アリアドネの紅い糸 / 4



 座ってぐるりと見回した、家の中はそれなりに生活感はあるが酷くシンプルなものだった。まるでここ数日のうちに引っ越して来たばかりの様な閑散とした室内には、住人の人となりを窺えそうなものは何一つ見当たらない。
 土間から上がった板の間の部屋が一つ。厠と風呂は外に併設されているとの事で、生活空間は三和土とこの部屋との二箇所しか無い。
 土方と名乗った男はこちらに背を向け、土間にある炊事場で動いている。薬缶を火にかけたり茶葉を茶筒から出したりと、どうやら本当に宣言通りに茶を煎れてくれるつもりらしい。
 好きにしていろと言われたので、板の間に老いてあった藺草の円座に何となく正座して仕舞った銀時は、手持ち無沙汰も手伝って視線だけを適当に彷徨わせる。
 壁際には丈の低い文机と、その上には木製の文箱と煙草の箱と吸い殻の残る陶器製の灰皿。何か書き物でもしている様だが、肝心の紙の類は見て解る範囲には置いていない様だ。
 テレビやラジオは勿論、電話すら見当たらない。机の他には、その向かい側の壁の方に何やら小難しそうな古書が適当に積んである程度だ。適当と言っても持ち主の何かルールがあっての置き方なのかも知れないが、少なくとも銀時の見た限りでは適当の一言で済む。
 古そうな書物たちは一見して睡眠導入剤程度の役割しか果たしてくれそうもなく、娯楽の用を為すジャンプの様な雑誌や新聞の類は見当たらない。
 そこから九十度、見遣った窓は木製の衝立を引っかけて開けておくと言う旧い形式のもので、今は開けられたその窓からは、山の木々を通した陽光がちらちらと床に降り注いで揺れていた。
 このご時世にしては古風な暮らしだと言えよう。江戸に程近い天領の内だけに、行きがけに見てきた農村の風景にはそこかしこに文明の流入は見て取れたが、存外に生活様式は昔から余り変わっていないのだろうか。
 家の様子はどちらかと言えば未だ文明的に未発達のそれだが、昔から慣れた暮らしに馴染んでいると不便とも感じないのものなのかも知れない。
 銀時の場合は、戦場の不便極まりない日々から殆どいきなりの江戸の生活だったのだが、特に何も考えずに以前までと全く異なった生活様式を受け入れていた気がする。だが、逆にそれまでの生活に戻れるかと言えば、そちらは少々難しいとは思う。
 生活を支えてくれる家電やインフラの存在は勿論、平和な町や二十四時間営業のコンビニなど、無くても生きてはいけるだろうが、無いと劇的に不便になる暮らしに、慣れる事は今更となればなかなか困難と言わざるを得ないだろう。
 そんな、文明の流入の少ない鄙びた印象を与える古風な家の中を所在なくきょろきょろと見回していた銀時だったが、やがて盆を携えた土方が、茶の支度を終えたのかぐるりと振り向くのに何となく背筋を正した。
 矢張り姿勢も、佇まいも、少なくとも商売人や農民のそれでは無さそうだ。先頃の刀の扱いからしても武人であるのは間違い無いだろう。その動きは特別洗練されていると言う訳では無さそうなのに、長年を隠棲している老人の様な奇妙な落ち着きがある。
 「生憎、甘い菓子は切らしててこんなもんしか無いが」
 言って、土方は緑茶の入った湯飲みと共に、干し柿を乗せた皿を銀時の前へと出してくれる。
 茶と、茶請け。これではまるきり客人に対するもてなしである。幾ら暇を持て余していたとは言え、到底初対面の怪しい人間──それも一度は盗人かと疑った相手──に対する振る舞いとは思えず、銀時は首を傾げつつも、「いやぁ…、何か悪ィね」と頭を掻いた。土方は、気にするなとでも言いたげに軽くかぶりを振る事でそれに応えると、円座の上にどっと胡座をかいて座った。
 配達先の家の前で会った老婆同様に、単に見知らぬ人間には少しばかり警戒心が出て仕舞っただけで、矢張り田舎の人間は元々人情に厚かったりお人好しだったりと言う部分があるものなのかも知れない。無理矢理にそう納得へ思考を運ぶと、銀時は干し柿を一つ摘んで口に放り込んだ。そうしたら想像以上の甘さが口に拡がって、思わず「美味い」と正直な感想がこぼれる。減っていた事を思い出す腹の促す侭に、二つ目にも自然と手が伸びた。
 「……そうか。そいつは良かった」
 表に干してあった柿だとすれば自家製と言う事だろうか。褒められたと感じたのか、土方は一瞬虚を突かれた様な顔をしてから、僅かに目元を弛めた。笑ったのだろう。
 (………ん?)
 それはほんの少しの表情筋の揺らぎ程度のものでしかなかった。だが、何か奇妙な感覚が──強いて言えば既視感にも似た感覚が銀時の脳を揺さぶった。……気がした。
 首を傾げながら茶を一口含むが、矢張り解らない。それどころか、その感覚はほんの寸時生じた違和感を、然し忽ちに流して消えて仕舞った。追いかけようにも手がかり一つ残さずにそれは喪われていて、次の瞬間にはもう何処にいったのかすら解らない。
 「…江戸の様子はどうだ?」
 二度目の違和感に頭を捻る銀時を、土方のそんな問いが現実に引き戻す。見遣れば、土方は湯飲みを片手で弄びながら、視線を僅かに俯かせて板の間を見つめていた。
 「あぁ…、相変わらず平和だよ。勘違いした天人様の横暴に時折目を瞑らなきゃなんねェ事を除けば、申し分無ェんじゃねぇの?」
 天人と人間との関係は、一時期の緊張状態からは既に脱している。日々を必死に生きる出稼ぎの天人は地球に馴染もうとしているから謙虚なものだし、地球側もそれを殊更に毛嫌いする様な事は無くなった。
 ただ、富裕層の天人や軍人、商売人関係は相変わらずと言った所で、地球を自分たちの好きに振る舞える場所と勘違いしている節がある侭だ。銀時も万事屋として度々、どこぞの面倒な宇宙生物好きの皇族に関わる羽目になったりもしている。
 まあ、言ってもそれは例外中の例外で、普通に暮らしている上ではそんなものに関わる事はまず無い。つまる所、天人やそのもたらした文明の混じり合った江戸は『平和』の一言に尽きるだろうと言えた。
 そのつもりで選んだ銀時の返答に、然し土方の望む答えは無かったらしい。彼は伏し目がちにした目元に少し力を込めると「いや、」と一度言い淀んで、それから何度か躊躇う様に唇を小さく上下させた。
 迷いか、躊躇いか。或いは畏れか。長い睫毛に縁取られた黒瞳の揺らぎが彼の裡の懊悩を示している様で、銀時は先回りして答えを探す事も出来ず、何も言えずに黙って続きを待つほか無かった。
 「……その。そう言う社会情勢とかじゃなくて、だ…、もっとこう、町の様子とか…、」
 誰か特定の個人の様子を知りたい、などと言われたら困る所であったが、漸く土方の紡いだ続きは、明確な続きと言うよりは当初の問いの補完と言うべきものだった。土方の、深刻そうな様子から少し身構えて仕舞っただけに、拍子抜けした銀時は「あー…」と呻いて頬を引っ掻く。
 この土方と言う男の『問い』たい本質が何であるのかが今ひとつ見えて来ない。問いは曖昧に過ぎて、悩み躊躇いを生じる程の答えを期待している様には思えないのだ。
 「えーと、俺の住処はかぶき町で、まぁ何つうか、平和は平和なんだけどよ…、」
 だから仕方無く銀時は解答を濁した。歓楽街としても有名なかぶき町は、平和は平和なのだが無法の縮図の様な場所としても有名なのだ。そう言われれば土方も、訊き難い事を訊いて仕舞ったと気付くかも知れない。
 「そう、か」
 果たして銀時の思った通り、土方は少し気まずそうに呟いて黙り込んだ。だが、その視線は相変わらず、床の木目を追ってでもいるかの様に、憂いを帯びた表情を湛えた侭でその場を漂っている。
 江戸の様子が気になると言って銀時を引き留め、茶まで出して『問い』てみたい事の正体は恐らくそこにあるのだろうが、容易く触れてみるには躊躇いがある。
 土方の様子を見る限り、それは恐らく『重い』。銀時の様な赤の他人が軽く触れてみようとは到底思えない程の、何らかの重みのある鬱屈を抱えている。
 (悪ィ気はするけど、何かしてやれるって気もしねェし…)
 江戸の様子を知りたい、と言う事ぐらいは解るのだが、それ以上となると、通りすがりの他人でしかない銀時の手にはどう考えた所で余る。土方の、この隠れ住む様な暮らしぶりを思えば、江戸を追われた犯罪者や攘夷浪士と言う可能性も出て来るしで、どちらにせよ余り触れたくは無い話になる。
 落ち込んででもいるかの様に俯いて動かないその姿は確かに気の毒だとは思うし、覚える筈のない罪悪感さえ想起させる様子なのだが。
 そうして続く沈黙に、銀時は所在なく手の中の湯飲みを見下ろした。干し柿の味に合わせてなのか、少し濃い目に入れられた茶は、その量を減らした分だけ温度を下げ始めている。
 「警察…、いるだろ」
 やがて、長い沈黙を割く様にぽつりとこぼれされた独り言の様な言葉を、銀時は疲れもあって少しぼうっとしかかっていた耳で聞き逃した。
 「え?」
 「その、江戸に治安維持の目的で導入されたって連中だよ。テレビや新聞じゃ悪名高いって言う…」
 少なくともその意図は聞き逃したのだろう。確信を以てそんな事を思いながらの疑問の一音に、土方は少し早い調子で付け足すと、まるで自分の言葉に苛立った様にぐっと顔を顰めた。だがその言葉への思い当たりは幸いにも銀時の記憶にはあったので、頷く。
 「ああ、真選組な。物騒な連中」
 「そう、それだ」
 銀時のその答えは土方の、正に問いたい本質そのものであったのか、彼は顔を起こすと何処か切実さと安堵とをない交ぜにした様子で頷いて寄越した。
 どうやら正解だったらしい事はともかく、解り易いぐらいの土方の食いつき方に、銀時は喉奥で呻きながら記憶を手繰った。何かこの期待に応えられる程のこれ以上の解答を果たして己は持っているだろうか。
 真選組。江戸の治安維持の目的で導入されたと言う、武家でも無い人間への、武士階級への認定と言う幕府の英断と共に結成された武力組織だ。
 彼らの出自もあって、芋侍などと揶揄されている事に加えて、更に彼らのやり方が強引な武力行使を主にしている事とで、特に敵対関係にある攘夷浪士たちからは蛇蝎の如くに忌み嫌われている。
 数名と何となく関わり合いになった事はあるが、基本的にそんなに銀時個人とは縁の近い連中ではない。
 「……や。俺も何でも屋みてーな稼業だけど、お巡りさんのお世話にはなってないからね。〜…いや何度かはなったけど有罪扱いになった事はねェし、真面目に暮らしてる一般人には特に接点なんざねェし…、」
 続きを待つ土方の、確かにある期待の感情から逃れたくて、銀時は殊更ドライな調子で言ってかぶりを振った。すれば土方は、今にも身を乗り出さん勢いだった己にたった今気付いた様に、
 「そうだな、…すまねぇ」
 と消え入りそうな声で呻く様に呟いた。
 肩を落としたりはしなかったが、茶をそっと口に含む仕草一つにも倦怠感の様なものが漂っていて、あからさまに彼が何か落ち込んだらしいと言う事だけは解る。銀時は自身の茶を思い出した様に飲み干すと、落胆を隠せずにいる土方の纏った憂いの空気を少しでも払拭したくて、殊更に軽い声を上げた。彼の態度や様子から、『重い』──安易に関われる様なものではないと、解っていたと言うのに。
 「誰か、そこに縁者でも居るとか?」
 そんなに気にするなんて、と軽い侭の調子で続けた銀時は、それを受けて土方の見せた表情に、後悔にも似た感情を憶えた。
 矢張り軽々しく嘴を突き入れる様なものではなかった、と。
 土方は憧憬に似た表情を、然し今にも泣き出しでもしそうに歪めて、
 「そんなのいねェさ」
 そう、はっきりとした調子で断じた。
 「居る訳、ねぇよ」
 まるで誰かに強く、言い聞かせるかの様に。







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