枯れの庭 / 6



 ぺたりぺたりと、裸足の足が冷たいリノリウムの床に触れて音を立てる。前を往く草履の乾いた足音とは異なったその音に合わせる様に、ちゃりり、と金属の異質な音が響いていく。
 あれから、『着替え』を済ませた狗を伴って、佐久間は再び降りて来た昇降機へと戻った。先に口にした通りの『案内』をする心算なのだろう、下男に見送られながら乗り込んだ昇降機は観覧席のあった階から更に少し下降し、上とはまた異なった──まるで監獄か病院を思わせる薄暗く頑丈な壁に囲われた区画へと二人を運んだ。
 下降した正確な距離を測る術はなかったが、先頃上から見下ろした闘技場の底とほぼ同じぐらいだろうか。
 「これは控え室になる。ここに居るのは概ね私や仲間達の子飼いの闘士でねぇ」
 まるでペットの自慢をする様に語る佐久間の手に捕まれた鎖は、僅かの撓みを作って土方の首に填められた黒革のベルトへと繋がっている。歩く度に耳障りな金属音を立てるそれは、取り付けられている土方にとっては疎ましい屈辱感と単純な鬱陶しさをこの上なく刺激するのだが、鎖を引く事そのものを愉しむ風情でいる佐久間は、まるで手遊びの様にそれを鳴らし、時に強く引っ張るのを止めない。
 狗の散歩と。嘔吐が出そうな思いを堪えて認めて仕舞えば、恐らくはその心算なのだろう。裸足の足裏の冷たさと、首の鎖とが、今の土方の様を『狗』であると雄弁に突きつけている。
 佐久間の往く廊下の左右には頑丈な檻や鉄格子窓の窓の嵌められた扉があり、中がカラなものもあれば、何種族とも知れない天人の姿や、草臥れた姿で蹲る人間も居た。
 彼らの恐らくその大半が、不法に人身売買されて来た者なのだろう。到底望んでそこに居る訳でもなければ、人間らしい扱いをされている風情でもない。辛うじて顔を起こしている『囚人』達は何れも草臥れた絶望の色をした眼差しをどこかぎらぎらとさせて、『飼い主』と、それに連れられる『狗』とを睨む様に見ている。
 光の決して射さぬ牢と、そこに押し込められた人ではないモノへの扱い。それをして『控え室』などと言う神経が知れない。
 牢の一つから覗いていた、薄汚れた、浪人風の格好をした男の落ち窪んだ眼窩が、絶望と、それより猶強い憎悪を滾らせた眼差しでこちらを見ていたかと思うと──突如気が狂った様にケタケタと笑い声を上げ、鉄格子を掴んで訳の解らない言葉を連ね始めた。
 狂人、と言う言葉にも値しない様な──獣の様なその様に思わず土方は一歩後ずさるが、佐久間はさして面白くも無さそうな表情でそれを一瞥すると、牢の入り口にそれぞれ取り付けられている操作盤の様なものを叩いた。
 「ぎひいいいいい!!!」
 途端、鉄格子にしがみついて喚いていた男が絶叫と同時に全身を仰け反らせ、びくびくと痙攣してその場に崩れ落ちた。どうやら『仕置き』の仕掛けらしい。死んではいない様だが、気絶するには容易い程度の電流が鉄格子に流れる様になっているのだろう。
 その『仕置き』を受けて完全に白目を剥いた男を見下ろした土方が、顔を顰めつつも息があるかを確認しようと近付こうとすれば、首輪の鎖を強く引かれる事で制止される。
 「そんな塵屑に近寄るものではない。折角の綺麗なおべべが台無しになろう」
 「ぐ、」
 あからさまな揶揄と、首に食い込んだ革ベルトの痛みとに思わず呻き声が漏れる。だから、と言う訳ではないだろうが、佐久間は鎖を強く引く手を止めた。先程の男の牢は振り返りもせず、酷く当たり前の様な調子で言う。
 「闘士と言ってもね、参戦し戦う者全てを指す訳ではないのだよ。中には余興を盛り上げる為の『やられ役』も居る。その塵はその役に飼っている一つだ。まあ無論、追い詰められた蟻も象に立ち向かうやも知れぬからして、武器はちゃんと持たせてやっているがな」
 言って嗤う声がどんな意味をどんな感情で口にしているのか。考えたくもない。一人、ではない。一つ。ここに居るのは佐久間やその仲間の幕臣らにとっては人間や天人と言ったイキモノではない。ただの、盤上からもこぼれ落ちた塵芥の駒なのだ。
 何をどう真っ当そうに聞こえる調子で紡がれたとして。何もかもが違法だ。何もかもが土方には度し難い光景であり内容だ。それに対する糾弾や真っ当な抗議、皮肉な物言いは幾つも浮かぶ。だが、その怒りを今言動の形でぶつけた所で何になると言う。精々己の中の義侠心や正義感はひととき満たされるやも知れないが、それだけだ。
 ならば、従順な素振りをしながらも、聞き出せる情報は引き出せるだけ出させるに限る。左の人差し指の爪下には、いつも通りに録音機器が動いているのだから。
 (……とは言え、問題は、俺自身が『ここ』から帰れる保証が今の所ゼロ以下だって事だな)
 思いの外静かな心地で、前方へと引かれる鎖を見つめて思う。
 佐久間が土方に、ここに来て己の散々犯して来た犯罪行為の数々を露呈し、煉獄関での怨みを漸く果たせるのだと嘯いたと言う事は、つまりはそう言う事だ。
 殺すか、この牢に入れられた『闘士』らと同じ様に幽閉されるのかまでは知れない。兎に角、土方が真っ当に証言や証拠を持ち帰れない様な状態にするだろう事は間違い無い。
 「調子はどうかね」
 ふと、廊下の突き当たりで足を止めた佐久間がそう、何者かに話しかけるのが聞こえて、土方がそちらに視線を向ければ、通路の突き当たりの右側にある鉄格子に向かう老人の姿があった。周囲も見回すが、奥と言う立地なだけで、牢自体は今まで見て来たものとそう変わりはしない。
 「まあこんな飼い殺しの身ですが、お奉行が良いと思えばそうなんじゃないですかね?」
 妙にはっきりとした声が佐久間の問いに応えるのに、土方は弾かれた様にその牢を見遣った。紛れもない、それは他の牢内の者らからは感じられない様な、『生きた』声だ。
 男の声の出所は佐久間の覗き込む牢屋からだった。奥に広めの鉄格子の檻で、口を開いた男は壁際に座って、薄暗い檻の中を睨み付ける様に伺う土方の姿を見上げて来ている。
 先程の獣の様になり果てた男と異なり、こちらはちゃんとした『闘士』と言う事なのだろうか。飼い殺しと言ってはいたが、格好も小綺麗で、草臥れた風情も見て取れない。だらりと纏った白い着物の腰帯には、酒でも入っているのか小さな徳利が括り付けられている。まるでついさっきここに放り込まれたばかりの様な出で立ちだ。
 ただひとつ異様なのは、男が鬼の顔を模した面を、その貌を覆う様に身に付けていた事だ。緩く波打った癖のある髪が項で緩く結われて背中に流れているほかは頭部の容貌は知れない。当然だがそこには表情の一切も伺えない、鉄格子の向こうの鬼武者。
 「朝倉君。君は一応は指名手配の身だからして、闘技場で面を着けるのは頷けるがね。この様な控え室でまでそんな物騒な貌を晒さなくても良かろうに」
 どうやら牢の中の男は普段からその姿と言う訳ではないらしい。佐久間もそれを訝しんだ様だが、「まあ良い」と直ぐに打ち切った。
 その声音は確かに先程の男に対する『塵屑』呼ばわりの無関心さとは違う、『人間』と相対している様なものではあったが、矢張り『どうでも良い』駒、或いは商品の扱いである事には変わりない様だ。
 そんな観察とは別の所で、脳裏にまるで鬼札を叩き付ける時の様な閃きと衝撃とが、土方の脳裏には走っていた。今まで気付いていなかった刃に足下を掬われる様な、急激な失墜にも似た。
 「て、めぇ……は、まさか、!」
 顔は鬼の面に阻まれ一切伺えはしなかったが、頭の中で捲られる手配書と脳に刻まれた情報が一息に引き摺り出され、土方は無意識に腰の刀を探りかけた手を、拳を固めることで留めた。今は取り上げられ此処に無い刃の、その意味が脳内をじわりと悪寒で満たす。
 頬骨の目立つ輪郭に、無精髭の目立つ顔。項で結った癖のある髪。一度見たら忘れられない、と言う風貌では決して無いが、注意していれば憶えるべき特徴があり過ぎて目立つ。
 だが、土方の記憶に記されたそんな手配書の写真など最早何の意味も為さない。肝心の容貌が今、面の下に隠され見えなかったとしても何の意味も為さない。佐久間が口にしたものこそが、確実な答えでしかない。
 「お奉行。そちらの別嬪さんは一体何処のお侍様で?」
 「──っ朝倉!神明党、総括幹部、ッ」
 声が詰まったのは、男の揶揄にではなく、佐久間の手で再び思い切り鎖を引かれたからだ。そうでなければ土方は衝動の侭に鉄格子に、その向こうの男に掴み掛かっていきかねなかった。
 強い力に引かれ、地面にたぐまった鎖を佐久間が踏みつける。そうして先を引っ張られれば、下方へと引き落とされる形になる力に土方は膝をつかざるを得ない。
 息苦しさよりも、此処に来て突如として明かされた事実──状況に、土方はリノリウムの床に膝立ちになった侭で奥歯を軋らせた。あれ程探していた指名手配の男が、最早役にも立たない情報を──もとい、誰にでも最早明らかでしか無い状況の中に、こんなにもあっさりと晒け出されている。
 (佐久間のジジイが神明党の残党共を匿う、っつーか、首根っこ抑えてるってのは想像の範疇にあった、が)
 確かに、普通に考えれば当たり前に考え得る話ではある。朝倉を含む神明党の残党らは真選組の隊士殺害と副長襲撃の容疑で、今までよりも苛烈に手配されている。それが未だ江戸に潜んでいるなどと真っ当に思った訳では無いが、まさか警察の手の届かない様な、こんな違法行為のバーゲンセールの様な中に留め置かれているなどと。
 (……だから、坂巻ら残りの連中が爆弾なんざ仕掛けて、ジジイに全面敵対を表明する訳だ)
 恐らくは坂巻がここを訪れたその理由も、この地下に留め置かれた仲間を取り戻す為だ。
 全ての事態の中心人物が居る場所に、全ての事象も真実も収斂する。それは必然と言える事では、ある。思って土方は朝倉の顔面を覆う鬼の面を睨み上げながら、音を立てずに舌を打った。
 果たして『これ』は、佐久間老人の手番に於ける有効手なのだろうか。或いは。
 爪の下の録音装置の作動を信じつつ、土方は思い浮かぶ反撃の可能性を一旦は握り固めた拳の裡に隠した。何一つ情報を聞き漏らさず、状況の理解を怠らず、じっと身構える。
 「やれやれ。まだ躾のようなっておらぬ狗でな。全く、餌を前に涎を垂らさずにいられないとはみっともない事だ」
 「見てくれの良さだけで飼ったんでしょう。狗はやはり子犬の頃からちゃんと躾けて粗相のない様に育てたものでなければ」
 「なぁに、聞き分けの無い狗も子供を、折檻し躾けて行くのもまた愉しみよ。鋭い牙を持つ狗であれば猶更。垂れぬ頭を踏み躙る事こそ至上となろう。困難な王手こそ、指せた時の喜びは何ものにも勝る」
 頭の上で交わされる醜悪な言葉たちが何を言っているのかなど、知れない。知りたくもない。
 地についた膝の下で、高級な緋色の着物が散らされた花の様に拡がっているのが場違いに美しすぎて、それが余計に気持ちが悪い。
 「綺麗なべべを与えてやったが、元より雑種の毛並みは隠せもせなんだか」
 吐き気を催す様な佐久間の揶揄を、土方はそれこそ獰猛な獣じみた表情で睨んで返した。
 今の土方の格好は、先頃観戦席で命じられ着替えた、女物の単衣を纏った姿だ。妓として扱う心算がないからか、高級な拵えのそれを肌に直接一枚のみで、それを腰で、浴衣に使う様な薄手の布の帯ひとつで結んでいるだけと言う、酷く不自然な。
 豪奢な着物であればあるだけ、それを真っ当に纏うでもない姿はより自らの立場を思い知らせる意図を孕んでいる。
 緋色の衣の裾と袂には松の葉と梅を貴重とした図柄が一流の職人に因る手染めで描かれており、その様が愉しむ余興に尽くす贅は惜しまぬと言う、肥えきった幕臣の奢りと道楽とを思わせ嘔吐が出そうだ。
 「っは。江戸から離れた、しかもこんな場所と来たら手配も、警察の手も及びもしないと践んでの余裕ですか。ですが生憎、上に居るウチの連中はそこまで鈍くはありませんよ?」
 奥歯で屈辱感を噛み潰しながらも挑戦的に見える笑みを刻んでそう口にすれば、佐久間は無言の侭で鎖を更に引いた。がくりと上体を崩した土方の背を、牢の格子の隙間から伸びて来た朝倉の草履が乱暴に踏みつける。
 「……だ、そうですがお奉行。確かに、ここでこのワンちゃんを上に戻すのは無謀極まりないと思いますよ。どんな口止めを強いた所で、言葉以外で仲間に伝える手段なんぞ幾らでもありますんで」
 「案ずる迄も無い。端からこの狗めをその侭連れて戻ろうなどとは思っておらぬよ」
 地面に土方の顔を押しつける程に短くなった鎖を強く踏み付けた佐久間の表情には、その言葉通りに焦りの類などは僅かも見受けられない。確かに何か考えが──土方にとっては良からぬものに違いないが──あるのだろう。
 それともこれは、自らの城の中と言う場所故の、余裕と傲慢か。
 リノリウムの床に頬を擦られながら、それでも土方が眼前で己を見下ろし踏み付けている鉄格子の向こうの鬼の面を睨み据えれば、朝倉は態とらしく「おやぁ」と声を上げて見せた。
 「このワンちゃん、どっかで見た顔と思えば、真選組の副長サンじゃないですか」
 嘘をつけ、と思う。先頃『お侍さん』などと指したのだがら、疾うに土方の正体など知っていた筈だ。故に何故ここで態とらしく、改めてその名を突きつけて来るのかが知れない。
 顔を顰める土方に、然しその疑問の解答らしきものは直ぐに知れた。向かいの牢の鉄格子の奥から、今まで薄暗がりの壁に座していた、朝倉と同じ様な風体の男達がぞろぞろと居並んだのだ。まるで粘つく泥の様な意識が、視線が、一斉に己に向けられるのを感じ、土方の背筋が一息に粟立った。
 じっと舐る視線たちのその名前を、憎悪や殺意と言うのだと、土方はよく知っている。
 ぞくりと、不意に襲う極度の緊張に鼓動が早くなるのを感じた。格子ひとつに隔てられているとは言え、こちらは丸腰の上に首輪と鎖とで地に這わせられている。
 不意な攘夷浪士の襲撃で命の危険を感じた事など、今までに何度もあった。
 そして、その中でもこれが群を抜いて絶望的な状況にあるのは間違いない。
 同じ様な牢の住人達を焚き付ける効果を狙って『真選組の副長』と口にしたのであれば、この朝倉と言う男が害にならない相手とは到底思えはしない。
 「欲しいのかね?」
 今、この場で土方の生命危機を最も容易く握る老人は、暫しの間のあと、面白そうにそんな事を口にした。
 他者の、仮にも『狗』と自らの所有物である事を強調したモノ相手に、その生殺与奪の権を、酷く容易く。
 怯えた訳ではないが、土方は唯一自由な首を捩って佐久間の方を振り返った。
 縋るでもない、心底厭わしい感情を隠しもせずに向けられれば、それはひとときの愉悦の可能性を生むものでしかないと言うのに。
 ぐ、と背中の筋肉が強張るのを感じたのか、土方の背に乗せた草履履きの足に油断なく力を加えながら、朝倉は顔を上げ、鬼の面に覆われた視線を向かいの牢へと向け、それから肩を竦めてみせた。
 「神明党(ウチ)の連中にゃ、ボスを殺され組織を壊滅させられた怨みの矛先そのものですからねぇ。ま、そりゃ下さるんなら欲しいですよ。復讐のチャンスがあんなら、是非に、たァ願ったりなんで」
 うち、と朝倉が口にした通りならば、向かいの牢に入っている六名ばかりの人間は、全て神明党の残党と言う事になるが、生憎手配書付きで情報があるのは幹部クラスの人間だけだ。朝倉然り、坂巻然り。因って土方には彼らの面に憶えは無かったが、その向けて来るどろりとした視線たちが雄弁に語る、憎悪の意識だけは間違い様がない。
 朝倉の口にした、怨みの矛先のボスとやらは、検挙の際に抵抗の意志在りとして斬られた、神明党の党首の神谷の事だろう。彼らと神谷との間にどんなドラマや経緯があったなどとは知れないが。
 「……」
 少なくとも、今地面に這わされている土方へ向けられている突き刺す様な殺意たちは、その思いから生まれたのだろう、憎悪の深さを余すところなく示していた。これは益々以て宜しくない状況だと言う実感と共に、噛み締めた奥歯の間で焦燥感が砕ける味をなんとか飲み下せば、自然と緊張に身体が硬くなる。
 「顔と、身体に一目見て取れる様な瑕疵を付けぬ事。命は断たない事。この二つを遵守出来る限りはその『狗』、少しの間くれてやっても構わぬよ。どうせ宴までは未だ時間も有り余っておるしな」
 脳内で鳴り続ける警鐘に身体を強張らせている土方に降ったのは、信じられない程に呆気なく人身を軽く譲渡する意味でしか無い、老人がつまらなそうな風情で紡ぐ是の言葉だった。
 「………そりゃあ少々厳しい。我々がこのお狗様にしたいのは、有り体に言えば復讐ですからねぇ。ご自慢の面の皮をじわじわ剥がして、殺して下さいと懇願するまで──いやそれ以上に拷問して苦しめてやりたいのが本音ですよ」
 続く、物騒極まりない剣呑な朝倉の声に、牢の向こうの殺意達から同意が次々に返る。
 「そればかりか、逸ってコレを襲撃した田原らも返り討ちの挙げ句、拷問されて死んだって話じゃないですか。そりゃあもう、多少の意趣返しぐらいはしてやりたいもんでしょう」
 呼応する様に、土方の背を踏む朝倉の足に力が込められ、土方は辛うじて地面に畳んでついていた腕をずるりと滑らせた。「ぐ」小さな呻き声が漏れ、背筋が重圧から逃れようと僅かに撓む。
 (……拷問されて、死んだ?)
 痛みと重みをなんとかやり過ごそうと足掻く土方の頭上からの声は、聞き捨てならないものを確かに孕んでいた。思わず眉を寄せて横の佐久間と、正面の朝倉とを伺う様に見上げれば、まるで土方の疑問に応えるかの様に朝倉が続ける。
 「田原達の犠牲の件は、思えばお奉行様の不手際ですからね。ここは一つ意趣返しの分を譲ってくれても良いのでは。まあ、殺すなと言う話には、副長サンの仇と言って捜査が益々苛烈になる事を考えれば賛成ですが。
 しかしそれじゃァ、ぶん殴るのも駄目って事で?」
 「ふん。連中が逸った責任はこちらにはあるまい。生憎だが私はこの『狗』の容貌を気に入っておるのでな、それを崩されるのは論外よ」
 剣呑で、当人の意志をまるで無視した物騒な遣り取りは、火花を静かに散らす様な強さで、土方の頭上を飛び交っている。彼らが先程から口にするのは全く笑えない内容なのだが、自らへの仕打ち以前に聞き捨てならない要素が幾つもあった。
 土方を襲撃した理由が、何やら『逸った』らしいと言う事。これは恐らく土方が先頃想像に至り、沖田へとこぼしかけた内容と相違なさそうだ。
 そして、その襲撃事件で逮捕、拷問にかけられた連中──田原とか言ったか──が、拷問で殺された、と朝倉を含む神明党の残党共に伝わっているらしい事。
 (これはいよいよ本格的に連中は、)
 「殺すな、傷をつけるな、じゃあ……、」
 「っヒ!?」
 思考の狭間で身構えて両者を伺っていた土方の臀部にへと、一旦背中から離れた朝倉の踵が上からとん、と当てられた。不意打ちとしか言い様のないその動きに、土方の喉からは意識せぬ悲鳴が思わず漏れる。
 息を呑むその響きは、多少なりとも朝倉の興を惹いたらしい。彼は格子から外に突き出した足をぐりりと動かしながら「成程」と胡乱な声を上げてみせた。顔に朱を走らせつつそれを睨み上げる土方の姿を、嘲笑う様に肩を竦めてみせる。
 「……牢屋(こんなとこ)暮らしで娯楽に飢えて溜まってる身じゃあ、コッチで愉しむっきゃ無い訳ですが。ま、ご自慢の『狗』と言うだけはあるようで」
 臀部、上から踵を押しつけられている形なので尾てい骨を丁度押されている形になる。流石に直接の性的な意図などは感じないが、痛みだけは立派にある部位だ。会話内容の不穏さと併せ、益々に土方の背筋は厭な予感に冷えて行く。
 「これの後ろの孔は、銀髪の鬼とやらに散々慣らされたらしく結構な淫乱でな。雄をくわえさせれば悦んで雌犬よろしくヒィヒィと、それは悦い声で啼くぞ」
 余りに直接的で、余りに下卑た佐久間の言葉に、土方は羞恥心に上がりかかる悲鳴を堪えると、反射的に背後を噛み付かんばかりに睨んだ。ぐ、と引かれる鎖はもう限界まで張っており、首輪が皮膚に食い込んで痛む。
 その痛みに縋り付く事で嫌悪と憎悪とを意識の淵に保って、土方は抵抗の声の代わりに奥歯を噛み締めた。これ以上迂闊に無様な悲鳴も苦悶も、こんな連中の前で漏らしたくはないと、肌を粟立たせる怖気と共に思う。
 最低だ。そして最悪の展開だ。
 「へぇ。銀髪の鬼とはまた見事そうな。そこまで仰るなら是非借り受けましょうかね。どうせする事もなく暇なんだ」
 軽い朝倉の言葉と共に、臀部から重みが退いた。同時に、足を格子の内へと戻した朝倉が向ける手へと、佐久間は掴んでいた鎖を無造作に放った。
 「──」
 一瞬の隙だと反射的に思った。鎖の重量が撓む動きに合わせて土方の身体を翻弄するその前に、思い切り首を捩った土方は一息に床に手を突っ張って身を起こした。鎖が誰の手にもない今しか距離を置く術はない。逃げられるかどうか、ではない。この局面を取り敢えず脱する事しか考えてはいなかった。
 「ぐッ!?」
 然し土方の身が完全に起きるその前に、再び翻った朝倉の足がその脇腹へとめり込んでいた。土方が痛みと衝撃とに全身を跳ねさせるのとほぼ同時に、朝倉の手に鎖の端が収まる。受け取った鎖をぐいと掴むなり、ち、と小さな舌打ちが面の向こうから発せられる。
 遅れて、どさりと土方は床に倒れ込んだ。狙って横隔膜を打つも侭ならなかったのか、それともどうでも良かったのか。朝倉の足は土方の脇腹、肋骨を思い切り痛打していた。良い入り方をしてはいない為に折れてはいない様だが、新鮮な痛みに暫し息が詰まる。
 不自然な体勢で不自然な角度の爪先を受けた事で、必要以上に慣れない痛みに身を晒す事となった己の体たらくに、土方は自嘲する。
 この程度の事で、どこまで怯えて、どこまで必死なのか。
 襲撃を受けた時だってこんな無様さを噛み締める事は無かった。眼前の死に対して胡乱な表情を浮かべてみせる程度には余裕──と言うよりは、純粋に結果を受け入れるか否か、と言う単純な空隙があった風に感じられる。
 それがどうだ。ここでは命の危機は恐らく無いだろうと知ったが故に、無様にその屈辱から逃れようと足掻かずにはいられなくなっている。
 地に再び伏した土方の姿を、向かいの格子まで集まって来た男達が遠目ながら見下ろしている。
 殺意と、同等の嗜虐心を込めて。
 殺せないのであれば、それ以上の──死んだ方がマシと思える様な屈辱を与えるほかない。と。
 脂汗のじわりと伝う背に、慣れない高級な衣の感触がまとわりついている。朝倉に鎖を引かれる侭身を起こされると、首輪から垂れる鎖をぐるりと腰に一周回した状態で、後ろ向きにされて引っ張られた。
 そうなると自然と、背中と言うより臀部を引っ張られる側、鉄格子に向けて突き出す様な姿勢になる。
 「──ッ!!」
 足掻こうとすると更に引っ張られ、上体が浮き上がった。豪奢な着物の、袖を捕まれて格子の内に両腕を引き込まれる。その侭袖の長い袂を、格子を通す様に腰の上で結ばれて仕舞えば、鉄格子に背中向きに貼り付けにされた様な状態になる。
 上半身は腰で固定された袂が邪魔をする形で半端に折り曲げられ、足をばたつかせても背後の格子に当たるばかり。首から垂れて腹を這う鎖を思い切り引かれれば息が詰まって抵抗が熄む。
 「っクソがァ…!解きやがれ!」
 無駄と半ば解っていつつも罵声が思わず漏れた。それが己の矜持を護ろうとする無様な悪足掻きと解っていても、この侭諾々と辱めか、痛苦を与えられるのは堪え難く度し難い。
 「また高級品を与えたもので」
 半ば呆れた様な朝倉の声と共に、帯がするりと解かれ、長い着物の裾を割って男の手が土方の太股をつ、と辿り上げた。
 怖気と。そうとしか言い様のない感情に土方の肌が一気に粟立つ。咄嗟に暴れかけた脚の片方をいとも容易く掴まれて割り開かれると、解いた帯で格子に片足を括り付け固定された。
 「っやめ、やめろ!」
 咄嗟に縋る様に這わせた視線の先で、飼い主は楽しそうな風情で相好を崩していた。向かいの鉄格子の中の男らも同様に。これから始まる余興を嘲笑おうとしているそれが、驚く程に醜悪な笑みだと認識するのと同時に。
 「ヒ、」
 ぐいと着物の上から臀部を掴まれ、裾から入り込んだ乾いた手が悪戯をする様な仕草で脚を何度かなぞって動く。その場違いな感触に嫌悪感が沸き起こるのを堪えられない。
 今、自分を背後に拘束しているのは、自分に好意的な感情を持つ者とは言い難い。何をされるのか。単なる性欲の処理だけで済むなどとは到底思えない。
 屈辱感と、生理的な嫌悪感と、先の知れない恐怖と、征服者の姿が見えない事への怯えとが、土方の裡でじわじわと形になり、噛み合わない歯の根が鳴らされる。
 「真選組の鬼の副長サンの強姦ショーってなァ……趣味はちぃと宜しくないが」
 まあこっちは長い日照りで溜まってるんで、と、笑い声混じりの男の指が着物の裾をゆっくりと捲り挙げて行く。据えた様な外気が脚を冷やして行く、屈辱と情けなさに土方は思わず目を強く閉じた。





ここでネタばらし的な。

/5← : → /7