張った根を 腐らせた 曇って落ちる 天 根腐れ招く曇天 / 1 破綻は、見えない所から忍び寄る。 いつだって気付いた時には遅い。いつだって気付いた時には何もしない。出来やしない。 腐った根が全てを殺して仕舞う迄。 ……気付いていても、何も。 カチ、カチ、と軽い音が規則的なリズムを刻んでいる。 秒針が時を刻む音に少し似ている気はするが、それにしては音は大きすぎるし、一定のリズムは保っているものの綺麗な秒刻みと言う訳でもない。 聞き慣れない音では決してない。隊の中…いや世の中にはコレを思考や筆記作業の合間に行う癖を持つ者も少なからずいる。それでも山崎が思わず襖に掛けた手を止めて仕舞ったのは、音がする事そのものではなく、音の出所が問題だっただけの事だ。 押し易い形状なのだから悪い。もう一度押せば戻る仕組みなのも悪い。幾ら押した所で基本的に壊れる訳でもないのだから悪い。カチリと填る感触も音も何となく心地よいから悪い。 そんな事を連ねながら、山崎は小脇の書類を抱え直した。医務室の住人が就寝中かも知れない可能性を憚って足音も気配もほぼ完全に殺して来たのだから、再び物音を気取られずに回れ右して出直すのは容易い。訪いにも気付いていなければ、それを叱責される事も当然無い。 然しそれでも山崎がなかなか動き出せないのは、携えた報告が急を要する類でなくとも重要なものである事と、今こうしてぐだぐだと悩んでいる事など──気付かれている筈も無いと言うのに──疾うに見抜かれているのではないかと言う錯覚の様なものの所為だった。 そうする間にも、カチカチと言う音がリズミカルに耳を通り抜けて行く。音の軽やかさとは裏腹に、それを繰り返す者の心中の不穏さを明瞭に奏でながら。 (あー……相当機嫌悪そうだよなぁ…。誰だよ副長にノック式のボールペン持たせた奴!…って俺か。キャップ式の奴の在庫切らしてたんだっけ…) 限りなく規則的に近い不規則な音が示すのは、波立たない心の裡に覗き見える怒りや苛立ちだ。 それはあからさまに伺えて仕舞う程はっきりとしたものだが、理不尽に当たり散らす類のものではない。筈だと、は思う。然し断言出来る程自信がある訳でもない。 山崎は何度目かの溜息を殺し、膝を立てて座り直した。結局の所諦めと度胸が肝心と言う事だ。 「副長。山崎です」 襖に手を掛けて言うと、カチカチと言う連続音の中に紛れて「入れ」と応えが返る。手すら止めないと言う事は矢張り廊下でぐだぐだと躊躇っていた事などお見通しなのだろうか。そんな事を思いつつ、断りを入れてから襖をそっと開く。 煙草の煙や臭いではなく、ツン、とした薬品の臭いが鼻孔を擽る。本来の土方の部屋であれば決して有り得ないその理由は、ここが副長室や土方の私室ではなく医務室であると言う事と、医務室が禁煙であると言う一言に尽きる。 後者ひとつだけで、真選組の隊士の殆どが震え上がり、本来オアシスに成り得る医務室を限りなく地獄に近い場所と思うだろう。そして、誰もが近付く事を躊躇うに違いない。度胸試しの試練に使っても良いぐらいの敬遠は確実にある。 問1。異常な迄の喫煙量を誇るヘビースモーカーで通った真選組副長から煙草を取り上げたら果たしてどうなるでしょうか。 模範解答はこれだ。常の七割増しに目つきも柄も悪くなって、ヤニ切れを忘れるかの様に書類の山に没頭して、その事で余計にフラストレーションを溜めて、苛立ちを薄紙一枚程度向こうに押し込め、執務に勤しむ右手ではなく空いた左手に持ったボールペンのノック部分を間断なくカチカチと押し続けていると言う、目の前の光景。 寝床を跨ぐ様に持ち込まれた卓の上では、ヤニ切れの苛立ちを今正に増長させているだろう、書類が一枚一枚着実に片付けられて行っている。 「あの。体の具合のほうは」 「問題無ェ」 取り付く島もない様な応えが、打てば響くどころか打ったら場外ホームランぐらいの勢いで返って来る。本来もう数日は安静にして貰う心算で『被毒で重症』と言う見立てを作った山崎としては、それらを無為にする様な無理は謹んで貰いたかったのだが、土方の性格上それは難しい相談だった。あと一日で丁度一週間。それだけ保たせられれば上等だろうか。 だが一応巡察などの外回りの一切は禁じる事が出来たし、あれから土方は一度熱を出して臥したりもしている。その間だけでも安静に休ませる事は出来ていた筈だ。山崎の思惑は一応成功の部類と評価して良いだろう。 だが、土方が夜道の襲撃を受け運び込まれた翌朝、見舞いの機会を待っていたらしい万事屋の旦那こと坂田銀時が訪って以降、体を休ませざるを得ない状況以外では、こうして何かに苛立ちながらもデスクワークに没入する様になったのはあからさまで、それが少々気に懸かる点ではあった。 あった、が。それを無用に詮索したり想像したりしようと思う程、山崎は野暮でも無粋でも無いし、想像の易い推測事実をわざわざ突きつけてやろうとも思わない。 (副長の不機嫌の出所が煙草切れとデスク…というか布団に縛り付けられている事だけじゃないのは解るけど…、) 察したからと言って、何かしてやれる事も掛ける言葉も無い。土方自身も何かをして欲しいなどとは米粒程にも思っていないだろう。それについては確信がある。 「…じゃ、包帯変えましょうか。左、弛んでますし」 山崎のその言葉に、カチカチ音が土方が自らの左手に視線を遣ったその一瞬だけ止まり、また何事も無かったかの様に再開する。 「どうせ後で風呂入んだ。そん時替えりゃ良いだろ」 打ち返される言葉が山崎の耳の横を猛スピードで通り過ぎていく。これも場外一直線だろう。バックスクリーンぐらい軽く突き破って行くに違いない。 「そーですねー…」 お昼のテレビでやっている多毛さんアワーの観客のあげる様な、酷く平坦な相槌が尾を引いていくのを、山崎は余所事の様に聞いていた。 (安静かどうかはともかく、副長に禁煙を強いるのがそもそも間違いだったんだな…。自室だと寝かしつけても直ぐ起きて動きだす人だし、医務室に押し込めておく他に対処法があったら俺が知りたいよ寧ろ) 禁煙は保って一日。未満。絶対安静だけなら一週間と少々ぐらいは行けるだろうか。そんな有り難みのない調査結果を心の何処かにメモし、山崎は小脇に抱えていた書類を引っ張り出した。くるりと反転させて土方に差し出す。 「…先日の『事故』に関しての報告ですが、」 「あァ」 返る応えは早い。元より気になっていた案件だったのか、卓から半身を動かして山崎の方へと向き直った土方は寸時の間もなく手を伸ばして書類を受け取った。鋭い視線が紙面を素早く移動していく。 「沖田隊長の見立てもありましたんで、念の為俺独自で極秘に調査してみました。報告が後になって仕舞い申し訳ありません」 「総悟が?」 「はい。事故ではないと見立てていた様子でしたが、隊長には触れ回る素振りもありませんでしたので、こっそり調べて副長に報告しろと言いたいのだと判断しました。……まぁ俺の独断と解釈ですけど」 「ふン」 叱責は覚悟の上だが、それはないだろうと言う打算はある。だが一応態度は申し訳なさそうに告げる山崎に、そんな事くらいお見通しなのだろう、土方は鼻から息を吐いたきりで無言の視線を紙面に落とし続けていた。 やがて、報告書に目を通しながらもずっとカチカチと鳴らし続けていた指が止まった。 眼差しが神経質そうに眇められる文面の箇所は、大体想像がついている。ボールペンの無意味なノックは止められるに足りたが、今度はヤニが必要かも知れない。そのぐらいに、そこに書かれている報告は重要であり、慎重な判断を要するものだった。 * 六日前。深夜外に出掛けた土方を襲撃し、偶さかそこに居合わせた通りすがりの一般市民である銀時によって命を辛うじて奪われずに済んだ、神明党の残党二名。 当然の様に彼等の捕縛は、捕縛の原因でもある土方の負傷と共に公には伏せられたが、彼等が件の真選組隊士の襲撃及び殺害犯の一員、及びそれを命じただろう神明党に繋がる糸口なのは間違い無く、事件の捜査も暗礁に乗り上げかかっていた現状、それは皮肉にも唯一の進展と言っても良いものだった。 因って取り調べは苛烈になる。否、取り調べなどと言う生やさしいものではない。真選組に捕縛された、組織的な活動を行う攘夷浪士らは横に何らかの繋がりを持つ嫌疑がある者もそれ以外の者も、僅かの情報を引き出す為に拷問にかけられる事などは珍しくない。 昨今マスコミの齎す憚らぬ風聞や刺激的な話題の提供にそれらが持ち出されるのは余り望ましくない事なので、事実かどうかはともかく『真選組に捕縛されたら酷い拷問にかけられる』と言う噂だけは好きに泳がせてある。それは都市伝説的に笑い飛ばされる程度のものだが、多少は犯罪者や攘夷浪士らに与えるプレッシャーになっている筈だ。……同時に一般市民も血腥い所行の想像に怯え、真選組の風評面は余り思わしくないものになっているのだが。 ともあれ──襲撃の夜に捕縛された浪士らもそんな都市伝説の例に漏れず、拷問に掛けられる事となった。基本的に『黒』と判じられた攘夷浪士には人権は無いと言うのが、寛政の大獄を始めとする、『攘夷』と言う活動や思想を徹底的に粛正した江戸幕府の、今も猶続く意向である。 因って、彼等には隊士襲撃事件の怒りをぶつけるかの様な苛烈な拷問が行われた。必要な情報を聞き出すか、或いは聞き出せなくなるまでそれは続けられるべき作業に違いなかった。 だが、民の囁くその『都市伝説』は、少し真選組の意に沿わぬ形で履行される事となって仕舞う。 拷問の最中、殆ど情報を聞き出すその前に、浪士が二人とも息絶えたのだ。 ……捕縛から僅か二日の事だった。奇しくもそれはそれは土方が熱に臥していた頃でもある。 拷問の模様はいつもながらの凄惨さを極めており、隊士らの『仲間を殺された』怒りを思えば、多少の『やりすぎ』が出るのは、それ自体奇妙な事ではない。少なくとも真選組内部でそれを憚るのは一部の清廉な人間くらいだろう。 その『尋問中の事故』は事の次第と損失の重要性を考慮され、監察部や一部の隊長職の指示の元、徹底的な捜査が行われ……る筈だった。 のだが、内部調査と言う側面から担当を任された一番隊隊長の沖田が早々に出した結論こそが当初の見立て通りの『事故』と言うものだった。 顔面の原形も解らぬ程に腫れ上がった骸を、それを覆う布を持ち上げて覗き見た沖田は、然しさしたる関心も無さそうに一言、 「ちぃとばかり効き過ぎちまったのかねィ」 文字通りのお灸が。そう続けて笑ったのみだった。現場を調査する事となった隊士も、監察として居合わせていた山崎も、沖田のその物言いが結論である事を察せざるを得なかった。何故ならそれきり適当に片付けや写真の指示を出し終え、当人があっさりと現場を立ち去って行ったからである。 拷問の最中に疑惑の浪士らが死んだ。浪士らは隊士の怨みを酷く買っていた。それだけで『事故死』する理由は揃っている。況してこれは極秘扱いの捕縛だ。上に提出する書類の体裁を整える必要性もない。 それを、ほんの僅か生じた疑惑を含ませて組み立て直すとこうなる。 拷問の最中に疑惑の浪士らが死んだ。浪士らは未だ必要な情報を持っていたかも知れないから、取り調べは慎重に行われる必要があった。仮令、仲間を殺された怒りという背景があったとしても。 こうなると即ち、組の内部に『意図的に浪士らを拷問の一環で殺めた』裏切り者がいる事を認めなければならなくなる。沖田は恐らくその表現を避けたのだろうと、その場に居た誰もが敢えて言及はせず暗黙の了解の様にそう取ったのだった。 無論、裏切りではなく復讐するだけの怒りがあった、と言う可能性も捨て切れないが、そうなる事を防ぐ為にも、拷問に当たる隊士らは襲撃の犠牲となった件の隊士に縁のまるで無い者らを選出して当ててある。 事件に身を砕き、神明党と言う敵の想定すら出来なかった土方はその過失を悔いていた。故に一刻も早い進展、或いは解決に向けて回復次第直ぐに動くだろう事は想像に易い。だからこそ山崎は、現在動けない状態にある土方に代わって監察部の任務と言う意味合いは勿論、それ以上に必要とする情報や可能性事実を模索しなければならないと自負していた。 現場を去ろうとする沖田がそれとなく山崎の方に近付いて来たのは、平時通りのごく自然な動きだった。山崎の佇む場所は、拷問室を立ち去るのに必ず誰もが通る場所──つまり入り口。だから沖田が山崎の横を通り過ぎる事に、誰もが意識を向ける事など無い。 「据えたのはお灸じゃなくて毒だったみてーだぜィ」 そう、唇の僅かな動きで呟かれた言葉は山崎にのみ伝えられたものだ。そうしてその後、沖田は本格的に『事故』として処理した書類を提出して来た。 その事からも山崎は、沖田が『裏切り者』の可能性を視野に入れていた事と、それを調べるのは他の連中に気取られない様に行うべき事だ、と判断するに至る。 その翌日。山崎は密やかに、拷問を担当していた隊士らを洗い始めたのだが、土方は未だ熱が高く臥したきりだった。そんな時に報告すべき事項でもない上、まだ疑惑以前の疑惑と言う段でもある。その為、沖田の齎した疑惑の報告はその更に三日後の今日となったのだった。 * 報告の後出しと言う形に多少の不満はあった様だが、主に沖田の提示した疑惑を裏付ける内容の調査結果を読み終えた土方は口元に皮肉さの混じった笑みを刻んで笑うと、左手のボールペンをくるりと回した。畳の方にノック部分を向け、上から押し込む様な形で、カチン、とゆっくり音を鳴らす。 まるで何かのスイッチが入った合図の様な音と、土方の浮かべる表情とに、山崎は不穏なものを感じる。これは職業柄と言うよりは慣れ、つまり経験測だ。 この男がこう言う物騒な笑みを浮かべた時は、決定的に良い事か、徹底的に良くない事か、何れかが起こる事が多い。前者ならば、表情と裏腹の労いだったりして、後者ならば理不尽な物言いだったりする。 「そう言や、以前の神明党の検挙の時には、現地管轄の奉行所が邪魔に入ったんだっけなァ…」 包帯に包まれた手の下で、逆さまになったボールペンが畳に強く、押し当てられている。畳が傷つくかボールペンが折れるのが早いか。ハラハラとした心地でそれを見遣りながら、山崎は「ええ」と頷く。 そもそも、件の一斉検挙の時に邪魔が入った所為で、神明党の幹部を含む残党を多く逃がす羽目になったのだ。地域の奉行所やそこに詰める同心達との軽い小競り合いは、警察組織と言う形が出来てからは嫌味を投げられる程度の微細なものから喧嘩に近い程度に発展したものまで、数多くある。だから取り立てて珍しい事でもない、ただ忌々しいだけのものだったのだが──土方の言い種はそれを反芻する為のものでは無い。 「……まさか副長、」 物騒な笑みが語る、行き当たる可能性の帰結に山崎が思わず声を潜めれば、土方は「は」と小さく嗤った。左拳の中でボールペンが軋んだ様な音を立てる。 これは決定的に良い事か。それとも徹底的に悪い事か。そんな事を考えながら、顰めた声が山崎の口から吐息に似た音と共に漏れる。 「奉行所に何かがあると…?」 「…かもな」 曖昧な答えと裏腹に、今までカチカチ以外の音を刻んでいなかったボールペンが、土方の左手の中で『く』の字に曲がった。パキン、と言う小さな音が断末魔の様に響く。 『お奉行様』か、あの地域の担当者か。その部下か。何れかが神明党に関わっているとするならば、それはとんでもない醜聞になる。幕臣の中には利を理由に攘夷浪士と、直接的でも間接的にでも何らかの繋がりを持つ者が少なかれ居ると言う噂は昔から度々囁かれている事だが、それは真選組の拷問行為以上に都市伝説や噂レベルのものでなければならない。 贈収賄程度の事ならば良い。だが、幕臣の身分や立場に因っては、民に国家の根本の腐敗すら想起させる事にも成りかねないのだ。 しかも今回の場合、疑惑の行き先は奉行所。それは引いては警察組織の面子や信用に繋がる。 その幕臣の何某が、神明党と自らの繋がりが露見する事を恐れ、地域の奉行所を挟む事で真選組に直接手を下させずに足を引っ張る形で、仔細を知る重要な人員を逃がしたのだとすれば。今回土方を襲撃した神明党の浪士が捕縛されたと知れば、その口封じの為にどんな手段を用いてでも始末したい筈だ。 例えば、隊士の誰かを買収でもして。或いは既に真選組内部に密通者を潜ませて。 「タイミングが良すぎるたァ、あん時から思ってはいた。そして今回も捕縛した神明党の浪士がまたしてもタイミング良く『事故死』した」 客観的事実だけを淡々と述べてみせるが、これだけで何も無いと片付けて仕舞える程、土方は素直で裏のない性格ではない。上司のそんな性質をよく理解している山崎は、沖田の抱いた疑惑より遙かに不穏なその可能性の提示に、最悪の類の展開だと思いながらも頷いた。 「拷問した隊士らの経歴や裏をもっと徹底的に洗いましょうか?」 山崎の提案に、然し土方は「いや」と小さくかぶりを振った。話題が話題だからか煙草を矢張り探したいのだろう、無意識の視線が書類の載る卓上を一瞬見てから戻ってくる。 「ウチは確かに昔から比べりゃ大分大所帯になった。雇用も昔みてェに俺らが直接面通しするんじゃなく人事部の担当になってる。だが、それでも最終的にはお前ら監察や俺、局長の確認が入る。経歴の不審な輩や不透明な輩を組の、しかも取調官や拷問吏なんて言う重要なポストに使う程ザルじゃねェ」 淡々とそう言う土方の口調は、真選組と言う場所に対する願望ばかりでは無い。純然たる事実を述べるものだ。だが、伊東鴨太郎と言う前例の様に、組の内部に入り込んでからそれが病巣になり得る事はある。門を潜った時は後ろ暗い所が無くとも、死ぬまでそうとは限らない。 その懸念を──土方とて言われる迄もなく解っているだろうが──山崎が口にする前に、「恐らく」と言葉が続く。 「拷問を担当してた奴を調べた所で、幾ら叩いても埃なんざ出ねぇだろうよ」 「……言い切りますね。副長、件の隊士達と面識なんぞ無いんでは?」 拷問を担当していた隊士は、専属とまでは言わないが、『そういう事』向けの人員が選ばれている。口が硬く、犯罪者に容赦なく、ただサディスティックな行為を強いる事に堪えられるだけではなく。基準は他にも色々とあるが、まあ概ねそんな所だ。ともあれ彼等に課せられた最大の義務は、組の暗部を担う事もあり、規則で自ら名乗る事は禁じられていると言う事だ。 実の所土方とてそれは例外ではなく、拷問に立ち会うか、特別に自分で極秘扱いの人事書類を引っ繰り返しでもしない限り、今さっき手渡した報告書に記された名前の文字列だけではそうそう簡単に顔や経歴など浮かぶ筈もない。 だが、土方の言い種は断定だった。山崎が彼等を幾ら調べた所で徒労に終わるだろうと、はっきりと言い切っている。 その事に抱いた純粋な疑問と、仕事ぶりには自信のあるプライドもあり、山崎の問いは少し棘の混じったものとなった。信頼されていない、と落ち込んだ訳ではないのだが、引っかかりを覚えて仕舞った事には情けなくも本心を隠しきれない。 「叩いて出る様な埃じゃねェってんだよ。俺ァ、隊士の誰かが碌でもねー法螺を吹き込まれて、上に『気を遣った』んじゃねぇかと践んでる。恐らくは総悟も同じ結論に至ったんだろうよ。だからこそテメェに極秘で動く事を促したんだ」 そんな山崎の胸中の声を正しく受け取ったのだろう、部下の気持ちを「仕方ない」と宥める上司、と言う絵に描いた様な表情で、土方は山崎の勘違いを是正してくる。 「隊士の全員が、幕府より組を取るなんて幻想抱く程には流石に俺も逆上せちゃいねェ。中には将軍や幕府の崇拝者だって居る。当然だろう、飽く迄俺らの肩書きは『幕臣』だ。 そんな隊士の一人に、お偉い『誰か』が囁く。例えば…そうだな、『神明党に息子が関わって仕舞っている。拷問された者の口からその名が出たら一大事だ。スキャンダルは御免だから、なんとか揉み消してくれないかね』とでも嘯きゃ良いか。まあ大体そんな類で、幕府の為だ、国の為だァ思わせて手を汚させ、後から有無を言わさず謝礼でも受け取らせりゃ、もうそいつは口なんぞ割らねェだろうよ」 大義の為だと理由付けをする連中は、そうやって自分を騙す所から少しづつ破綻するものだと続けながら、土方は左の手指を開いた。そこには予想に違えず、真っ二つに割れたボールペンの哀れな残骸が乗っている。 包帯のお陰で怪我はしていない様だが、散々カチカチと苛立ちを打ち鳴らさせられた挙げ句のボールペンの哀れな様に、山崎は同情的な溜息を一つつくと、「失礼しますよ」と言い置いてから土方の左手を軽く取った。 「その説は確かに理に適ってますね。可能性としちゃあ、俺なんぞの浅知恵より余程正しいと思いますよ。ですが、それを肯定したら更に面倒な案件が増えるんで、寧ろそれに対して正直に頷きたくはないな、と思っとります」 正直な所、土方の読みは正しいだろう。軽くとは言え、隊士らの経歴などを一度は洗った山崎にはその実感がある。提出した報告書には、埃を生み出せそうな要素は残念ながら殆ど見受けられないからだ。 「……拗ねんな。今回の容疑者は利用されただけとして、あらましを報告しただろう密通者の叩き出しは、まァその内テメーにじっくり行って貰う事になるだろうよ」 手を取られた一瞬は顔を少し顰めたものの、それきり大人しく山崎のする儘に任せ、細かなプラスチックの破片を丁寧に掌を覆う包帯から取り除いて行くのを見つめていた土方がそう投げて来るのにはもう溜息も漏れない。部下の懸念を正しく解している癖に、それを撤回してくれる心算はまるきりないのだと伺えるそんな姿は、負傷や熱に苦しんでいた鬼の副長の弱々しい様などもうこれっぽっちも残してなどいなかった。 (この人が本調子になったんなら、寧ろ俺はその事を喜ぶべきなんだろうけどなぁ) 負傷に意識を失っていた姿や、高熱に魘されて臥していた姿を思い出してみれば、それは出来る事なら避けたいものだとは思う。 浮かんだ苦笑は、意図せずとも皮肉気な色を纏っていたに違いない。作業を終えた手を、土方は少し乱暴な仕草で引き戻すと手持ち無沙汰そうに腕を組んだ。それを待って、口を開く。 「解りましたよ。で、俺は何をすれば良いんです?」 これも信頼の一端だろう、と、諦めるのにもつい己に言い聞かせて仕舞うのは、土方の言う『大義の為と理由付けをする連中はそうやって自分を騙す』範疇に十分含まれるんだろうかと寸時考え、その事自体を悪い事だと思ってはいない自分に期せず気付かされる事になり、山崎は胸中でだけ頭を抱えた。 成程、これが犯罪者の大義名分と言う心理か、と。 そんな山崎の葛藤めいた思考には流石に気付く由もないのだろう、土方は少し考える様な素振りをしてから言う。 「本分だろう?テメェの提案を聞かせろ。どうせもう考えているんだろうが」 「まあそれは職業柄確かに得意ですけどね?悪知恵を思いつくのは得意だろ、みたいな言い方せんで下さいよ」 言い置いて、人差し指を立てる。 「まずは該当者を──『事故死』の容疑者を絞ります。それから容疑者の耳に入る様、今回の『事故』について『密通者がいるらしく、そいつが犯人かも知れない』と噂を流します。そうすれば、容疑者に後ろ暗い所があれば自分の身が心配になる筈ですから、粛正される可能性を恐れて、『お願い』を持ちかけて来た幕臣に縋るなりなんなりのアクションを起こす可能性が高いです」 「そうでもなけりゃ、容疑者以外の他の『密通者』の口から件の幕臣に話が漏れる事で、容疑者はまた口封じに始末される可能性が高くなる、って算段か」 く、と喉奥で小さく笑う土方に、山崎は大仰に頷いてみせた。 「そう言う事です」 拷問に紛れて殺人を、犯罪者とは言え重要な証言者と成り得る者を、無抵抗だっただろう者を殺めたのだ。幾ら大義の為と繰り返した所で、罪悪感や隊内にじわじわ拡がる疑惑に因る動揺は消せはしない。容疑者である隊士が勤勉であればあるだけ、自分のした事が正義と言い聞かせれば言い聞かせるだけ、自分が粛正されるかも知れないとなれば黙っていられなくなるだろう。 この件に無関係の隊士らの間に幾分動揺が走る事は隠せないが、容疑者を焙り出す手としては悪くはない。推測がもしも外れていたとしても、特に被害は残らない。少なくとも、拷問に当たった隊士ら全員を尋問するよりは余程スマートな手段だ。 「どうせなら、容疑者を捕まえようと鬼の副長が躍起になってるとでも付け足しとけ。覿面だろ」 「はいよ、了解」 こうして話す姿はそれこそ、悪知恵を企む姿にでも見えるかも知れない。全く、警察と言う役職にそぐわない物騒な思考ばかりが随分と板についたものだ。 「どちらにせよ、俺は暫く容疑者を張る必要がありますね」 「あァ」 他に何かあるのか、と言いたげな風情すら漂う、見事な迄の首肯だった。三本目のホームランを最早振り返る心地もせず見送って、山崎は溜息混じりに立ち上がる。容疑者の絞り込みの手段と、その挙動を伺うべく張り込む算段とが、面倒だなあと思う反面で頭の中で着実に組み立てられている事に気付いて仕舞えば、職業柄だろうかと苦笑するほかない。 「解りました。そうと決まれば、俺はこれで」 「ああ。……俺の方でも少しは探りを入れてみる。余り気乗りはしねェが…、命の危険に晒される様なリスクも無く腹中に飛び込める機会は無駄にしたかねェ」 そうして場を辞し掛けた山崎は、土方のそんな唐突な言葉に思わず足を止めていた。 。 : → /2 |