枯れの庭 / 5



 建設中の工事現場にも似た、配管や電気系統のケーブルの剥き出しにされた通路を暫し進むと、突き当たりに扉があった。観音開きのそれを、すかさず前に進み出て来た下男が恭しく開く。
 「ここが観戦席だ」
 つい、と佐久間の手が腰から離された。中へ、と促す仕草に押される様に、土方は室内へと入って行く。
 まず目についたのは前面の壁が、膝丈ぐらいの高さから全て嵌め殺しのガラス窓になっている事だ。そこから、眩しい程の照明の明かりが差し込んで来ている。
 窓の前は上げ床の様に一段高くなっており、畳貼りのそこには脇息と木製の座椅子とが用意されていた。膳を置けばまるで宴会場の様になるその設えは、正面のガラス窓から何かを俯瞰する為のものだ。
 観戦と。そう言われた言葉が土方の裡を不吉な予感でざわめかせる。構わず、駆け寄りたくなるその衝動を呑み込みながら、靴音を鳴らして窓へと近付いて行き──眼下に拡がるその全容が知れた所で息を呑む。
 「これ、は」
 床に足を掛ける迄もなく、土方の目に眼前の窓と、その向こう──下に拡がる光景が飛び込んで来た。茫然とした様な声が己の喉を震わせ、ぽろりと落ちて行くのにも頓着出来ず、立ち尽くす。
 天井から下がる、四つの巨大な四角い照明。その照らすのは、四角い摺り鉢の様に中心に向かって段々と低くなる地形。中で、最も高い辺に当たるこの位置から見下ろすのは、中央部の窪みに向かって歓声を上げる声たち。
 窪みの中は白い照明に余すこと無く照らし出され、白州の様に全てを晒したそこに居る人やモノに熱狂的な視線と、声とが降り注いでいる。
 そこでは今、ぱっくりと、何かの冗談の様に開かれた赤いものが一つ、出来上がった所だった。
 それを拵えた、爬虫類の様な姿をした天人が、それを成した刃を高々と振り上げれば、一際大きな歓声がそこを埋め尽くす。
 天人と、人間と。混じり合った彼らの中に同じ様に存在しているのは、ただの欲と熱狂と喧噪。それらの視線の向けられる底に在るのは、歓喜。或いは悲嘆。凄惨な血と暴力との宴。
 こんな風景を土方は知っている。これに良く似たものを、知っている。
 「……煉獄関、」
 乾いた唇を無理に開いてそうこぼせば、いつの間にか傍らへと近付いて来ていた佐久間が、犬の芸に満足した時と同じ表情で鷹揚に頷きを寄越した。
 「君達に潰されて仕舞ったものから比べれば大分規模は小さくなったがね。私を含めた、以前からの客や好事家の仲間や協力者らと共に、その侭摸した形で作らせたのだよ」
 なかなか良い出来だろう?と喉で笑った佐久間の手が不意に土方の後頭部を掴んだ。ぐ、と押し込む力はそう強くはないが、促す強制的な意図に従い、眼前の上げ床へと膝をつく。
 「天も最早興味を失っておったからね。お陰でこの新たな煉獄関も黙認されたと見るべきなのだろうが……、地下賭博場として建設予定だったこの土地を仲間達と買い上げ、ここまで復興するには苦労もさせられたわ」
 膝をつけば丁度佐久間の胸辺りに顔が来る事になる。頭一つと少し程度の高さから老人の剣呑な笑みに見下ろされ、乱暴に頭髪を掴む手指の強さに土方は顔を顰めた。
 「ああ、その様な顔をせずとも構わぬ。怒っている訳ではないのだよ?寧ろ、この我らの国では天の法に因る遊戯盤ではない、自らで定めたルールを課す事も出来る様になったのだから」
 酷く優しい猫なで声でそう言いながらも、土方の頭を撫でる仕草には紛れもない毒と怒りとが潜んでいた。確かなそれはこの老人の嗜虐嗜好を身を以て良く知る土方に、否応無く恐怖に似たものを想起させる。
 「っぐ、ふ!」
 寸時竦んだ土方の腹部へと、何の予告もなく佐久間の膝頭がめり込んだ。的確に横隔膜を通打されて、肺がひっくり返りそうな程の咳が出る。続けて頭髪を掴んだ手に思い切り、顎が反れる程に頭を持ち上げられ、次の瞬間には乱暴に畳へと叩き付けられていた。
 「がッ、」
 咄嗟に首を捩ったが、横頬を強かに打ち付けられて、食いしばり損ねた下顎が唇か口内の何処かを傷つけたのか、錆の味が噎せ返った喉奥にまで拡がる。
 畳へと土下座する様に伏した形になっている土方の側頭部を、佐久間は猶も伸ばした手で押さえつける。それ自体の痛みはさして無いが、怒りと威圧だけは確かにそこに感じたので、賢明さを取って黙っている事にした。
 「ただ、飼い犬に手を噛まれると言う事だけは頂けない。狗も、与えられた餌を大人しく食べている内は可愛いものだが、飼い主の食事をひっくり返し貪る様になってはな」
 容赦のない握力で引っ張られる頭皮が痛い。だが、土方は好きにやられておく事にした。言う内容を聞くだに、嘗て真選組が煉獄関を壊滅させた事が度し難いものだったと言っている様だが、だからと言って適当な謝罪を言う場面ではない。簡単に赦しでも乞おうものなら、益々そこに付け込んだ攻撃は続く。ここは老人の気の済むまで大人しくしていた方が良い。
 そもそもこの程度の暴力で身体がどうにかなる程やわには出来てはいない。佐久間が単に苛立ちをぶつけたいだけなら黙ってサンドバッグになっている方がマシだ。
 だが、佐久間がそれ以上の暴行を土方へと加える事は無かった。入り口に佇んでいた下男が「佐久間様」と名を呼んだからだ。途端、憑き物を落とした様に落ち着いた風情を取り戻した老人が振り返るのを、土方は畳に這った侭で見上げる。
 「…お楽しみの所申し訳ございません。こちらが、用意させた品にございます。一度お目通しを」
 恭しい仕草と共に、薄い横長の、桐製の櫃を差し出して来る下男を、「ふむ」と佐久間は振り返った。別段取り繕う様な様子は無いが、『狗』の躾とそれ以外を混ぜる心算も無いらしい。
 そしてどうやら思いの外──少なくとも自ら苛立ちを交えて言う程には、この老人は煉獄関が嘗て損なわれた件についての怒りは多くない様だと、土方は思う。それは老人の口にした通りに、天の管理を外れた新たな煉獄関と言う『自分達だけの国』を所持するに至った事の満足感からなのだろうか。
 『狗』を痛めつける程の情熱も、間に入る形になった下男を咎める様子も無く、佐久間は眼前に置かれた櫃をそっと開くと、「ほう、これは見事な」そう、珍しくも何やら感嘆する風情で居る。
 「最高級の京友禅でございます」
 緋色も鮮やかな地が、転がった侭の土方の目にも確認出来る。下男がそっと拡げれば、精緻な染め柄が覗き見えた。
 女物の振袖のようだ。この『観戦席』に侍らせる妓への贈り物かなにかだろうか──、と思考を巡らせつつ土方がのろのろと上体を起こせば、こちらを丁度振り返る佐久間と視線がばったりと出会う。
 その口元が、蛞蝓が這う様な動きで舌なめずりをするのが見えて、肌が厭な予感と嫌悪感とに粟立つ。
 ああ、そうだ。この男が今『愉しむ』のは、妓との戯れではなく、
 「その無粋な服を脱ぎ、これに着替えなさい。氏も富も無い『狗(きみ)』の自慢はその美しい毛並みしか無いのだから。精々飾り立てて、披露に恥じぬ様にすると良い」
 『狗』を嬲る事なのだ。





4に纏まる筈だった部分。

/4← : → /6