アリアドネの紅い糸 / 9 通り過ぎる風景は見慣れた町並みのそれで、だから銀時はすぐに、これが江戸なのだと思った。 三軒先の反物屋、向こう辻の和菓子屋、二十四時間営業のコンビニ、騒音と煙草の煙が充満するパチンコ屋。何れの風景を切り取ってみてもそこは銀時のよく知る江戸の町に相違なかった。 行き交う人波の間を游ぐ様に抜けて、当て所なく歩みを進める。知った顔が声をかけてきて、応じて笑い合う。 天気は良いし気候も穏やかだしで、良い日だった。懐具合が多少寒々しくとも大した問題は無い。いや問題はあるが、気にしても仕方がない。 団子屋にはツケを溜めているから余り近づきたくなかったのだが、足の選ぶ道は自然とその方向へと続いている。程なくして目的地に辿り着いた所で、どこかで見覚えのある顔を発見した銀時は、得たり、と手を振って近づいていった。 黒の羅紗地に銀縁で模様をあしらった服装は、確か武装警察のものだ。緋毛氈の敷かれた縁台に、余り役には立たなそうな野点傘。その下でまったりと座していた栗色の髪の少年が、近づく銀時に応じて挨拶を返してくる。 (アレ?誰だっけ?) 歩きながら首を傾げる。知り合いでもない、年の離れたしかも警察などと言う厄介な相手に近づいて行くと言う己の行動の意図が知れない。 然し銀時のそんな困惑とは裏腹に、腰は自然と傘を挟んだ隣に下りて、口は団子を注文している。 懐は──依然として軽い侭。どうやらこの少年にたかるつもりらしいのだが、たかる相手にしては最も最悪な人種を選んでいるのではないだろうか。それだけは妙に確信を以て思えた。 知らない他人と、然し当たり前の様に益体もない会話が交わされる。だがその内容と意味は全く知れない。己の口から出た言葉も、耳に入る言語も、途中で異国後の翻訳でもかけられた様に不明瞭だ。 (……あぁ、こいつァひょっとしなくとも夢か) 警察の服を着た少年と世間話をしている己の意識など関係なく、乖離した別の意識だか感覚だかが、やがて至った結論はそれだった。 夢なら訳が解らないのも意味や筋が通らないのはよくある事で、深く考えても仕様が無いのだと知っている。 対処法は、気にせず醒めるのを待つ。これに尽きる。 そう思って、せめて夢の中でぐらい団子を味わおうかと思った銀時の前に、不意に誰かが立ち止まって視界に翳りが差す。隣の少年が面白そうな様子で笑いながら何かを口にする。誘われる様に銀時の視界と意識とが、己の前に立った人を、ゆっくりと見上げた。 これを待っていたのだ。何故だかそう確信しながら。 「 」 多分、そう呼ばれたのだろう。 名前ではないが、馴染みの深い言葉をその代わりにした呼ばれ方にも、とても馴染みがある。 黒くぼやけた目の前の人の姿を見ようと、見定めようと、銀時は目を眇めて──、 * 「オイ、好い加減起きろ。朝だぞ」 「………──」 頬に冷たい板の感触が貼り付いている。酔って眠りこけた朝は布団の上で目覚めない事も珍しくは無かったので、銀時は余り深く考えずにゆっくりとまばたきを二度、した。 (…えーと?) 記憶をゆっくりと反芻する。頭痛の気配はしない。どうやら昨晩深酒はしていない様だ。板の間とは言え一応布団もかぶっているらしいので、少なくとも路上のゴミ捨て場と言う事は無さそうだ。 「オイ」 再び声がする。新八だろうかと思ってから、銀時は勢いよく上体を起こした。 「…………」 「漸くお目覚めか。ったく、起こさなきゃ本当に昼まで寝てる気かてめぇは」 きょろきょろと頭を巡らせ、呆れた様に息をつく声の主を見上げる頃には流石に、銀時の記憶と寝覚めの意識とは合致している。新八よりも明らかに低い響きの声を発したのは。 「……オハヨウゴザイマス」 見下ろす黒髪の男の、大層目つきの悪い顔に思わずそう棒読みで投げてから、銀時は首を軽く左右に傾けた。矢張りそう寝心地の良い板の間で寝ていただけあってか、体のあちこちが地味に痛む。 とは言え、夜露の心配のない家屋内で、しかも一応は暖を取れる布団付きだったのだ。野宿をしていたかも知れない可能性を思えば、多少の寝心地の悪さぐらいは何と言う事も無い。 「おはようって時間帯でも無ぇがな。まぁいい、昨晩と同じで白飯と漬け物ぐらいしか出せねぇが、朝飯は食うか?」 腕を組んで言う土方は、銀時よりかなり前から起きていたらしい。彼が使っていたと思しき掛け布団は綺麗に畳まれており、窓の衝立も開けられて、少し湿気のある朝の空気が嗅ぎ取れそうだった。 「いやぁ…、世話になりっぱなしで」 頷いて頭を掻いてみせる銀時に、土方はふんと鼻を鳴らした。その様子がどうも、まるきり不機嫌と言った風情では無かった(気がした)ので、密かに胸を撫で下ろす。 「ただでさえ買い物とか不便そうなのに、悪ぃね、何か」 「別に、大した事はしてやれてねェよ。物入りになっても、確実に物資の揃った宿場町も近くにあるしな。一昔前に比べりゃ充分快適だ」 言うと土方は部屋の隅に寄せられた侭の卓の方を見る。釣られて振り向いてみれば、卓の上には煙草の箱があった。昔は都会でしか得られなかったこう言った代物も簡単に手に入る様になったと言う事だろうか。銀時は小さく頷いた。 「そう言や仏師の爺さんも町に買い物に行ってたんだったか」 「って言ってたな。まああの爺さんは材料や道具を買うにも、作った仏像を納めるにも、かなり遠い宿場まで行く事があるらしいから、一日で帰って来れる所に居たのは、まぁ運が良かったな」 さらりと言う土方に、然しそれで足止めをこうして食った事を考えれば、素直に良かったとも同意し難くて、銀時は曖昧に笑う。何日も戻らないほど遠方に留守にしているのだったら、当然だが待つ事などせずに荷物を無理にでも近所に預けたり、出直しと諦めてとっとと引き揚げている所だ。 「あぁそうだ、爺さんて言や、おめーの事心配してたぞ。世話になったみてェだし、同じ村に居んなら偶には顔ぐらい、」 足止めを食った事を言い募れば、やがては現状他人様の家に上がり込んでいると言う所にまで話が及びそうな気がして、銀時はふと思いついてそう口にした。 坊主は元気にしていたか、と銀時に仏師が尋ねて寄越したと言う事は、彼は土方とは暫く顔を合わせていないと言う事なのかも知れないと思っての、他愛の無い話のつもりだった。 だが、振り返った土方の剣幕はと言えば、今にも銀時の首根っこを掴まんばかりの様相であった。 「っまさか、話したのか?!」 「え、」 「爺さんに、俺の事を──名前出して、話したのかって訊いてんだ!」 びしりと鞭で打たれた様に、空気まで竦みそうな声音が、一見物静かそうな男の口から放たれるのを、銀時は困惑の侭に茫然と見上げていた。 外の木々に止まっていたのだろう鳥たちの声すら静まりかえり、逃げ去る羽音が余韻の様に響き渡るその中で、大声を上げた土方の方が狼狽した様に口を上下させ、やがて何かを堪える様にして奥歯を噛み締めた。 土方の、寸前までの姿とはまるで異なった必死の様相を前に、銀時は問いとその答えとを脳内で反芻した。突如怒鳴られて憤慨や狼狽をしなかったと言えば嘘になるが、何だか酷く悪い事をした様な気持ちになったのだ。 「……あ、いや、多分……、いや、言ってねぇ、筈だ」 土方の事を、そこで世話になった事を口にはしたが、名前では呼ばなかった気がする。確かではないが、恐らくは言っていない。気がする。 「…………」 黙り込んだ土方はそれから暫くして、「声を荒らげてすまねぇ」と小さく言い置いてから、額に親指と折った人差し指とを当てて、ゆっくりとかぶりを振った。 「別に、責めてる訳じゃねェんだ。ただ──、そう、爺さんに最初に会った時に偽名を名乗っちまって、その侭来てるもんだから、今更言い難ェってだけの話で」 愕かせてすまない、ともう一度続けてからそう言うと、土方は未だ驚きから戻って来れずに居る銀時に向けて、明らかに無理と知れる表情で柔く笑んだ。 「…朝飯、食ってくんだったよな」 先頃そう訊ねておきながらも準備はしていたのか、土間に下りた土方は、素早く白米の握り飯を四つ乗せた皿を持って戻って来る。一度背を向け、戻って来たその様子からはあの鋭い剣幕も、潰れそうな狼狽も最早残ってはいない。 「外に水桶が置いてあるから、先に顔洗って来い」 皿を見つめて無意識に腹をさすった銀時にそう言うと、土方はもう一度土間へと下りて行く。宣言通りに漬け物を用意するつもりなのか、慣れた手つきで襷掛けをして、水場に置いてある瓶を物色し始める。 (こりゃ、意識しねぇ方が良いやつだな…) 曖昧な答えは、到底あんな剣幕で怒鳴られる理由には値しない気はしたのだが、これから朝飯の世話になろうと言う身でこれ以上余計な嘴を突っ込んだり、不要に地雷を探し出すべきでは無いだろう。 一度腕を軽くストレッチさせてから銀時は立ち上がり、自前のブーツではなく、土間に用意されていた草鞋を突っかけた。ここに置いてあったのだから恐らくは使って良いと言う事なのだろう。言葉でいちいち説明されたり訊ねたりしなくとも何となくそんな気がして、別段抵抗感も疑問も無くそれを受け入れる事にした。 土方に言われた通りに外に出ると、山中の朝だけあって少し気温が低い気がする。木々の拓けた天頂にはまだ薄く蒼い空があって、陽はまだ高くは無さそうだった。 まあそれでもあの男的には『朝』なのだろう。ひょっとしたら、普段の銀時であったら再び布団に潜り込むぐらいの時間帯なのかもしれない。 二の腕をさすりながら頭を巡らせれば、果たして目的の水桶はすぐに見つかった。朝起きるなり汲んで来たものらしく、天秤棒に繋げられた侭の桶だ。 柄杓が突っ込んであったので、遠慮無くそれを借りて口をゆすぐと、両手に掬った水を顔に叩き付ける勢いで顔を洗う。都会の水道水とは異なる、カルキ臭の無く冷えた水に、未だ何処か茫然とした侭だったらしい意識がしゃんと締まった。 「──っし」 何となく上がった声と共に頬を軽く叩いて、銀時は濡れた侭の顔で空を勢いよく見上げた。 (何か、この村に来てから変な事ばっか起きてんな…) 脳について離れない違和感や、転がされた原付の事や、下衆の想像に生じた不快感や、妙な寝起きや、よく解らない理由でぶつけられた怒鳴り声。指折り数えてみれば、思ったほどにはその『変な事』の数は少なかったが、どれを取っても余り、江戸で過ごす日常の中ではそう起き得ている事では無い気がする。 (まぁそれも気の所為かも知れねぇけど) 水桶の近くに生えている樹木の枝と枝に渡された紐に手ぬぐいが下がっていたので、少し湿ったそれを借りて手を拭うと銀時は、いつもより機嫌の悪そうな頭髪を掌で気休め程度に宥めた。それからもう一度柄杓を借りて冷たい水で喉を潤す。 江戸ならば蛇口を捻るだけで得られる水が、然しこの田舎の村の一部ではまだ、どこからか水を汲んで来なければならない。 肺にそっと溜めた空気には排気ガスの臭いは混じっていない。 (不便さを引き替えにしても、そう言うもんが大事だとか思ったのか、それとも已むに已まれぬ事情で仕方無しに、なのか) 何となくそんな風に思う。土方の口から直接そうと聞いた訳では無かったが、彼の様子はどちらかと言えば都会の人間のそれに近い気がしていた。最初に江戸の事を訊いて寄越したのも、その辺りに原因があると考えるのが矢張り自然な考えだ。 田舎の暮らしに慣れていない訳では無さそうな彼が、然し都会の方が馴染み易いと直感的に感じられるのは恐らく、言語に妙な訛りが無いのと、世知に疎い風ではない所からだろうか。 都会に縁者は居ない。戦に出ていた事も無い。と、なると銀時の裡に生じた既視感の様なものは、土方から感じ取れる都会の気配故の、一種の錯覚の様なものなのかも知れない。 彼がどう今までを過ごして、何があってこの村に辿り着いて、仏師と会って何が起きたのかは解らない。それがあの剣幕に繋がる理由になっているのかさえも解らない。 だが、予想し得ぬ所に地雷とは転がっているものだ。もうあの仏師に会う事は二度とは無いだろうが、会ったとしても土方の事は話題にするべきでは無いと言う事は一応肝に銘じておく。 (……やめやめ。詮索なんざしてどうすんだよ。どうせ解らない仕舞いだし、つーかこれ昨日もやったし) 滑らせかけた思考を引き戻して、銀時は出来るだけ軽く息を吐いた。この空間に居る以上どうしたって考えがそちらの方へと傾いて行くのをどうも止め難いらしい。下衆の詮索など趣味ではない、と言い聞かせる様にゆっくりと胸中で諳んじると、かぶりを振って家の方へと向かった。 取り敢えず腹ごしらえは誘いに甘んじて頂くとして、後は原動力を失った原付を押して一番近い宿場へ戻るだけだ。田舎とは言え今は車社会だ、燃料ぐらい然程労する事もなく調達出来る。 そうしたら、後は来た時の逆を辿って、江戸に向かってまっしぐらに原付を走らせるだけだ。昼は道中で適当に食べれば良いし、遅くとも夕方までには帰れる筈だ。 (そしたらもう、こんな気持ちの悪い田舎の村の事なんざ直ぐに忘れちまおう) 着地した結論に自分で深く頷くと銀時は、土方が待っている家へと、僅か数歩の距離をゆっくりと戻った。 。 ← : → |