憤慨。憐憫。慰藉。そんなものを待っていた訳ではなかったし、望んでいた訳でもなかった。
 茫然と。そう、呆然としか言い様のない表情を形作った男の口が、問いか或いは侮蔑を形作る前に、探さなければならなかった。
 理由を。嘘を。口にしなければならなかった。それらしい、尤もな、騙されて然るべき嘘を。出来る事ならこの男の怒りを呼び起こせる様な嘘を。男を裏切る為の嘘を。きっと酷く男を傷つけるだろう嘘を。きっと酷く男に傷つけられるだろう嘘を。
 「お前…、」
 ああ。これで、終わり。
 呆然とした表情の延長線の様に男が紡いだ呼びかけに、土方は遂にその時が来たのだと、唐突な理解をする。
 ……否。理解ではなくこれは諦めだ。その時が来たのだと思い知っただけの事。
 きっと最初からそんなものは無かったのかも知れないが、そう言って押し込める様なものではない程に雑草は育って仕舞っていた。
 だとしても。手に血を滲ませながらも、引き抜け。残らず。根こそぎ。枯れて仕舞った花たちごと、全てを。
 お前のいない此処には、もうなにも要らない。お前以外は何も要らない。
 そう。何も無くなれば、きっと昔の自分に戻れる筈だから。
 (だから、お前を切り捨てる時が来たって事だろう……?)
 斬る事の叶わなかった男を、切り捨てる。
 ……………これではまるで、酷い茶番だ。三流の脚本の様な、涙も笑いも残さない茶番劇。
 そう気付いて仕舞えば、口には自然と笑みが浮かんだ。自己嫌悪に浸されて醜い、情のない恬淡とした嗤い声が喉を震わせて零れ出る。
 (……終わりだ)
 男の言葉がそれ以上続く前に。先んじて言い放とう。お前を切り捨てる為の嘘を。手前の心を殺す為の嘘を。
 どこか乾いて落ちた男の声に感じたのは、呆然とした侭の──然し確実な狼狽。そう、躊躇ったのは言葉。その傷痕はどうしたのだと、何があったのだと、本来ならば土方の胸倉を掴み上げてでも問いたかった疑問を、銀時は呑み込んだ。
 それは遠慮か。恐怖か。怒りか。何れであったとしても、土方の事を案じてくれたからこそ呑み込んだ言葉だ。
 だからこそ、その先は言わせてはいけないものだった。男はきっと、土方が気休めか嘘か真実かの理由を口にするまでは、退かない。
 だが、これは。お前が案じる様なものではない。ただの、手酷い裏切りだ。どうやっても傷つける事にしかならないものだから。
 ゆっくりと見上げた顔に浮かんでいたのは、矢張り、狼狽。そして、酷く心配そうな色を灯した眼差し。
 蔑視の類がそこに伺えなかった事に気付き、土方はこんな時だと言うのに笑みを浮かべずにいられない。韜晦の果てのひび割れた笑い顔など、恐らくは酷く乾いて空々しいものだろうとは思ったが。
 「……んだよ、別に驚く様な事か?いつもテメェだってしてる様な事じゃねーか」
 刀を抜くのと同じ様に、毒はいとも簡単に喉から零れ出ていた。その毒を真っ向から受けた男の顔が強張るのからは眼を背け、見ないふりをする。
 口にすれば酷く簡単な嘘。呆れた二枚舌だなと思いながら、土方は殊更に銀時を傷つける言葉を選んで行く。
 違うのは解っている。この手の下、隠そうとした疵は醜いものだ。あの老人がただの戯れと辱めの意図で付けただけのものだ。それをこれから暫くどう仲間達や坂田銀時に隠そうとするのかと揶揄する為の悪意でしかない。男が日頃、想いを残したいから付けさせて欲しいと願う疵痕とは、何もかもが違う。
 解っている。だが、男の表情が嫉妬を孕んだ剣呑なかたちを作るのに、その酷い言葉が、上手い事銀時を傷つけられたのだと、騙す事が出来たのだと知れて、土方は泣きたくなる様な安堵を覚えた。
 言葉通りの、正に泣きたくなる様な、安堵だ。
 「………へぇ…。そうだったんだ」
 いつもは重たげな目蓋が、剣呑な笑みを刻んで歪む口元に合わせる様に、すいと細まる。そんな表情をすればこの男は、異相の様な銀の色彩も手伝い、酷く人間離れした酷薄なイキモノに見えるのだと、そんな事を、千々に裂いた自らの心の端に思う。
 その酷さで、その強さで、その怒りで、その侮蔑で、斬り捨ててくれれば良い。俺が、お前にした様に。
 (……受けて立ってやらァ。テメェの怒りは正しいもんだ。その侭、何の未練も残さない様に、斬り捨てりゃ良い)
 そうやって、この一瞬後からは元通り。真選組の副長として、近藤に、組に、全てを懸ける土方十四郎に戻る為に。
 間違っても、坂田銀時をこれ以上もう選ぶ事のない、鬼の副長に戻る為に。
 真選組の副長が、組を護る為の手段の一つとして、碌でもない取引に諾々と今は応じる事を選んだ。無論この侭黙って好きにされてやる心算などない。だから、嗤える。その為に利用し切り捨てた銀色の男の前でも、笑っていられる。
 そして平然と男を傷つける言葉を選び続ける。彼の魂を、寄せてくれた想いを、心を裏切る様な言葉ばかりを投げつけて、男の返す、酷いのだろう言葉の数々が麻痺した心を痛みもなく叩いて来るのに、また新たな毒と刃とを向ける。
 「ほら、俺って結構独占欲強ェから。他の野郎の手垢付けられた汚ねぇ男の身体なんて、抱く気にもなんねーのよね」
 実に尤もな男の言い分に、まるで賛同する様に小さくわらう。自嘲の心算で。
 拳の中に握り締めた小さな弓形の傷たちも、もう既に何の抗議もしてこない。この痛まない手なら、黙って幕を引ける。だから、これで良い。男を切り捨てる事も、男に斬り捨てられる事にも、成功したのだから。
 「…あァ、そりゃ結構な話だ。んじゃもう、テメェとはこれまでだな。とっとと帰れよ」
 男がどんな顔をしているのかは見たくなくて、そんな自らの臆病さに土方はまた一つ自己嫌悪を積み重ねるが、眼すら合わせない程に『どうでも良い』のだと思われれば良いかと考え、急激に質量を増した様に感じられる身体が、動作の一つをもする事が出来ない事を諦めた。
 未練たらしい心が万が一縋る様な視線を、手を伸ばす事を許して仕舞ったらどうしようかと案じていたのだが、この分ならその心配ももう無いだろう。今はこの訳の知れない虚脱感が心地よく、好都合だ。
 「じゃあな副長サン。お仕事頑張って」
 揶揄の意味しか探れない男の最後の言葉に、喉を鳴らして土方が嗤うのと、男の足音が永訣を示す様に消えて行くのは同時だった。
 「……っくく、…は、は、、……──ッ!」
 ともすれば喉を裂いて飛び出しそうな嗤い声を、両手で口を押さえて堪える。
 「──、──、、──!!」
 哄笑というよりは絶叫が、強く押さえた喉の奥で暴れ狂っている。土方は己の口を封じた侭、身体をくの字に折り曲げた。額を膝に思い切り押し当て、かぶりを振って声を呑み込む。
 そんな風に、嗚咽を堪える様な衝動に伏して、どれくらい経った頃だろうか。
 すまなかった、と。漸くそんな言葉が、ひとときの荒々しい激情の引いた後に、ぽつりとこぼれおちた。
 それを聞かせるべき相手は、もういない。
 ここにはもう、居ない。
 


  雨枯れの花 / 7



 土砂降りの音がする。
 枯れた花々を無情に打ち据える濁流が、止まない。


 足音はもう遠く聞こえない。気配などもう何ひとつ感じられはしない。枕元にぽつねんと取り残された侭の、茶色く変色し始めた林檎のうさぎ達だけが、そこに先程まで『誰か』の確かに居た名残を示しているばかりだ。
 長時間の同じ姿勢に、抗議をする様に痛み始めた背中をゆるゆると持ち上げ、土方は疲れ果てた心を持て余す。
 呼吸一つさえ憚られる様な、泥の海に沈められるのに似た感触が四肢の末端までを浸して、全身も、心の何処かも、酷く重たい。
 まるで自身が砂の詰まった袋にでもなって仕舞った様に、重く、重たい肉体の癖に、そこに感じられるのは空虚な心がひとつきり。
 湿り気を帯びた着物と肌とは、どろりとした風に晒され続けて冷えきっている。
 姿見など見ずとも。手前自身の体を見下ろさずとも。散々料亭の湯殿で目の当たりにしたそれが、一体どんな風に他者の目に映るものかぐらい簡単に知れる。刻まれた『狗』の躾の痕は自身とて厭いたくなる程に醜く浅ましいものでしかないのだから。
 思って襟を寄せるが、そうしてから、意味もないことだったと少し嘲る。
 消えるものでもないのも承知。手当をするものでないのも承知。消せるものでもないのも、承知。
 何をした所で、どう否定した所で、認めず足掻いた所で。『狗』として屈した事も、承知している。
 山崎は何も言わなかったが、土方が幕臣の嫌味の晩酌に呼び出され、予定より大分遅くなったその帰り途での三下の攘夷浪士から受けた襲撃に後れを取る様な為体を晒した時点で、こう言った疵を負って帰る事を恐らく想定していたのかも知れない。単独で手当をして、『見なかった』事にしてくれた。『そういう事』で良いのだと言って寄越してくれた。
 だが、銀時にまで同じ感情を求めるのは、身勝手な話と言うものだろう。
 一応は世間一般的には『付き合っている』と分類出来る関係にあったのだ。明かに自分以外の他者に触れられ拓かれ、被虐と所有の痕を残された、その様を。不義理だ、浮気だ、裏切りだと罵られるのは──感情的には仕方のない話だとは思う。
 それが同性同士と言う無意味な行為の為の身体であったとしても、あの子供じみた独占欲を持つ男にとっては、自分の所有物を勝手に使われた、ぐらいの怒りは湧いて然るべきだ。
 (裏切り、とかじゃなくて……、いやそうじゃねぇ、こんなのは無意味で、でもあいつが、)
 あの男が、まるで女にする様に、馬鹿みたいに丁寧に。情以上の優しさや労りや愛しさを込めて触れたりなどしてきたから、無意味な筈の手前の身体にも、刹那的な逃避にも似た快楽を共有するだけの行為にも、銀時が気に入って執着する様な『何か』があるのだと思えた。
 それ以上は求めるな、と土方の言った通りに銀時はいつでも、土方の内情や都合については、真剣な意味では何ひとつ望む事は無かった。会えない時期が続いたり、下らない諍いを起こした時には不貞腐れた様な言い種や態度を取る事はあったが、本気で不平を買いそうな気配を察知すると直ぐに矛先を引くか逸らすかして、大人しく引き下がってくれていた。
 まるきり我侭や勝手が無かったとは言わないが、大概はそれとなく折れてくれて、釣った魚に餌をやらない様な状態を意図せず作って仕舞っていた土方に合わせてくれていた。
 遠慮される事自体は余り好ましいものではないのだが、それが単なるご機嫌取りの類ではなく、土方の、何をさておいても遵守する『真選組』の事情を原因にした喧嘩はしたくない故のものだったのだとは後々知った。
 あの、我侭と屁理屈と面倒臭がりが三畳のワンルームに同居している様な男が。そう思うと信じられないことこの上無いのだが、それだけ土方の事を、危うさと隣り合わせの関係を大事にしたいのだと思ってくれていた、と言う事実に他ならないのだと思い知らされる。
 こんな風に、銀時の与えてくれた想いごと手前を売り払う様な身勝手さは──相手の心を蔑ろにする様な真似は──、ついぞ見せた事などなかった。
 「……っ、」
 ぢく、と肚の底に鈍い痛みがある。心を貫いて刺す様な針の、小さいのに耐え難い痛み。
 "他の野郎の手垢付けられた汚ねぇ男の身体なんて"──
 そう嗤った温度の無い銀時の笑みが、突き刺さった針を、土方の更に深いところまで押し込んで来る。
 「、ッ、う…、」
 止まない痛みに胸を強く押さえ、土方はその場で膝を抱いて背を丸めた。まるで子供の様だ、と自嘲すれば、切れ味の悪い刀みたいな痛みは更に深い所を抉って響いてくる。
 (お前…が、こんなもんを、馬鹿みてぇに大事になんざするから──、)
 俺はきっと思い違えて仕舞ったのだ。
 これはお前に愛されて良いものなのだと、間違って仕舞ったのだ。
 強要された、辱めの意図しかない下らない、失うものなど無い筈の所行が、まるで惚れた相手に操立てした女の様に怖かった。
 『狗』に成り下がった自らの身を、在り方すら厭い、あの男にだけは知られたくないと思った。
 そして、方便無くなった感情──否、ただの感傷だけで、深夜を単独で徘徊した挙げ句に三下の攘夷浪士程度に後れを取った。
 (情けねぇ……)
 抱えた脚に爪を立てて、土方は歪んだ視界を隠す様に目元を強く膝上に押しつける。
 女々しい、と言う言葉以上に、女の様な傷つき方をしている自分が厭わしくて堪らない。激情家だの意外と涙脆いだのとは近藤などにもよく言われていたが、感傷だけで涙がこうも容易く流れるものだとも思わなかった。
 (……いや、)
 銀時が土方の嘘に激昂するのは当然の事だ。だから、それに対して吐かれた暴言とも言える言葉は、あの男の深かった思いの証明でしかないのだから、どれほど痛かろうが諾々と受け止めるしかない。
 恐らくは土方よりも、それを吐いた銀時の方が傷ついているに違いないのだ。あの男は不真面目で不誠実なフリをして、本当は酷く優しい男なのだと。知っている。
 泣こうが喚こうが傷つこうが、決定的な隔絶を突きつけられるより先に、銀時が与えてくれた気持ちや労りを裏切る嘘を吐く事を選んだのは、誰でもない土方自身だ。
 分不相応に。銀時の護る世界を、彼に叶わぬ癖に、それでも護ってみたいと思った、土方自身だ。
 だからこそ──余計な事をするなと言われるのが、何よりも怖い。
 銀時に、彼を護りたいと思った決意を砕かれて仕舞うのが、恐ろしくて堪らない。
 『狗』に貶められた事を嫌悪されるよりも、余程。
 あの男に、土方の成そうとした『侍』の魂を否定される方が、余程。
 「……く、」
 ……狗の身で、自身を侍であるなどと未だ思い上がる。これは何と無様な生き物だろうか。
 はは、と小さな自嘲の声が、一筋の涙と共に部屋に落ちた。
 それとは逆に、声を上げて嗤う。
 傷つく資格など、この場のどこにもありはしないのだから。
 
 *

 あの冬の日。年末の忙しい時期の職務に忙殺されて、気付けば見廻りにさえ碌に出れていなかった土方を見かねたのか、近藤に半ば無理矢理屯所から出された。
 不機嫌だと顔面一杯に書いている様な副長に付き合おうなどと言う物好きで暇な隊士もおらず、近藤も頑として仕事に戻らせようとはしてくれない。これはいよいよ総悟の日常行事の呪いが形にでもなったかと思いながら、数刻は潰さないと駄目かと諦めて屯所を出た。
 久々に歩いた町は冬の乾いた風に晒されて寒く、熱燗と温かい食事と、と算段を重ねて適当に歩を進めていたのだが、連日の残業ですっかり仕事脳になった頭は、町中の至るものにも自然と意識が奪われ(目を光らせている、と見えたに違いない)、居酒屋を探す筈の思考は気付けば困難な懸案事項へと移って行って仕舞う。
 そうして気付けば、個人的な用では余り近寄らない界隈にまで出ており、もう何でも良いと、適当に目についた縄暖簾を潜った。目抜き通りから一本裏に入ったそこは人通りも少なく、辺鄙そうな立地は都合が良いと思ったのもある。
 幕臣かはたまた攘夷浪士か。佩刀した侍の姿に、店内の酔客の注視が暫し集まるのなど慣れた事だが、こう言う『針の蓆』の様な煩わしい思いをいちいちしたくないから、普段は慣れた店にしか行かない様にしている。
 まあ、気も漫ろに歩いていた為、馴染みの店など通り越して仕舞っていたのだから仕方あるまい。
 興味を失った様に再び離れていく視線達を振り捨てる様にそう思いながら、頼んで奥の座敷に上がった。適当に注文をし、仕事の事で一杯な頭で碌に解らない酒の味と、カロリーにする為だけの様な作業感で食事代わりの肴を胃にのんびりと詰め込む。時間を潰さねばならない以上、有り余る暇は有効に扱わなければならない。
 仕事を続けている方が余程マシだった、とは思うが、近藤が顔を顰める程に、土方の勤務状況は酷いものだったのだろうと結論付けて仕舞えば悪態を付く理由もない。
 そして、そんな中に入って来て、勝手に相席した挙げ句どうでも良い話ばかりを投げて来る銀髪の侍と思いの外話が弾んで。まあ酔っ払い同士の会話だ、と思いながらどうでも良い話をこちらからも投げて応じてみた。
 埒も無い、本気の争いにもならない遣り取りは、多分普段の自分達らしからぬものだったに違いないのだが、不思議と悪いものでもなく。
 これが、いつも見えなかったものだったのか。それとも、今つくられたものだったのか。思いはしたが、どちらでも別に良かった。
 一秒後には斬るかもしれない相手と交わす言葉や心など、此岸と彼岸の狭間で見る夢の様なものだ。
 アルコールに因る現実からの遊離感と、酩酊してふわりとした脳が、万事屋の振って来るどうでも良い様な冗談に小さく笑い声を上げさせ、それに時折水を差す様に、店に入ってくる新たな客の気配に刃の記憶を取り戻して身構える。
 心地よい空気にともすれば囚われかかる土方を、まるで無理矢理に引き戻す様に吹き込む冷たい冬の風。それはまるでおかしな、よく解らない感覚の乖離そのものの様だった。酔っているのか、酔えているのか。解らない。
 やがて、そんな土方の前に、銀時が頼んだらしい料理の皿が置かれた。こんなのはメニューにあっただろうかと首を傾げつつも取り敢えず勧められる侭に箸をつけたら、これが存外に美味しい。持参したマヨネーズ山を上に作るまでもなく普通に気に入って(勿論マヨを掛ければ更に美味しくなったとは思うが)、糖分に浸された味覚馬鹿だと思っていた万事屋にしては良い趣味だと感心した。
 「美味ェだろ?」
 そう笑って、自身でも何処か満足そうに、嬉しそうに言う男の顔を見た時、ひょっとしたら自分のお気に入りを教えてくれたのだろうかと思い至って、思わず正直に頷きを返していた。
 自分の庭しか──多分にそれはとても広い、たくさんの花の咲く様な庭──愛さない男だと思っていた。
 否、全てを仮令愛していたとして、自分の周囲のものたちを特に大事に大事に、信頼して護られている分、魂全てを掛けて護る男なのだろうと、漠然とそんな風に思っていた。
 町を歩いているのを見かければ、見たことも無い様な人間、何処にどういう縁があるんだと首を傾げたくなる様な人々と話している姿が目立った。
 仕事柄、もあるのかも知れないが、沢山の知り合いや縁があり、かぶき町の何処に居ても男はそこを自分の住処の様に歩いていた。
 そして、懐がとても広い分、深い部分を酷く大事に抱え持っている彼は、自分の身内にしか本当の意味で心を開かない様な気がしていた。
 それが気の所為だったのか、ほんの少しでもその『深い部分』に触れる事が出来たのか。解りなどしないが。
 自分の美味しいと思うものを勧めてくれた。それを誉める土方に嬉しそうに笑い返してくれた。たったそれだけの事だが、今までに気付きもしなかった男の裡に招き入れられた様な気がして、急激に酔いが醒めた。
 醒めて、今度こそアルコールのもたらす酩酊感に、悪くない温い空気に、素直に酔った。
 おかしなもので、目の前の銀髪と相席し会話まで交わしながら、一人で飲んでいる心算で居た己にそこで初めて気付かされたのだ。
 気付いて仕舞えば、行きにあれだけ頭の中を占めていた仕事の事が何処にも無い。
 酒が減って行く事すら惜しんでいる自分にはもう驚かない。
 触れられた手をゆっくりと握り返した時には、その温度を手放すのは厭だ、と。そんな事さえ考えていた。
 惚れているのだと唐突に告げて来た男に、似た様なものだった本心を知り、明け渡しただけでも、渡せただけでも僥倖だった。忌々しい筈だった男に、『特別』な目を向けられていると知った事が、多分素直に優越を感じさせ──要するに、嬉しかったのだろうと思う。
 抱かせて欲しいと言われた時には流石に迷いも悩みもしたが──、
 己の矜持ひとつくらい、この男に明け渡して仕舞っても良いと思って仕舞ったのだ。
 お前が欲しいのだと、真顔でそんな事を言う男に対して、そのくらいしか応える術が無かったのだ。
 ……きっと。それ程までに、坂田銀時の住む世界に入ってみたかったのだろうと。今ではそう思う。
 あの男の護る、剣の長さの裡。護って、護られて、大事に思われて、育まれる、庭。
 自分には真選組しか無いと思っていた。その真選組以外に、それと似た様な居場所があるなどとは思いもしなかった。
 真選組を捨てる心算は勿論無い。だが、其処に在る自分以外を知らなかった。例えば銀髪天然パーマの胡散臭い侍と酒を酌み交わして、馬鹿みたいな話をして笑える自分が居る事も、知らなかったのだ。

 庭の、荒れた土に、雨水が甘露の様に浸みて行く。
 花は咲かないかな、と、微笑む庭師が其処に居てくれる。
 雨は通り雨。だからそれは、きっとほんの刹那見る事の叶った夢の様なものだった。
 止んで仕舞った今は、乾いた土も根も、息苦しさに土の底でただ喘ぐほかない。







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