枯れの庭 / 7



 お前が好きだ。好きなんだ、土方。
 熱に浮かされた様な声が、今までに聞いた事など無い様な必死な響きを、そうやって何度も、何度も紡ぐものだから。裂けてるんじゃないかと言う程の身体の痛みも、圧し掛かって来る体重も、軋む心の訴えて来る恥も、本能的な屈辱も、手放して仕舞おうと思った。
 そのぐらいしか、多分出来る事は無いのだと知っていた。
 己の本来叶うべくもない、届いて良い筈も無かった男の必死な声と、どこまでも正しいものでしかない心に。応える方法は、他に無い。他に何も知らない。他には何一つ譲ってやれない。
 こんなもので良いのなら、お前の好きにしてくれれば良い。俺がお前に差し出せるものはこれしかないのだから。
 お前を失わせる真似などしたくないと言いながら、真選組に与えられた命題であればお前を容易く斬れるのがこの腕だ。
 お前を護れるならと思い上がって、手前に与えて貰った価値など容易く棄てたのがこの身だ。
 だからこれは、今更の事でしかない。
 『狗』めが。
 嘲笑の響きを持った声が嗤う、その奥に確かに潜む欲より強い戯れの色。老人と、向かいの牢に鈴なりになった男たちが、これから始まる真選組副長の無様な姿を愉しむべく囃し立てている。
 無駄な抵抗とは解っていたが、土方は帯に括られた足をなおもばたつかせて、背後にぴたりと密着している朝倉の身体を退けようと懸命に身を捩った。背に回されている腕も目一杯に動かして、何かの拍子で袂が解け、解放されはしまいかと暴れる。
 「はいはい、良い子になさいな。そんな暴れられてっと傷つけちまうかも知んねーし」
 内容は宥めるものだが、響きは揶揄にも似ている。そんな朝倉の言葉と同時に、ぐ、と足の間を開かせる様に膝が入れられた。背中側を捲られた着物の下は下着ひとつすら身に付ける事を許されてはいないから、背後の朝倉から土方の下肢は全て丸見えの状態になる。
 畜生、と脳内で幾度となく、背後の鬼面と正面の老人とに罵声を浴びせながら、土方は帯を解かれて乱れた着物の襟元を噛んだ。そうしていないと無様な悲鳴か虚勢の言葉が溢れて来そうだった。
 今更。そう、今更の話だ。散々目の前の老人に身体を好きに拓かれ嬲られながら、何故今更になってこうまで怯えるのか。
 それは恐らく、今回の『これ』が老人ひとりの余興ではないからだ。
 牢の中の囚人とは言え、他者の目に曝されて、顔も今は知れぬ男──しかも自分を仇と宣う様な──に犯されると言う異常な現実が、否応の無い恐怖や忌避感を生む。
 絶望的としか言い様のない現状に無理矢理に光明を見出すのだとすれば、案内役の下男がこの場に居ない事ぐらいか。あれにどんな視線を向けられるかなど、想像するだけで御免だ。
 暴れ続ける土方の尻に突如、ぱし、と乾いた平手が打ち付けられた。言うまでもなく背後の朝倉の仕業だ。力は込められてはいないから痛みはないが、幼子を折檻する様な仕草に頬が熱くなる。
 (野郎…ッ)
 屈辱感の上に更に屈辱を上塗りするかの様な所業に、思わず自由にならない身を捩って後方の鬼面を見上げれば、面の向こうの顔が笑い声を漏らす様な気配。
 ぐい、と首輪の鎖を引きながら、仰け反らされた土方の背、鉄格子の隙間にまでぴったりと鬼面が近付く。
 僅かの欲を孕んだ、吐息の様な小さな声。
 「負けん気の強い…、      が、   」
 後半は掠れた様な息と笑い声とに隠されて聞こえなかった。恐らく土方にしか聞こえない様な声だ。それを寸時問い返す間を躊躇ったタイミングをまるで狙った様に、太股を辿り上がった大きな手が、一瞬抵抗を忘れていた臀部に到達し、

 ──オオオオォォォ……

 その瞬間、地響きとも唸り声ともつかない鳴動が地下の空間を揺らした。む、と顔を顰めた佐久間が、最奥の壁にある鉄扉へと頭を巡らせた。土方の頭上の朝倉や、向かいの牢の神明党の浪士らも同じ様に、そちらをじっと見ている。
 (なん、だ…?)
 危機が去った訳ではないが、土方は連中の変わり様を思わず伺い見た。何か、今の『声』が、この場の空気を凝固させる様なものであった事は間違い無い。
 「佐久間様、」
 最奥の鉄扉に注がれていたその場の空気を解いたのは、昇降機の方から小走りにやって来た先程の下男だった。何やら泡を食った様子で走って来た下男は、寸時佐久間と牢との様子を見てから、目を伏せる様に膝をついて控えを取る。興の最中の邪魔をしたとあらば何らかの罰でもあるのやも知れない。
 「申し訳ございません。御法川殿の闘士が羅刹めに挑戦したいとの事で檻を開けたのですが、」
 ──オオオォォオオオオオ!!
 下男がそこまでを口にした所で、再びあの唸り声が、先程よりも強く響き渡った。
 「…また暴れ狂いよったか。直ぐに投薬で黙らせるが良い」
 チ、とらしくもない露骨な舌打ちをする佐久間に、下男は益々頭を下げる。申し訳ありません、と言う言葉を繰り返すその代わりの様に。
 「一度、控え室へと入れなければ処置は難しいかと…」
 「お奉行が来た時から荒れてましたからね、あの怪物。やはり飼い主の匂いは解るものなんでしょうねぇ」
 縮こまる下男の言葉に被せる様に朝倉が笑って言うのに、佐久間はふんと鼻を鳴らすと袂から特殊な形状をしたカードキーの様なものを取り出した。壁の突き当たりにある鉄扉の脇に向かいそれを差し込むと、がちゃん、と重たい錠前の音が響く。電子ロックの類ではなく、物理的な錠前の様だ。特注品に違いない。
 錠の外れる音を耳にするなり、弾かれた様に下男が身体を起こし、牢の朝倉にだろうか、邪魔を詫びる様に頭を下げつつ鉄扉へと駆け寄った。重たそうなハンドルを掴み、体重をかける様にして押し開くと、佐久間と下男とはその裡へと消えて行く。
 暗闇の中に更にぽっかりと口を開け放しにされた深遠の淵からは、紛れもない血の臭いがする。人間の放つそれとは明かに異なった異質な腥さに、慣れている筈の土方でさえ顔を顰めずにはいられない。
 あの奥に居る怪物とやら──羅刹と言ったか──がどんなモノなのか。煉獄関と言う狂宴で、一体どんな無惨なショーを行っているのか。
 「羅刹ってのは、闘士と言うより寧ろ『化け物』…怪物だ。反抗的な闘士の処分係やデモンストレーションとして時々殺戮ショーを任されてるらしい。あと、強い常勝闘士には羅刹への挑戦権があって、倒せば金でも解放でも好きなものが得られるって話だ。多分今頃、さっきまでチャンピオンだった天人は潰れたトマトみたいになってるだろうよ」
 土方の胸中に俄に湧いた想像の暗雲を払う風に降って来たのは、ぽん、と無造作に黒髪の頭へと置かれた朝倉の手と、重みのまるで無い言葉だった。
 「何処で買って来たんだか知らねェけど、ペットの面倒も見れない様な輩にそんなん飼う資格は無ェよな」
 黒髪を掻き回す様な手つきと、囁きに似た声で続けられる軽い言葉とに、土方は一瞬だけ己の状況を忘れそうになるが、直ぐに我に返って思考を切り替える。今得て来た手札がここで何か有効にならない限りは、この状態から救われる事など到底有り得ない。
 男の乾いた手が頭髪と、臀部とを半ば無意識の様にまさぐっている。その不快感から飛び出しかかる罵声を何とか堪え、土方は無理に頭を捩って背後の朝倉へと意識を向けた。
 「朝倉。そもそもなんで神明党幹部のテメェがこんな所に入れられてる?
 佐久間のジジイが坂巻のツテから、虎狼会と取引してた天人に接触して、人身売買──それこそさっきの羅刹とか言う化け物もだ、買い漁ってんのはもう知れてる。ついでにテメェらとジジイとが揉めてんのもな。
 だからこそ解せねェ。なんであのジジイはテメェらを始末しねェで、こんな所で飼っていやがる?」
 土方の見上げる視線の先で、朝倉は──鬼の面は暫し黙していたが、やがて、ふ、と空気の抜ける様な息遣いを漏らした。意味ははっきりとは知れないが、恐らくは笑ったのだ。
 その様子から土方は確かな釣り針の手応えを感じる。どうやら朝倉の方にも現状に何ら思う所があり、土方の振った問いがただの適当な世間話や悪足掻きの類とは異なると察したらしい。
 解せない、などと言うのは嘘だ。
 先程からの朝倉の物言いと言い様子と言い、真選組から匿うと言う名目で神明党(彼ら)がここに収監されているのでは無いのは明かだ。
 恐らく佐久間との間に利害の不一致か契約の不履行に類する何かがあったのだ。そうして揉めた挙げ句、佐久間がお前達を始末しない理由が無いだろう、と突きつける事で、神明党の浪士達に佐久間への疑心を生ませようと、土方は言葉を選んで口にした。
 朝倉を除けば、この地下牢に入れられている連中は風体や様子からして何日も外に──地上どころか牢からすら出ていないだろう。土方の知る限りの材料で上手く誘導する事が出来れば或いは。
 「……まだあのジジイに納品してない、神明党で預かってた在庫が他にも色々あるんでね。で、ブツの隠し場所は逃走中の坂巻しか知らない。んで、ジジイ…もといお奉行様は多分喉から手が出る程ソレらが欲しい。手前ェの人身売買って所業の口封じも兼ねて。
 で、その取引をする為の対価が、うっかりとっ捕まって仕舞った俺達って訳だ」
 到底背後から押さえつけられ縛り付けられ、下肢を晒されあわや犯されかかっていた人間に向けているとも思えない、存外に真っ当で、土方の疑問に対する明確な回答となる応えが返った事に──言って仕舞えば『都合良く』話が進む様に仕組まれている様な意趣──疑いは感じないでもない。が。
 朝倉らの口から、佐久間が坂巻を通じて天人と人身や宇宙生物の売買をしていた事実が漏れたとしたら、佐久間の失脚──どころか有罪──は間違い無い。普段は周到な程に策を弄する老人も、虎狼会が潰された事で新たな売買ルートを早急に必要としていた天人相手には事前に工作をする余裕など無かった筈だ。
 だからこそ奉行所の同心を使って真選組による神明党の検挙を妨害し、朝倉や坂巻ら、事情をよく知る者を逃れさせた。
 元々関西の出身だった坂巻が沖田の言う通りに自分の実家のツテでも頼って身を潜めたのだとすれば、江戸を遠く離れた地への影響など持たない佐久間が手を出せずに居たのも頷ける。
 仮に。朝倉の言う通りに坂巻が佐久間の欲しがっていた『商品』を所持した侭行方を眩ませたとしたら。あの老人であれば仲間の命を人質に坂巻を呼びつけ取引に応じさせる程度の事はするだろう。寧ろ好みそうな手だ。
 (俺があのジジイでもそうしてる。行方眩ませて逃げようが、手元に『鎖』になるもんがあるなら猶更だ)
 『白夜叉』を人質に取引を迫られた土方と、奇しくもその状況は──手は──似ていると言えた。なればこそ蓋然性はより増す。
 故に、朝倉らを人質にされた坂巻や神明党の他の残党らは、佐久間に全面敵対の意志を見せる為の示威として、取引場所である大阪へ向かう列車を標的にした爆弾を仕掛けたのだ。穏やかな話し合い、取引など易々出来ると思うな、と言う意を込めて。
 土方は当初から、何故あの状況で自分が襲撃を受けたのかと言う疑問を抱き続けていた。そしてそこに尤もらしく収まる解答の一つこそが、神明党と佐久間との間で揉め事が起きたからではないか、と言う事だった。
 恐らくは、土方があの晩佐久間を『個人的に』訪った事こそが揉め事に至る原因の一つだ。佐久間を完全な味方と信用せず油断ならぬ相手として見ていたのであれば猶更可能性は高い。あのタイミングで真選組の副長が佐久間を訪ねた事は、彼らにとって『裏切り』──売られる、と映った筈だからだ。
 神明党は自分達のボスである神谷の復讐として真選組隊士を襲撃していた。朝倉曰く『逸って』。ボスの仇敵として真選組を恨んでいた所で偶々に単独行動を取った隊士を目撃し、怒りをぶつけるべく殺した。その行動は最初の検挙の時に神明党の重要人物を助け出した形になっていた佐久間にとっては、予想外を通り越した愚行でしか無かっただろう。
 そう。佐久間は神明党の『手』を読み違えたのだ。駒台に取り置いて安心していた筈の駒が、まさか自ら敵陣へと愚かな一手を指しに行くなどと思いもしなかったに違いない。
 これによって身内の仇敵と息を巻く真選組の捜査が苛烈になり、神明党残党へその捜査と嫌疑の手が及ぶのもそう遠い話ではない、と佐久間は考えるに至り、真選組の足止めとなる手を模索したに違いない。
 そうして思いついたのが、『狗』の捕獲──と言う名の囮──だったのだ。丁度良くも捜査の陣頭指揮を執る真選組副長の弱味を握っていたのと、単なる嗜虐趣味と。飼われた『狗』の手番が憶束ないものになると同時に、万が一捜査の手が神明党残党に迫る様な事があれば、白夜叉と言う名の手綱を引けば良いだけの酷く実用的な指し手だった。……に、違いない。
 だが、ここでもまた佐久間は読み違えた。
 実際、真選組の捜査の手は神明党残党になど到底及んでいなかった事が一つ。これについては買い被りと言う意味で──上官的立場の人間からの評価としては有り難い事なのかも知れないが。
 そしてもう一つが、夜半単独で屯所を出て佐久間に一目を忍ぶ様にして接見しに行った真選組副長の姿を、神明党残党であり真選組隊士殺害事件の下手人である田原らが目撃して仕舞った事。それを佐久間の『裏切り』と勘違いし判断した彼らは、その帰り途の土方を襲撃した。
 そして更には盤外にあった銀色の鬼駒が乱入した事で襲撃は失敗に終わり、逆に神明党の残党が二件の襲撃犯であると断定されるに至って仕舞った。
 佐久間は驚き、呆れ、そしてさぞ慌てたに違いない。神明党の連中の為にとした事が全て裏目に出る結果となったのだから。こうなれば手段は選んでいられない。生きた侭捕獲された田原らを些か乱暴な手を用いて口封じに始末し、朝倉らを手っ取り早くこの大阪の、自らの城中へと囲った。途中、意趣返しの様に土方を追い詰めてその行動を封じていた意図も、土方の疑いの意識が自らのみに向く効果を恐らくは狙ったものだろう。
 それでも、全てが盤の読み手と指し手の通りに動く訳ではない。人心は無機物の、ルールにだけ従って動く駒とは違うのだから。
 「テメェら神明党が佐久間のジジイと揉めてんのは知ってる。だからこそあのジジイは手前ェにとっての『国』であるこの煉獄関で、テメェらを人質に坂巻ら残党を迎え撃つ事にしたんだろう。
 当然テメェらは……そうだな、さっきの化け物とやらに生贄に捧げられて、そうとは知りもしねェボンボンの坂巻は、ジジイだけが最後に笑う取引に応じちまうって訳だな」
 く、と嘲笑めいた響きをそこに乗せたのは半ば賭けだった。言いたい材料は全て言ったから、後は踊らされるも抗ってみるも好きにしろ、とばかりに土方が顔をついと正面に戻せば、ぬ、と背後から伸びて来た朝倉の長い手指に顎を取られた。剥き出しの臀部に覆い被さる様に密着してくるその下肢に僅かな硬度を感じるが、寸での所で出掛かった悲鳴や拒絶の言葉をなんとか呑み込む。
 「……成程?あのジジイは確かに完全に信用出来る野郎でないのは確かだが、それをネタに俺らを嗾けようとしてる真選組の副長サンも似た様なもんなんだがね?
 何か、信用に足る証拠やメリットはあるのかな?」
 「朝倉さん?!あんたなんでこんな幕府の狗の、」
 あからさまにな直球でしかない朝倉のノッた『申し出』に驚いたのは、土方ばかりではなく向かいの牢の仲間らもだった様だ。土方からは見えないが、朝倉が何か仕草でも向けたらしい、声を上げた浪士がぐっと黙り込む。
 ある意味で。土方がこんな、犯される一歩手前の様な状況にあって落ち着いていられたのは、背後にぴたりとくっついている朝倉のお陰かも知れなかった。
 育ちは悪く氏も無く、武に長けているばかりか利になる方面への頭の回転も速い──朝倉がどんな人物なのかは、手配書や調査書に記されたその程度の情報しか土方には知る由も無かったが、まるで他の仲間の迂闊な動きを牽制する様に背後に貼り付き、然しそれ以上の行動は何も起こさずにいる様は、ある種の義侠心の様なものさえ感じさせる。
 どこか飄々とした言動や態度は──ひょっとしたら万事屋に似ているのかも知れない、と寸時逃避し掛けた思考を引き戻し、土方は背後の朝倉に向かって慎重に言葉を選んで口を開いた。
 「……証拠ならある。今この場で確かめる事ァ残念ながら出来ねぇが、理に適った説明は可能だから敢えてコレを証拠として云わせて貰う。
 ウチの隊士や俺を襲撃した──田原って奴等が拷問で死んだって話は、あのジジイが言ったんだとしたら嘘だ」
 連中にとって仇敵の理由ともなりかねない名前を口にする事に躊躇いはあったが、出来るだけ澱みなく土方は続けた。怨みと言う点ではお互い様だろうと言う認識は勿論あったが、囚われた群狼を前に、無防備な姿で捕らえられている犬と言う状況を前にすれば、そんな常識的な意見など意味を為さないだろう。
 案の定、土方の出した田原とやらの名前にか──佐久間の言った事は嘘だ、と言う部分にか、神明党の浪士らがざわめく様な気配が返る。先程土方の聞き咎めた通り、佐久間は非公式故に誰もが知る事の叶わぬ襲撃犯達の死を、真選組による拷問の末の死であると伝えていたらしい。あれで佐久間は奉行だ。警察関係の人間の弁と思えば、本来隠匿されている筈の情報も信憑性を以て響いただろう。
 「白々しい嘘を」「その場逃れだ」などの否定的な言葉達に囲まれて、矢張り一番最初に口を開いたのは朝倉だった。
 「成程?言いたい事は解るが、真選組の攘夷志士に対する在り方を思えば、強ちどころかまるで嘘では無い様にしか聞こえないんだがね。何を以てこれを嘘と断じる心算だ?」
 まるで、寺子屋の授業の様だと土方は不意に思う。朝倉が投げて来るのは問いと言うより、土方の出そうとしている手札(答え)へ導こうとしている風にさえ聞こえる。
 教師が子供に解答を、解り易く、子供が自力で思考と論を重ね辿り着ける様に誘導する様に。
 そこに何の目論見があるかまでは定かでない。だが、少なくともここに囚われる羽目となっている神明党の人間達は、佐久間をどうにか出し抜き自由になる事を目論んでいる筈だ。その為の一手であれば本来憎き敵である土方を利用する事も厭う心算はないのやも知れない。
 「…………結論から言えば、そいつらは佐久間の手の者に口封じに殺された。で、なけりゃ、真選組(ウチ)が拷問中に情報聞き出す前に殺しちまうなんて間抜け曝す筈が無ェだろうが」
 これは流石にギリギリだったのか、向かいの牢から怒りを孕んだざわめきが発せられるのと同時に、土方を繋ぐ鎖がぐいと僅かに引かれた。朝倉からの警告かと思って素直に受け取る事にしつつ、ざわめきが明確な矛先の形となる前に矢継ぎ早に続けていく。
 「そいつらの口から何かが漏れるから、って理由が模範解答だろう。
 警察(敵)の破れかぶれにしか聞こえねェかも知れない話に手前ェらが納得するかどうか迄は知らねェが、可能性の面での考慮はして然るべきだとは思うがな?何せ相手は棋士ぶって人を駒の様に動かすのを愉しむジジイだ」
 あからさまな、土方の誘いの言葉に牢の中が先程までとは違う空気にざわめく。無論、朝倉らとて土方に嗾けられる形になっている事は承知だろう。だが、ここで確実且つ重要なのは、牢の中の連中が佐久間の事を信用などしておらず、寧ろ叶うならば抗いたいと思っている事だ。
 佐久間の描いていた棋譜の外で土方を襲撃し、猶且つ生きた侭捕獲された田原らは、状況から考えても佐久間に口封じに殺された可能性の方が高いと、普通ならば思う筈だ。隊士を襲撃殺害し、副長までを襲撃あわや殺害まで至りそうになった連中を、真選組が拷問中と言え殺すメリットなど何もないのだから。通常の思考であれば、拷問し仲間の居所を吐かせて纏めて逮捕するのが正しく確実な手順だ。
 故に恐らく。佐久間の口から『お前らの仲間が真選組の拷問が行きすぎて殺された』と聞かされた所で、内心では、そんな馬鹿な、と考える猜疑心があった筈なのだ。
 そこに来て、坂巻と接触すべく江戸に潜んでいた朝倉らを匿う名目か、それとも直球で捕らえたかは知れないが、こんな物騒極まりない牢になど放り込んでいるのだ。最早現実逃避でもしない限り、佐久間の所行を好意的になど受け取れる訳がない。
 そして、今朝倉と他の神明党残党たちは鉄格子の中。一方の土方は、鎖を掛けられているとは言え鉄格子の外。朝倉は時折闘技場に出されている様だが、それ以外に自由など一切ないのは先程までの言からも明らかである。
 土方からの無言のあからさまな提案は、この状況からの、互いの解放と言う一点だ。
 ざわめく牢の中は、警察(仇敵)の言うその場逃れの嘘であると言う疑いを孕みつつも、この侭自分達が牢の中に居る事は即ち確実な『口封じ』の始末と言う王手の結果しか生まないだろうと言う事実に対し、何らかの解決策を望んでいる。
 すい、と朝倉の手が鎖を掴んでいた手を僅かに緩めた。首からの圧迫が無くなり少し楽になった事を土方は知るが、露骨にその場から飛び退こうとする様な真似はせず、ただ背筋を伸ばすだけに留める。
 「……オーケイ。今は逃がしてやるよ。で?ワンちゃんから何か提案は?見返りは?」
 鉄格子に阻まれた向こうで、朝倉が面白そうに笑い声を漏らす。今度は向かいの牢の中からも異論は返らない。連中もひとまず、牢を出るとっかかりを見つけなければ土方や真選組への復讐どころではないと思い直したらしい。
 「ここから出してやる。
 …とは言え、手前ェらの指名手配が解ける訳じゃねェから、真選組(俺ら)も見逃すって訳には残念ながら行かねぇが、逮捕状が届くまでは放置してやる」
 なんなら逮捕後も、情状酌量を付けてやっても構わない、といつも通りの尊大な風情で言う土方に、朝倉は再び黙した。今度は恐らく思考する間だろう。そうしてややあってから、皮肉そうに肩を竦めた。こん、と鉄格子の一本を指の背でノックする様に叩く。
 「どうやって?」
 問いながら、朝倉は土方の腕を後ろ手に戒めた侭の単衣の袂を、まるで揶揄する様に撫でてから解いた。これもまた急激に逃れたりはせず、ゆるりと自由になった両手を前に戻すと、土方は自らの手で片足を縛っている帯を解いた。これで鎖以外はほぼ完全に自由の身となった訳だが、やはりあからさまに逃れようとする様子は見せず、鉄格子に寄り掛かった侭半身を振り返らせて、口の片端だけを、にい、と持ち上げる。
 「生憎俺ァ、徒手空拳でこんな伏魔殿に乗り込んで来た訳じゃないんでな。打てる手は幾つか用意してやれんだよ。ま、暫くはジジイに気取られねェ様に大人しく待ってろ」
 無論嘘ではない。だが、嘘だと疑う余地は幾らでもあっただろうに、朝倉はまるで降参を示す様に戯けた仕草で両手を挙げると、溜息混じりに言った。
 「了解。期待して待たせて貰うぜ、副長サン」





隠す気ゼロ。

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