アリアドネの紅い糸 / 10



 「じゃあ、二度目になるけど世話んなった」
 「ああ。道中気をつけて帰れよ」
 そんな言葉を投げ合ったのは、朝食を終えたばかりのまだ朝と言える時間帯。ブーツに足を突っ込みながら言う銀時に、水桶の中で食器を洗っていた土方がそう応じる。
 原付の鍵はちゃんと袂に入っていた。他に確認する忘れ物も特にない。だが、板の間に腰掛けた銀時は閑散とした室内をぐるりと視線だけで見回した。
 取り立てて何か興を惹かれるものがある訳でも無い。本当に、最低限の暮らしをしているとだけ知れる様な小さな小屋の様な家は、今はそこで一人きりの生活をしている男の、それだけの為にただ存在している。
 振る舞われた朝食は、土方の言った通りに簡素な白い米と漬け物だけのものではあったが、一日のサイクル通りに空腹になった胃には充分な量だった。食に困る程貧しいと言うよりは単に清貧なのだろう。過分な贅沢は必要無いと言う点には銀時も頷けるものがある。
 風呂に入る事が出来なかった事を除けば、飛び込み的に屋根を借りた身には充分過ぎる程に世話になって仕舞った。最悪神社の軒下で眠っていた事を思えば、土方が彼にとって不審者の余所者でしか無い筈の銀時を泊めてくれたと言う事は、紛れもなく幸運な事だったと言えよう。
 (…まぁ、だからこそ引っかかる、んだけどな)
 とん、と履いたブーツの踵で土間を叩いて、銀時は密やかに溜息をついた。詮索は馬鹿馬鹿しいと繰り返しながらも、気がつけば堂々巡りの様に疑問が戻って来る。
 そう、余所者で不審者の男を家に上げたばかりか、明らかに『親切』──しかも過分と感じられる程の──としか言い様の無い応対、或いはもてなしをされる、その理由がどうにも引っかかって仕様が無い。
 「……なぁ、」
 然し銀時に考えられる己と見知らぬ彼との接点──戦での出会いは既に否定されている。ならば、都会に住まう者の気配を持つこの男と、江戸の何処かで会った事があるのではないか。
 土方十四郎。名前を今一度、二度と反芻して、それに返る記憶の手応えが無い事を確認しながら銀時は、呼び声に振り返って襷を解いている彼の姿をじっと見た。
 「やっぱり、何処かで会った事とか、あったりしねぇ?」
 歯切れの悪い質問に明確な主語は無かったが、然し土方はほんの僅か目を細めると、白い額に落ちかかった髪を指の背でそっと除けながら、笑おうとした。
 「てめぇもしつこいな。知らねぇよ」
 笑い飛ばそうとして、恐らくは失敗した。だが、土方が作り損なった下手くそな愛想笑いのその正体を、その心当たりを、矢張り銀時は見つける事が出来そうも無かった。
 「…………そうか」
 「そんな事より、早めに出た方が良いぞ。幾ら舗装道路とは言え、慣れねぇ奴には山道は結構時間を食う。況して原付なんて転がしながらだ。昼までには宿場に着きてェんだろ」
 「……あぁ」
 早く出て行け、とは言わないが、似た様な事を土方が言いたいのだろうと言うのは解った。銀時は胸の裡で不快に蟠るものを抱えた侭、立ち上がると玄関へと向かった。
 振り向くが、今度は土方は見送りには出て来なかった。土間の中程に立った侭、銀時の姿をただ静かに見ている。その手は組んだ着物の中。伸ばす気配も縋る様子も無い。
 「……じゃあな」
 また、と言えばきっとまた否定される。そう思って銀時が手を軽く持ち上げて言うのに、土方は小さく頷く様な仕草を返すのみであった。
 だからこれは正しい。きっと、正しいのだ。
 (他に、何があるってんだ。──馬鹿馬鹿しい)
 振り捨てる様に向けた背に、視線だけがきっと付いて来ている。だが矢張り振り返ってそれを確かめる様な度胸は涌かず、銀時は玄関戸を後ろ手に引いた。建て付けの余り良くない戸はきっときちんと閉まってはいないだろう。だがそれでも、振り向こうと言う気はしない。否、そう思って仕舞う前に、銀時は足早に神社へと続く山道を下りていった。
 (後ろ髪引かれる、ってこんな感じか?…イヤイヤ何言っちゃってんの俺)
 つい想像して仕舞ってから顔を顰める。山奥に一人ワケアリで暮らす未亡人とかならともかく、相手はワケアリの男だ。それも恐らくは余り愉快な『訳』でも無さそうな手合いである。普段の銀時であれば真っ先に関わり合いになる事を避ける類である事は間違いない。
 「……」
 鳥居の下をくぐり、苔生した階段を見下ろす頃には小さく肩が揺れていた。どうやら自分でも思っていた以上に早足──寧ろほぼ駆け足の速度で来ていた様だ。どうかしてる、とかぶりを振って、銀時は足を滑らせる事がない様に慎重に石段を下りた。
 山を漸く下りた時には呼吸もすっかり整っていた。原付を隠した茂みを覗いてみれば、昨晩自らそこに置いた記憶の通りに、愛車は横倒しにされる事もなく停めてあった。
 そして今度は特にどうと言う異常も見当たらない。タイヤが外される事も、パンクさせられる事も、ミラーが割られている事も無い。昨晩銀時の置いたその侭の姿で、燃料だけが無い原付は主の帰りを待っていた。
 「……ま、そうだよな。これでまた何かあったら流石に不気味過ぎらァな」
 我知らず身構えて仕舞っていた事に気付いて、銀時は苦笑した。奇妙な事が続いてはいるが、全ては取り越し苦労なのかも知れない。天領とは言え田舎だから変な事ぐらい珍しくもない。…のかも知れない。
 (早く江戸に帰ろう)
 のどかな農村の空を見上げてそう、言い聞かせる様に呟くと、銀時は原付を押して歩き出した。宿場に到着するのは昼の少し前頃だろうから、その侭昼飯を腹に入れて、ひょっとしたら一日連絡が無い事を心配しているかも知れない依頼主の元に電話で連絡を取っておこう。交渉次第だが、上手く行けば一日分の滞在費用──実際、銀時の懐から予定外に出て行ったのは燃料費ぐらいだが──を受け取れるかも知れない。領収書は無いが、田舎ではそう珍しい事でもない。
 つらつらと今後数時間の計画を立てながら、山間を抜ける道路の緩やかなカーブの続く勾配を登って行く。これは結構な重労働になりそうだと、出発して三十分もせずにそう確信はしたが、足を止めてゆっくりと休む気にはなれなかった。
 田舎道だからか殆ど車が通る様子は無かったが、一応は山側の道を慎重に歩く事にした。休むにせよ歩き続けるにせよ、万一余所見運転の車にぶつけられたらたまったものではない。
 だが、銀時のそんな心配を余所に、何事もなく道路は続き、程なくして緩やかに下る様になった。山を越えたところで何となく足を止めて振り向いてみるが、後方に続く舗装道路の先は、今し方通って来たカーブしか見えはしなかった。その先は古ぼけたガードレール代わりの柵が遮る谷川だ。
 「………」
 振り向くにはきっと遅かったのだろうと思ってから、荒唐無稽に過ぎるその想像に苦笑して、銀時は頭を軽く掻くと前方へと向き直った。山を下り終えれば、行きにも通り過ぎた宿場がある。
 
 *
 
 適当に目についた蕎麦屋で、一番安い板せいろを頼んでそれを平らげる。蕎麦湯まで頂いてゆっくりと人心地がついてから、支払いついでに店主に一番近いガソリンスタンドの所在を訪ねてみれば、大きな街道の跨る交差点にあると教えられた。
 地図で細かく説明されなくても直ぐに解ると言われた通り、教えられた道の先に程なくして待望のガソリンスタンドを発見した銀時は、砂漠でオアシスを発見した旅人の心地が解った様な気がした。
 何しろ動かなくなった乗り物など、ただの車輪のついた器物である。況して田舎の道は舗装されているとは言っても、あちこちに修理を要する様なひび割れや窪みが目立つし勾配も多い。そんな道を、荷物が何も載らない癖に重量だけはあるものを押して歩かなければならなかったのだ。
 その苦労体験の感想はと言えば、まだ自前で動けるだけ自転車の方がマシなのではないかと思って仕舞う程である。
 原付から燃料を抜いた何者か、或いは『何か』に逆襲も嫌味も請求も出来ない以上は、愚痴の遣り所も無い。疲れた体の消費したエネルギーは昼食で何とか取り戻しはしたが、想像以上に精神的な損耗が大きい気がする。
 取り敢えず原付の燃料を補充した銀時は、ついでと思ってガソリンスタンドの事務所にある電話を借りる事にした。店主らしき老人には「今時携帯電話も持ち歩いとらんのかね」と笑われたが、聞き流しておく。こんな田舎にまで文明の利器は滞りなく流入している様だが、それなら道路とかインフラ整備をもっときちんとして貰いたいものである。流石に口には出さなかったが。
 件の、仏師の元に届けた荷物の受領表を見ながら、そこに書いてある依頼人の電話番号を打ち込み、受話器を耳に当てて暫く待つ。三度目のコールの後、電話を取ったのは銀時の元に荷物配達の依頼を持ち込んだ人物であった。
 「……て訳で、荷物は無事届けたんですがね、帰れるのは今日の夕方以降になりそうで」
 話が早い事に感謝しつつ、銀時はまず依頼の完遂と昨晩の空白の事情を掻い摘んで説明した。それから一日をロスした事についての話を掘り下げる。
 だが、届け先である仏師が不在であった事は、事前に荷物を配送する連絡を入れなかったそちらの落ち度だろう?とわざわざ念を押さなくとも、依頼人側はあっさりと、
 《解りました。手間も余計にかかった様ですしね、依頼料に滞在費を上乗せしましょう》
 そう先んじて言って寄越して来た。舌先三寸で交渉をする気でいた銀時としては何となく拍子抜けではあったが、まぁ旨い話になるなら構うまいと、それに甘んじる事にした。何から何まで話が早いのは有り難い。
 それから更に幾つか細かい話をして、納得してから電話を切る。無駄に手間と日とは取られたが、この調子ならばそんなに悪い結果では無い。手間賃として懐に全部入れて仕舞おうと思えば、自然と足取りも上機嫌になる。
 (新八と神楽には、なんかそこらで土産物の饅頭でも買ってきゃ良いだろ)
 地元の和菓子屋の捜索をわざわざせずとも、街道沿いには最近多い、地産のものを委託販売したりしている大型の総合店舗があった筈だ。そこで適当に何かを土産に買っておけば、留守番の二人にも謂われ無き事で責められる様な事にはなるまい。
 一人で旅行を楽しんだだの、二人きりでハネムーンでも満喫してたのかと、からかわれたり文句を謂われるのは心外だ。
 (そんな事になったら絶対──、)
 にやにやとからかい混じりに笑う新八と神楽の姿を想像した銀時の思考は、然しそこで急停止した。益体もない、想像の中の万事屋の風景に居る己が、隣に居る『誰か』を振り向いて宥めようとするその動きの侭に、自然と頭を巡らせる。
 「──」
 息を呑む。
 当たり前だが、そこは今し方出て来たばかりのガソリンスタンドの事務所でしかない。手狭な建物は硝子張りになっていて、デスクに向かって店主の老人が書類仕事かクロスワードパズルか何かを熱心にしている姿と、切ったばかりの電話と、昼下がりを知らせる時計と、点けっぱなしの国営放送のテレビがあるのが外からも伺える。それだけだ。
 「……」
 喉が渇いて貼り付く。厭な汗が項を滑り落ちて行く錯覚がする。ぐらりと脳髄が揺らぐ。
 言い知れぬ、記憶の中に突如入り込んだその、寒気がする様な違和感。
 (何を、振り向いて、何を、誰を、)
 『誰』かは解らない、然し銀時はごく自然に、当たり前の様に、子供らにからかわれたその『誰か』が、満更でもない本心を明け透けに出す事が出来ずに不機嫌を装って居るのだと、確信しながら振り向いていた。
 宥める言葉でもかけながら少しからかおうと思ったのは、『誰か』が本気で不機嫌を示してはいないと、知っていたからだ。
 記憶には無い。だからこれは恐らく単なる想像、ないし妄想の光景なのだと思う。だがそれにしてはその様子は余りに生々しくて、鮮明で、現実味があった。
 ただ、『誰か』の部分だけが空白で、そこを埋めるものを、埋まるに値するものを、銀時は知らない。
 「…………」
 知らない事に疑問を差し挟む余地など無い。あり得ない事の可能性を模索するのとは話が違う。思い当たりも心当たりも無いものについてを考え続けるのは、狂人の思い込みか、道楽の酔狂だけだ。
 知らぬ内に矢張り疲れていたのかも知れない。ありきたりなその結論で思考に半ば無理矢理に蓋をすると、銀時はガソリンスタンドの隅の方へ、すっかり燃料を補充されて置かれた原付の方へと向かった。
 「……?」
 と、その視界に何か黒いものが過ぎる。目を細めて見遣れば、真っ黒な猫が一匹、原付の足下から出て来て、ガソリンスタンドを横切る様に悠然と歩いて行くのが目に入った。
 「………イヤイヤ。まさか」
 黒猫が目の前を横切る事を不吉だと言う事はよくある。だがそんなのは迷信以下の何かであって、黒い猫絡みで実際不幸になったとかそんな統計は存在していない。寧ろ単なる、黒猫への風評被害も良い所の話である。
 然し銀時には、何となく、程度なのだが厭な予感があった。だがそれは黒い猫由来ではなく、一度あることは二度ある、と言う類の、これもまた迷信には違いないのだが、もう少し現実に即した感のある言葉に基づいたものである。
 そっと原付に近づいて、まず真っ先に燃料周りを検めてみるが、こちらは別に問題は無さそうだった。燃料は満タン。蓋が外されている事も、タンクから漏れている事も無い。
 「………まさか。まさかだよ」
 自らを安心させる為に呟いた言葉が僅かに上擦るのを感じながら、銀時は座席の下の物入れをそっと開けてみた。すると殆ど空っぽのそこに、見慣れないものが一つ、まるで見せつけるかの様にぽつりと鎮座していた。
 「……………」
 嘘だろ。胸中で思わずそう力なく紡ぐ。見下ろしたそれは、昨晩仏師の工房で幾つか目撃した、工具の一つの様に見えた。当然だが一般人や銀時の持つ様なものではない。況して、原付の物入れの中に間違って入り込む様なものでもない。
 「段々怖くなって来たんだけど、何コレ。一体何なの。誰のイヤガラセ?」
 倒された原付、こぼされた燃料、物入れに紛れ込んだ工具。どこを取ってもおかしな事しかない。何れも、自然や偶発的に起こり得る様な事では無い。
 これではまるで──
 「………」
 想像と、乾いた言葉に答える者は何もない。周囲を見回しても、誰も、何も、無い。おかしな所は無い。何も無い。
 何も。
 (おかしな所も、ものも、何も、無ェ、筈だろ…?)
 幽霊、妖怪、物の怪。そう言ったものの益体もない悪戯を信じるぐらいなら、人の悪意と思った方が未だマシだ。マシだが、それの方がより恐ろしい。
 座席を元に戻すと、銀時は得体の知れない想像を振り払う様に、ヘルメットを被ると原付に跨った。エンジンさえ無事に動いてくれるならば、苦労した山道なんてどうと言う事も無い。
 仏師の商売道具であるならば、この侭持っていって仕舞う訳には行かない。郵送するぐらいなら、まだ戻れば近いのだから、この足で直接返しに行った方が早い。
 (誰が、とか、何の為に、とか、悪意だとか悪戯だとか──、まぁ後で考えりゃ良い)
 どうせ考えた所で結論も解答も無さそうだが。思ってかぶりを振った銀時は、原付を勢いよく走らせて、元来た道へと向かった。







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