雨枯れの花 / 3 組織人として。或いは組織を率いる者の一人として。土方は己に、出来る事の一つとして、常に冷静でいる事をまず課した。基本、頭に血の上りやすい自身の性分は自覚していたが、同時に、目先の細かい所にも注意の行く(それをどうこうしようといちいち斟酌するかはさておいて)観察眼、洞察力、そして天性の勘の良さとも呼べる素養をも持ち合わせていたのは幸いだった。 つまり、かっとなる前にほんの少し頭を冷やして周囲を伺う、そのプロセスさえ経れば、思いの外に計算高く『冷静な対処』が出来るのだ。 ただ、肝心のそのプロセスを通す事そのものが非常に難しい。極力職務や嗜好品以外の物事に執着や拘りを持たない土方の性分に沿う事であれば、他人事の様にさえ見て判断する事は容易だが、生憎そうとばかりにも言っていられない事は世の中に多い。 『芋侍』と蔑まれる者なりに、侍としての一念を通した生き方はしてきた心算だ。時に真選組の為にそれをギリギリの妥協点で曲げざるを得なかった事はあったが、折った事はない。 そんな自らの矜持ばかりか、特に近藤や仲間に関わる事となると、大変残念な事に脊髄反射で血が上るのを止められない。そうしてあわや刃傷沙汰寸前、刀に手を掛けた事は数知れず。危うく折られそうになった事も数知れず。 辛うじて折られずに済んでいたのは、単純な運の良さや、自分の背中に仲間が居た事に因る。 ……詰まる所。冷静さを失ったら敗北なのだ、と言う結論に尽きる。特に今は背を護ってくれる仲間などいない。何せ単騎で敵地に放り込まれた様なものなのだから。 土方は己の動作が強張らない様に、小さく深呼吸をして、努めて自然な挙動を心がける事に専念した。僅かの動作の間に頭を急速に冷却させ、同時に、放たれた言葉の意味に思考を巡らせる。 背を向けていて、顔が見られていなかった事に今だけは感謝したかった。 (俺にも思いつける心当たり?有名人?) 真っ当にそう考えかけて、違う、と即断する。これはただの世間話などでは当然無く、老獪な幕臣の指し手だ。言葉の意味を真っ向から追うより、それをわざわざ告げて来た『意味』を探るべきだ。 件の事件の下手人の『心当たり』が居て。見廻組に潜ませた部下が居る。 全く関係無い様な二つの事象だが、この時期に、狙い澄ました様なその発言の意味を探れば探るだけ、何らかもっと深い意趣を感じずにいられない。 否。 己の思考が瞬時に弾き出した可能性に、土方はそれ以上の結論を禁じた。 土方には組織人として『冷静さを常に持つ』事に加え、もう一つ、己に課した決まり事がある。 それは、常に最悪の予想をすると言う事だ。 気休めや楽観的な思考は、問われた時にのみ出すものであり、己の裡でだけ可能性を論じ結論を探す時には、必ず最悪の結果から考える事にしている。そしてその上で、その結果に到達させまいとあらゆる手段を講じる。他のあらゆる可能性へ到達する道を模索する。 その『最悪の結果』への思考を、ついぞたった今自身の意思で振り切った事に、土方は最早狼狽はしていなかった。自らの感情に裏切られたかの様な不安定感はあったが、この場合の想定し得る『最悪』の終わり方は、触れるだけで思考を根底から覆す程に、冷静さを己から奪って仕舞いそうな気がしたのだ。 こわごわと思考を結論からずらし、土方は密やかに呻く。相手の思考を探り、返す指し手を早く見つけなければいけない。この『最悪』の結論に辿り着く、その前に。 (見廻組に密偵を忍ばせてた、って事ァ…) 見廻組はエリート、武家の出や家柄を重視した者らで構成された、『柄の悪くない真選組』と言っても良い存在だ。お互い持ち回りは別区画と分野だが、互いのバックに居る者らが牽制し合う為に組織した様なものだと、隠されもせずに噂が囁かれている。 両組織ともに警察庁の管轄下にあるが、警察庁も一枚岩と言う訳ではない。互いの腹の黒さや欲を満たす材料を奪い合う事も、それ故に蹴落とし合う事もある。 佐久間が見廻組に忍ばせた部下と言うのも、見廻組の後ろ盾となっている派閥の何者かが自分にとっての政敵であるからとか、そんな理由に違いない。 果たして局長の佐々木何某はそれに気付かぬだろうか。思ってから否定は直ぐに返った。そんな筈はない、と。 あの狡猾な自称エリートの事だ、身の内にスパイが紛れ込んでいると知っても、それを逆に利用する程度の事は平然とやって除けるに違いない。手強く腹立たしい相手だからこそ、仮想敵とみなした想定は容易くつけられるものだ。 ついぞこの間、真選組と見廻組は正面からぶつかり合い、互いの主義主張の相違と言う、私闘の理由には些か御粗末なもので争う羽目になった。 結局それは痛み分けの様な形で収束を見た。現場に居た当人達にしか証言は得られず、その全員が口を噤み裏を合わせたとなれば、上も手は出せない。何せ証拠がない上、両組織を平等に裁ける様な第三の組織など存在していないのだから。 以来、土方は見廻組の動き、特に佐々木異三郎の行動には注意を常に払って来た。あれは今すぐと言う様な驚異にはならないが、いつかとんでもない角度から真選組の存在──否、世界そのものを引っ繰り返す様な類の企みを巡らせる男だと、本能的に察したからだ。 考えに暫し沈んだ土方の様は、老人の狙いとは意図せぬものだったらしい。「見廻組に何故?」などと狼狽えて無様に問いを上げるのを期待していたのだとしたら、ざまを見ろと言った所ではあったが。ともあれ、佐久間は沈黙の間の後を漸く続ける事にした様だ。まるで辺りを憚る様に、態とらしく視線を流してから、勿体ぶる風情で口を開く。 「その、子飼いの部下がね。この間の攘夷活動浪士の一斉検挙事件の際に……見たと言うんだよ」 老人の、まるで何かの秘め事を語ろうとする様な密やかな声。扉を開ければ伏魔殿より何が出てくるとも知れない、聞く者は怖気を感じずにいられない様な、話し手にとってはさも面白そうな。勿体を付けた口振りと、伺う様な目が土方へと向けられた。 攘夷活動浪士の一斉検挙。そう。件の騒動はそんな名前でファイリングされた。解決済み、の判と共に、警察庁の資料室に収められるのを、土方は自ら確認している。 そうでなくとも、何かの痕跡は残してはいないかと、細心の注意と、犯罪すれすれの権限の行使で、件の事件の書類や証拠物件は全てチェックした。真選組のものは勿論、見廻組から提出されたものも含めて。 然しそこには幾ら探せど、懸念していた文字列は確認出来なかった。 あの場に居合わせて、確実にそれを耳にした筈の佐々木異三郎の狙いなど知れないが、彼は件の存在を公文書から全て隠匿した。土方の利に偶然にも沿う形で。 つまり──それは、当事者達が語る事を拒否し隠した、決して漏らされる筈のない事実、暴かれる筈の無い空白となる筈だった。 「……何を、でしょうか」 盆に戻した徳利がカラの杯にぶつかり、かちん、と陶器の澄んだ音を響かせる。 厭に部屋に大きく響いた様に聞こえたその音に、土方は己の手指の震えを悟られまいと、唇を噛んだ。肺にゆっくりと息を溜め、静かに吐き出す。 「伝説の攘夷志士……白夜叉を、だそうだよ」 呼吸が──止まった。 咄嗟に眼が、気配が、刀を探そうとするのを止められない。 だが、見つかる筈もない。こう言った、セキュリティの万全さを謳う高級料亭で上司が個人的に用意した宴席では、脇差一本さえ佩かないのが礼儀だ。愛刀は玄関で店の者に預けて仕舞っている。こう言った事態を予想した上での用心なのか、それとも単なる偶然か、老人自身も刃物の類を一切帯びておらず、床の間の刀架にも何も置かれていなかった。 視線と気配だけで手繰った刃の気配に、然し返るものは何も無い。絶望感にも似た焦燥と、無くて良かったと言う安堵とが奇妙に入り交じった感覚に、震えた手足の末端が厭に冷えた様に感じられる。 咄嗟に。白夜叉の名を出した男を、衝動的なものもあれど、まず斬ろうと選択を弾き出した己の思考に土方は少なかれ驚いていた。利も損害も考えず、『白夜叉の名の個人』の身をまず案じる事になろうとは、思いもしなかった。 「あれは…、攘夷浪士共の間で囁かれる、単なる伝説の様なものであると…」 老人の切ったカードを、戯れの会話であると流す土方の様子から何を読み取ったのか。佐久間は「ふむ?」とつまらなそうな風情で鼻を鳴らした。「野暮な事かも知れんがね、」続く言葉に、紡がれる予感に、背筋が激しい嫌悪感に粟立った。指摘されると言う事そのものよりも、そんな事に使われるだろう『弱味』にだ。 「君達の……いや、君の方がと言うべきかね。よく知っておるものだと思っておったが」 どろりとした問いが足下、背後まで迫っている様な錯覚を憶え、土方は真後ろに座している筈の男を振り返る事すら出来ずにいた。 そしていつもならば土方がその様な態度を取れば、無礼だと直ぐに詰るだろう、そんな言葉も、杯さえも飛んで来ない。 「仮に、伝説の攘夷志士とも謳われた者が存在していたとして、そのような者が、真選組の隊士一名を無闇に殺めるとは思えませんが」 飽く迄『白夜叉』などは居ないと話を逸らす土方に、佐久間は軽く「まるで攘夷浪士の擁護論だな。少しは己の役職や立場を考えてものを言った方が良いのではないかね」と喉奥を震わせている。 ──嬲る様な声だ。 「、」 ぐ、と一度だけ息を呑み、土方は取り繕う様に続ける。 「いえ、決してその様な心算は。彼の『白夜叉』が伝説めいた存在であれば猶更の事。終戦以前より活動を続ける攘夷浪士は、侍として戦った記憶に縛られるが故に、侍としての魂を何よりも遵守すると聞きます。その様な軽率な所行は、攘夷活動を行う自称『侍』達の信念や結束をも危うくするだけの愚行としかならないでしょう」 未だ江戸を逃げ回る桂が良い例だろう。彼は攘夷浪士としての、侍としての、憂国の信念とも言うべきポリシーを掲げている。攘夷活動が市井の者に『犯罪』としか映らぬ様になった所で、それは変わるまいと思う。 その桂と同等の『伝説』の『看板』でもある白夜叉の名を持つ者が、仮に攘夷活動を行っていたとして。真選組隊士一名の殺害と晒し挙げなどと言う真似はすまい。 教科書通りの様な答えだ、と土方は内心思っていたが、それ以上に焦りを隠せずにいた。声が震えず澱みもないのは、最近の忍耐の連続で気付かぬ内に身に付いた技だったかも知れない。 「攘夷浪士に……いや、『白夜叉』殿に随分と入れ込んでいる様にも聞こえるな」 嬲る嗤いを少しも隠さない、あからさまな揶揄に土方の頭にかっと血が昇った。拳が固まり、肩が強張る。手の内を刺す爪の鈍い痛みが、辛うじて現実を思い出させてくれている。この老人を殴殺しない様に、留めている。 「その白夜叉だがねぇ。今となっては落ちぶれたもので、食うにも困る生活だと言う話だ。滑稽な事に、件の事件の際に佐々木局長が適当に民間から雇った協力者だったと言うではないか。報告では大金に釣られたとの事だが、どうやら本当にその通りだった様だ」 それならば、端金で下らない殺人くらい行うのではないかね。 ──そう続けられた言葉が、限界だった。 (てめェがあいつの何を知る。 何が『下らない殺人』だ。死んだ隊士を憂う者がどれだけ居たと思っている?命の失われる容易さと虚しさを知る、あいつ程に血と死を厭う奴はいねェ。どんな小さな縁でも、どんなに嫌いな野郎でも、どんなに下らねェ人生でも、手前ェの関わった『他人』を一切見捨てる事が出来ないあの馬鹿野郎が、) それは今まで近藤に、真選組そのものに掛けられた侮辱と同じ様に、土方の心の琴線を鋭く弾いた。耐え難い屈辱が痛みになって脳髄を突き刺す。 声にならない絶叫を噛み締めて、声に出来ない反論の苦しさに喉奥で喘いで、抜けない刃を視線に乗せて、土方は初めて『飼い主』である佐久間老人を睨み据えた。 今にも飛びかかり噛み付かんばかりの『狗』に何を思ったのか。老人はさも面白そうな風情で喉を鳴らす。 「件の下手人であるかは、まあ可能性の論だ。私が言いたいのはだ、容疑者の一人としてでも扱って『攘夷志士の白夜叉』を捕縛しろ、と言う命令だよ」 最早、狗を見る目を──高い所から低い者の這いつくばる姿を嘲弄する色を隠しもしない。 老人の、泥の様な眼を、嗤いを、真っ向から受けて立つ。それが今の土方に出来る刃の振るい方だ。 「…証拠は、無い筈ですが?」 白夜叉の存在の痕跡も、見廻組に潜ませた部下とやらの報告も、個人の証言では何の効力もない。 どうせもう既に、老人の口振りから察するに、白夜叉こと坂田銀時と、真選組副長の土方十四郎がそれなりに親しい関係にある事さえ知り得ているに違いないのだ、と開き直れば、逆に恐れるものは少ない。幾ら権力を持つ人間の発言とは言え、将軍でも無ければ証拠も無しに司法全てを無視する事など出来ないのだから。 白夜叉と坂田銀時と攘夷浪士達と件の下手人と。全てを結びつける様な証拠など都合良く出て来はしないだろうし、事実に無いものは存在もしていない筈だ。そしてそれさえ出て来なければ『白夜叉』の存在は護られる。ひとときの風聞や騒ぎは免れられないかも知れないが、それ以上の事にはならない。筈だ。 見廻組に仕込んだ部下だか密偵だか知らないが、その何某が局長である佐々木の意に反した証言をすると言う事そのものからして、密偵当人にも、それを差し向けた佐久間老人に益になる事が生じるとも思えない。寧ろ密偵を放っていた事が露見すれば政敵にそれを理由として足下を掬われるのがオチだ。 つまりこれは、少しばかり面倒な局面と言うだけの話。牽制の意の強い指し手は囮でもある。それにまんまと釣られ重要な駒を逃れさせようと、城塞から引き擦り出す事こそ目的だ。 故に土方の返し手は、開き直り。門扉も開かず防御姿勢の侭で居ながら、攻める気あらば迎え撃つ備えを模索し待ち受ける。 (どっちもハッタリみてーなもんだ。下らねぇ上に碌でもねぇ) 護るべきものを背負った上での駆け引きと言うのは、やはりどうにも苦手意識が付き纏う。単身刀で斬り合う駆け引きは寧ろ望ましい程好きなのだが。そんな事を痛感させられる度、伊東鴨太郎はそのポストと言うものに限れば、真選組に必要な人材だったのだと思わずにいられない。あの男であればどんな下らない政治的駆け引きでも腹芸の一つや二つ無表情でやって除けただろう。 「ふむ。まあ予想通りの返しだな」 そうでなければ面白くない、と。老人の返しに土方は憤怒の表情の侭、再び背筋を粟立てた。物思いや無い物ねだりなど今はしていても詮の無い事だ。 老人の道楽。将棋や碁を愉しむ風情で、何人かの人間の人生がどうなろうと知った事ではない。そんな傲慢がそこにはまざまざと見せつけられていた。 この高級な料亭と、設えられた下らない宴席の様に。贅に溺れそれを湯水の様に使い人を弄ぶ、権力と言う害悪。 (いつか殺す) 思わずそんな物騒な思考を土方が流した瞬間── 「私には、松平公を通さずとも、直接お上に上申する事など容易いものなのだと忘れているようだねぇ?」 酷く簡単なその言葉に──今度こそ、土方は全てを悟って仕舞っていた。 『白夜叉』の嫌疑がある人間がいるのだと。その言葉が『上』で囁かれる事となったら、警察庁はそれを看過する事は出来ない。司法を徹底的に律する為にと造られた、それが警察組織と言うものだからだ。 そして幕府も、天導衆も、天人も。『侍』を徹底的に封じた彼らこそ、『侍』を──攘夷戦争を悪戯に長引かせ、天人の身にも人間種族の驚異を憶えさせたその存在の在り方を最も恐れる者達だ。例えば将軍にそれを上申すれば、将軍とて看過する事が出来なくなる。 そう。彼らが、攘夷志士『白夜叉』と。真偽の程さえ疑われた事もある戦神を、その名を出されて黙っている筈などないのだ。土方もその可能性を恐れたからこそ、あそこまで執拗に『白夜叉』が事件に関わった経緯も証拠も、完全に揉み潰したのだから。 そうなれば真偽の程はさておいて、坂田銀時は捕縛され、警察の人間を卑劣に殺めた元攘夷志士として牢に繋がれる事となるだろう。ひょっとしたら極刑が待っているかも知れない。 神楽も、新八も、その姉も、家の大家達も、彼の多すぎる知己達も── どんな顔を、するだろうか? 天人の不法入国者として神楽は何らかの咎と共に強制送還されるだろう。 一人取り残された新八はきっと必死で足掻く。危険を冒してでも彼の『家族』を取り戻そうとする。 そんな弟の姿を、あの姉はいつもの笑顔でなど見守れるだろうか。 大家のお登勢はかぶき町四天王の一人だし、そうでなくともあの町中に根を張っている男の事だから、お登勢が何かをせずとも、町中が総出で銀時の無実を訴えて来るかもしれない。 だが。 そんな中を捕縛されて行くあの男は──果たしてどんな眼で俺を見るのか。 俺は、真選組(俺達)は、そんな連中を、暴動鎮圧と言う名目を振り翳し、斬り殺すのか。 あの男は、どんな顔を、するだろうか? こんな時ばかり『最悪』の可能性が山と浮かぶ。悲痛な迄の畏れを伴って猛烈な瀑布の様に土方の脳を打ち据えてくる。 そんな状況の中、例えば桂の様な嘗ての盟友が『白夜叉』を奪還する様な動きがあれば。或いはそれを騙った『攘夷浪士』の動きがあれば。 灰色や白は容易く本当の黒になる。 そうなって仕舞えば、もう本当に庇いきれなくなる。 今までは偶さかの運で放逐されていたひとりの浪人が、『白夜叉』と言う名を与えられる、ただそれだけの事が。坂田銀時の手に入れた世界を無惨にも破壊する。 あの男の世界で。あの男の護りたかったものたちの詰まった世界を、刃で簡単に一薙ぎ。 それが仕事だと言い聞かせながら、この腕はきっと容易くそれらを殺められる。 真選組の、その存続の為にと言い訳を吼えるしか出来ない、命令に従順な『狗』として。攘夷浪士とそれに与する犯罪者となった市民たちを、栄誉の名の首輪をぶら下げた『狗』として、狩り尽くす。 ……そして、そんな俺を、あの男は。 どんな目で、厭いの限りに見るのだろうか。 昼間見た泥の様な眼差しも唾棄したい類のものだったが、恐らくこれは決定的に違ったものだ。 想いも情もなにもない、まるで呪いの様な絶叫をひとつ。 軽蔑。侮蔑。嫌悪。憎悪。 或いは──ただ『敵』であるとみなした無関心。 (──厭、だ) ぽろりとこぼれ落ちる様にそう理解した瞬間、頭に上っていた筈の血が音を立てて一気に引いていくのを感じた。眩暈がしそうな程の急激な血圧の低下に、まるでそれ以上の思考を止める様にとでも言うのか、耳障りな音が頭痛を伴って警鐘の様に鳴り響く。 戦慄いた掌が拳を固める事も忘れてだらりと落ちる。刃の気配など最早辿りもしない。剣を失った手も、牙を抜かれた口も、何もかもが酷い喪失感の中に放り出されて身動き一つ取る事が出来ない。 その想像が、厭だ、と言う。ただ、それだけの事に。 真選組と関わりなどない様な男一人に対して抱いた、ただ一つの可能性、それだけの事に。 それだけの事が、鎖のついた首輪の様に。 「──、」 声になど、感情になどならない奥歯の軋る音に、やはり斬り捨てておけばよかったと、そう思ってから。その『可能性』を逆に斬り落として、土方はそこで静かな絶望を知る。 (厭だ、厭だ、厭だ、厭だ、厭だ、) むずがる子供の様な悲鳴めいたその一念が喉の奥底から音になって漏れ出さなかった事を、土方は己の自制心に感謝した。 もう決した。刃を自ら取り落として、負けを認めたも同然だ。だから今更何と叫ぼうが無意味だと言うのに。それでもこの想いを己の心以外の何処にも吐き出したくは無かった。既に壊れたも同然の無意味なそれを、取り落としたくは無かった。 誰が斬り殺してやりたいだって?とんだお笑い種だ。 あの男が失われる事を、あの男の中から自分が失われる事を、誰よりも拒みたかったのは、ここに残された手前一人だけだった。 ……一体いつからだろう? いつから、こんなにも。棄てられない程に心の隅々まで、あの銀髪の男が居たのだろうか。 それは清涼な水が不毛の砂漠に染み込む様に似ていたのかも知れない。不毛の砂はどれだけの水を干した所で何ひとつ芽吹かせなどしないと、そんな事は解っていたと言うのに。 それでも。 (一体、いつから、) その『いつ』が解れば、そこに戻って斬り捨てて仕舞いたいと、そう思うのだろうか。 思考遊びと解っていたが、それだと言うのに、返る答えはどこまでも『否』だった。 こんな絶望は知らなかった。 今まで、真選組の存亡を懸ける様な修羅場ならば幾つも潜り抜けて来れた。最悪の想定をしながらも、常に冷静に対処出来た。何故成せたのかと言われれば、そこには自分が護り、自分を護ってくれる人たちが居たからだ。 でも、これは違う。 坂田銀時と言う男に抱いたこの情動は自分だけのものでしかない。だから、棄てる事も斬り落とす事も忘れる事も見捨てる事も、知らない素振りで無知の剣を向ける事も出来やしない。自分が『厭だ』と一言拒絶する、たったそれだけの事で。 だからと言って、この情動を抱えた侭ではいられない。悲鳴がいつしか漏れ出す前に、呑み込んで削いで剥いで消さなければいけない。 こんな絶望は無かった。 失う事は厭だと言う己の悲嘆の為に、自分からそれを削ぎ落とさなければならない苦痛など。 それを思い知らされた失望感など。 (お前、を…、もしも、叶うなら…、) 言葉には決してならない、なった事のない願いを諳んじかけて止める。 全身が情けない程に震えていた。心が、情けない程に拒絶していた。 記憶の中にばかり鮮やかな、銀時と過ごした時間の端々が罅割れて崩れて行くのを止めようと必死に足掻く様に。 唯一の『解答』を、利に聡い頭が弾き出す。いとも容易く。千々に乱れた心など無視をして。 かたん、と。知らず蹌踉めいた土方の腕が当たり、徳利が横倒しになった。濃い酒の匂いが畳に容赦なく拡がって行くのを茫然と見つめ、暫しその水面を漂った眼は、最後には縋る様に『飼い主』を見上げた。 それを待っていたのだ、と言わんばかりの笑みが。 飼い犬に芸を仕込めた、と満足気に嗤う笑みが。まるで、待っていたかの様に。 それを見て、今更の様に思い出す。 目の前の老人の好色な、多岐に渡る『趣味』の風聞。 嘗て違法闘技場として栄えていた煉獄関の常連で、子飼いの闘士を何人も抱え、血腥い見世物を特別席で観戦しながら、酒や賭博や色を愉しむ様な人物。 まあ噂ですけど。山崎はそう言って笑ったし、応じた自分も、火のない所に煙は立たねェと言うしな、と軽く、他人事の様に、脳内の備考欄に留めておく程度だった。 詰られ揶揄られる屈辱に慣れた『狗』が、いつか噛み付いてやろうと牙を研ぎ始めた頃合いを狙って、絶対に服従するほかない一手を指す。 それが全て目の前の老人の『愉しみ』の一つでしかないのだと、嗤う顔が先頃の考えを肯定する。 地を這う人々のささやかな営みも。他者の人生も。江戸で起きる犯罪も平和も。土方が銀時に抱いたこの狂おしい程の、鎖にさえなった情動さえも。全ては勝ちも負けもどうでも良い、駆け引きを楽しむ様な盤上の遊戯。 関心は道楽と地位の保守。金と人の命などは、その為に支払われるほんの少しの対価と言う存在に過ぎないのだろう。 その、ほんのひとときの駆け引きに負けた者の命運は、ただの賞品であり供物。取引の材料に、果たしてどんなものを要求されると言うのか。土方にとって、今となっては真選組に近い程に重たくなった天秤の受け皿に、一体どれ程の錘を乗せる事を強いるのか。 「………っ、私に、何をしろと…、お申し付けですか」 これは未だ、慣れた屈辱。銀時が消えて仕舞う恐怖よりも易い、心の明け渡し所だ。 軋る様に、奥歯を噛み締めた土方の、諦念にも似た激情ですら愉しむ風情で、老人は強張ったその頬に手を伸ばして来た。皮膚を辿る好色な手つきに怖気が立つのを堪えられない。払い落としたくなる手を、代わりに握りしめる事で必死に堪える。 手はやがて、犬にする様に。黒い頭髪に触れてぐしゃぐしゃと撫で回す。 「そうだねぇ。君を手に入れたら、是非とも本当の『狗』にしてやりたいと。随分と前から思っていたのだよ」 にこりと。まるで孫かそれこそ飼い犬に笑いかける様に眼を細める老人の口から、土方には受け止め難い程の毒がどろりと吐き出されていく。 「『狗』に着衣は不要だな。全て脱ぎ捨て、その場に這うと良い」 指示でも、命令でもない。淡々とした『それが事実なのだ』とだけ指す様な言葉に、怒りと屈辱とで土方の目の前は真っ赤に染まった。 酸欠になりかかる程に、知らず詰めていた荒い息を吐き出し、銀時を失う恐怖と、感情を削ぎ落とす痛苦と、『狗』の屈辱との間で葛藤を続けていた震える手が、ゆっくりと隊服のスカーフに掛かった。 拒絶と、嫌悪と、激しい瞋恚と、折られた屈辱感が、がちがちと歯を鳴らしながら自らの動作を拒むと言うのに。それでも手は淀みなく、己のしなければならない事を止められない。それが道理だと言う諦念の声は、自らの裡で反響を続けるただの悲鳴でしかない。 する、と音を立てて簡単に解けたそれを目で追い掛け、それからゆっくりと目蓋を下ろす。 今まで、どれほど心が屈辱に這わされても、嘲笑を受けても、『人』の姿形は保っていられた。『狗』と揶揄されながらも、『侍』として立っていられた。 これから『狗』の身に刻まれるのは、忘れ得ぬ程の怒りと恥辱。『人』である事すら許されない疵痕なのだと、本能と経験が悟っている。 「そう怯えずとも構わぬよ。これは、君が『狗』であれば良いだけの話なのだから」 戦慄く手がベルトに掛かり、そこで躊躇う土方の決意を押す様に、「君の言う通りに『証拠』はないのだから」と、優しげな『飼い主』の慈悲が降る。 本当の苦痛と屈辱は恐らくこれからなのだと理解はしていた。 そう、証拠は何もない。言葉も直接の威力を持つ訳ではない。だから土方には逆らう牙が無い訳ではなかった。まだ盤上の駒は王手を突きつけられた訳ではないのだから、知らぬ振りを続けて指し続ける事は出来たのだ。 それでも、ほんの僅かの可能性と取りこぼしを恐れた。 想定した『最悪』の結果には、どう違えたとしても、何の対価、何の犠牲を払ったとしても、辿り着かせてはなるまいと言うただそれだけの一念だった。みっともない程に無様な、棄てきれない己の恐怖だった。 例えば目の前の老人を殺したとしても、老人が『狂犬』の反撃を考慮し保険をかけていたら?既に老人の元には坂田銀時が攘夷志士白夜叉であると言う『証言』が用意されており、それが死後に露見したら? 幾ら土方がどれだけ自棄になったとしても、佐久間の一派とその関係者全てを殺し切る事など出来ないし、何より表向きには佐久間老人は真選組の『後ろ盾』の一人でもあるのだ。それを失ったとなれば、見廻組との対立がただでさえ問題視されている昨今、土方や真選組が不祥事を起こしたと知れた時にその立場は急激に悪くなる。 打算と、正常な感覚。斬り落とせなくなった慕情。どこを取っても、土方にも、真選組にも、益になどなりはしないものだと言うのに。 それでも、「厭だ」と一言心が叫んだ、その刹那的で無意味でしかない情動が棄て難かったばかりに、屈する事を選んだ。 『白夜叉』の名前が犯罪者として露見し、真選組は攘夷浪士との繋がりを指摘され、件の真選組隊士殺害犯の容疑者として挙げられた坂田銀時がその『白夜叉』として捕縛されると言う──『最悪』の可能性を持つ未来を、何が何でも忌避する為。 ……己へこれから与えられるのだろう痛苦や屈辱の数々よりも、銀時の居るこの世界が壊れて仕舞う方が、余程に怖かった。 怖かった。ただ、それだけだから。 ──護りたかったのだ。 副長にごめんなさいのターンその1。傾城篇の設定が出る以前だったので色々と…。 /2← : → /4 |