恵雨乞う種 / 8



 「『これ』と。……同じ事が、これからまた起きる」
 土方が山崎へと、正式に協力を命令するその前に言ったのはそんな言葉だけだった。
 それは、お前はもう知っているだろうと言う確信の末の言葉だ。そう在れ、と言う命令だ。
 だから山崎は、副長命令としてのそれを諾と取ったが、本心では些かに納得のし難い部分もあった。故に襲撃の夜運び込まれた土方の有り様から既にそうと察しながらも、何一つ本質的な部分に触れようとはしなかった。
 もしももう二度と関わらず済むのであれば、それで良いんですと。アンタの負った瑕疵を徒に暴き立てる様な真似など本来はしたくないのだと。
 そして山崎は薄いガーゼと嘘とで、土方の負っただろう傷を隠す事を選んだ。
 「連中の刃には毒が仕込まれてました。それで無茶したんですから倒れて当然です。解毒処置はしましたが、暫くは安静にして下さい」
 ……そんな嘘を真っ向から信じた。大なり小なり怪我には慣れている筈の土方が。
 何故己がさしたる傷も負っていない筈の襲撃の後に意識を失って倒れたのかなど、恐らく理解していなかったに違いないのだから。被毒だと山崎に説明された事をごく普通に鵜呑みにせざるを得なかった。そうでなければ己に説明がつかなかったのだ。
 『何』で──『誰』を見て倒れたのかと。きっと、考えもしなかったのだろうと、そう思う。
 土方が『これ』と示したガーゼの下には、血が滲む程に歯を立てられた噛み痕があった。隙間の多いその歯形は、きちんとした鑑別を行った訳ではないが、覚え深い幕臣の老いた顔を直ぐに思い浮かべるには足りる。
 宴席の戯れで噛んだ?そんな馬鹿な。
 仮に命令の類であったとして、杯を投げられたり揶揄の言葉を降らせられる事と、それは決定的に違うものだ。幕臣としての命令だとして、土方がそんな屈辱しかない行為に諾々と従う筈も無い。
 直接問いた訳ではない。だが、そこに何らかの『弱味』が──取引が介在したのだろうと言う山崎の想像は恐らく何ら間違ってはいまい。
 では、土方が諾を呑まざるを得ない様な『弱味』とは果たして何なのか。
 土方が何よりも、己の身よりも真っ先に選ぶ選択肢は『真選組』だ。他には有り得ない。だが、佐久間は今の所真選組の進退を盾に出来る様な優越材料を何ら持たない。
 例えば、真選組に勝る組織の発足案の類などは一橋派が擁した見廻組の発足以来出ていないのだし、何より佐久間老人自身が一橋派に敵対する現将軍家の派閥だ。自分の足下や権力を危うくする様な真似はおいそれとすまい。
 彼の老人が好色で遊び好きな事は知れている。幼い少年までを含む男色の気がその内に含まれている事や、奴隷の様に若者を甚振るサディスティックな性癖もその筋では有名な話だ。伊達に違法闘技場である煉獄関の上客だった──証拠はないが当初より公然と囁かれていた──訳ではないと言うべきか。
 ……当然世間一般的な観点では全く誉められた趣味ではないのだが。
 そして当時煉獄関を調べていた山崎は、佐久間老人や他の幕臣らが兼ねてより真選組の介入や調査を目障りに思っていた事実を知っている。
 そんな中で、沖田の些細な行動が切っ掛けになり、土方は佐久間との個人的な繋がりを持つ羽目になった。この時点では取引と言うより、ただの共犯めいた関係だった。共通の政敵を持つ者の利害の一致と言うだけの。
 故にこの時点で、真選組と佐久間との間には互いに弱味も強味も特には無かった。精々阿る『お伺い』に応じて良い顔をしてやる程度のその関係に特別なものは何一つ存在しない。
 ただ、一つ敢えて言うのであれば──沖田の不始末を土方が買って出て、自ら汚れ役を担ったと言う事実。即ち、土方が『そう言う』人物である事が佐久間に明確に知れた、と言う事がある。
 真選組にではない、副長の土方個人に、付け入る隙が生じた。だが、事実としての斟酌はともかく、特殊枠の警察組織の幾ら副長職に就く者とは言え、そこに利用価値を何ら見出せるとは言い難い。土方の人となりを知れば知るだけ、彼が真選組に不利益を齎す申し出や取引などを受ける事はないと知れる筈だ。組織に仇為す気の全く無い以上は取引の役にも立たない。
 だが、『真選組の副長』ではない『土方十四郎』個人であればどうだろうか。
 敢えて口にして指摘した事はないが、土方の高い矜持や侍の魂を遵守しようとする姿、近藤以外の誰にも仕えず、阿る真似もせず、礼儀は弁えていても本心から傅く事などないその有り様は、他者を屈服させる事に喜びを感じるサディスティックな人種にとってはいたく『美味そう』に見えるのだと言う苦い事実がある。
 ともあれ──山崎の感じていた懸念が現実のものとなったのを悟ったのは、土方が佐久間に単身呼び出しを受けたその日に、襲撃の現場に偶々居合わせた銀時からの連絡を受けた時だった。
 浪士の襲撃から土方を救助した挙げ句、下手人を二人も生かしておいてくれた銀時には感謝こそすれ、それ以上の感情は本来湧かない筈だったのだが──これもまた、簡単な足し算だったのだ。
 土方は躍起になって隠している様だったが、坂田銀時との仲が以前までの犬猿のものとは、最近になって趣を変えて来ている事に山崎は容易く気付く事が出来ていた。出来て仕舞った。
 何故なら、第三者の誰かから見てはっきりと断言出来る様なものではなかったが、土方の観察に慣れた山崎にとっとそれはあからさまな変化として映っていたからだ。
 具体的な例を挙げればきりはない。だが、真選組と言う一つの事に全てを懸けていた以前よりも、土方の目が確かに外界へ、他のものへ向けられる様になっていたのは確かだ。それは紛れもなく人間の心情の変容としか言い様がない。
 無論、土方が一番に身を尽くすのが近藤であり真選組である事は変わりはしないのだとは伺えたが、それ以外のゆとりに似たものが、気付けば、書類の山の向こうの窓へと向けられていた。
 その行き着く先が、最近屯所によく姿を見せる様になった、銀髪の胡散臭い男なのだと。決して口にしたりはしない隠して仕舞い込んだ筺の中から、絶望的なほど確かな『言葉』として綴られていた。
 だって、アンタは『あの』後、万事屋の旦那を訪ねようとしたんでしょう。
 自分の護ったものを見て、自分は間違えてはいなかったのだと、そう思い込んで安堵する心算だったんでしょう。
 だから、思いも掛けずその相手に護られ命を救われた事で、自分のしたこととの呵責に苛まれて、そんな事にも気付かずに意識なぞ失うんです。
 自覚なんぞ無く、傷と屈託ばかり深くして行くんです。
 気付くべきだったんです。アンタが思う以上に、どれだけ万事屋の旦那が大切だったのかって。
 気付かなければならなかったんです。アンタが知らぬだけで、どれだけ万事屋の旦那に大切にされていたのかって。
 そんな、簡単な事にも気付く事が全く出来ていなかったから。だからこそ、それは簡単な足し算だった。
 土方が、近藤や、組以外の事で『弱味』を握られたのだとしたら──それしかないのだと。
 
 
 「旦那にはきっとわからんでしょうね。……いえ、解らないでいいんです。解ろうとする程に知りもしなかったから、良かったんでしょう」
 暫しの間の後、山崎はそうぽつりとこぼす様に切り出した。
 「近藤局長や沖田隊長にも気取る事が出来ないだろう本心も、あの人は俺にだけは隠さないんです。あの人の本心を読み取った所で、それに対して何の嘴も挟まないだろう、何もしないで欲しいと思っている事まで読み取る俺だからこそ何もしないんだと、あの人は解っとるんです」
 狡い人でしょう?言葉にはせずそう続け、山崎は銀時の注視を横頬に感じながら、手に所在なく持った、スイッチのオフにされたマイクを指で弄んだ。
 これはきっと、その内側に居る人には解らない屈託だ。銀時も、近藤も、沖田も、誰もが恐らく理解出来ない感傷だ。
 自分の思いや感情などきっとあの人の邪魔にしかなるまいと言う苦い理解に付随した、始まりもせずに消えた慕情。
 知って猶近付いて行ける程に勇気も度胸も無かったから。だからこれで良いと思っていた。多分、他の誰にも出来ないそれが俺の役割なのかなと、そんな思いだけ後生大事に抱えて生きて行こうと思っていた、恋情によく似たもの。
 (それでも役に立つなら良い。俺の感情や感傷がこうして見て来たものが、一体この万事屋の旦那にどう伝えられるのか。それは未だ解らないけど、)
 一つ、小さな息を吐いて山崎は続ける。
 「その土方さんが、俺にまでそのことを隠そうとしたんですよ。まあ、却って気になって注視した結果、逆に土方さんの本心を──旦那の事が大切なんだなって本心を、客観的な目で知る事になっちゃった訳ですけど」
 そう。最初はきっと些細な事だった。恋の歌の綴る詞の様に、お互いにも誰にも気付く事など出来ぬ程に些細で、あたりまえの様な事だったに違いない。
 大事で、胸が切なくなる様なもので無くても構わない。それが『何』と明確に示す記憶などない程、きっと本当に、あたりまえの事だったのだ。それぐらいに、日常にごくありふれた、小さな切っ掛けだったのだろうと思う。
 斬り合いで出会い、刀を向けて繋ぎ、花見の宴席で一緒に騒いで、幾つかの日常や事件で互いを見た。
 人を知る、ただそんな当たり前の事がきっと、本当に必要な事だったのだ。
 気付けない程に。とてもささやかなそれを、見過ごして仕舞わずに受け取ったから、きっとあの人は変わった。
 「…今まで、真選組にしか心を許さない人でした。それだけが自分の居る理由なんだって、あの人は信じて疑っちゃいません。課して、その通りに生きる事が当然だって、普通に思っとるんです。頑固で意固地な質も手伝って、何にも代え難い程に。
 江戸を護る侍でありたいって言う、近藤局長の願いを叶える為ならば、あの人は真選組をどんな手段を使ってでも護るでしょう。自分を曲げず、近藤さんを曲げず、折れちまうまで立ち続けるでしょう」
 だからあの副長は慕われている。鬼などと呼ばれ、部下達もその横暴な物言いや厳しさに辟易としながらも、それを告げる土方自身が誰よりも己に厳しく、誰よりも真選組を思って正しく生きている事を知っているからだ。
 喉を湿らせたくなって、山崎はソフトドリンクのグラスに手を伸ばした。
 尋問中は容疑者が水を欲しがっても与えてはいけないなどと言う話がある。水を飲んで安堵すると同時に、喉まで出掛かった言葉を呑んで仕舞うから、とかなんとか。
 それが本当かどうかは知らないが、僅かに喉を下って落ちた湿り気は確かに甘かった。柑橘系の爽やかな苦みを持つ筈のジュースが喉を甘く撫でていくのは心地よく、山崎は次の息を吐くのに苦労した。
 九十度向かいの銀時も特に促そうとはしない。何かに思いを馳せる様な風情で目を細めて、それから少し辛そうに両手で前髪を引っ掻く。
 「……そうやっとずっと前しか見ていなかったあの人が、いつからでしょうかね、外に目を向ける様になったんです。今までは庭師が樹木を剪定しようが植えようが、誰かが床の間に摘んだ花を持ち込もうが、余り気にしていなかった様な人がですよ?執務の忙しい中でも、一段落すれば手を止めて、窓の外を見る様になったんですよ」
 自ら何か思い当たるものでもあったのか、放っておけば自分で勝手に屈託を深めて仕舞いそうな風情の銀時を山崎は真っ直ぐに見つめる。
 「巡察がかぶき町の区画の時は、きっと無意識なんでしょうね。辺りをいつもよりも気にしてるんです。傍目には、あそこ歓楽街ですし、潜伏している攘夷浪士や犯罪者の気配でも探している様にしかきっと見えんでしょうけど」
 そこで自然と笑みが浮かんだ。転じた空気に誘われる様に銀時が、自らの顔を覆う様にしていた両掌から僅かに視線を持ち上げるのを待って続ける。
 「時には…、旦那が…多分見捨てられなかったんでしょうけど、重い荷物抱えたおばあさんを荷物ごと背負って汗だくになって歩いてたり、新八くん達と一緒に買い物か依頼か散歩か知りませんけど、じゃれ合ったりしながら行く姿を見かける事もありました。
 それを、声を掛ける訳でもなんでもないんですよ?ただじっと、眩しそうに、幸せそうに見とるんです。あの鬼の副長が。信じられますか?」
 沖田が見れば「気持ち悪い」などと宣い、近藤が見れば「何か嬉しい事でもあったのか?」と笑い、隊士の誰かが見れば見間違いに違いないと思う様なそんな有り様。
 だから、言いながらも山崎は思わず笑みをこぼす。
 信じられないでしょう?──いえ、きっと解るんだと思います。
 気付いていましたか?──きっと、気付いていたんだと思います。
 でなければ、アンタはあの人に手なぞ伸ばさなかったでしょう。あの人もアンタに、心なぞ向けなかったでしょう。
 だからやっぱりこれも、些細なことの一つ。きっと誰もが意識せずに、自然とそうする事の様に。
 「気付いた時にはそりゃあ妬けましたよ。俺が、近藤局長と沖田隊長と副長とのじゃれ合いを見てる時だってそんな風に感じた事はありません。それは旦那に嫉妬したって言うより、なんで旦那達を見ている時に、そんな、組の中の……俺達にでも見せた事がない様な顔をしているんだろうって事に対してなんですけどね」
 それは長い事山崎の裡で疑問として燻り続けていた事だ。
 今までとなにひとつ変わらずに真選組の為に専心しながら、今までとまるで違う表情を日々の中に落とし込んで、水を得た魚の様にいきいきとして刀を振って血腥さに浸されて、精一杯に生きて、戦って、抗って、笑って。
 普通に生きている人のそんな有り様を見て、山崎は不意に気付いたのだ。
 「……あの人は多分、旦那の事が好きだったんでしょう。旦那が生きている、当たり前の人間の日常みたいなものが、とても得難く、大事だったんでしょう」
 理由など解らないし知らない。
 そう。きっと原因などどうでもよいくらいに些細な事なのだから。
 そのぐらい自然に、土方の中がそんな温かい感情に浸されていたのであれば、それもまた僥倖であるべきだ。
 「…あの人はそんな事にはきっと自分では気付いていなかったと思います。そのぐらい、それは滅多になくて、さりげなくて、でも俺なんかから見れば酷く印象に残る様だったんです」
 或いは、自分を外部から変えようとするものがあると知って仕舞っていたら、土方は躍起になってそれを拒絶していたかも知れないと思う。
 こんな風に、誰にもはっきりと形として気取る事がない侭に、それがいつしか普通になって、些細でどうでもよいときにばかり思い出す程に大事な日常になっていたからこそ、きっと土方はありの侭のその様を受け入れられたのではないかと。
 自分が変わったのかも知れない、真選組以外のものに心を砕こうとしているのかも知れないと、そんな畏怖を感じる事なく自然と先に進めたのかも、知れない。
 胸を刺すのが甘い痛みであると気付いて、山崎は持った侭だったグラスをそっとテーブルに戻した。控えめな歌謡曲に被せる様に、隣室の調子外れの歌声が間抜けに響いていく。
 解ってはいた心算だったが、こうして土方の抱いていただろう思いの全てを吐露していくその度に、自分は決定的な失恋をしていく。疾うに諦めて慣れていたと思っていても、実際に自分の口で傍観者としての言葉を紡ぐのは酷く野暮である以上に痛い。
 「半年くらい前から、また様子が変わりました。忙しい合間を縫って呑みに出たり、一日最後の巡回では歩調がゆっくりになったり。
 ……これは俺の勝手な推測ですけど。旦那と会っていたんですよね、あの人は」
 己を指す言葉で呼ばれたからだろうか、銀時がそこではっきりと顔を起こした。少し無理をしている様に口元を歪めて、然しじっとこちらを注視している。
 なんでアンタがそんな泣きそうな面しとるんですか。泣きたいのはこっちだよ。
 (ああでも、)
 土方が何故か思いを寄せたのだろうこの男が、その事をじっと黙って聞いてくれている。いつもなら照れ隠しや悪態をついて誤魔化してもおかしくない、こんな何だかふわふわした内容だと言うのに。
 何でだろうか。それが有り難いだなんて。嬉しいだなんて。
 「真選組の事は今まで以上に疎かにしない癖に、忙しさに時間も削られるだろうに、それでもあの人は楽しそうにしてました。
 初めて、組以外の中でも生きられている自分に気付いたんじゃないかと、俺はそう思っとります」
 だから、知って下さいよ、あの人の事を。あの人がどんな思いで、アンタが聞いたら絶対迷惑がりそうな事を、それでもせずにいられなかったのかを。
 一度は手放した事を思いきり後悔して、そうして取り戻しに行って下さい。
 多分、この男にしかあの人を取り戻す事は出来ない。
 俺や、沖田隊長や、近藤局長。そして隊士たち。誰にも出来ないんです。
 あの人が、真選組(俺たち)ではなく旦那を選んで仕舞ったと言う事実を、俺たちでは悔いさせる事しか出来ないから。
 それに、ほんとうはあの人も旦那に言って貰いたい筈だ。
 「旦那のほうも、屯所に通りすがりや仕事を兼ねて時折姿を見せる様になったり、町で会えば挨拶がてら話にきたり、随分お二人は以前と変わられたと、そう思います。
 旦那は確かに、間違いなく、あの人を変えました。真選組の副長でしかなかったあの人を、ただの土方さんにしたのは、紛れもなくアンタです。
 俺は、そんなに長い付き合いでもないし酒を酌み交わした仲でもなんでもありません。旦那の事は、観察して得た自分自身の感想と、他人から得た客観的な情報しかありません。でも、それでも俺は旦那に一定の信頼のようなもんを置いとります。それは恐らく土方さんが旦那に抱いているのと同じ類の信頼です」
 これは勝手な言い種だろうか。寸時思ってから否定する。
 その信頼に正しい解答があったからこそ、銀時は山崎の事を、町中駆けずり回って色々ツテに頼み込んで、必死になって探し出してみせたのだろう。土方のした事を問い質すと言うその目的の為に。
 張り込み中の、隠密行動中の監察を探し出す。それは並大抵の労では無かった筈だ。
 だからきっとこれは正しい信頼だ。
 「旦那が本当に土方さんの事を案じて、護りたいと思っている、と言う事をです。
 俺が、旦那には知られまいとしている筈のあの人の気持ちを汲んで、それでもそれに背くのは、初めてですよ」
 そこで一旦言葉を切って、山崎は銀時の方へ身体ごと向き直った。
 「……」
 沈黙を守った侭、然し銀時は少し物憂げな風情で眉を持ち上げ、それから大きく息を吐いた。
 これが最も手酷い太刀になると無言で予告した山崎は、静かにそれを振りかぶった。
 「土方さんが自身の対価に支払ったのは、恐らくは旦那の身の安全の保証です。
 ……いえ。正確には、『白夜叉』の」
 半ば断定の調子で言い放った言の刃を受けて、銀時の目が驚きに見開かれる。
 土方が自らそう口にした訳ではないが、山崎は既にそこまでを調べ上げる事に成功していた。
 ほぼ確定された確実な状況と証拠は幾らでもあったから、後は佐久間がどんな動きを見せているかに注意を払うだけだったのだ。これがまた酷く簡単で、無感動な作業だった。
 山崎が行き着いたのは、佐久間が見廻組に間者を忍ばせていた事だけだ。
 だが、この時期に土方に対する取引の札を切るなら、他に材料などありはしない。
 だからこれもまた簡単な足し算で、簡単な確信。
 「以前から、副長は何かと『上』からの嫌味の応酬を受け易いお人でした。副長が『上』には真選組を思えば頭を垂れるほかないと知っているからこそ、何かにつけてそれを知らしめ楽しむ質の輩の一人です。
 あの矜持も誇りも高い人を屈服させる事はきっと、一部の趣旨の人間にとっては酷く愉しい事だったのでしょう。理解はしたくありませんが、事実として認めざるを得ません」
 酷く醜悪な話題だ。そういった連中の役職や顔を遍く思い起こせる山崎には、正に胸が悪くなる様な不快感を齎す。
 すみません、と。誰にだろうか謝って、山崎は殊更に感情を殺した声音で続ける。
 「どう言う意味でかは問いたことはありません。ただ確実なのは、持ちかけられた取引に応じて、白夜叉とその全ての身の安全と引き替えに土方さんが自分の身を差し出したと言う事実です」
 繰り返す託宣の様に続けると、山崎はそっと目を伏せる。膝の上を彷徨った拳が痛いが、それよりも沸き起こる、何処へ向けたらよいのか解らない憤怒に似た感情の方が余程に痛い。
 縄目の痕、噛み付かれた様な疵、屈辱に耐えて噛み締めたのだろう唇、掌にくっきり残る自らの爪痕。
 他にももっとある。もっと知っている。一人で浴室に籠もらねばならない程の辱めの痕を。
 この男の為にと、きっと迷わず後悔もなく、差し出せて仕舞うほどに。
 力なく──或いは義憤に満たされた山崎の視線の先で、銀時は握りしめた自らの拳を見つめて両肩を震わせていた。
 自分が取引の対価に関わっているとは確信していたところで、まさかそれが自身の影であり、土方が敵と本来みなしていた部分にあったとは思いもしなかったのだろう。
 普段はどこか気怠げな眼差しが、今は瞠目し瞋恚にはっきりと彩られてそこに在る。
 「……確証は、とか。今更そんな事は訊かないで下さいね」
 つまらない事を言うなぁと客観的にそんな事を思いながら山崎が呟きをこぼすのに、俯き加減になっていた銀時の顔がゆるりと持ち上げられた。個室内の薄暗い照明に照らされ暗い色彩に染められた銀髪の狭間から向けられる剣呑な重さの眼差しに、背筋がぞわりと粟立つ。
 「…………」
 だがその侭無言で数秒。銀時は笑うのに怒るのに嘆くのに失敗した様に顔をぐしゃりと歪めて頭を力無く垂れた。かぶりを振って、両の掌で目元を押さえて自らの前髪を掻きむしる。
 なんで俺なんかの為に、とか。なんでそんな事で、とか。どうして、とか。恐らく吐き出したい憤慨は山の様にあったに違いないのに、銀時はそれをぶつける相手を間違える無様は晒さなかった。ただ、一人鬱屈を固める様に、喉のずっと奥から湧き出る感情の侭の叫びを呑み込んだ。
 脱力、と言う意味での力の無さではない。何か、叫びだしたくなる程の何かの強い衝動と情動とを抑え込むのに一生懸命で、疲れきった風情その侭に力が抜けて仕舞った様に見える銀時の、俯いて丸まった背中に向けて山崎はなおも続ける。
 こんなもので諦めてやる心算は端から無い。こんな所で赦して仕舞う心算なら、あの人の意思を裏切ってまでこの男を焚き付けようなんて思っていない。
 「もう関わらずあの人から離れた方が良いんじゃないか、なんて、不幸に耽溺しきった様な結論だけはやめて下さいよ。俺は旦那をヘコませたくてこんな、第三者の悲恋視点からの話をしてんじゃないですからね」
 銀時の背中がぴくりと跳ねる。顔は上げないが、聞いているんだろうと判断して山崎は殊更につまらなそうな言い種で続ける。当たり前の事で何を悩んでるんですか、と言外にはしない意図で。
 優しさとか、配慮とか、気遣いとか。そんな建前を回す理由もそして余裕も無い。酷い言葉でも、酷い理由でも構うものか。
 あの人を助けたいんです。
 ただ、それだけなんだ。
 何もしなかった、出来なかった結果がこれならば、あの人に抱いていた全てを諦めても構わない。自ら腹を斬る前に手ずから首を落とされたって構わない。
 取り戻して下さいよ。もう何処かに置き忘れて仕舞わない様に。閉じ込めて仕舞おうなどと思わなくなる様に。
 当たり前みたいにそこに居て、当たり前みたいに生きていてくれる。そんなささやかな出来事に笑い合える様に。
 好意や愛情を嘘の刃で振り棄てる痛苦はどんなものだろう。もう、そんなものが必要ない様に。
 「……あの人を取り戻せる可能性は、旦那にしかありません。正直、今の土方さんからは進展の無い事態に追い詰められて…、早まったりはしないと思いますが、変な風に肚を決めて仕舞っている様子がします。助ける為に動くには今を置いて他には」
 熱の籠もった口調で告げた山崎が少し身を乗り出したその瞬間──個室の扉が内側に向かって、何の先触れもなく開かれた。
 え、と思わず頭を巡らせ、外気の清浄な温度と、流れ込む音の奔流とに、心臓がどくりと脈を打つ。
 「はいはいそこまでー。話は全て聞かせてもらったぜィ」
 突如として向けられた淡々とした口調に、篭もっていた熱がざっと冷えた。腰を浮かせかけた山崎は思わず身構え、戸を軽々と開いて入り込んで来ていた私服姿の上司の姿を驚愕と共に見遣る。
 「…………空気読めや、タイミングじゃねーだろ総悟くん」
 「総一郎でさァ……ってアレ、間違えてねーや。いやね、もう大体聞きてェ事は聞けたんで、埒の開かねェ出歯亀にも飽きた所でしてねィ」
 栗色の髪の上司は後ろ手にドアを閉ざすと、俯いた侭低い声を発する銀時の横に腰を下ろした。勝手にアルコールのグラスに手を伸ばして中身を軽く煽る。
 「──ッ、旦那、アンタまさか沖田隊長に」
 背筋から寒気が引くのと同時に理解が脳まで怒りを伴って這い上がって来る。山崎は唇を噛むと、力無く項垂れている銀時の背を睨んだ。
 見慣れない携帯電話の存在と、示し合わせの少なからずあるだろう様を見れば誰にでも後は解る。沖田は銀時に持たせた携帯電話を通じて山崎の口からもたらされる話を盗み聞きしていたことと、銀時もそれを了承済みだったと言う事だ。
 「……見損ないました。アンタが土方さんの事を本気で案じているんだと、俺はそう思ったからこそ、あの人のした全部を話す事にしたんです。なのに、なのにアンタはどうして……ッ、」
 軋る歯の隙間からは、裏切られた様な失望と、叶わないものに対する悔しさが半々。そして、それらよりも大きい憤怒で視界がぐらりと揺れる。
 土方は、沖田や近藤にだけは絶対に己のした所業を知られたくはないと思っていた筈なのだ。過失はどうあれ、その事実は間違いなく土方の矜持や信念へ大きな傷を穿つ。
 決して彼らや真選組を裏切った訳ではないが、土方自身は己をきっと赦せなくなる。真選組以外のものに己の矜持を売り払った男を、赦せなくなって仕舞う。
 それを、なんで。なんで今、このタイミングで。
 「ザキ、てめーが余計な心配してんじゃ無ェ。する資格も無ェんだ、黙って見てやがれ」
 グラスの中のシャンパン色の液体をこくりと干して、沖田は胡乱な目つきで山崎を見上げた。見透かす、よりももっと痛烈にさえ感じられるその様を目の当たりにして、肚の裡の憤慨がどろりと意識から零れ落ちた。
 怖じ気たのではなく、まさか、と言う僅かの予感が背筋を静かに冷やしていた。
 肯定する様に、まだ掌から顔は上げない侭の銀時の声。
 「この悪魔の王子様は市井の情報通みてーだよ。俺がバラした訳でもなけりゃ、あの子が自分から言った訳でも無ぇ。どうやら割と最初っから知ってたご様子で」
 末恐ろしいね、と他人事の様にそう続けると、肩を竦めた銀時は漸く顔を起こした。薄暗い照明の所為か、それとも未だ衝撃から立ち直っていないのか、顔色が少し悪い。
 そう言えば、土方の負傷についても思う所がありそうだったと銀時からも聞いていたし、沖田も独自で何か動いている様子はあったな、と山崎はやや遅れてそこまで思い至り、露骨に顔を歪めた。
 「……お二人とも、人が悪いですよ。こんな騙し討ちみたいな真似を何で…」
 「は。散々隠し事してきたクソ上司と馬鹿部下の言えた口かねィ」
 ぴしゃり、と頬を打たれる様に鋭く強い沖田の言い種に山崎も思わず口ごもる。
 確かに色々と隠し立てはしてきたけれど、それにはちゃんと理由がある。だが山崎の言い分は全て土方の意思に直結するから、それを毛嫌いする沖田には通じまい。
 出掛かった言葉を何とか呑み込むと、代わりの様に拳を身体の脇でそっと固めた山崎は浮かせかけていた腰を戻した。憤慨が消えた訳ではないが、言い分としてはこの場の何の役にも立たない。
 「…それで、沖田隊長の目的は何です?」
 どう言った経緯でこの二人が手を組んでいるのかは知れないが、少なくとも銀時が許可していると言う事は、沖田の日課である土方へのイヤガラセの類に『これ』が使われるとか、そう言った事では無いのだろうとは思う、が。
 すれば沖田は、年相応には到底見えない仕草で酒をちびりと舐めながら肩を竦めてみせた。
 「旦那にも言ったんだがねィ、俺ァ別にあの野郎がどうなろうがそんなんはどうでも良いんでィ。
 ただ、あの野郎がらしくねェと旦那までらしくなくなる。旦那が鬱げば今度はチャイナやメガネまで引っ張られる。チャイナが張り合い無ェと俺もつまんねーし、メガネが元気無ェとその姉貴の笑顔まで曇る。そうなると近藤さんも調子出なくなんだろ。局長と副長が揃ってそんなんだと隊士どもも皆風采が上がらねェし、そんなんじゃゴロツキ程度の攘夷浪士風情にも舐められちまわァ」
 ふん、と一息に言ってのける沖田の言葉に、思わず、と言った風な動きで銀時が口元を軽く押さえた。だが山崎は隠れる寸前の表情を見逃さなかった。口元が形作ったのは、切ない様な笑みだった。その事に安堵する。
 場末の飲み屋でオッサンがする様な仕草で、余りにも簡単な事を言われた気分になって、山崎もまた口元を綻ばせていた。露骨に笑っていたと知れれば沖田がどんな不機嫌面を向けて来るかと案じたが、それでも良いのかもなと思って、拳に入れていた力をそっと抜く。
 (土方さん。俺は自分が概ね間違っているんだろうとは自分自身での理解の裡でしたが、俺もアンタも、このお人達にとってはとんでもなく愚鈍だった様です)
 なんの事はない。なんと言う事もない。土方の事を案じているのは、自分だけではなかったのだと言うだけの事。
 そして、心配するなと遠ざければ遠ざける程、逆に関わろうと近付いて来る様な天邪鬼だらけだと言うだけの事。
 「あの野郎がそんな事も解らねェ程馬鹿だとは思って無かったんだがねィ、どうやら聞くだに、救い様のねェ本物の馬鹿だったみてーだからな。ここは一つ土方さんを副長の座から蹴落とす好機と見て、俺からの解決の提案を旦那にも呑んで貰う事にしたんでィ」
 ことん、とグラスをテーブルに戻して、沖田。
 未成年だろう、とは誰も言わない。今更なのだし、お前だけは違うものを飲めと言った所で逆にこの少年の神経を逆撫でするだけなのだと、もう皆知っている。
 並びたい。追いつきたい。此処に居たい。この世界のこの形を護りたい。そんな気性の顕れの様な。
 (態度や言動からは解り辛いことこの上ないけど…)
 思いながら山崎は視線を沖田から銀時の方へと這わせる。笑みの残滓を密かに連れた銀時の横顔は、未だいつもの生彩は取り戻してはいない様だったが、大分マシになっている様だ。でも後で多分落ち込むんだろうと思う。一人きりになった所で、どうして、と己と土方とを責めて、思考に折り合いがつくか疲れて眠って仕舞うまで懊悩するのだろう。
 (……この人が、さっき俺を待っている間。飽きる風でもなく暇な風でもなく、町を熱心に見ていた、あの目を)
 雑踏の中に宝物があるのだと言う風な顔をして、熱心な目で世界や人々を見ていた銀時の眼差しは酷く優しいものに見えた。それは土方がいつか万事屋一家の姿を町中に見かけてそれを遠くからじっと見ていたあの表情にも似て。
 (…だから、信じようと思う。この人たちは、土方さんも含めた『今』の世界をこそ護りたいんだと、そう思うから)
 「ザキ、今更往生際悪ィ事ァ言わねーよな?てめーもこの提案に乗ってもらうぜィ。野郎の為なら靴だって舐める所存だろィどうせ」
 「俺が靴を舐める程度で土方さんが救われるのであればご随意に」
 揶揄の強い沖田の言い種に真顔で応じれば、銀時が小さく息を漏らす音。笑ったと言うよりは苦いものを飲み下した時の様な。
 「……お前マジなのは解るけどね、このドS王子相手だと本気でやらされかねねェよ?」
 「いや寧ろヒきやした。ドン引きでさァ。何でそんなにあの野郎が良いのかねェ。俺にゃサッパリ解んねーです」
 「俺もどっちかってェとそっち側なんだけど?」
 「………………あぁ、そうでしたねィ。ったく揃いも揃って頭ン中春で結構な事でさァ」
 これもまた真顔で応じる銀時に向けて厄除けの様な仕草をしてから、沖田は話題を切り替える意識を示す様にほんの少し背筋を正した。ぴん、と人差し指を立てるなり山崎にその指先を突きつける。
 「てェ訳だからザキ、てめーは、今日から蝙蝠になれ」
 蝙蝠。その単語の指す意味を幾つか脳裏に描いて、それから山崎は苦い笑いを持て余した。





ザキ劇場。

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