雨枯れの花 / 4 例えば。 決定的に何かを違えて仕舞った瞬間、と言うのは「そう」と知れないものだと言う。 それが、巧妙に仕掛けられた穴に落ちたのか、それとも自ら穴の底に落ちる事を選んだのかの判別など誰にもつけられはしない。 間違えさせられた、と気付いた時に、誤ったと思うか、そうは思わないか、と言う思考の論に似ている。模範解答の無い人生では考え方や見え方や捉え方一つで世界は姿を変えると、よく言われる事の様に。 ……では、本当に『間違い』は無いのか。 選択は正しいのか。 後悔はないのか。 ならば『違えた』と思う基準は果たして何なのか。 …………決まっている。 あの男が嘗て言った事と同じだ。 『魂が折れる』──と。 己がそう感じた瞬間こそが、正否の在り処はさておいて、自身につけない偽を肯定したと言う事なのだ。 決した世界で、刀を自ら棄てた、それが恐らくは代償であり解答であった。 ふと、目に映った気がする銀色のものに手が伸びた。 それは半ば無意識の行動だったが、十分に安らかな睡眠を摂れて、目覚める前の微睡みでそれを見つけると、ついつい触れようとして仕舞うのを止められない。 寝惚けた頭で、こちらを覗き込む銀髪頭を、その癖の強い髪を、もふもふと手遊びに掻き回す。男は自身の髪質を嫌っているから、そうされると半ばむきになって引き剥がそうとする。普段ならば。 だが、こうして土方が微睡みに寝惚けながら触れてみる時だけは、男は渋面を作るだけで何も言わない。決して馬鹿にする意図ではない、単なる癖の様なものだと理解しているのか、黙って好きな様にさせてくれたり、逆に頭を撫でたりしてくる。 大の大人二人が互いに頭を寄せ合って微睡む。平時であったら到底正視に堪えず、顔どころか全身を真っ赤にして逃げだす所だが、夢現の僅かの時間にならば別に構うまいと、男との睦み合いに暫し興じる。 仕方ないなあとでも言う様な溜息と共に、頭を、黒い髪を撫でさする様な手つき。 いつも真っ直ぐで結構な事ですね、と髪質の違いについてをさも忌々しそうに悔しげに言いながらも、男の手も目も優しい。見えている訳でもないのにそうと知れる、こんな時にばかり向けられる仕草や挙動の柔らかさは嫌いではない。 労られ惜しまれる様な感情は、それが居慣れないものであっても、微睡みの空隙の中では享受するに抵抗がないものと理解している。 だから、嫌いではない。そうなのだ、と口にした事は当然無いが、恐らく疾うに気付かれてはいるだろう。互いにいちいちそんな事についてを指摘したりは別にしないし、揶揄もしない。 素面でそんな事をする気にも言う気にもなれない、と言う背景には、タブーと言う程の忌避感がある訳ではないのだが、お互い面と向かってこんな甘ったるくて仕方のない時間を真っ向から分け合いたいとは思っていないのだろうと、土方はそう認識しているしその心算でいる。 だが、少なくともこの、指に絡む柔らかな感触は嫌いなものではないのだし、同じ風に頭や髪を撫で下ろされる様な感覚にも、まあ良いかと思える程度の安らぎは憶えているから構わない。 その手に、不意に力が込められた気がして、ぼんやりする頭はその侭に、目の前を見上げる。 「……よろずや、?」 思わず口にしたその姿を手繰るより早く、甘ったるかった空気が霧散した。突如として様変わりする気配に土方が渋面を浮かべたその瞬間、背後からカサついて張りの少なくなった肌が覆い被さって来るのに気付く。 「──っ、」 思わず出掛かった悲鳴を噛み殺して呑み込む。無様な鳴き声は余計に『飼い主』を愉しませるだけなのだと、無意識の理解がある。 それは昨晩散々に味わい、思い知らされ、憶え込まされた理解だ。 『狗』にはこの様がお似合いだと、四つに這った体勢を命じられた侭、自ら後ろを解し、コードの付いたローターを埋め込む事を強要され、そんな己の無様な姿からは目を必死で逸らし、言われる侭、命じられる侭に従った。 そんなものを当然使った事など無い身体は、慣れない強い刺激にみっともなく悲鳴を上げ続け、もどかしさと苦しさから逃れようと無我夢中で身を捩り腰を振り立てる事しか出来ない。こんな理不尽な蹂躙に対して他に取れる手段など知る筈もない。 それだけでも眩暈のしそうな恥辱でしかないと言うのに、更にその状態を自ら足を拡げてこちらに見せて御覧と命じられ、屈辱と快楽に溶かされた侭従った。座って足を大きく開いて、太股を自分の手で固定する様言われ、その都度狂いそうな心を握り固めた拳の中に閉じ込めて堪えた。 殺したいのも、死にたいのも、支払いの対価へ向けていた感情を放棄したくなるのにも。堪えるほかなかった。 足を閉じる事もローターの入り込んでいる部位を隠す事も禁じられ。好色さと『狗』を蔑む視線に晒された侭、為す術もなく達せられて。 後ろの刺激だけで達した土方の──否、『狗』の痴態を老人はいたく気に入ったらしく、「よく仕込まれている」とさも愉しそうに嗤い舌なめずりをする。 まだ体内を苛む様に動いているローターを自ら抜き取る事を命じられ、達したばかりの、刺激に敏感になって震える身体に鞭を打って必死に、コードを引っ張った。そうして、排泄感の様な不快感を伴いつつも漸く解放されたと思った所に、老齢に差し掛かったとは思えない、猛々しいものでその侭貫かれた。 天人の薬物だとか何だとか、何人もの男女を愉しませて来たが狗との交尾は初めてだとか。そんな揶揄や嘲弄の声に晒され、最早屈辱なのか快楽なのか嫌悪なのか解らなくなった頃に『お許し』が出て、漸く地獄の様な時間から解放されたのだった。 店の離れをその侭用いた座敷だ、そう言った役割に使われる事も想定内なのだろう。老人に去り際、備え付けの湯殿を使う事を許され、冷えた浴室で土方は必死で痕跡を洗い流した。止まらない吐き気に何度も嘔吐きながら、なんとか形を取り繕った後はもう何も考えられず、逃げる様に料亭を立ち去った。 それから夜道を、心の底でだけ悪態をつきながら必死で歩いた。行きと同じく駕篭(タクシー)を使う事を考えなかった訳ではないのだが、無様としか言い様のないこんな状態の自分の姿を、不特定の何者かの目にわざわざ晒す気になどなれなかったのだ。 そして、気付いた時には足が見慣れた方角へ向かっていた。それに気付いて猶止められずに居る自分自身に何より失望せずにいられない。 別に、何かをして貰いたかった訳ではない。何かをしたかった訳でもない。 殆どそれは衝動だった。 銀時の姿を一目でも良いから見たくて、泥を詰め込まれた様に重たい身体を必死で前に引き摺り続けてはいたが、土方の全身を苛んでいたのは痛みや不快感だけではなく、足を鈍らせる程の激しい絶望感と自己嫌悪だった。 だが、この衝動ひとつが、己を嘲笑い厭う類の感情にさえ、折れる事が出来ない。 銀時の姿を見たい。声が聞きたい。近くにあの男の存在をただ感じたい。 (……会いてぇ、とでも言うのか…?) 泣きそうな程に情けの無い理解に、分別のある子供の様に必死で否定を探す。 見てどうする。会ってどうする。第一こんな夜中に起きている筈もない。 起きていた所で……何を言う? 言われる侭に『上司』の飼い『狗』になり、手籠めにされたのだと泣きつく心算か。 お前にさえ、想いを寄せた人間にさえ拓くのを恐れた身体を、手前の安心の為の取引に容易く使って、無様な姿を散々に晒したのだと嘆く心算か。 慰めてくれとでも厚顔に抜かすのか? お前の為に、俺の畏れを払拭する為にやったのだと。赦して欲しいと。思い上がるのか? 男の身で操立ても何も無い。精々疵がつくぐらいで、孕む訳でも、伴侶を裏切る訳でもない。 負ったのは下らない疵痕。折ったのは侍として銀時の前に立つ事を許していた魂。追ったのは棄てられなかった慕情の名前をした未練。 それでも── (……合わせる面なんざ無ェし、用も無ェんだ。寧ろ、これ以上のこんな碌でもねェ弱味握られねぇ為には、もう会わない方が良いに決まってる) それでも。 こんな時ばかり、「惚れている」と真っ直ぐに告げて来た、あの時の真摯で必死な眼差しが酷く欲しくて堪らない。 可愛気の欠片もなく挑戦的に構えた土方を、要らないと言うのに、不要なぐらいの優しさを与えて来る男が煩わしく感じられて、その度に悪態をついて。 それは、女にする様な優しさや労りを真正直に受け入れて仕舞ったら対等な関係では居られず、貶められて仕舞う様な錯覚を憶えていたからなのだが、あの男がそんな、ただ自分を組み敷いて女以下の扱いをする事など、有り得る筈も無いと知っていたと言うのに。 矜持ひとつしか、重ねる身体と交わす情しか明け渡せるものがないのだから、せめて、これがちゃんと土方十四郎と言う人間の心であると知って欲しかった、ただそれだけの望みだった。 ……誰あろう、自分自身が、あの男にいとおしまれて、必要とされているのだと言う実感が、欲しかった。 想い焦がれた、と言う理解だけではなかった。 解っていた。 だから棄てられなかった。手前の矜持を折ってでも縋る事を選んで仕舞った、余りに釣り合いの取れない錘は、己にしか価値のない感情がたったの一つだけ。 あの男の事が好きだった。 あの男に愛された事が、あの男の世界に『特別』な一人の数えとして住まわせて貰った事が、ただ嬉しくて堪らなかったのだ。 失いたくないと。失わせたくないと。護りたいと。そう、愚かしくも願って仕舞う程には。 そんな絶望的な思考に呼ばれたかの様に、先の隊士と同様に襲撃を食らい、最早これまでかと言う所で、会いたかった筈の男に救われた。 心配そうな、だが素直にそうとも表現出来ない様な表情をした銀時に壁際に追い詰められ、連鎖的に先頃までの無様を思い出した途端、まるで足下が崩れ行く様な不安感と、何かの拍子に『それ』を知られはしないかと言う恐怖が過ぎった。 久し振りの口接けを受け入れながら、間近に感じた望み──会いたかったのだろう、と言う、些か情けのない願望の成就に漸く気付いて。そうは理解しているし、恐れてもいたのに、ただ銀時の匂いや温度がそこに在ると言うそれだけの事に、土方は張り詰めていた己の四肢から力が抜けていくのを感じていた。 全く、らしくない。全く、……どうしようもない。 こうまでして得た安堵に、眼を瞑って浸って仕舞いたいと何処かで思う自分を、今は無い筈の腰の刀の重みが引き戻し、失望と言う思いを容赦なく胸に突き立てて来る。 そうして少し落ち着いた思考が真っ先に問いた事が、銀時が本当に単なる偶然で現場を通りかかっただけなのだと言う確認であった事に、土方は益々自己嫌悪を深めずにいられなかった。 銀時がもしも本当に下手人の一人であったとしたら。恐らくはショックも受けるだろうが、隠しきって斬り捨てるだろう。そしてその後で自分の莫迦さ加減を嘲笑ってから少しくらいは泣くと思う。だがそんな埒もない想像は、現状のこの何処にも流れない澱の底で溺れるよりかはどれだけ楽なものだろう。 そんな己の思考にまでも失望した後は殊更にどうでも良くなり。 失血にか被毒にか、眩暈や憶束ない足下の揺らぎを憶えるその中で、まるで銀時が全てを見透かして見ている様な錯覚に陥り、途方もなく怖くなった。 違うのだと。何でもないのだと。何でもない事なのだと。そんな嘘と言い訳を並べたい。 問われてすらいないのに、不安や畏れが何かを紡ごうとする。 違う、とか。悪い、とか。そんな心算じゃなかった、とか。助けてくれ、……とか。 混乱しているのだと、理解はしていた。男の何にもならない身ひとつ、田舎侍と蔑まれた者の魂ひとつの薄汚い取引など、本当は負い目になりもしないものなのに。一体何を気にして、何に怯えて言い訳を紡ごうなどとしているのだろう。 お前が留守にしていたなら、万事屋まで辿り着けなくて良かった。明かりの灯らぬ家を前にして、深夜なのだから心安らかに眠っているのは当然なのだと思う静穏の中の諦念に。堪えきれずに呼び鈴に手を伸ばして仕舞うやも知れない無様な衝動を知る事無く済んだ。 その前に死んでいたら意味が無いからと苦く笑う。その前にこんな所でこんな自分に、無様に死ぬ所だったものに失望している癖に、なんでそんな事がこんなにも嬉しいのだろうか。 ──ああ。浅ましい程に。 俺は、生きていて、お前に今会えて、助けられて、ひょっとしたら気付かれはしないかと、言い訳を並べながら、畏れながら、期待しているのだ。 手前の勝手な想いだけで護ったこの男に。どうしてそんな事をしたのだと、問い質されたいのだ。 そうして、楽になりたいと思っている。 真選組に、近藤に、決して知られてはいけない取引。他の者に隠し通す為に山崎には『事務的な』仕事として説明するかも知れないが、それだけだ。誰にも弱音も相談も吐き捨てられず、恐らくは己の裡にだけ押し込めておく事しか出来ない、薄汚い澱にも似た穢れ。 それを、原因である銀時に、知って貰いたいと言う感情と、知られたくはないと思う感情とが渦を巻いて混じっていく。 (浅ましい、薄汚ェ『狗』の、正にその侭じゃねぇか……) 知られて、お前は馬鹿だと怒りをぶつけられれば、救いの手が『また』伸べられるかも知れない、と。打算に似た期待がある。 だがそれと同時に、知られたら、汚物を見る様な眼で突き放され、見限られるかも知れない、と。正直な畏れがある。 その何れであっても、楽にはなれる。錘が釣り合うか、錘が失われるかのどちらかの解答で。 歪であっても事は片付く。だから、間違ってはいなかったと、ひとときの安堵は得られるかも知れない。 だが、そんなどこか甘美な畏れは、自身で疾うに理解している事実の前に容易く消えた。 魂が折れた、と。そう認識した時点で──結果はどうあれ、間違えているのだから。 その、身に沁みる様な理解から眼を逸らす事など出来ないのが、土方自身解りきっている、面倒臭く生真面目な自分の性分だ。 (だから、駄目なんだ。万事屋には、コイツにだけは絶対に知られる訳には行かねぇ……!) そう。棄てて仕舞えばいい。浅ましい期待は不要だ。 歪になった魂の体裁を整えて、この男の横に並べるなどとは思い上がっていない。 削ぎ落として、削ぎ落として、引き剥がして。そう、先頃そう思った様に。叫び出す前に、失う前に、斬り捨てろ。 棄てられないのだから仕方がない。失いたくないのだから、仕方がない。 お前と、お前の居る世界を失いたくなくて、勝手に護ろうとしたのだ、などとは、もう二度と思いもすまい。 もしも、時々妙に鋭いお前が気付いて、拒絶より先に問い質そうとして来たら、お前には関係のない事だと言い放て。 真選組の為の『仕事』だと、いつも通りの、鬼と評される顔で平然と嘘を吐け。 お前に今、諾々と命令に畏れ従い、『狗』の扱いに甘んじてまで、したことを侮蔑されたら、したことを拒絶されたら、どうしたら良いのか解らなくなる。 俺は護りたかった。だからきっと間違えた。正しいけれど、間違えた。 伸ばされた手の優しさが怖くなった。受け取りそうで、怖かった。縋りたくなりそうで、恐ろしかった。 離せ、と、やわい拒絶を発した後、恐らくは傷と被毒とで視界は暗転して── そこに至った所で、漸く、これは夢なのだと土方は気付いた。 あそこで、狗の様に這わされて痴態を見せているのは、攘夷浪士に襲撃を受けているのは、無様な己の感情に切り刻まれて、負傷に倒れているのは、己の記憶だ。 自分だが、自分ではない。 傷を恐れる事も、苛まれて泣く事もない。ただの夢だ。 その証拠に、 薄く目蓋を開けば、微睡みの続きがそこにはある。 柔らかな銀髪頭へと、手を伸ばす。 * 何かを探す様な手と訴える様な唇の動きに思わず顔を近づけてみれば、案の定か、自らの厭うべき最大にして唯一の難点とも言える、好き放題に巻いて跳ねる髪を鷲掴みにされた。 「痛い痛い痛い」 甘い雰囲気どころか、アイアンクローだ。攻撃以外の何ものでもない。寝惚けている癖に結構な握力が銀時のこめかみをキリキリと締め上げるのに顔を顰めて腕を掴めば、相手の力が不意に熄んだ。弛んだ指先が銀時の頭髪を軽く捕まえて、落ち着いた様に止まる。 それから暫くもふもふと感触を愉しむ様な手の動きに、不本意ながら銀時は溜息をつくのみに留めた。 上体だけを屈めた体勢は疲れるから、布団端にごろりと横になる。傍目には大の男二人の添い寝と言うある意味凄い光景になるが、真選組屯所の奥詰まりに位置する医務室の前を通りかかる隊士も、覗きに来る物好きもいないので別に構わないだろうと決め込む。 するとその事で少し先程よりも近付いた頭髪に、益々強く指が引っかけられて、流石に泡を食う。 「ちょおま、ただでさえ天然のオサレパーマだけどね?忌々しいことこの上ないけどね?抜けたら治らないから!天パで薄毛とか死んでも避けたい未来予想図だから!」 再びがしりと力を込め、銀時の頭髪をもぎ取る勢いで掴んで来る土方の手は到底眠っているとは思えない程にがっちりとホールドしてきている。今度は頭蓋骨ではなく髪の毛そのものを。銀時もその力の強さに思わず抗議はするが、寝ている怪我人相手と言うのもあって強くは振り解けない。 何より、怪我人か否かはさておいてもっと重要なのは、 (寝惚け中の土方くんは、貴重なデレ成分の発揮所) この結論に尽きた。逆に言うとそれ以外の時は全くデレないとも言えるのだが。そんな空しい統計はどうでも良い。 銀時は溜息をつきつつ、ぎりぎりと己の毛根に深刻なダメージを与えてくれそうな力を解くのを諦め、滑らかな感触の黒髪をお返しの様に撫でてみた。これをやると目が醒めた瞬間可成りの確率で布団から蹴り出されるか、顔面がめり込む程のジャイアンパンチをされるのだが、目の前でコイビト(一応)が滅多にないデレ行為をしてくれているのだから、これを捨ておく訳にも行くまい、と。 実に欲望に忠実な英断だ。……これも、可成りの確率で繰り返している事ではあるが。 思い起こせば昨日の昼間の、ゴリラを挟んでの睨み合いと、昨晩の事件現場での遭遇以来の接近だ。昨日以前になると、最後にこれだけ近かったのは何日前だったろうか、と思わず首を傾げて記憶を手繰りたくなるが、面倒になって途中で放棄した。 はっきりしている事は、こんな風にして、同衾(現状は少々違うが)状態で土方に触れる事は酷く久しかったと言う事実だけだ。不謹慎な想像と解っていたが、土方がこんな負傷でも負ってくれなければ、件の真選組隊士襲撃事件が解決を見るまでの間くらいは、こんな距離は許されなかったに違いない。 負傷以上に顔色が悪く、真っ直ぐ立っているのも辛そうに、壁に寄りかかっていた姿を思い出せば、連日どれだけの無理をして事件を追っているかが窺い知れて、土方の気質をよく知る銀時には、もどかしいのにも似た感情を想起させられずにいられない。 「いつも真っ直ぐで、結構な事ですねぇ」 髪質への評だけではない成分を含ませて、自分でも想像以上の甘い声が出た事に、銀時は小さく苦笑した。 正直、山崎の隠そうとしている事、土方の願いだと言うその秘密の『何か』を許せる気はしない。土方のする事ならばきっと理由があるのだろうし、それは彼自身よりも、彼の大事にする真選組やその信念に準ずる事である筈だ。その点に疑いや嫌悪は無い。嫉妬ならば少しはあるが。 だが、土方が銀時の為に隠して行ったのだろう『何か』を、少なからず山崎や沖田は許せずにいる。土方自身を、と言うより、彼にそこまでの決意をさせた、坂田銀時と言う人間に対する疑問の様なものを抱え持ち、文句を言う筋合いなどないと認めながらも、銀時をどう言う目で見れば良いのか解らずに持て余している。 重症を負った、などと言う嘘も、土方の身か或いは心をか、護る為のものだと思えば、成程確かに今目の前で寝息を立てている顔は連日の疲労に草臥れたものではなく、その事に少しだけ安心する。 (お前がしんどい思いしてねーなら、別に他の奴らに恨まれようがなんだろーが、それでも良いんだけど) 諳んじてから、それは無いなとかぶりを振る。ぐ、と、土方の髪を弄るのとは逆の拳が、強過ぎる激情を包んで固く固く握り締められた。 ……何をしたのだ、と問うのは簡単だ。 だが、銀時がそれに気付いたのだと確信した瞬間、恐らく土方はもう二度とこちらを振り向きもしないだろう。呼ぼうが、引こうが、無理矢理に口接けようが、組み敷いて犯そうが──、絶対に。 何故ならそれは多分、土方が銀時の為にした事だからだ。 『何を』かは解らない。それでも、そんな事は不要だと、怒鳴りつけてやりたい気持ちはある。 だがそれは、それをして仕舞った後の土方にとっては、心をも無為にされる冒涜にしかならないだろう。 土方は、銀時がその事を知れば、怒るのだと理解している。怒り、した事を無為にされる様な優しい言葉を投げられるのだと、知っている。だからこそ知られたいとは決して思わない。 そして、銀時がそれを知りつつも土方のした事を肯定したら。怒るのを堪えて変わらず愛してやれば。……それこそ土方には耐え難い痛苦と絶望になるだろう。 そして、そのどちらも銀時には出来ない。──否。してはいけない。 頭を押さえる様な手に寝苦しさを憶えたのか、土方の手が銀時の頭からするりと解けた。布団に落下する寸前でそれを受け止め、巻かれた包帯越しに、拳を力をこめて握りしめていた事を表す、爪の痕を悼む様に撫でた。 何かを堪える様なその疵は、何かを護って背に負う刀傷にも似ている。 昨晩、掌に弓形の疵を見つけた時から、何となく察するものはあった。 元より真選組と言う存在に操を捧げている様な男だ。幕府内の権力闘争や、単純な正義感だけで動く事の出来ない社会と司法のシステムに心の何処かを折って、その度魂は折らない様に立ち向かって行く。仮令向かえなくとも、ただ立ち続ける。 自ら縛られに行く様なその様に当初銀時は、物好きで面倒な奴だと思ったものだった。 だが、乗り込んだ万事屋を餌の一つに、煉獄関と言う非合法の地下闘技場を潰した時には、一本釣りの失敗に対して「やはり時期尚早だったな」などと悪態をつきつつも、その横顔に確かな笑みが浮かんでいるのを見た。 早すぎる手入れに、悪党の殆どは痕跡ひとつ残さず姿を消して仕舞った。だが、一度は『父』の死に泣いた子供たちが再び笑う事が出来た。 恐らくは沖田ばかりでなく、土方もまた、他者の命を踏み躙る事を楽しむ様なあの悪趣味な施設を心底に嫌悪していたのだ。警察に、それから施設へと連れ回された子供達の泣く姿に、何も思わなかった筈はないのだ。 ただ真選組の副長として判断した計算が、その時見た涙をいつか拭ってやれる日を待つ、と言うものだっただけだ。 実際、逃げた悪党共に因って真選組が潰されなかったのは一重に連中の気紛れ次第の結果だったのだろう。万事屋に何の害も及ばなかったのもそれと恐らくは同じだ。 縛られない彼は奔放で。その後負うリスクはきっと安いものでは無かった筈だと言うのに、その瞬間は物騒に、楽しそうに笑っていた。次の機会が来たら今度は逃がすまいと言う決意と、自らの下した偽善的な、大凡組織をとりまとめる一人としてはらしからぬ判断に対する苦さと清々しさとを口元に潜ませながら。 なんでかんで、連中は物騒な警察だった。日頃は攘夷浪士を追い掛け町を好き放題に破壊するし、一般人の銀時を平然と蹴るし殴るし斬りかかって来るし。 そんな彼らの、傍若無人にさえ見える活動の裏には、様々な『上』の思惑や私欲が渦巻いているのだとは、少し政治と言うものをかじって見れば──客観的に現在の幕府の有り様を判じれる目さえあれば、容易に知れる事だった。 お妙へのストーカー行為に励む近藤を迎えに出て、お妙本人と顔を突き合わせる事になれば、不本意そうな感情を呑んでもちゃんと上司の不祥事を謝る。 そんな生真面目さを持つ男が、真選組の存続の為に一体どれだけの労を重ねているのか。時には爪が食い込む程に拳を握り堪えねばならぬ程の、自尊心を打ち据える様な目を見ながらもそれを表には決して見せずに、なんでもない『仕事』として振る舞うに違いない。 それもまた──容易に知れる事だ。土方当人に聞いた訳では無論無いが、酔いに混ぜて自らを『野良狗』だと評する程に、それは彼にとって正に『狗』でしかない所行なのだと思う。 畳に頭を黙って伏せる黒髪の上に、杯が傾けられる姿が、何故かふと想像出来た。 欲と富に越えた老人達がそれを嘲笑い、侍らせた芸妓達の鈴の様な軽やかな笑い声が追従して上げられる。 少しでも顔を起こせば、目つきを反抗的にすれば、扇や酒杯が容赦なくその頬を打つ。 例えばそれはただひとつの、そんな連中にとってはどうでもよい様な案件を、犯人逮捕の為に押し通すべく『手段』として。 「……………」 何故か悪趣味に、極彩色の色合いで浮かんだそんな想像を、銀時は軽く振り払った。 刀を用いれない戦いに必要なものは、着込んだ隊服。それが恐らく土方にとっての鎧なのだ。侍の矜持と真選組の信念を纏って、どんな下らない戦にも全力で立ち向かう。 その内では屈辱に肩を奮わせつつ、拳に爪痕を残して。それでも。 (いっそ、攫ってさ。囲って。花なんざ咲かなくて良いから、お前をさぁ…) 沸々と、怒りの代わりの様に沸き起こる仄暗いあの感情を、今度は苦笑と共に受け止めて、銀時は冷えた土方の手を両手で包み込むと包帯の上から唇をそっと落とした。 刀を掴み取って戦って来た掌。 応えに寄越された掌。 瑕を握り込んで隠してきた掌。 これに絡められた指は、酷く温かかった。 不器用ながらに計算と本音との狭間で悩んだのだろう、その答えは何よりも嬉しかった。 失いたくないと、心底恐れる程に大事だった。 (なぁ、土方) 俺は今、お前を抱き締めてやりたくて堪らないんだ。 やっと時間軸が現在に戻った…。 /3← : → /5 |