した言葉に、 「へ?」 と思わず間抜けな声をあげて仕舞う。不審者を警戒していた様な人間にしてみては、有り得ない様な提案をされているのではないか。すれば銀時のそんな疑問を察してか、男は伏し目がちにした目を足下へと寸時投げて、ゆっくりと目を閉じた。深い、深い溜息をひとつ。 「……久々に江戸の様子でも訊けたらと、思っただけだ。別に無理に引き留めるつもりはねェよ」 続ける男の言葉は、確かにその紡ぐ意味その侭の調子の様でしか無く、今にも、家に近づいてきた不審者の正体を確かめると言う目的は達成したからと簡単に背を向けて仕舞いそうな気がして、銀時は慌てて声を上げた。 「あ、いや…、良いのか?」 森を抜けたらぽつりと一軒家。家の中には悪い魔女が居て、迷子の子供をぱくりと食べて仕舞うのです。 童話で語られそうな、そんないい加減な先入観ばかりではなく、色々と思うところはあったが、無目的に土地鑑の無い田舎で何時間も時間を潰すのは矢張り困難だ。何か意味を持って時間を潰せると言うのであればそれは有り難い話ではある。 例えば、山の中に隠れ住む、会って間も無い男に話を乞われる、とか。 「良くなきゃ提案しねェだろ」 不審者──もとい銀時としては、防犯意識が高いのか低いのか良く解らない男に対して、刀を向けたかと思えば家に上げようとするなんて極端に針の振れた奴だなとしか言い様が無いのだが、言うなり男はさっさと戸を開くと顎をしゃくって、早く入れ、とばかりの様子である。 自ら玄関をくぐる男の後に続いた銀時は「お邪魔します」と何となく小声で呟いた。土間に設えてある竃の方へ向かう男の背を、その場に突っ立った侭で見遣る。 上がってろ、と板の間を示す男の言葉を遮る様に、「そう言や、」と銀時の口は紡いでいた。 「あんたの名前は?」 と。竃に向かっていた男は一瞬だけ動きを止めると、ゆっくりと振り返って銀時の顔を見る。 やんわりと細められた眼が何を言おうとしているのかを見極める事は、きっと誰にも適わなかったに違いない。その程度の僅かな変化を、然し何処か遠くへ押し遣って、ただ彼は答えた。 「土方十四郎だ」 ──と。 。 ← : → |