雨枯れの花 / 5 あの時摘み取らなかった時点で、花が枯れて仕舞う事はきっと決まっていたのだろう。 ──だが。 摘み取って、暫しの間愛でて、そうして枯らして仕舞うのと。 放っておいて、惜しみながら、それでも枯らして仕舞うのと。 ……どちらが正しかったのかなど、解る筈もない。 「ん」 目を開けるなり眼前に、そんな一音と共にずいと差し出された白と赤の物体が何であるかを理解するより先に、土方は勢いよく足を蹴り上げていた。 持ち上がった足に絡げられた布団がまとわりつくが、頓着はせずに逆の足の膝を胸まで引き揚げ、撥條を利かせて一息に背中を持ち上げる。 足の五指で布団と言う足場を掴み、獣の様に身を少し伏せた侭、手が枕元にいつも置かれている筈の刀の位置を辿り、それが見つからない事に焦りながらも室内中を刃物の気配を探って── 「……あ?」 そこで漸く土方は我に返った。 見覚えの余り無い部屋だが、片付いた雰囲気と薬箪笥、そして何より独特の薬品臭から、医務室か、と直ぐに答えが弾き出される。それと同時に、自分が医務室に伏す事になった経緯までを一気に思い出し、身を起こしていた土方はその場に思わず蹲った。嘔吐きそうになるのを何とか堪え、布団端できょとんとしている銀髪頭を勢いよく睨む。 「こりゃ随分過激なお目覚めで。毎朝こんなけ寝相悪かったら旦那さん苦労しそうだなオイ」 まあ精々頑張って土方くんより早く起きるようにするわ、と空惚けた風に言う男の姿を睨んだ侭、土方は飛び起き様に払い除けた布団を緩慢な動作で引き戻した。冷たい汗に濡れた前髪をざくりと掻いて、疲労と安堵とに背を丸める。 「おーい、大丈夫かお前」 片膝を引き寄せて項垂れた土方に、銀時が身を乗り出して近付いて来るのを「触んな」と仕草だけで払い除け、目蓋の奥の鈍痛に、目を強く閉じて堪える。 「……んで、テメェがまだ居やがるんだ」 「調書だの何だので結構遅くまで足止め食らっちまったしな。乗りかかった土方くんだしと思って、まあ…お見舞い的な?」 「船じゃねーのかそこ…」 ぽりぽりと頬を掻いて言う男の眠そうな眼差しからは特に無駄な意図も読み取れず、土方は銀時から目を逸らして俯いた。背を湿らせた汗が、温い室内の空気に晒されて酷く気持ちが悪い。 「アララ、ツッコミにも力ねーのな。ま、怪我人は大人しくしてなさいって良い見本だな」 言って笑う男の表情は、きっと優しいものだろうと思う。 愛おしむ様な甘ったるい目をして、喉を押さえて嘔吐感に堪える土方の様子に聡く気付いて、心配そうな色を潜ませ、然し無理には聞き出しもせずに居てくれている。 (…………──クソ、が) 己の甘ったれた想像に呻き、だがその想像と現実には大した差もないのだと、解ってはいるがまざまざと見せつけられたくはなくて土方は天井へと視線を逃がした。喉を大きく反らせて喘ぐ様に重たい呼吸を繰り返す。 まるで重たい水の底にでも居る様だ。息苦しく、苦しく、苦しく、苦しい。 「ちょっと横になったらどうだ?寝起きにあんだけ暴れようとすりゃァ、そりゃ疲れもすんだろ」 ぽんぽん、と枕の叩かれる音に、「いい」とかぶりを振って、土方は再び立てた片膝に頭を戻した。 銀時の言う事も強ち間違えてはいない。急激な緊張感と運動で動悸と呼吸は早いし、唐突な動きに筋肉が少し痛みを訴えている。 だが、横になる気はしない。どっとかいた汗が不快なのもあるが、それ以上に、横たわると何処にも逃げられない気がしていた。 (……何を、何処へ?) 浮かんだ疑問に返る答えもなく、土方は途方に暮れた様な感を持て余す。寝起きで混乱しているのか、思考の速度が緩慢でいけない。 「ほれ」 そんな俯き加減の鼻面に何かが差し出された。甘酸っぱい水分の香りに鼻孔が刺激されて思わず顔を少しだけ持ち上げれば、眼前十糎以内、そこに突き出されていたのは先程目を開いた瞬間にも見た、白と赤の物体。 「…………何で林檎だ」 それがうさぎの形に剥かれた果実の一切れだと漸く理解し、土方はそれを向けて来る銀時の手ごと軽く押し戻した。 果糖の甘い匂いに空腹が刺激されるのと同時に、胃の腑が強烈に戦慄くのを感じ、口を押さえて目を逸らす。 昨晩から何も口にしていないのだから戻るものなど何も無いだろうが、胃酸をわざわざ吐き散らしたいなどとは思う筈もない。突き出された侭の林檎から意識を余所にやり、土方は嘔吐感を呑み込む様に息継ぎをした。 「二日酔いには林檎が良いとかなんとか…言わなかったっけかねぇ」 「そりゃ摺り下ろした林檎とかだろ。良いから引っ込めろ。いらねぇ」 第一二日酔いじゃない、と一応訂正は付け加えれば、銀時は暫くの間片手のフォークに刺したうさぎの林檎と、もう片手の皿に何羽もとい何個か乗せられたそれらをちらりと見ていたが、やがて諦めた様に皿を畳の上に置いた。 食べ物の気配が遠ざかった事に無意識に安堵し、土方はそこで漸く苛々と、己の臓腑を灼く様な不快感の正体を思い出した。 「……調書取り終わったらもう用なんざ無ェだろ。帰れ」 「………アレ?やっぱご機嫌斜めみてーだな。どうしたんだよ、」 不貞腐れた様に俯く土方に向けて、銀時の手が伸ばされる。 「触んじゃねぇって言っただろうが!」 優しさや労りしか感じられないその手を、然し音を立てて叩き落とす。 払われ赤くなった手と、その向こうで驚いた様に瞠目する眼差しとを、決して見るまいとして土方は無言で顔を伏せた。 不機嫌だと、そう取るならそれで良い。八つ当たりだと、そう思われるならそれで良い。 こんな様を、知りもしないのに、知って欲しくすらないのに、まるで見透かした様に優しい目で見られるのなどは御免だった。 この男の思い遣りに包まれるに、きっともう自分は相応しくなどないのだから。 それは身体を汚されたなどと言う、女の様な感傷ではない。この男を、この男との関係を、この男の寄せてくれた想いを、この男が愛してくれていたのだろう自分を含めた世界を、手前勝手に失いたくない一心で、碌でもない取引に応じたからだ。 応じて、『狗』に貶められた身も、望んでいた筈の侍の魂を折って捨て『狗』に成り下がった心も。それをこうして浅ましくも隠そうとする狡さも。逃げようとする弱さも。 お前の為に、お前の大事にしてくれた『俺』を売り払った。お前を護りたいばかりに、失いたくないばかりに、侮蔑されたくないばかりに。お前の最も厭う形で、お前をきっと傷つけた。 その何もかもが、この男が真っ直ぐ美しい魂を抱いて生きている世界には、相応しく無い。 (それでも、お前を諦めようとしねぇ、そんな浅ましい手前ェ自身が、一番、) 深い自己嫌悪に竦んだ様に、背がぎしりと撓んだ。胃の腑が這い上がる不快感と、強すぎる嘔吐感に、弾かれた様に土方は立ち上がる。 洗面所へ、と思った足は然し縺れて倒れ込み、その衝撃に堪らず嘔吐いた。咄嗟に口を両手で押さえて、ぐっと喉に力を込めて口を引き結んだ。胃が跳ねて背が撓む。喉奥が熱い。 部屋の隅に見えた屑籠に震える手を伸ばして這いずれば、それは銀時の手に因って容易く引き寄せられ、土方の胸の前に宛われる。 「ぐ、ぅ……、っえ、」 背が引きつり、逆流した胃酸が喉を灼いた。案の定撒き散らされたのは少量の黄色い胃酸だけで、固形物はなにひとつ無い。 喉をひりつかせる痛みと、なんとか嘔吐感を無くそうと嘔吐き続ける胃が何度も痙攣し、酷く苦しい。そうして、げほごほと湿った咳を繰り返す土方の背を、銀時の手が緩やかに上下に撫でてくれている。 「ちく……、っしょ、……がぁ…ッ」 情けなさと苦しさと悔しさとで涙がこぼれる。耳の後ろを伝い落ちる汗の冷たさと、全身の臓腑を蝕む様な止まない不快感。それに相反する、背中を抱く優しい手の温度と仕草とが、土方の心を痛い程に斬りつけて来る。 いっそ何処かが破裂して仕舞えば良いのに。 いっそ──心が壊れて、この男を斬り捨てる事に何の痛痒も感じなくなって仕舞えば良いのに。 (冗談じゃ、ねェ) 抱いた望みを瞬時に握りつぶし、土方は獣が呻く様な声で軋る様に喘いだ。 斬り捨てる事も、切り捨てる事も出来なくなった慕情は、心の奥深くに食い込んでもう抜けない。だから、もう良い。 この選択を──銀時の居る世界を護る、その為ならば『狗』にでもなんでもなってやる、と決めた時から。選んだ時から。これを斬り捨てる事など出来はしないのだと、そう認めて仕舞ったも同然だったのだから。 。 /4← : → /6 |