雨枯れの花 / 2 結局殆ど休憩らしい休憩は取らない侭、夜半過ぎまで屯所で事務仕事に専念し、そろそろ軽食でも休みがてらに摂ろうかと思って立ち上がった時。土方の携帯電話が無言の振動を伝えて来た。 「……」 ディスプレイに表示されているのも無名。だが、登録した土方にはそれが何某のものなのかは解っていた。 「はい、土方です」 通話ボタンを押し、固い声音を意識して出す。 土方の携帯電話の中には、無名で登録されたアドレスが数件、存在する。 情報源や潜入隊士などを偽名で登録するのは珍しくもないが、名前をブランク扱いとするのはこの類の連中に対してだけだ。 《やあ、忙しい中済まないね。先程まで和泉亭でちょっとした会食の席を設けていたのだがね、面白い噂を耳にしたので、これは是非君に──真選組副長の耳に入れておくべきかと思ってねぇ》 嗄れた、老獪そうな声音。幕府中枢に根付く幕臣の一人で、町奉行の役職に就く男だ。所謂警察官僚と言う奴にも当たる。 警察庁及び真選組結成時の『鶴の一声』を上げた連中の一人でもあり、古い家柄の慣習からか権威や身分への拘りが非常に強い。本来は名のある武家の者で構成される筈だった武装警察組織が、田舎侍を登用した事もあり松平公の懐刀の様な存在となった真選組である事を未だ面白くは思っていないだろう一人でもある。思いつつも利用出来る限りは利用しようと考えている辺り質の悪さは折り紙付きだ。 表向きは警察組織に関わる人間として、組を支援し発破を掛ける様な『親切』をしていながら、不祥事には常に眼を光らせており、『狗』が尾を伏せ『ご主人様方』へのお伺いとお許しとを立てる事を命ずる。さもなくば足下を掬われるぞ、と。 飼い慣らしている心算なのだ。たかだか『狗』一匹が命に従い頭を下げる、そんな事如きで。 或いは、当初の思惑した組織が作れなかった腹いせに、憐れな『狗』一匹を、その感じているだろう屈辱感を、酒の肴とする為にか。 どちらにしても、糞食らえとしか言い様がない。 《どうだね、今から。もう宴も終わり客も捌けた。老人の酌に付き合うてはくれんかね》 否、とは言わせない。言うとすら思っていない。 そんな傲慢な声に、土方は努めて無感情な声で是と応えを返すほか無かった。 山崎にだけ行き先と用件を告げ、屯所の裏口から、隊服の黒さと共に闇に身を沈める。 襲撃の可能性を危ぶんでいた訳ではなかったが、時間短縮の為に近くまで呼びつけた駕篭(タクシー)に乗って目的地へと急ぐ。 道中、出掛けに念の為にと山崎に頼んでおいた、今宵の宴席とやらの出席メンバーがメールで届けられた。一瞥すれば、見事なくらいに腹の真っ黒な連中の集いだったらしい。土方にとっても真選組にとっても、引いてはこの国にとっても。碌な名前が並んでいない。 こいつらの腹の探り合いや企み合いでどんな話が交わされたかなどはどうでも良いし、土方の斟酌すべき所でもない。問題は、何の用向きで呼ばれたのかと言う事と、何の用であれど最終的に必要とされるだろう、頭を下げて揶揄と罵倒と侮辱に晒される間の忍耐だ。 近藤は局長として、会議や儀礼的な席や会合、宴席などには必ず出席しなければならないが、実の所土方はそうではない。副長と言うポジションは飽く迄近藤の補佐であり代役だ。近藤が出られない際の代理か、それとも特別に呼びつけられでもしない限り本来そう言った席には無縁の立場にある。 その近藤は、会議や宴席などで投げられる揶揄の声などにも平然と向かい立つ。受け流している、とでも言うのか。或いは単純で実直な人格故に、褒め言葉や世間話に混ぜられた毒に気付いていないだけなのか。 何れにせよ、土方が知る限り近藤はそう言った席での立ち回りが存外に上手い。礼儀のなっていない山猿などと時にあからさまに見下されても、「礼儀などとは無縁の身でした故に、ご気分を害されたら申し訳ない」などと真っ向から受け止めて仕舞う。相手が幕臣であれ天人であれそれは変わらない。下手をすれば連中の嫌味さえも親切な教えと取る。 こうなると、揶揄をする側もつまらないのだろう。連中が見たいのは寧ろ、そんな近藤の横に番犬の様に付き従う土方が、近藤や真選組へ向けられる言葉のひとつひとつに、拳を握り唇を噛み締めずにいられない様な姿の方なのだ。 それを看破されて以降。連中は何か失態や不祥事が起こる度、真選組に、土方に、あからさまな嫌味を投げかけてくる様になった。副長職が事務的な付き合いや政治的な駆け引きをも行う立場になったのもあってか、名指しで呼び出されれば応じるしか無かったと言うのも大きいだろう。時には組の存亡や予算の都合立てと言う『餌』を片手に。親切を装う様な風情で、鎖を引く。 今まで土方が『個人的』に何度連中に頭を垂れて来たか。真選組や近藤の事を貶める言葉を吐き捨てられ、その度に顔を強張らせて殺意を呑み込む、呑み込まざるを得ない土方の屈辱感を嘲笑い、連中はさぞや美味いのだろう酒を味わう。 忌々しい記憶は塗り替えられ続けて後を絶たない。いい加減、爺共が隠居しやがれ、とかなり本気の胸中を車窓に投げた時、丁度駕篭は目的地へと辿り着いた。料金を払って降りる。当然『私用』だから領収書など切れない。 夕食や宴会には少しばかり遅い時刻だ。贅をこらし設えられた和風の門扉を抜け、鹿威しの風情ある音を響かせる料亭の入り口を通る。件の幕臣への取り次ぎを頼めば、予め話がつけられていたのか、案内役の女性が先導して土方を通した。 太鼓橋を模した廊下を通り過ぎ、立派に設えられた庭園を抜ける回廊を進んでいく。高級な錦鯉を贅沢に泳がせている池は、夜になって灯りの入れられた灯籠の僅かな光源では照らし切れる面積ではない。澱んだ黒い水面が僅かの光を受けて揺らめくのが、まるで良からぬものの罠か誘いの様だと寸時思って苦笑する。昼間此処に護衛などの任で足を運んだ事も幾度かあり、庭園や建物の作りは頭に入っている。その記憶を引っ張り出せば、そこが昼間はただの銀鱗が蠢くだけの池だと言うのは容易に知れると言うのに。 夜闇に包まれた庭園をそんな風に見ながら抜け、離れになった建物へ通される。茶室をイメージしているのか、玄関や廊下の調度は繊細ながら渋みのあるもので調えられてはいたが、宴席は流石にそれなりの広さと、金を掛けていると一目で解る造りをしていた。 「おお、良く来たね」 襖を開け、正座し頭を下げる土方を見ると、宴席の中程に座した男が軽く杯を持ち上げる。嘗てはそれなりに刀を振るえたのだろう腕は、筋肉の衰えはあるがまだまだ健在そうにも伺え、先程「爺はとっとと死ね」と胸中で罵ったばかりの土方は、その事を思い出して思わず密かに舌打ちをした。 日頃は些末事にしかならない思考にいちいち苛立つのは、多忙の所為なのか、昼の一件の所為なのか。 そんな結論にも今日一日で何度も達している。不承不承それを認めた土方は、今は無用でしかないそれらの思考を振り切る様に、眼前に向き直った。今必要なのは、形ばかりの礼儀と忍耐だ。 一昔前で言う所の『御奉行様』。警察庁が組織された今では、江戸の定められた一区画を司法的に統治・管理しする重要な役職となった。警察庁の所属と言う形ではあるが、それを遙かに超えた、時に行政にまで嘴を挟める人脈と権能を、幕府の裡に代々の家柄の名前で巣食わせている古狸。年齢は六十代ほどと記憶している。名は佐久間の何某。 「…失礼します」 こちらへ、と呼ぶ声に従い、慣れた無表情を決め込んだ土方は、頭を下げ、老人の向かいに用意された膳の前へ腰を下ろした。 膳の上には食事など用意されてはいない。杯と徳利とが盆に乗せられているのみだ。酌を、と呼びつけた、本当にそれだけなのだとあからさまに示した図に、もう既に嬲る余興が始まっているのだと悟り、悪趣味加減に嘔吐が出そうになる。 「最近、調子はどうかね」 酌を命じるどころか、芸妓を二人左右に侍らせてどうでもよい様な世間話を始める老人に、早くも土方は苛ついていた。こんな馬鹿げた老人の遊戯に付き合うくらいならば、件の下手人達を一刻も早く挙げたいと言うのに。思って拳に自然と力が籠もる。 適当な、だが会話の流れにも相手の機嫌にも問題のない応えを連ねる土方の横に芸妓の一人が回って来て、擦り寄る様に酌を勧めて来るのを、職務中だからと丁重に断る。 その様子から土方のあからさまな拒絶を感じ取ったのか、佐久間はさもつまらなそうな、興が冷めたと言った風情で芸妓達を下がらせた。 そうして広い宴会場に二人きりになった所で、ゆるりと口が開かれる。 「件の。君の所の部下が攘夷浪士に襲撃を受けた事件かね。気がかりは」 朱塗りの、縁を金粉で飾った杯が傾けられ、酒を干すその上から老人の眼がじろりと覗く。そこには先程まで芸妓を侍らせていた、助平な好々爺じみた印象は何処にも最早伺えない。 これが老獪で醜い、今の幕府に巣食った病巣達の正体だ。 「……申し訳ございません。本来攘夷浪士に立ち向かうべく者の中に在りながらもこの為体。全ては下の者を指揮する私めの不徳の致す所、」 「よいよい」 いつも通りの謝罪を連ねるべく、心を──それこそ鬼にして、畳に頭をじっと伏せる土方に、突如降りかかった言葉はまるで予想外のもので、一瞬理解が遅れた。 「は…?」 「型通りの興冷めな謝罪など不要と言っておる。私は君を叱責の為に呼び出した心算はないのだがね…?」 「い、いえ…、」 恰も「親切で酒宴に呼んだのに無礼だ」と取らせる為の言い回し。土方は背筋に緊張を走らせつつ、そっと頭を持ち上げた。 そこに、不意打ちの様に紅い杯が飛んでくる。 「っ」 咄嗟に払おうとした手を然し寸でで何とか止めれば、杯の縁が容赦なく土方のこめかみを叩いた。隊服に雫を散らしたアルコールの匂いが立ち上り、軽く皮膚を切ったのだろう、血がぬるりと頬までを伝って落ちる感触がする。 酒をかけられたり、酒杯を投げつけられたりするのも慣れたものだ。土方は怒りも動揺も痛みも見せず、黙した侭再び背筋を正した。 「今のは」 新たな杯を持ち上げると、座す土方へ、酌を仕草で命じながら佐久間は口元に笑みをはく。 「君の無礼への指導料だと思い給えよ。済まなかったね、痛むならば医者を寄越そうか」 「いえ。……ご指導の程、謹んで頂戴致します」 しゃあしゃあとよく宣えるものだと胸中で吐き捨て、老人の傍らに膝をつくと土方は徳利を傾けた。高級そうな酒杯に透明な酒が満ちるのを見て、膝をついた侭、一歩離れる。 「その、先程の下手人の件なのだがね。実は少々、心当たりがあるのだよ」 「 、」 その言葉に、土方は咄嗟に顔を起こしかかって何とか留まった。徳利を抱き頭を垂れている姿からは、動揺は果たして悟られていまいか。思って慎重に、その口にする真意を探る事にする。 「心当たり…ですか」 「うむ」 鷹揚に頷きを返す男が、ぐい、と杯を煽る。そして再び差し出される酌の要求に、土方は努めて無表情で、然し考える様な風情だけは見せて応える。 『餌』にまるで興味が無い訳ではないのだと、もう一歩進ませれば媚びるかも知れないぞと匂わせる。そうでなければ『餌』はあっさりと目の前から片付けられて仕舞うからだ。 だが、心底に『餌』を欲しがる素振りは、本音だからこそ少しでも見せられない。土方が──『狗』がそれを欲する事を知れば、鬼の首を言葉通り取った男は、相当に吹っ掛けてくるだろう。 今までにも大なり小なりの『吹っ掛け』られをし、天人との非合法取引や、連中の縁者の犯罪を揉み消す羽目になっていた。 何れにも、その内きっちり代償は支払わせてやる、とは、土方の胸の裡の誓いであり、事件の解決間際で捜査を打ち切られる隊士らへの償いでもある。 当然、それを成す為の証拠も、処分した振りをして全て保管してある。 それが『狗』に出来るささやかに過ぎる抵抗。駆け引きに似た遣り取りも、密かな牙の研ぎ所。 酒を無言で注ぎ、土方は余裕の体を繕う。 「それは興味深いお話であるとは思いますが…、僭越ながら我らも全力で事に当たっております故。既に多くの浪士を検挙し、そこから繋がる人脈も今後念入りに潰していく心積もりです。恐らくそう遠からず下手人の検挙は叶うでしょう」 どうぞご期待を、と、自らもまたしゃあしゃあと続ける土方の視線が、杯に映った老人の目をふと捉えた。 そこに厭な色を読み取った気がしたその瞬間、老人の顔が土方の耳に接近した。黒髪の間から覗くそこに近付いた乱杭歯がにたりと嗤う。 「君には『是非とも』この情報を伝えねばと思ってねぇ」 「……」 息を吹き込まれる様な怖気よりも、言葉に潜められた意味を土方は咄嗟に追い掛けた。 「まるで…、お心当たりを既に胸に描いておられる様な口振りをなさいますな」 想像し得る可能性は、佐久間の個人的に厭う相手を犯人に仕立て上げろ、と言う類の『命令』だ。そう思い至ったからこそ、土方は「滅多な事を仰いませぬよう」と言う角度で釘を刺す事にした。敵の敵が味方とは限らないからこそ、その発言は却って足下を危うくするかも知れない。『狗』だっていつ噛み付くか解らないのだと言う精一杯の牽制の心算で。 然しそんな『狗』の戯れに、老獪な男は顔を少しおかしそうに歪めただけだった。実際、聞き分けの悪い犬にじゃれつかれた様なものなのかも知れない。首を目の前の杯へと戻すと、一口。ちびりと舐める様に煽る。 「心当たりは寧ろ君の方にあるやも知れぬよ。何せ、私の『心当たり』はそっちの世界では大層な有名人である様だからねぇ…」 じり、と焦げ付く様な苛立ちが──脳内が素早く検索して仕舞う『可能性』に押し出される様に、土方の臓腑を焙る。鼓動の早さは果たして聞かれてはいまいか。冷や汗ひとつこぼしてはいまいか。思いながらも、ひたすら平静を保つ。 「それはそれは…。件の下手人は統率ある複数人であったとの事、さぞかし名のある者の一派と言う事になって仕舞いますが…」 例えば桂や高杉のような。然し何れも有り得ないと土方は既に結論づけている。 『心当たり』とやらが、老人の権力争いの政敵などではない事は、この遠回しの言い種からしても間違い無かった。単に『命じれば済む』だけの話を、わざわざ『狗』を嬲る攻撃になどすまい。 まるでじりじりと灼かれる様な──針の蓆とはこう言うものを指すのだろう──焦りを抑え込み、何度か沈黙の侭酌を繰り返す。 一見揺らぎを見せない土方に諦めたのか、やがて佐久間は空になった杯をことりと置いた。腕の中で軽くなっていく筈が、どんどん重みを増している様にすら感じられていた徳利を置ける安堵に、男から距離をおける事に、不覚にも少しばかり土方の気が緩んだ。 背を向け、徳利を元に戻そうと膝をついた土方の、その隙を恰も待っていた様に。 「実はね。君達にとっても目の敵だろう、見廻組。あそこに子飼いの部下を忍ばせているのだがね」 それは紛れもない攻撃。連想の容易い言葉だった。 幕臣=助平で老獪で狡猾。と言うイメージ固定化が酷い。つかモブの扱いって難しい。 /1← : → /3 |