雨枯れの花 / 6



 吐き戻すものが胃に何一つないと、嘔吐感は逆になかなか収まらない。心持ち的な問題なのか、ある程度食物を吐いた方がすっきりと終わる事の方が多い様な気はする。
 それは二日酔いの苦しみに慣れた銀時なりの感想だが、食べたものを無駄にするのは純粋に勿体ないとは思うし、吐く前に一時的に満腹感があれど消化途中では栄養にも当然ならない。二重の意味で勿体ない。とは言え、吐く時は仕方無いから吐くしかないのだが。
 おまけに嘔吐と言うのは臓腑の機能に本来反する反応であるからか、非常に体力を消耗する。
 (同じ苦しみでも、下痢ならまだこう、毒素排出してます感あるんだけどよ……って何かどうでもいい事考えてんな、俺)
 逸れかかる銀時の思考に気付いた訳ではないだろうが、腕の中で背を撫でてる内に落ち着いてきたらしい土方が、「はなせ」と力ない呻き声と共に、銀時の身体を押し退けた。
 逆らって抑え込むと余計に体力を消耗させて仕舞いそうな気がしたので、銀時は大人しく土方から離れる事にした。
 所在ない視線を室内へと彷徨わせた銀時は、取り敢えず屑籠に被せられているビニール袋の口を縛った。後で地味な監察にでも捨てさせておこうと思いながら部屋の隅に元通り押し遣り、膝と手を布団について苦しそうに呼吸を繰り返している土方の方を振り返る。
 こちらに背を向けたその姿は、まるで怯えた針鼠の様だった。只管に触れる者を威嚇し、近付くな、と、目も耳も閉じて蹲り、そのくせ途方に暮れた心をひとりきりで持て余している。
 土方が態と『不機嫌』にしか見えない態度で銀時を突っぱねようとした事には直ぐに気付けた。
 そうでなくとも寝苦しそうな眠りから目を醒ました途端、まるで自分のものではない巣穴で目覚めた野生の獣の様に飛び起きた姿を思い出せば、土方の精神が安定状態にあるとは到底言い難いだろう。
 戦場や、戦場帰りでよく見た姿に似ている。物音や人の気配が自らを害するものであるとしか思えず、怯え、時にそれを壊したり殺したりしてでも止めようとする、死や敵への恐怖の後遺症。
 刀を引き揚げておいた山崎の判断に、今回ばかりは全力で賛同する。もしもこの場に土方の愛刀があったとしたら、今頃部屋はボロボロになっていたかも知れない。勿論、止めようとする銀時も含めて。
 あの目覚め方は、ここが土方の部屋ではないから、などと言う単純な理由から引き起こされたものでは当然無いだろう。
 実際土方は、銀時と共に色々な宿やホテルで眠った事があるが、何れの場合もあんな起き方などはした事が無い。
 あんな、夢の中にも、目覚めた眼前にも、『敵』が居るのだと言う様な。痛ましい姿は見たことが無い。
 (あいつの、真選組(うち)なのに)
 思って、銀時は強く頬の内側を噛む。
 問え、と言う理性と、問うな、と言う本能とが喉奥で鬩ぎ合っている。
 そうして結局沈黙しか答えを出せない銀時の前で、土方は一人苦しみに耐えて蹲っているのだ。
 やがて、ずり、と這いずる様な、重たい身体を引き摺る動きで、再びぎくしゃくと動き出した土方が枕元の水差しを掴んだ。かたかたと震える手でそれを掴み上げ、口から溢れるのも構わずに流し込まれる水を飲み込むが、たちまち加減の利かない水量に咽せて仕舞う。
 「っげふ、っか、は、」
 「おい、大丈夫か?」
 苦しそうに咳き込む土方の手から水差しが滑り、その胸元辺りを水で濡らしながら布団へ転がり落ちていく。倒れた水差しに頓着する余裕もなく、背を撓ませ咳を繰り返す土方の姿に狼狽しつつも銀時は近付こうとするのだが、
 「触んじゃ、ねぇってんだろ…!」
 またしても強く弾かれる。
 そこに在るのは完全な拒絶だ。
 今までに無い激しい、嫌悪にも似た土方の拒絶に、銀時は苛々と波立つ感情と、それを形にして吐き出そうとする言葉を噛み砕いた。このもどかしさと苛立ちをその侭、今の土方にぶつけてはいけないのだと、解っている。
 解っているが、自分の手の届く所で、触る事、助ける事の一切を許さずに一人何かに苦しむ土方の姿を黙って見ているのは、耐え難いものがあった。普段は誰にもその苦しみを見せない男だから、余計に。
 「、」
 ともすれば責める調子の言葉が出そうになるのを必死で留め、銀時は取り敢えず目についた、布団端で横倒しになっていた水差しを起こした。元々残りがそう多くなかった所に加えて水は殆ど土方の方にこぼれていたから、こちらは畳と布団の端に染みを作った程度で終わっている。
 辺りを見回し、部屋の壁際に追い遣られている様な風情の行李を開けてみれば、そこに直ぐ目当てのものを見つける事は叶った。救急箱と、その下にまとめられた清潔そうなタオルを何枚か取り出し、銀時は喉を押さえて蹲る土方の傍らへそっと戻った。
 びく、と全身を震わせて警戒する気配に少し傷つき苛立ちながらも、取り出して来たタオルで畳と布団に拡がった水分を拭う。敷き布団は患者の負担にならない為にかマットレス状のものにシーツを被せたものだったから、後で晴れたら干せば良いだろうと言う所まで考え、
 (いや…布団干すのは俺じゃねェだろ?)
 思わず胸中にツッコミを入れつつ、取り敢えず粗方の水分は吸っておく事にした。
 それからゆるりと視線を、まだ力なく蹲っている土方の方へと向ければ、顔を俯かせたその様子は先程までと全く変わらぬ拒絶の色を濃く纏っており、その事に一瞬怖じ気づきそうになるが、少し考えてから、銀時は土方の前に背筋を正して座り直した。
 「……なぁ、あのさ」
 「…………」
 俯いた侭の土方から声に出る応えはないが、僅かな息遣いは恐らく「帰れ」とでも言ったのだろう。
 銀時がはっきりと意識を向けた事で、より拒絶の気配が強くなった気さえするその姿を暫し見つめてから、銀時は正座した侭の姿勢で一歩、土方に躙り寄った。
 「水だけでも拭かせてくんねぇ?重症のこの上、更に風邪まで引いたら、現場復帰が益々遠ざかっちまうんじゃねぇの?」
 困るのはお前だぞ、と、少々卑怯な言い回しに変えて言いながら銀時はもう一歩、躙り寄った。
 ぴく、と再び身体は跳ねるが、逃げ出したり払い除けたりしようとする気配は幾分薄らいだ気がする。
 「良いか?傷、間違って触っちまうと痛ェだろーから、暴れたり逃げたりすんなよ?」
 お伺いを立てる様にそう、子供に向ける様な言い方をすれば、土方の身体は強張ったものの動きはしなかった。ここまでは未だ拒絶されていないらしい、と、妙な所に安心感を抱き、銀時は新しいタオルを掴んだ手をそっと、座り込んだ土方の胸元へと伸ばした。
 寝間着代わりの薄い色の浴衣は病人着も兼ねているのか、清潔で柔らかい素材で出来ている。土方が暴れた事で少し乱された胸元の袷はしっとりと水に濡らされて仕舞っており、本当ならば着替えさせたい所だったが、流石にそれは拒絶されるのを否めないだろう。ならばせめて水分だけでも出来る限り拭ってやろうと、銀時は両手で拡げたタオルで布地を挟む様にしてじっくりと湿り気を移して行った。
 (にしても。あんだけ寝起きに動いておいて、手前ェが重症じゃねぇのにも気付けねえって……マジで参ってんだな)
 『重症』。『現場復帰が遠ざかる』。それらの言葉に反論を寄越すどころか途端に大人しくなった土方に、湧き起こる苛立ちを心配へとすり替えて、銀時は丁寧な動作でタオルを持った手を動かし続ける。
 ふと見れば、胸元と脇腹に貼られたガーゼも濡れて台無しになっていた。濡れた布にほんの少し赤い血の色が滲み遊離して見えるのが気に掛かり、これも出来たら手当をし直したいと思った。山崎はかすり傷の様なものだと言ったが、刀傷はただでさえ治りが余り良くないのだし、物騒な経緯でつけられた下らない傷痕など無用に土方の肌の上に残したくはなかった。ただでさえ生傷が絶えず、身のあちこちに既に消える事のない傷痕を持つ男にそんな感傷を抱くのも妙なものだとは思うが。
 (まあ、残らないで済む傷なら──)
 越した事はないだろう。そんな事を思いながら、銀時は土方の着物の袷にそっと手を掛け──
 「……え?」
 「…あ?……ッ!?」
 思わず漏れた一音の疑問符に、己の身をぼんやりと見下ろした土方の全身がびくりと跳ねて硬直した。喉奥が引きつる様な音を立て、袷を掴んだ侭でいる銀時の手を振り払う様に、胸元を掴んで隠すと俯く。
 強張った両の肩と、袷を掴み寄せて身体を丸める様にする仕草と、戦慄く呼吸音と漣の様な震え。呑み込んだ悲鳴かはたまた罵声の代わりの様な、軋る奥歯の声。
 「…………なん、…」
 (だよ、ソレ……)
 銀時は乾ききった声を、出掛かった問いを中途で呑み込んだ。だが、そんな銀時の反応を受けて、土方はびくりと背を震わせた。じり、と布団の上を後ずさる身体と、包帯の巻かれた手でシーツを掴む、震える程に強張った指先。
 胸元を掻き寄せる逆の手の下では、同じ様に強張った指が袷にぐしゃりと皺を作る。
 その皺の下には、水に濡らされた刀傷の、手当の痕。と。
 ああ、そうだ──と、銀時の胸に静かに落ちるものがある。それはきっと、理解とか嫉妬とか憎悪とかそう言ったものだ。
 手当をしたのはあの地味顔の男。アイツは、手当をしたのだから、知っていて当然だったのだ。だから、知っていて、隠そうとした。
 土方が、隠そうとするのは当然に決まっている。銀時にばかりは知られまいと思うのも。だから。
 "旦那にこそそれを知る義務があると──"
 山崎の血を吐く様な声が、明確な攻撃になって銀時の裡に突き刺さる。
 "旦那が原因だとしても──"
 沖田の探る様な声が、何故アンタは気付かないのだと不貞腐れた様に問いて来る。
 理解と言う刃を備えたそんな言葉たちは、違えずに、心の最も痛みを憶える部分を貫いた。
 足下に血の様にどろりと拡がるのは、不吉な予感に背筋を粟立たせた、畏れの、そのもの。
 違う。
 隠されて暴こうとする無知も、知って堪えようとする賢しさも、嘘だ。
 「土方、」
 間を取る様に呼びかけた声に、それから逃れようと言う様に土方の身体がまた震えた。ずり、と裸足の足が布団を滑る。
 これ以上は無いだろう、明確な拒絶以上の断絶。
 震えは、怯えは多分、ここから逃げようとする己を繋ぎ止めようとする理性だ。
 俯いて戦慄く唇が息継ぎか、それとも何かを言おうと言うのか、震えて閉じて、震えてまた開かれる。
 織り上げた嘘を、欺瞞の表情を、必死で並べようと。戦おうと、している。
 (駄目だ)
 銀時の頭の中の、冷静な部分が忠告する。問うな、と。
 (駄目だ、)
 同時に、感情的な部分が叫びそうになる。問い詰めろ、と。
 (駄目、だ──)
 「お前…、」
 渦巻く思考と裏腹に、声は酷く落ち着いて、静かに滑り出た。止める間も無く。或いは止めたくなかったのか。
 駄目だ、止めろ。がんがんと脳髄を揺さぶる様な声が煩い程に喚き続けていると言うのに、声からは感情の一切が抜け落ちて仕舞ったかの様だ。いや、実際何も考えたくなかった、と言うのが正しいのかも知れない。
 そんな銀時の声音から何かを悟ったのか、それとも覚悟したのか。不意に土方が無理矢理に唇を引き結び、笑みに似た表情を浮かべるのが見えた。自嘲と言うには足りないそれは、きっと激しい自己嫌悪。
 ふ、と口の端を歪めた土方がゆらりと顔を起こした。
 諦めきった様な、疲れ切った様な、何かがすっぽりと抜け落ちて仕舞ったかの様な微笑が皮肉気に口元を彩っているのが解り、銀時は己の中で叫び出しそうな声と、伸ばしたくなった腕とを必死で留めた。
 ──その土方の表情で、全てを理解して仕舞った気が、していた。
 「……んだよ、別に驚く様な事か?いつもテメェだってしてる様な事じゃねェか」
 く、と喉奥で笑った声が、そんな言葉を吐き出してくる。
 「まさかテメェは、恋人面してるだけじゃ飽きたらず、操立てまでしろとでも言うのか?こんな、野郎同士の意味も無ェ関係で」
 まるで毒の様に、嘲り吐き捨てる土方の声が銀時の胸の奥を蝕む。じり、と焦げ付く様な、激しい怒りと嫉妬とが、頭の中の冷静な己の声を掻き消して行く。

 (駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ、正しくても、駄目だ)
 「………へぇ…。そうだったんだ」

 干した毒に灼かれた様な、剣呑な、あからさまな侮蔑を込めた声音が、あふれる水の様に、留めようもなく落ちる。
 (駄目だ、止めろ、言うな、止めろ、)
 「意味無ェって。恋人面って。銀さん、てめーにとってそんな軽いモンだったとはねぇ。何?都合の良いバイブ扱い?散々良い思いさしてやってたってのにその言い種じゃ流石にちょっと傷つくわ」

 知らない振りをするべきだ。触れずにおくべきだ。見なかった風に目を瞑らなければいけなかった。気付かぬ侭でいるべきだった!

 「で、誰にでも簡単に脚開いちまう尻軽な副長サンは、一体どこの誰に、俺のくわえ込んでる時みてェなエロい顔見せて来た訳?」
 銀時の口からは、頭の中で叫ぶ声とは逆に毒が止めどなく吐き出されていく。
 「は。浮気を責める亭主みてーな事抜かしやがって。テメェにゃ関係無ェだろ。俺が何処で誰にどう抱かれてよーが。……ああ、でも、」
 その毒を真っ向から飲み干した土方の言葉は、銀時に対する毒を吐き散らすのではなく、まるで己に突き立てる刃の様だ。
 嫌悪感を剥き出しにした様な笑みは、罅割れて壊れそうだった。
 (やめろ、)
 「ま、そう言う趣味のお偉いさん相手の『取引』が出来る迄に『仕込んで』くれたのはテメェだしな。お陰で、こんなモンでも真選組の役に立つ様になった訳だ。テメェには寧ろ礼を言うべきか?」
 笑いながら、戯れる様に土方の手が銀時の頬を撫でた。何処か蠱惑的なその仕草や動きは、本当に土方が男を誘う事に慣れているのだと、錯覚しそうな気さえ起こさせる。
 (手、震えてる癖に)
 偽悪めいた毒を自ら干して、己を斬りつけて、そうしてわらってみせる土方を、銀時は無表情に見下ろした。
 手の離れた胸元のぐしゃぐしゃになった袷の隙間からは、肌に無遠慮に散らされた鬱血痕や性的な被虐の意図を持った傷が覗いている。
 バレたら困るからと言って、銀時にはいつも密かな痕すら肌に残すのを渋って許さないと言うのに。
 (──畜生、)
 指先が白くなる程にシーツを掴む手と、泣きそうな顔をしている事すら気付かずにわらう姿は酷く空々しく、胸が締め付けられそうに痛々しい。
 知るべきではなかったのだ。
 耐え難い嫉妬が、怒りが、その事実を思い知らせる様にのし掛かる。
 逃げ場を失ったと思った土方が、銀時を態と傷つけ、自らをも切り裂く虚勢を、そんな偽を吐き出してまで秘密を守ろうとするその選択を取る前に、黙って目を閉じて仕舞うべきだった。
 「そりゃ重畳。ま、面も身体もソッチ向けで、お似合いの『仕事』じゃねぇの?男くわえ込んで誑かして、身体ひとつで地位でも組の未来でも買えるたァ……高級娼婦顔負けだねぇ、副長サン」
 頬に触れていた手首を強く掴んで引き剥がすと、包帯に隠された掌の下の瑕を見透かしながらも銀時は続ける。
 「……ひょっとして、それで昨晩はお盛ん過ぎて足腰立たなかったとか?あんな三下浪士に無様に後れ取っちまう程可愛がって貰ってた訳。ああ、それともあんな連中にも輪姦されちゃおうとしてた?腰振って命乞いする心算だった?」
 (声を、震わせるな)
 だって、知っているのだから。
 はは、と嗤い声を上げ、出来るだけ土方の厭いそうな下卑た物言いと表情とを浮かべ、銀時は間近の耳に毒を吹き込む様に言ってやる。
 「そうだ。そんだけお高い仕込みしてやったんだ、見返りとか報酬とか何かねェの?万事屋相手にタダ働きってのァ無ぇよなぁ」
 お前が、拳を、爪痕が強く残る程に握り込んでいたのを、知っているのだから。
 必死に堪えていたのを、知っているのだから。
 恐らく自身で最も厭うモノになった、そんな身体を引き摺って、俺を前にして、いつも通りに在ろうと、倒れる程に参って。
 拒絶する様に飛び起きて、堪えきれなくなって吐いて。
 お前が、苦しんでいるのを、知っている、  のだから。

 「…あァ、そうだな。テメェにゃそう言う意味じゃ世話んなったからな。都合さえつけば、また抱かせてやっても良いぜ?性欲処理にゃお互いうってつけなんだ」
 びく、と震える肩を誤魔化してなおも強がろうとする言葉は、酷く乾いて落ちる。そのことからも、土方が銀時の言葉に因って身を裂かれそうに疵を負っていくのが解る。
 だが、一度土方に嘘をつかせる選択を取らせて仕舞った時点で、それを止められなかった、醜い嫉妬や怒りを隠す事の出来なかった銀時にはもうその疵を舐めて抱き締めてやる資格も、意味も無い。
 そうはしてくれるな、と。土方はその為に毒を干して自らの身に刃を突き立てたのだから。
 (多分──『これ』が、お前が、俺の為にした事なんだろ……?)
 山崎の、責める様な目と言葉。沖田の、諦念と失望とを潜ませた牽制。土方の、負った傷痕。
 ここに来て得た理解が、綺麗にピースの填った全体像を薄ぼんやりと銀時に突きつけて来ていた。
 土方は、猶も銀時にはそれを知られまいとした。銀時に否定されるのも認められるのも避け、態と傷つけて遠ざけようと。
 そうして選んだのは──優しくて酷い嘘。
 自分から望んで、真選組の為の『取引』として身体を売ったのだと。お前には何も原因は無いのだと。
 だから、気にするな。怒りも、嫉妬も、侮蔑も、疑問も、理解も、慰藉も。なに一つ感じなくて良いのだと。
 …………そんな事を、言う心算なのだろうか。
 「お互い散々愉しんだんだ、今更吹っ掛けて高ぇ見返り求める心算なんざ無ェよな?ヤりてぇってんならヤらせてやるとまで言ってんだからよ。手前ェの仕込んだもんだ、飽きるまでは精々好きにすりゃいい」
 何処までも己の身ひとつなんて軽いのだと貶める様な言葉は、銀時にとって──心を通わせた人間にとっては、きっと堪らない痛苦になる筈だと言うのに。それが嘘だと解って仕舞うから、何の痛痒もない。
 だから殊更に言葉は乱暴に、酷薄に。攪拌された澱が浸食する様に。衝動の侭に、止まりはしない。
 「そうさせて貰うのも悪かねェけどよ。幕府のお偉いさんだか何だか、枯れた爺共と穴兄弟になんざなりたかねェし?やっぱ見返りとかもう良いわどうでも」
 ただ、嘘なのを解っていても、騙される為に返している筈の、心の無い己の言葉だけが、酷く痛い。
 それを嘘とは知らずに呑み込むほかない、土方の浮かべている青ざめて強張った笑みが、酷く苦しい。
 気にかけている人間の心の機微には──特に嘘や隠し事には──聡い土方には、生半可な言葉では銀時が『騙されている』のだとはきっと思わない。
 だから、騙されるのであれば徹底的に。本当に、嘘ではなく土方の心底の言葉で言われているのだと思い、それを斬り返さなければならない。
 態と傷つける様に、詰って軽蔑する様な言葉を、心の底から。嘘の為に、心の底から。ほんとうに感じた事を。
 だからこれは、嘘だけど本当の事だ。お互いに、嘘を本当だと思って、斬り合っている。
 「ほら、俺って結構独占欲強ェから。他の野郎の手垢付けられた汚ねぇ男の身体なんて、抱く気にもなんねーのよね」
 (ごめん、土方、ごめん、)
 己の頭の中だけで壊れたレコードの様に紡がれ続けている謝罪の慟哭を聞きながら、銀時は殊更に嫌悪感を込めた声音でそう吐き捨てて立ち上がった。
 シーツを固く握り締めていた土方の手はもう緩やかに力が抜けて、ただ凍り付いた様に動かない。
 それで良い。もう掌に歪な爪痕など残らない方が、きっと良い。
 虚空に視線を置いた侭、静かな笑みを浮かべるその顔は、恐らくは続く虚勢の言葉を探している。崩れて仕舞わぬようにと、未だ堪えねばならぬのだと言い聞かせて。
 「…あァ、そりゃ結構な話だ。じゃあもう、テメェとはこれまでだな。とっとと帰れ」
 乾いた、罅割れそうな言葉が、茶番めいた空気の中に漸く落とし込まれる。これでこの痛苦から解放されると、そんな声さえ聞こえて来そうな弱々しい響きに、然し銀時は振り向かなかった。
 自分とて、この優しい嘘と相対する酷い嘘などもうこれ以上吐きたくはなかった。
 土方の、今にも銀時を殺して己を壊して仕舞いそうな声など、聞きたくはなかった。
 「言われなくても、ポリ公のむっせェ屯所(とこ)になんざ長居したかねェっての」
 じゃあな副長サン。お仕事頑張って。
 そう吐き捨てる様に言い残した言葉は皮肉と取られるだろうか、それとも。
 本当は今すぐにでも振り向いて抱き締めて謝って、愚かな嘘をそれでも続けようとするのだろう口を塞いで、お前は馬鹿だと言ってやりたかった。
 何故そんな事をしたのだと、怒って。でもありがとうと慰めて。溢れ出した嫉妬で詰って。でもごめんと謝って。
 きっともうその時には土方はもうこちらを向こうとはしてくれないのだろうけれど。

 未練がましい己の思考のそれ以上を封じる様に、襖を思い切り音を立てて閉める。
 薄暗い廊下の、湿気を含んだどろりと重い空気が肺をじっとりと満たして行くのを振り切り、銀時は医務室から足早に離れていく。
 自分が近くに居たら、その気配を察知して仕舞う土方は、いつまで経っても泣く事すら出来ない。息一つ吐き出す事すら出来ない。たった今負わされた、嘘の鎧を嘘の剣で歪に貫いた酷い疵に悲鳴を上げる事すら出来ない。
 だから、早く。立ち去るしかない。
 たとえ廊下の向こうから、心を裂く様な叫び声が聞こえた所で、立ち止まる事も戻る事も出来ない。
 (お前の嘘を破る事も、お前の嘘を肯定する事も、どっちもお前を傷つけるしか無ぇってんなら──俺はどうしたら良かったんだ?)
 途中からはまるで走る様に、縁側の廊下まで出た銀時は、柱に身を預けて大きく息をついた。
 (お前を傷つけた俺の言葉は、嘘だからノーカウントだ、なんて甘い事、ある訳も無ぇだろ。わかってんだ)
 銀時にとっては嘘の言葉でも、今の土方にとっては本当の事でしかない。自分の嘘に銀時が騙されてくれたのだと、そう思える程に真実味のある、どこまでも真実でしかない、酷い言葉ばかりを選んだのだから。
 ずるずるとその場に座り込み、両手で顔面を覆って、今更の様に思い出す痛みに、怒りで張り裂けそうな心に、畜生、と罵りをぶつけた。
 降って来た雨が中庭の土を、大気全てをじっとりと湿らせて行く。
 庭師の抱える枯れた如雨露を嘲笑う様に、冷たく重たい雨が、まるで天が割れて仕舞った様に落ちて来ていた。







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