アリアドネの紅い糸 / 5



 平野をぐるりと縁取る山の裾野が地平を遮り、まるで壁か何かの様に地域を隔てていて、その隙間から斜めの強い光が差している。山々の狭間に陽が隠れて行くのを見るのなど何年振りになるだろうか。少なくとも広い平地に高層建築の並ぶ江戸では、もう見る事は出来ない光景だ。
 山が陽を隠して仕舞うから、平野部よりも日没は早い。月の高い時は星々の細かな灯りも手伝って夜は思ったよりは暗くならないので、日没前後のこの時間帯が最も影が長く闇が濃い。
 季節外れの虫も鳴かぬ夕暮れ時は不気味なぐらいに静まりかえっていて、舗装もされていない農道を、原付を押しながら歩く銀時の足音はいやに煩い程に耳を打っている。

 結局あれから何だかんだと、益体もない話がぽつぽつと続いた。一度は沈んだかに思えた暗い空気も、酒や食べ物の話になればあっと言う間に払拭されて、どうでも良い様な事を投げ合う内に気付いた時にはこんな時間である。
 土方の家には時計の類は無い上に、山林の中と言う立地の難もあって、日暮れの時間帯までそれに気付かぬ程度にはのんびりと過ごして仕舞った。茶は何回か入れなおされたし、干し柿のお代わりに干し芋の追加もあった。彼には申し訳ない話かも知れないが、お陰で軽い昼食程度には腹も満たされて仕舞った。
 それにしても、アルコールの助けも借りずによく初対面の男と長話など出来たものだと、改めて銀時は思う。干し柿の意外な旨さに釣られたと言う訳では無いと思うのだが。
 そうしてとっぷり陽の暮れそうな頃になって、それに漸く気付いた銀時が長居を詫びつつ席を立つのに土方は、
 「まだ仏師の爺さんが帰って来そうもなかったら、戻って来ても構わねェぞ」
 そう、明らかに冗談と知れる様な調子で言いながら、玄関口に立って銀時の背を見送った。
 打算でも親切心でもなければ、独り孤独に過ごす寂しさを紛らわしたいと言う願望すら無い、淡々とした声だった。
 まるで、何の実も無かったと言える筈のこの時間に、少しばかり名残の惜しさを感じ始めて仕舞っていた気のしていた、銀時に対する牽制の様な、不意に思い出したかの様に飛んで来る痛烈な一刺しの様な。
 「酒でも開けてくれんなら喜んで」
 「馬鹿抜かせ。飲酒運転させる訳にゃいかねェよ」
 だから銀時も、世辞に対する態度の様に冗談めかして言って手を振り、土方もそれを否と答えて、それで終わりだった。
 開けた額に、少し項の長い黒い髪。墨で描いた人形の面相めいた目元。滑らかな鼻梁を頂いた顔の輪郭は少し小さいが、女々しさや弱々しさの様なものは感じられない。所作は優雅とは言えないものの、姿勢そのものは棒でも入れた様に背筋が伸びていて綺麗だった。その体から生えた無駄な肉の無い腕が動いて、淀みなく突きつけてきた切っ先。静かな眼光。
 背を向けても具に思い起こせるその姿に、有り様に、どうしても銀時の裡で何かがざわめく。気の所為と断じればそれで済んで仕舞いそうな違和感を拾い集めてはみても、然し何か明瞭な形はそこには出来上がらない。
 だからこれは恐らくは勘違いなのだ。そう半ば確信しながらも、銀時は思わず振り返っていた。果たして想像した通りに、彼はこの『別れ』に何の痛痒も無い様子をして、そこから一歩も進もうとはせずに玄関先に佇んでいる。着物の袂の中で緩く腕を組んで、柱に軽く背を預けて、ただ立っている。
 ──それだけ。
 「なぁ…、その、…あんた戦に出てた事とか、あったりするか?」
 それだけ、の有り様に促される様にして、銀時の口は自然とそう動いていた。
 「戦?……攘夷戦争か?」
 寸時きょとんとしてから眉間に僅かの皺を寄せる土方に、銀時は少し曖昧に頷く。
 戦と言えば銀時や土方の年頃から見れば、攘夷戦争の末期に他ならない。
 半ば戦いを楽しむ、政治的或いは商売的に喧伝する、そんな意味のあった初期の頃はまだ戦況は拮抗していた。然し長期に渡る戦がもう泥仕合の様相を呈して来た頃には最早それらの効果も見込めずに、ただただ実験的ですらある戦いが繰り返される事となった。
 末期にはもう勢力が瓦解し、攘夷志士側は事実上負け戦となっていた中で細々と抗っていた。最も犠牲が多く出て、最も無駄な骸を積み重ねて、最も諦めの悪い者の怨嗟が響いていた、そんな時期をして『戦』とただ呼ぶ。
 その言葉で通じる時期を共に生きた者たちの中には、銀時が顔ももう憶えていない様な連中も多い。だが、その逆に銀時の顔を知る者は比較的に多い筈である。
 そうなのであれば、土方が銀時の姿を当初認めて愕いた様な表情をした事にも、攘夷志士たちの希望だ英雄だと呼ばれて来た者に親切に振る舞った事にも、彼がただの農民ではなく刀を手に生きて来た者であるだろう事にも、何となくすっきりはしないのだが一応説明はつく。
 (俺は間違いなく初対面の筈だが、こいつの方はどうもそう言う感じがしねェんだよな…。ん?いやでも俺の方が既視感がある気がしてるんだっけ?アレ??)
 咄嗟に出て仕舞った問いを後悔させる様に、頭の中がぐるぐると思考を絡め出すのを感じて、銀時は己が何かとんでもない思い違えをして仕舞ったのでは無いかと思った。
 そもそも、なかなかにデリケートな問いであった。戦のその頃を生き抜いた者の中には、直接戦に参加していようが、巻き込まれただけであろうが、その身や心に何らかの瑕疵を残している事が多い。半ば世捨て人の様になる者も少なくはない。
 或いは土方もその手合いであったのだとすれば、これは不用意な問いであったと言わざるを得まい。ひょっとしたらとんでもない失敗をしたのかも知れない、と内心地雷を踏み抜いた予感を感じた銀時だったのだが、そんな想像に反して土方の表情は明るかった。否、全く変わらなかった、と言うべきか。
 「生憎だが戦には出てねェ。その頃はずっと田舎暮らしだったんでな。……そう、丁度、この村みてェな所さ」
 「そ、うか…、悪ィね、変な事訊いて」
 地雷を踏み抜いた訳では無かった事に安堵すれば良いのか、それとも、ならば己の裡にあるこの違和感や疑問の正体は一体何なのかと更に頭を抱えれば良いのか。内心首を傾げながらも、忘れて欲しいとかぶりを振る銀時に、然し土方は静かな調子で問いて来た。
 「何故、そんな事を?」
 「……、」
 お前が俺を知っている様な気がしたからな。何せ俺はお尋ね者にもなってる攘夷浪士の大物らしいから、そう言う事もあるかと思ったんだ。
 (──なんて言えるか馬鹿野郎!どんだけ自意識過剰なの?!どんだけ恥ずかしい奴なの俺!)
 解答を内心で吼えた銀時は、叫び出しそうな口を無理矢理に閉じてそっと天を仰いだ。山林の中の狭い空はもう陽が殆ど届かず薄暗くなって来ている。
 首を僅かに傾げてじっとこちらを見ている土方の目には、決して強い追求の色があった訳ではない。それでも銀時は溜息をついた。ここで解答を濁すと言うのは、自分だけは無遠慮な踏み込む問いを投げておいて余りに無責任だろう。
 「……いや。何かどうもお前さんと初対面って感じがしなくてよ。ひょっとしたら昔会った事とかあったかなー……って、」
 銀時がもごもごと早口で紡いだ言い訳に、然し土方は口元を押さえて、くつくつと笑い出した。余程おかしいと思ったのか、細めた目元押さえる様な仕草をしながら俯いて肩を奮わせている。
 「何だそりゃ、新手の口説き文句か?」
 「……はぁあ????!」
 笑いながらの土方の言葉に、銀時も思わず素っ頓狂な声を上げた。顔がかっと熱くなる。
 「ちょっと待て、何でそうなる訳ェ?!」
 泡を食って叫ぶ銀時の様子が更にツボに入ったのか、土方は腹を押さえてそっぽを向いて必死に笑いを堪える様な姿勢で続ける。
 「ほら、よくあるだろ?若いのが好きそうなやつ。今生では初対面だが何か見覚えがあると思ったら実は、前世で一緒に戦う仲間だったとか、そう言う設定的な」
 「俺どんな痛い人に見えた訳!?」
 息を切らせて笑って言う土方は、笑ったついでにふざけているだけの様だったが、痛い人認定されてからかわれると言うのは流石に我慢しかねる所である。咄嗟に言い返した銀時は内心、そこまででは無いが近い程度には痛い事を考えた己を棚に上げて誤魔化して仕舞う事にした。
 「とにかく、そう言うんじゃねェから!銀さんどこぞのテロリストと違って、もうチューニとか遙か昔に通り抜けてるから」
 「はいはい解った解った」
 「…………」
 未だ笑いの残滓をその横顔に残した土方は、笑い出すのを堪える様にそっぽを向きつつ、笑いすぎて出た涙を拭っていたが、これ以上むきになって否定しても無駄な気がして、銀時はかぶりを振って嘆息した。何にせよ、冗談で話を終わらせてくれるならそれはそれで構わないと思って、ひらりと手を振ると彼に背を向けた。
 何故か土方がいつまでも見送っていると言う確信に似たものはあったのだが、わざわざそれを振り返って確かめて、冗談と笑いに消して貰った不可解さを引っ張り出す理由は見当たらない。
 そうして山道と神社とを下りた銀時は、元の侭停車してあった原付を押して村へ続く道へと戻ったのだった。

 陽の沈んだ田畑にはもう、農作業をしている住人たちの姿は一人も見受けられない。刈り取ったばかりの見晴らしの良い田には揺れる草一つなく、山の影がじとりと平坦な闇を落としている。
 遠くに点在する家々には灯りが入っているが、そのざわめきも明るさもこんな農道までは届かない。月はまだ見当たらず、天頂は辛うじて橙の残滓を残しているだけで、足下は暗い。いざとなったら原付のライトを付けた方が、うっかりと道を逸れて田畑に落ちると言う間抜けをやらかさないで済むかも知れない。
 村の中の、平地でさえもこれだけ暗いのだから、山林の中に隠れる様に佇む、土方の家はきっともっと真っ暗になっているのだろう。灯りを入れる行燈はあったから、燐寸で火を入れている筈だ。それとも、火が勿体無いと、まず煙草に火を点ける方が先だろうか。
 「……そう言や、飲酒運転ってよく解ったな?」
 原付を押しながらふとそんな事を思う。冗談で酒を乞うてみたら駄目だと断じられたが、原付で来たと言う経緯は果たして話していただろうか。会話の中で銀時が無意識の内に、原付が足だったのだと口にしていただけかも知れないが。
 寸時首を傾げたものの、まあいいかと思い直し、銀時は朝歩いた道を逆に、足下の暗闇に注意しながら辿って戻り、荷物の配達先である仏師の爺さんとやらの家へと向かった。





そういえば地味にでこ方です。

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